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作者:kiyashi
お久しぶりです。
これで最後になります。

よろしくどうぞ。
 ―1―

 オレンジ色の街灯が、それより少し濃い色をしたレンガを照らす。
 帽子をかぶった少女は、レンガの壁の前に立って、流れる黒い人々を眺めていた。
 彼女の影は壁に、長く伸びている。
 用事は無いし、誰かを待っているわけでもない。
 "どうしてこんなところに来たんだろう"
 "寂しいとか、悲しいとか、そんなことを思ってるの?"
 控えめな星空が覆いかぶさったこの街は、煌びやかで、賑やかで、それを感じる度に彼女の心臓はきゅっと口を結んだ。

 腹を肥やした商人たちだけが、今日も大きな荷物を背負って歩いていく。
 その先に待っている快楽だって、決して特別なものじゃないし、彼らも彼女も同じように、逃れられない理不尽に苛まれる。
 まるでそこに未来が無いように見せるのは、等しく持ち合わせた悲壮の目。
 でも一過性の幸せは――恐らくこの世にある"幸福"は全てそうなのだが――他の何よりも生きていく理由になり得る。
 未来なんてものは無くても、見えなくても、それらがただ現在を繋いでいく。
 糸を通して繋がっていくのはいつだって"今"だ。
 だからこそ、それを見失った彼女は立ち尽くすことしかできないでいた。

 長い冬はようやくその半分が過ぎた。
 この街では、雪は多く降らない。
 小さな結晶が舞い、道路が少しだけ白く染まる程度のものがほとんどで、今夜もそんな天気になりそうだった。

 ここでは誰もが一人だった。
 留まることなく動き続け、ただ自分の家に、温かい家に帰ろうとする。
 その道はただ孤独であって、彼らも、波に混ざることを拒んだ彼女も、同じ孤独を持っている。
 差異はどこにもないはずなのに、彼女はその小さな心が伸ばす手を、その輪郭を、これが心臓そのものであるかのように守っていた。
 街に溢れている、中くらいの器に入った小さな心の中で、彼女の分だけがはぐれ者のような気がした。
 しきりにその細く長い腕を伸ばして、娘のことを抱き締めようとした。
 バラのような棘だらけの腕で。
 それでも彼女は感謝した。
 その目が見る暗い未来も、決して純粋な物体だけではあり得ないその心に任せることにした。
 彼女を傷つけ、同時に何か恐ろしいものから守ってくれる、その心がただ愛おしい。
 自分が精彩に欠けた人間だと知っていたからこそそうやって、殺してはいけない感情を血まみれの腕で抱きかかえた。

 存在だけが誰かの平穏を崩してしまうことがある。
 誰も彼も悪人では無いのに、全員が等しく悪人に成り下がったような光景。
 「お前は独りだ」という言葉を互いに投げつけ合う状況の中で、誰も侵略者の正体に気がつかない。
 悲しむべき彼らは娘を責め立てるように君臨し、悲しむべき彼女は彼らの無力と、ただひたすらに理不尽な他者の生を否定しようとした。
 「初めに声を上げた人間が侵略者であり、ただの"存在"を壊してしまった。」
 だからこうなったのだと、誰かが声高に言った。
 それほど簡単なことじゃないさ。
 彼女は誰にも聞こえない声で言った。
 俯いた目の前を通り過ぎていった小さな黒い猫は、少し震えているように見える。
 彼女もまた、同じように震えていた。

 真っ白い雪が目に映り込んだとき、娘は歩き出した。
 彼女には家族がいて、幸せな家庭がある。
 ちゃんとした食事と、母親が買ってくれた洋服もある。
 ベッドのところには、人形や熊のぬいぐるみがあった。


 ―2―


 彼女が今晩、わざと遅くまで帰ろうとしなかったことに、大した理由は無い。
 ただ少し、不幸者の振りをしていたかっただけだ。
 輪郭のはっきりしない幸福を、まがい物の不幸で照らして見せようとしていた。
 高い壁の狭い隙間に積み上げられたがらくたの、一番上にあった汚い人形。
 ショーウィンドウの灯りに目が眩んだ時、すれ違った幼い女の子が抱いていた、綺麗な人形。
 光が僅かに届くだけの明暗に片目を失った古い人形は、眩しさに両目を失った新しい人形に捨て置かれてしまった。
 何も悪いことじゃないのに、どうしてその考えがいつまでも忘れられないのだろう。
 何度か通り過ぎた家の灯りでできた、自分の影を見つめながら歩いた。

 運河に架かった石橋に立っていた。
 ほとんど真っ暗になってしまった聖堂が見える。
 その周りで、川沿いの大きな宝石店や曳舟道の街灯から広がった灯りが、河に移り込んで揺らめいている。
 身を乗り出して、ただぼうっとそれを見ていた。
 何を考えるでもなく。
 否、何も考えないようにと必死になって意識をその光に向けていたのだ。
 少しでも気を抜けば、やるせない思いをするだけの現実が目の前に迫ってくる。
 その度に、避けられないものが吐き捨てる理不尽や、脳裏を飛び交う安い言葉にうんざりしてしまう。
 「私は誰かの幸せの、その一部にすらなれない」
 嘘だ、と心が返事をした。
 与えられたものに気づかない振りをしていたいだけで、持った幸福をないがしろにするのは、残酷な事だ。
 "救われる"ということの意味を、履き違えているんじゃないのか、と。
 独りの人間を殺そうとするまったく正しい理論を、自らの心が吐き捨てるようになった。
 だからもう一方は、それっきり何も言えなくなってしまった。

