珍客からのプレゼント
空行が少なく文字が詰まっている感じを受けるかと思いますが、よかったら一読お願いします。※パソコンでご覧の方には、縦書き(PDF)でご覧いただくことをお勧めします。
――爆弾をセットした。
渡された雑誌には、そう書かれていた。
「これは……」
僕は、本を渡してきた女性客の顔に視線を戻す。僕と同い年ぐらいだろうか、それにしては落ち着いて見える。子供を抱いているからかもしれない。
「今、見付けました」女性は、不安そうな顔とは対照的に、しっかりと息子を抱き直した。「ひどい人がいるのですね。あの、大丈夫なのでしょうか?」
僕は、開かれた頁に目を落とした。某新人賞を受賞した作品の紹介文の上に、お世辞にも読み易いとはいえない文字で、それは書かれていた。
『爆弾をセットした。場所は「メインを奪いつつある家の中」だ。十四時までに見つけないと爆発する。我々は本気だ。当然のことだが、警察には連絡するな』
時間が無くて書き殴ったのか、元から字が汚いのか、文面からは知性の欠片も感じないのだが、迫力は伝わってきた。気持ちが籠っているとでもいうのか、少し寒気立ってしまう。
顔を上げると、不安そうに僕を見つめる女性の視線があった。腕の中で抱えられている息子は、歯ブラシを握りながらすやすやと寝息を立てている。
「大丈夫ですよ」僕は、意識的に笑顔を作り「教えて下さって、ありがとうございます」と、お礼を言った。納得が行かないのか、心配してくれているのか、または両方なのかは分からなかったが、母親の憂い顔を残して親子は静かに帰っていった。
――さて、どうしたものか。周りを見渡して客がいないことを確認すると、僕は脅迫文を読み返し始めた。
凄みを利かせた文章を何度も読んでいると、ある事に気づき、疑問が浮かんできた。何が目的なんだ? 何故、この犯人はこんなメッセージを残したのか? ご丁寧に、爆弾をセットした場所のヒントまで書いて。何より、わざわざメッセージを寄こしてきたくせして、要求が何一つ書かれていないのが、ひどく不格好な気がした。遊び方を知らない子供みたいな、そんな違和感が、うっすらと伝わってくる。そう考えだすと、毛の刈られた羊のような、貧弱で締まりのない物に見えてきた。
ただの悪戯かもしれない、と思ったのだが、万が一を考えて、僕は爆弾を探すことにした。爆発されてからでは、遅いからである。
周辺や隠せそうな隙間を、ざっと見渡してみた。が、怪しい物は見当たらず少し気落ちしそうになったが、目立つ所に爆弾をセットしたのであれば犯人もわざわざヒントを残さないだろうと思い、気を取り直す。
ふと、爆弾ってどんな形をしているんだ、と疑問に思った。初め、爆弾から連想された形は、昔のゲームに出てきた、光沢のある真っ黒な球状から導線が出ているものだったのだが、さすがにそれは現実味がないなと思い、次に、筒状のダイナマイトを想像してみる。しかし、その考えもすぐに打ち消した。最近観た洋画では、ある二つの液体が互いに混ざり合い刺激を受けると爆発するという特性を活かした爆弾を、劇中のテロリストたちが利用していたのを思い出したからである。その映画では、液体の入ったタンクやカプセルが爆弾だった。それを考えると、爆弾がどの様な形をしているのかが分からなければ、視界に入っていても気づかない、という可能性もある。実際に映画の主人公も爆弾の前を何度も素通りしていた。もし仮に、広辞苑にそっくりの爆弾だったなら、正直、お手上げである。視界に入っている、今現在、全く心地悪さを感じないのだから。
