心内風景
「……初めて、気絶するの」
レティシアはのろのろと起きあがると、申し訳なさそうにこちらを伺っている美保を見た。
「ごめんなさい……」
そう言って、美保は頭を下げた。
「魔王にも私を気絶させること、できなかった、よ」
別に怒ってなんかいない。ただ、思いついたことを言ってみただけだ。ちゃんと副作用について言ってなかったこっちにも非は十分ある。
そうレティシアは思っているが、美保はそうは思わなかったようだ。嫌みを言われたかと思い、よりシュンとなった。
「うぅ……ごめんなさい……」
このまま放っておくと、小さくなりすぎて消えてしまいそうだ。
「変身魔法は、使うと弱くなる」
しかしレティシアは慰めることもせずに、端的にさっきの理由を教えた。慰めなかったのではない、慰める意味が分かっていないのだ。
美保からすればそんなこと知らないわよ! と叫びたくなる。が、悲しいかな当のレティシアはまるで責める意図を持っていない、どころか悪いのはあくまでも傷つけた自分なため、逆ギレは格好悪いという思いもあり頷くことしかできなかった。
ベッドのスプリングを軋ませて、美保は足を投げ出すようにレティシアの隣に座った。
「はぁ……これから気をつけるわ」
やるせなさそうにため息を吐く美保をレティシアは不思議そうに見つめた。
もしかしてこの姿でいるから美保は嫌なのだろうか、と当たりをつけて、とっとと彼女は彼に変身することにした。
なにより喋りにくい。
ぶわっと光に包まれ、燐光の中から彼が現れる。
「あー、あー、やっぱりこっちの方が喋りやすい」
その言葉に美保は首を傾げた。
「そういうものなの?」
「あ、あー……うむ。レティシアはそういう仕様なのだ」
仕様ってなによ、と美保は笑った。
「仕方ないだろ。そういうもんなんだから」
誠はかつての自分を思いだし、不貞腐れて言う。
「あはは! ごめんごめん! うんうん、そういうもんなんだねお兄ちゃん!」
笑顔、美保は変わってしまった兄が昔のような反応をしてとても嬉しくなった。変わっれしまったけど、どこか片鱗があって、兄は兄だ、と納得できた。
実は美保はさっきのさっきまで完全に信用しきっていなかった。だが、ここにきて兄が兄らしさを見せたためちゃんと信用しようと思ったのだ。
楽しげにベッドが揺れる。ばんばんと、あははと美保はおかしそうにベッドを叩いてみせた。埃が飛ばないのは掃除をしてきた美保のおかげだ。
それを見て誠は眉尻を下げ、余計に美保の笑顔は深まっていく。
「うん、じゃあ行こうか」
美保は立ち上がって誠に手を差し伸べた。なにが、と受け取りかねていると、じれったそうに美保は足踏みをした。
しまった、怒らせた。
「お父さんとお母さんの所に決まってるでしょ。行かないの?」
ああ、なるほど。怒らせたと思ったのは杞憂だったようだ。
美保は呆れたように言い、ほら、と強く手を向けた。
今度は逡巡はなく、誠はその手を取った。
「ああ」
朝日が部屋の壁いっぱいに手を繋いだ二人の影を浮かび上がらせる。その影は二度と離すまいと、どこまでも伸びているかのように見えた。
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「お母さん、お父さん、起きて! 寝てる場合じゃないわよ! お兄ちゃんが帰ってきたんだから!」
早く早くと誠の手を握りしめたまま、どたどたと廊下を駆けて彼女はいまだ寝ている両親の部屋に突撃した。
平時ではない彼女のはしゃぎっぷりに、母は何事かと目を擦り、父はダルそうに起きあがった。
「美保? どうしたの。誠は、もういないのよ……」
母の頭はまだ眠ったままのようだと当たりをつけ、美保は父に振り向いた。
「……夢でも見たんじゃないか、父はまだ夢を見ているぞ。そこに誠がいる」
「あらほんと。美保の隣に誠が……」
実際美保は絶対に離すもんか、と誠の手を握っているのだから父と母が見ているのは幻でも何でもない、本物の誠に相違ない。変身魔法が幻というなら、そこにいる誠も所詮レティシアによる紛い物かもしれなかったが。
