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逢魔時
作:黒木露火


黄昏をいふ
百魅ひゃくみの生ずる時なり
世俗せぞく小児しょうにを外にだすことをいまし

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より

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逢魔時おうまがとき」は「逢魔ヶ刻」「大禍時おおまがとき」とも書く。

 石燕せきえんの『今昔画図続百鬼』は、簡単な解説文のついた妖怪画集で、江戸中期に刊行された。

 薄暮はくぼに沈む民家や寺院の左手に、大きな夕日が落ちていこうとしている。
 その上にたなびく雲は、もう人の世界のものではない。妖怪の姿に変じつつある。
 『今昔画図続百鬼』の「逢魔時」の項に描かれているのは、そんな風景である。

 古来より、夕暮れ時は、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこし始める、または不吉なことが起こる時間帯とされた。
 それは必ずしも迷信の世界の話というわけではない。
 警視庁のサイトで確認すると、平成18年度で交通事故が一番多かったのは16〜20時の時間帯、まさに「逢魔時」である。

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 土曜日のことだ。
 この時期は仕事もわりあいに暇で定時には上がれるので、秋の日が暮れる頃には帰り着く。
 ワンルームマンションの玄関を開けると、まず猫の姿を探す。
 頭は黒や虎柄などの濃い色、鼻づらは白と、額のところで八の字のように毛色の分かれているのを「ハチワレ」という。猫にはよくある柄だ。
 白黒のハチワレ猫の小次郎は、腹が減っているときや、おそらくさびしいときにも出迎えてくれる。そうでないときはクローゼットの中や主がいなくなったあとの毛布の上で寝くたれているか、カーテンと窓の間にもぐり込んで外を監視している。
 ベランダの手すりに窓越しでからかうように出没するハトから、この家を警備守護することが彼の任務なのである。その証拠に、他の部屋のベランダは鳩の糞で白く汚されているのに、うちにはほとんど被害がない。
 猫なんて何も役には立たないなどと言うなかれ。ああ見えて、立派に働いているのである。
 玄関を入ると、二メートルほどの短い廊下の両側にトイレ、風呂、小さいキッチン、奥がクローゼット付の居室という、典型的な単身者向けのマンションになっている。当然、ペットは禁止である。
 近隣の人間にはひょっとしたらバレているかもしれないが、ここに引っ越してきて三年、毎朝のように顔を合わす管理人から苦情がきたことはない。