僕はレジから離れ、改めて店内を眺めてみた。売り場面積は二十畳程で、レジの奥には長い二つの棚を回るように四角い八の字を描く通路がある、決して大きい書店ではないが、僕の祖父が始めた、町の本屋さんである。店の出入口から入ってすぐ横には、週刊誌を置く棚があり、その正面、レジの前には新刊や話題本を平積みする為の台がどっしりと構えている。平積みされた書籍をはやし立てるカラフルなポップが見える。僕が幼い頃、内装工事をしたおかげで、照明や壁紙はまだまだ綺麗なものだ。本棚の高さは、いずれも僕の肩の位置と同じくらいなので、一人でも店内が見渡せる。そのため、防犯カメラなんか設置する必要はない、という父の意向で、防犯システムは備えていなかった。
防犯カメラさえあれば一発で犯人も爆弾の場所も分かるのに、と小声でぼやきながらも、僕は爆弾探しを開始することにした。そもそも、爆弾なんて物騒なものを探すのなんて心底嫌だったのだが、心のもう一方では、どうせ質の悪いいたずらで爆弾なんて存在していないだろうと思っている。
入口付近から週刊誌の棚や、棚の下にあるストックの引き出しを調べていくが、怪しいものは見付からず、しゃがんで引き出しを外し、棚の下まで覗き込んでみたのだが、埃の大群がいただけで、不審なものは無かった。ただ、平積みされた週刊誌の並びの中にポッカリとスペースが空いていて、嬉しくも見栄えの悪さが、心に引っかかっただけである。そのスペースには、本日発売の週刊誌が積まれていたのだが、一時間ほど前、若い男に大人買いされてしまい、平台の木目模様が顔を出していた。あの男は何者だったんだろう?
そんなことよりも爆弾だ、と僕は腰を上げて話題本の山に近付いた。賑やかなポップが僕までも誘惑してくる。「ついに二百万部突破!」「泣きたい人、必見! 究極の純愛」「驚愕のラストが……あなたも必ず騙される」「これを読まずして、何を読むのよ?」「人を隠すなら雑踏の中に」花に集まる蜂のような、書籍の山に群がるポップを目でなぞっていくも、心惹かれる文章はあるけれど、怪しいものは見付からなかった。
姿の分からない、漠然と怪しいものを探すのは、至極無謀な行為に思えてきた。
考えを変えてみよう。爆弾の形状を推理してから捜索した方が、合理的な気もしてきた。何よりも、見付からない事への焦燥感に堪えられなかったのだ。
本屋に爆弾、いや爆弾に限らず『モノ』を隠した場合、一番見付けにくい、見付かりにくいものは何かを想像してみる。木を隠すなら森の中。人を隠すなら雑踏の中。本を隠すなら本屋の中。その考えからすると、本の形をしたものならば、目視していても気が付かない可能性は高いのではないか。
それだ。本に似せた爆弾なら、と頭の中でイメージしてみる。それなら、隠すのも容易ではないだろうか。そして、見付かりにくい。
打開策が分かり、僕は意気揚々とレジに向かった。レジの横にあるパソコンを起動させる。お客様に書籍の在庫や場所を聞かれて分からなかったときは、まず、パソコンで検索し、探すのだ。立ち上がったパソコンを操作し、売上げや入荷記録、在庫を管理しているページへと飛び、在庫を管理しているファイルをクリックすると、僕は息を大きく吸って、ゆっくりと吐いた。
ゴールまでの経路が現れた。逸る鼓動を落ち着かすようにゆっくりと、在庫表を下にスクロールさせていく。このデータ上の在庫と店内の商品を一つひとつ確認していけば、データに無い商品が出てくるはずなのだ。データと一致しなかったものが爆弾だから、そう、店にある全ての商品を調べれば良いのだ。一つひとつ全ての商品を。ヒトツヒトツスベテノショウヒンヲ?