誠は居づらそうに苦笑した。
「だから、帰ってきたのよ! 正真正銘本物のお兄ちゃんが!」
「あー、ただいまー、です。心配かけて申し訳ない」
握ってない方の手で頬をポリポリとかきながら答える誠。
「……嘘、本当に誠なの」
「夢、じゃ、ないのか」
徐々に眠たげだった両親の眼が開いていった。驚愕とも歓喜とも呼べるものがその目に宿る。
状況を理解するにつれ、両親の声が震え出す。
「夢じゃない。夢じゃないよ、お母さん、お父さん」
「ただいま、心配かけてごめんなさい」
もう一度、誠はただいまと言った。ただ両親は驚くことに一杯一杯でおかえりと言ってくれない。それがちょっと寂しい。美保は苦笑して部屋の明かりをつけた。
明かりがつくと、否が応でも誠の姿が目に入る。二年前に失ってしまった、二人の息子が目の前にいる。顔立ちは変わっていない。少しばかり顔つきが大人っぽくなっただろうか。外面的なものではなく、内面的な変化を二人は感じ取った。
変身魔法という虚構をある意味で見破り、本質を見ることができたのはまさしく親の愛としか言えまい。
そう、二人は誠が根本的な意味で変わってしまっていることに瞬時に気がついた。そしてそれを知ってなお、二人は誠の帰還に大きく喜んだ。
「……う、うえぇ……ひくっ、びえぇぇえ、おかえりなさいまごど~!」
母は突然泣きだし、誠に飛びついた。二年前よりも、少し目尻に皺が増えただろうか。しかし泣いた姿は、40歳にもなるのに子供のようである。
誠は母を片手で受け止め、ただいま母さんと言い、それがさらに母の涙腺を刺激する。
「……よく、帰ってきたな、誠」
父は感慨深げに誠に近寄り、ほとんど身長の変わらない誠の頭を撫でた。
誠はくすぐったそうに身を捩るが、抱きついた母が離してくれないので甘んじてそれを受けた。いい年して、と思っているが誠は自身の眼から涙が流れ落ちていることに気がついていない。
「ただいま、母さん、父さん、美保」
知らず、声が震えた。
美保もたまらず兄に抱きつき、涙を流す。泣き叫んだりはしない、ただ静かに美保は兄の服を濡らした。
早朝の八角家は、泣き声に反してとても暖かい空気に包まれる。それは魔法なんかでは再現することはできない、人の想いだ。
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誠は、レティシアは、きっとここなら薄くなってしまった感情を再び呼び戻せるだろうと、母に抱きつかれ、美保に縋られ、父に頭を抱えられながら、頭の冷静な部分で判断していた。
異世界にて彼女の心はすでに限界を迎えている。
そう変身魔法は過去の自分を真似ているだけなのだ。心の奥は、かつて悲鳴を上げていた頃からなにも変わっていない。
それはとても寂しいことだ。
誠とレティシアが同一人物であることに疑いようはない。姿が違かろうと、魂は同一である。
だが、もう誠の部分はほとんどレティシアに残っていない。記憶はある、どんな人物だったかも思い出せる。
しかしそれ以外の部分はレティシアの持つ暗い憎悪の業火に焼き尽くされていた。背負った罪が、彼女を真の意味で幸せになることを許さないでいた。
誰よりもレティシア自身がそれを己に許さない。
二度と笑うな。
二度と幸せを感じるな。
お前は数万の人を、命乞いした家族を○した。
そんな殺戮野郎が幸せになる権利などあるはずがないだろう?
誠は家族に包まれながら、罪過の炎に今も身を焼かれている。暖かい温もりは、同時に凍てつく氷をこの身に浴びせる。
幸せを感じる度に、レティシアは己に罰を与えていた。
しかし自分の家族に罪はない。精一杯、幸せを感じてもらうために、幸せになっている真似をしよう。わたしの目的と家族は関係ないから。
レティシアは家族に包まれてなお、一人で戦い続けている。
彼女の旅は、日本が終着点では決してないのだ。
レティシアはどこまでも孤独だった。
そしてそれを不幸と感じる感情も、もう……