 「アイナ。こんなところにいたの?」
 名前を呼ばれたとき、彼女は混乱した。
 母親の声は相変わらず他人の声と同じような感触を持って聞こえるのに、いつもより優しく響いてきたから、不気味な印象さえ感じた。
 しかしそれらの不信は次の瞬間に――彼女が振り返って母親のほうを向いた時――まったく別の期待感に変わってしまっていた。
 「何かあったのならママがお話を聞くから、帰りましょうよ。寒いでしょう?」
 そう言って、手袋を外した右手を娘に差し出した母親の顔は、この世の何よりも純粋に優しく、温かさに満ちた表情に見えた。
 待ち焦がれていた瞬間がやってきたとき、いつもなら喜ぶ自分を客観視して、分析ばかりに意識を注いだ彼女だったが、この時ばかりは違った。

 その不吉な期待は幻だったのだろうか?
 アイナは手を伸ばし、温かい手に触れようとしたが、それが互いに触れ合うことは無かった。
 前に傾く体はそのまま地面に倒れ、両腕を地面に突き立てて支える。
 肩に伝わった痛みよりも、其処に誰も居ない悲しさで涙が出そうになった。
 一瞬後に思い返せば、少女は何も見ていなかったのだ。
 記憶のどこを探しても、鮮明な光景が浮かんでくることは無い。
 まるで夢を見た後のようだった。

 俯いたままでは、帽子のつばで通りの方は見えず、硬くてざらざらした地面があるだけ。
 もはや顔を上げることさえ億劫な気がした。
 このまま意識がどこかに飛んでいけばいいと思ったくらい、あの瞬間が焼き付けた傷は大きく、深かった。
 気づかないうちに目と口は大きく開かれ、唖者のような表情で怯えていた。
 ぜえぜえという音が聞こえる。
 私は僥倖と正反対にいる。
 そして恒常的な幸福なんてものも、どうやったって手に入らない。
 重力に逆らえない様に、不幸と言う地面――そこは地獄とも言えるかも知れない――に自然と堕ちていくのだと理解した。


 ―3―


 暖炉のそばで遅い夕食を済ませた。
 「今晩はどうしてあんなに遅くなったの?」
 母親の声は決して無機質では無いが、先ほどの夢を忘れられる訳は無く、彼女は改めて諦めを強いられたような気がした。
 考える素振りを見せないで。
 「道に迷っちゃって……。心配かけてごめんなさい」
 喉の奥まで、その苦しさがこみ上げていた。

 *

 日付が変わってしばらくしても、彼女は寝付けずにいた。
 とても疲れているから、すぐに眠ってしまえると思っていたのに。
 目を閉じると、思考の端から端まで言葉が飛び交っている。
 思い出したくないことばかりだと、頭を抱えた。
 鬱陶しい。
 そう思って目を開いてみると、それらは消えていく。
 気味が悪いことに、彼女はそのすべてを客観的に理解してしまっていた。
 理解可能な範囲内に収まっているからこそ、煩わしい事柄までもが次々と浮かんでくる。
 氾濫した言葉たちが、塞き止められている。
 溢れだしそうになったそれらは、高く舞って跳ね返り、彼女の心臓を締め付ける濁流になる。
 「誰が壁をつくったの?」
 自分の思考に対し、そのままの自分が完璧な反論を下してしまうから、それが誰の声なのかも分からなくなってしまう。
 こんな夜も珍しくはなかった。

 *

 娘は泣きじゃくっていた。
 さっきからずっと、そうしていた。
 幸せの分からない彼女はもう二度と変われない。
 救いがたいのは、あとに残った長い時間がまるで灰のように思えたことだった。
 現在を繋いでいくことさえ、無意味以上の空虚さを以て軽薄な希望を淘汰する。
 もう戻れない。
 自分の意志ではない。
 それでも心の針で他人や、自分自身を削り傷つけながら生きていく以外に、間違っていないことなど無かった。
 毎日泣いていたのだ。
 心の一層、二層奥の方でずっと、涙を溜め込んでいた。
 今晩は偶然、それが溢れてしまっただけだ。
 もしかしたらこれを待っていたのかもしれないと思うと、ただ腹が立った。
 幸福も不幸も無い。
 私の周りには多くの人間が居るのに、心のそばには誰もいない。
 「だれもいないんだ」
 喘鳴にもなれない呼吸は、彼女の心臓や肺に詰まって息切れを起こしていた。
 枕を濡らしても、誰も気づくことは無い。
 彼女は不幸を知ったつもりになった。
 そして幸福をその根底まで恨んだ。

 ずっと夜が明けないで欲しいと願い、隠して笑ったことも忘れて、やがて私ではない私が死ぬのだろう。
 そんなことを言って、今まで何度も繰り返してきた。
 「あ……あっ……」
 目の前で何かが遠ざかっていくのが見えた。
 何か大切なもの。
 でもそれは、最初から自分の持ち物じゃなかったような気もする。
 真っ暗闇が涙で滲んだ。
 そしてゆっくりと、意識も胸元から離れていった――

 *

 彼女は今も眠っている。
 朝日が街を照らし、人々が動き始めても。
 あの悲しみが嘘でないことを、何者も証明できないでいた。
 でも確かにあったのだ。
 アイナの頬に残っている、このちっぽけな悲劇の跡は、この街がどんなに本物の幸せで満たされようとも、彼女自身の未来がそれを得たとしても、決して消えることは無いのだから。
読んでくれてありがとうございました。

さようなら。

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