動かしていた指を止めた。パソコンの画面も止まる。僕は、深い霧の中で太陽を確認するように、頭を動かしていた。
売り場の一番奥にある、事務所に通じる扉。その上には、古臭くも懐かしい鳩時計が掛けられているのが見えた。いつからそこにあるのかは分からないのだが、僕が物心つくずっと前からあったと思う。残念ながら、その時計に付いている小さな扉から鳩は出てくることを忘れてしまっているようで、鳩が鳴いているのは見た事が無いのだが、時計としての使命は忘れておらず、ちゃんと現在の時刻を教えてくれる。今は、十三時を少し過ぎた辺りを指していた。
確かに、十三時である。午後一時だ。
「ああ、そうかあ」僕は力無く腰を下ろした。正確には、足の力が抜けてしまい支えの無くなったところに、丁度、椅子が置いてあったのだが、そんなことはどうでもいい。
パソコンの画面に目をやる。在庫数は優に五千冊を超えていた。五千冊の本を一人で、しかも爆発時刻は十四時だから有余が一時間弱しかない中、調べるのは不可能なのだ。根本的に、このやり方では無理だったんだ。
希望からの落胆。その落差があまりにも大きく、一瞬の間に心が荒み、焦りが全身を支配した。一時間後に爆死する、肌が焼き爛れ四肢が吹き飛んだ、自分の姿がチラついて、身震いする。
嫌だ。死にたくない。父から任されたこの店を守りたい。
本能からくる生への執念と、書店員としての使命感から、胃の奥の方でじわじわと抗争心が湧いてきていた。僕の今後の人生が、これからの一時間で決まるのだ、と。
気が付くと、僕は例の雑誌を手にしていた。中々答えが見えてこないので、アプローチの仕方を変えようと犯人からのメッセージを読み返す。
場所は『メインを奪いつつある家の中』だ。
メインを奪いつつある家の中とはどこなのか。まず、本屋に取ってのメインが何かを考える必要がありそうだ。当然、本だと結論づけるが、本の中でさらにメインとなると、正直分からなかった。僕の中では本といえば小説なのだが、人によっては漫画や雑誌、新書、実用書、ビジネス書と変わってくる。これでは、個人の好みに依るものが大きくなってしまう。犯人の好みを当てろといわれても無理な話だ。
時間が無いので直ぐに視点を変えてみる。
次に、この店の売上げについて考察してみることにした。パソコンを開き、ここ半年の売上げを見てみると、一番売れているのは雑誌で、安定した売り上げを誇っていた。毎週、毎月と発行されるため、動きが良く、売れる。続いてコミック、文庫本と続き、その次に実用書とビジネス書が肩を並べていた。
メインとは雑誌で、その座を奪おうとしているのはコミックなのか。
いや、そう結論付けるのは早い。話題書が出たら話は別だった。新書の話題書は爆発的に売れるし、直木賞などの大きな賞を受賞した作品も、出版社の方から大々的な宣伝を頼まれ、飛ぶように売れる事がある。現に今も、レジの前、話題書のコーナーには社会現象になりつつある新書が積まれていた。
そう考えると、さらに分からなくなってしまう。しかも、この店の売り上げを知っているのは僕と僕の父だけだから、犯人がそこからメインを決める事は出来ないはずである。
一瞬、父が犯人かもしれないと考えたのだが、動機が思いつかなかった。確かに父なら、開店前に忍び込めば、犯行は可能だし簡単に実行出来るだろう。売上げからメインを決めることも出来る。しかし、父にはメリットがない。デメリットしかない犯行なんて、存在しないはずなのだ。何よりも、真面目な父がこんな犯罪をやるわけがない。