 その日帰り着くと、本を日焼けから守るために引きっぱなしにしているカーテンのせいで、部屋の中はもう薄暗かった。ドアの外は西日でまだ明るかったのに。
 入口であかりをつけると、寝床の毛布の上で寝たまま横着にのびをする小次郎が見えた。まったく、今日は出迎えにくる気はないとみえる。
 それでも「ただいまー」と声をかけ、エサや水を補給をしつつ部屋の中に入っていった。毛布の上ではまだ小次郎が伸びたまま横たわって私を見上げている。抱き上げてほおずりをすると、のどをゴロゴロと鳴らした。
 ふれあいタイムがひとしきり終わると、あとはそれぞれ勝手に過ごす。
 人はご飯を作って食べたり、本を読んだり、ネットを徘徊したり。
 猫はエサを食べたり、遊んだり、また寝たり。
 とりあえず、作りおきの菜があるから、今日の夕食はとりたてて作る必要はない。
 見てない映画のDVDは「ディパーテッド」と「眼下の敵」の二本だけ。
 読んでない本は山積み。
 久しぶりに映画の予定のない週末、さて何から手をつけようかと座ったままぼんやりと考えていた。
 その時――。
 小次郎が窓のほうに向かって、威嚇するようなうなり声をあげていることに気づいた。
 ハトだろうか?
 窓は網戸のまま開けっ放し。
 いつの間にか日は暮れたらしく、ぴたりと閉じたままのカーテンの外は暗い気配がする。
 耳をすましても、ハトの羽ばたきもくるくるという転がすような鳴き声も聞こえない。
 ハトが飛んでくるのは明るいうちだけだし、だいたいこんなふうに背中の毛を逆立てるのはおかしい。ハトが相手のときは腰の浮いた、もっと興味津々ワクワクドキドキな感じで窓にかじりつくのが常だ。
 小次郎は低くうなり続けている。
 ……ひょっとして、窓の外に、カーテンの外に何かいるんですか、小次郎さん?
 三年前に里親探しの会からもらってきて以来、こんなふうになるのは初めてだ。というより、猫を飼って二十数年、こんな経験は初めてだ。
 飼い主がさんざん恐怖体験の本を読んだり心霊系サイトをながめたりしても、いつも猫たちは近くでリラックスしていた。だから私もいつも落ち着いて、のほほんとしていられたのだが。
 時計を見ると六時すぎ。ちょうど逢魔時。古来より、魔が出現しはじめる不吉な時間とされている。
 小次郎がうなりはじめてから五分ほど経っていた。
 霊感もなく陰陽師でもない私は結界など張っているわけでもないし、信心深いわけでもないのでおまもりのたぐいも身につけてはいない。窓の外に目に見えない何かがいたとして、それが侵入を試みたなら、霊的に無防備なこの部屋に入ってこれないはずがないのだ。
 しかし、小次郎のようすを見る限りでは、対象は未だ窓の外。ベランダか、その向こうの空間のどちらかにいるらしい。
 だとすると、それはまだ部屋には入ってきていないし、入ってこようともしていないのだろう。
 だったらほっときゃそのうちいなくなるかも。
 空腹を憶えた私は、とりあえず夕食をとることにした。
 少し塩を入れすぎたなあ、などと思いながら完食して皿を置くと、私の背に身体をつけるようにして小次郎は静かにうずくまっていた。
 後ろ向きのままなでようと伸ばした指に、逆立った背中の毛が触れた。と同時に小次郎はまたうなりはじめた。
 振り返って見ると、やはりカーテンの閉まった窓のほうを向いて、座ったままの姿勢で威嚇している。
 ……ひょっとして、まだいるんですか、小次郎さん?
 そのとき私の脳裏をよぎったのは霊ではなく、網戸に貼りつくように立っている見知らぬ男の映像。同時に、ベッドの下に潜む鎌男などの犯罪者潜伏系の都市伝説が頭の中をぐるぐるまわりはじめた。
 心霊ネタは好きだが、実際は死んだ人間より生きてる人間のほうがフィジカルな実害を与えうるという点でずっと怖い。
 右隣の住人はまだ帰ってきていないらしく、いつも聞こえてくるテレビの音声も聞こえない。
 左隣の住人はいるのかいないのかわからないくらいいつも静かだが、この時間だ。おそらくまだ帰っていないだろう。帰ってきたとき、管理人はもういなかった。
 このマンションは繁華街近くにある単身者向けなので元気で遊びざかりの学生や社会人が多く、こんな時間に在宅している人はあまりいないのだ。
 うわー。どうしよう。
 嫌な気分がしたけれど、小次郎が座ったままの姿勢だということは、相手に対して気持ち的に優位に立っているのは間違いない。人間が一緒で強気になっているだけの可能性があるにしろ。いずれにしても手に負えないほど凶悪な敵ではないということなのか。
 とりあえず、なんかあってもエレベーターか階段まで逃げればなんとかなるか。
 それにあのカーテンの向こうに、目に見える誰かがいても、目に見えない何かがいても、こちとらホラー書きのはしくれ。ネタにしてやる!
 思い切ってカーテンをめくった。
 ……誰もいない。
 背後で小次郎のうなり声が高くなる。
 やっぱりいるんだな、と背筋が冷えた。
 死んでるほうだったのか。
 幽霊なんか実際見たことないから見えたらどんなに参考になるだろう。
 でも、見えないんじゃ仕方がない。
 少しがっかりしつつ、ふと右下に視線を落とすと、そこにいた。
 右隣との仕切り板の、下の隙間から頭をのぞかせていた。
 頭から背中にかけて紅茶を含ませた筆で一捌けしたような、白い雑種のオス猫が。
 しゃがみ込んで、おいでと言うとおどおどしながらも近寄ってきた。知らない人間を見ると隠れてしまい、何度か遊びに来たことのある友人にいまだに姿を見せたことのない小次郎とはえらい違いだ。その小次郎は背後でうなり続けている。
 そういえば数日前の朝、信頼している相手に甘えながら何かを訴えるような成猫の鳴き声がどこかからしていた。その時は、近くにある一戸建てか他のマンションから聞こえてくるのだろうと思っていたのだが。
 同じ階だったとはね。
 白猫の頭を軽くなでてやりながら、私はため息をついた。

〈終〉


実話です。
猫一匹にびびりまくったのが悔しかったので、ネタにしてみました。
こんなオチですみません。













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