そもそもだ、犯人は『いつ』爆弾を仕掛け、この脅迫文を書いたのか。僕の目を盗み、かつ周りから怪しまれないで爆弾をセットし、本に落書きをする。爆弾をセットするのにどのような手順があるのかは分からないが、そんなに大がかりな作業ではないだろうと推定していた。来店してきて、爆弾を隠し、メッセージを残す。想像してみるとそれほど難しい行為に感じないのだが、果たして、そんな事が出来る人がいただろうか。
僕は、頭の中で記憶の本を開いた。頁を遡り、今日の出来事を振り返ってみる。
いつもより早く目が覚めた。僕は職場に向かうために家を出る。外は、少し肌寒い気もするが、昨日の雨も上がり、湿気を含んだやさしい風が吹いていた。鼻先を流れる空気から、春の香りがする。陽気で心が弾む匂い。はつらつとした太陽から注がれる、ぽかぽかとした日差しが気持ちいい。
自宅のアパートから職場までは、電車で五分程かかるのだが、太陽に誘われて今日は歩いて通勤したくなっていた。
最近、大きなビルや大型チェーン店が肩を並べ始めた駅周辺を通過し、僕は住宅街へと向かった。高級という単語を付けるまではいかないまでも、上品な家が立ち並んでおり、やわらかい雰囲気の街である。滅多にこの道は歩かないのだが、訪れる度、心が落ち着くのか、様々なイメージが湧いてくるのだ。自分の誕生日に友人を騙す男。結婚指輪を失くした夫婦。宇宙人にさらわれる女子高生。浜辺で炬燵に入る男女。――どれも、パッとしないが、考える事が楽しい。
駅前の雑踏から空想へ逃げるように足を進めていると、真っ赤な看板が見えてきた。僕が生まれる前からやっている、小さな定食屋さんの看板である。莱人軒、と書かれた看板は、所々錆びているにもかかわらず、落ち着いた出立ちで、誰でも受け入れてくれる、そんな趣があった。
赤い看板を過ぎて歩を進めていると、空き家の前に大きなトラックが停まっているのが目についた。右側に対向車が通れるだけの幅はあるものの、どうしてここに、と思ってしまう場所である。トラックの直線的で乱暴な外見が、この街に馴染んでいない気がしたのだ。少女漫画の棚の中に、一冊だけハードカバーの書籍が混じっているみたいな、言いようのない違和感が。第一、空き家に荷物が届くのだろうか。
路上駐車のトラックを抜き去ると、『井上書店』の看板を掲げた平屋が見えてきた。僕の職場である。父が幼い頃から、ずっと、この土地で生きている古びた平屋は、日焼けした褐色の木材が深みを滲ませている。時代の流れに干渉されていないみたいだ。
しっかりと締められているシャッターを確認して、僕は裏口へと回る。建物に挟まれた日の当たらない通路を進んで行き、店の真裏にあるドアノブに鍵を差し込もうとした。が、すでに鍵が開いていることに気が付き、僕は不審を抱いた。音を立てないように、そおっと裏口の扉を開き、中を窺う。事務所の隅で、取次の池沢さんが作業しているのが見えた。積み上げられた段ボールの横にしゃがんで何かを縛っている。
「おはようございます」
僕は、丸まった大きな背中に向かって、元気良く挨拶をした。
うお、びっくりした、といいながら、池沢さんは立ち上がった。飛び上がったといった方が近い気もするが、逞しい身体が勢い良く振り返る。「誰かと思ったけど、陽か」
もうすぐ四十路になろうかというのに、池沢さんの身体は筋肉が盛り上がり、若々しく見えた。長年、重い荷物を運び続けた成果なのだろう。
「お、驚かすなよなあ。珍しく、今日は早いんだなあ。何か仕事でも残ってんのかよ?」
池沢さんは眉毛をハの字にして大袈裟に汗を拭いた。顔を流れる大粒の汗が、タオルに吸収されていく。
「いや、ただ早く起きちゃっただけですよ」
「そうか、そういう日もあるよな」池沢さんは何回も顔や首を拭いている。「たまたま、早く起きちゃうときってあるもんな」
たまたまです、と返すと、僕は池沢さんの横に積まれている段ボールに近づいた。一番上の段ボールが開いていて、中身は今日入荷した本たちだった。
「そういえば、池沢さん」僕は、背中を丸めて何かの作業を再開した池沢さんに尋ねた。「会社の車、変えました?」
「いや、変えてない」と、池沢さんはこちらを見ないで短く答えた。集中して何かをしている。
何を夢中でしているのか気になって、分厚い肩越しに覗き込んでみると、太い指が慣れない手付きでビニール紐を操り、雑誌を縛っているだけだった。立ち読み防止で雑誌を縛ることにしているのだ。
「池沢さん、それは僕がやるので、大丈夫ですよ」
「おおそうか。って、元々は陽の仕事だしな。まあ、俺も早起きして時間があったから、三冊だけサービスだ。ファンサービスじゃなくて、サンサービスだけどな」
がはは、と大きな口で笑いながら、池沢さんは三冊の雑誌を渡してきた。今日発売の同じ雑誌で、表誌が腕時計の解体図、内部構造を強調した写真の、マニアの需要を狙った歯車専門雑誌だった。大きな付録を挟んで縛ってある。縛り方が若干緩い気もするが、僕は快く受け取った。
それにしても、池沢さんは全く変わらないなあ。初めて顔を合わせたときも、こんなくだらない駄洒落、にもなっていない事を言っていた。よく覚えている。あれは、僕がまだ大学生でアルバイトとして父の仕事を手伝っていたとき、出版社と取次の忘年会があり父に無理矢理連れて行かされたのだ。
「やあ、君が陽かあ。よろしく」
その会に遅れて着いた父と僕は、先に始めていた方たち挨拶して回り、座敷を一周してから一番下座の席に父と並んで着座した。筈だったのだが、いつの間にか、父の居なくなった僕の隣に、大きなおじさんがどっかりと座り、僕の手を握っていた。「ほら、握手だよ。俺は、池沢保ってんだ、よろしくな。君が陽は、君が代うー、てな」
がははと酒臭い息で笑う池沢さんに、どう反応していいか分からず、僕は苦笑いで応じていた。「は、初めまして。井上陽です。よろしくお願いします」と小さく頭を下げる。
「そんなに硬くなるなって」池沢さんは僕の肩を叩きながら、まだ笑っていた。
よく分からないが、悪い人ではないようだ。少なくとも、池沢さんの真っ赤な笑顔を見て、そう思った。
「おお、それ何飲んでんだ?」池沢さんは僕の持っていたグラスを指差して、身を乗り出してきた。
「ああ、グレープフルーツジュースです」
「ぐれーぷふるーつじゅーす? それは新しい酒なのか?」
「いいえ、ジュースです。ソフトドリンクのジュースです」
「ジュース、ジュースって子供じゃないんだから。飲むぞ」
そういう池沢さんの手には、瓶ビールと二つのグラスが準備されていた。ほれほれ、とグラスを持たされ、ビールが注がれていく。「まだ未成年なので」という僕の抗議も池沢さんの耳には届かず、僕はビールで乾杯をしていた。
勢いで、ビールを飲んでみる。意外にも、初めてのお酒の味は、美味しくて、視界が晴れていく気がした。
「陽は、本が好きなのか?」池沢さんは自分のグラスにビールを補充しながら聞いてきた。
「本は好きです」
「何読むんだ?」
「小説とかです」
へえ、えらいなあ、と棒読みしながらも、池沢さんは僕のグラスにビールを足していた。
「池沢さんは、本とか読まないんですか?」
二杯目のビールを一口胃に流してから、僕は質問を返してみた。池沢さんは少し考える素振りをしてから、真剣な表情で口を開いた。「俺は、読むより見る派だからなあ」
「見るって漫画ですか?」
「いやあ、漫画も良いけど、俺はやっぱり実写だなあ。写真は想像力が掻き立てられるから、飽きないよなあ。何より、写真は見る場所を選ばないのが良いんだよ。そりゃあ、映像で見た方が興奮するけど、やるチャンスがねえんだよ。でも、写真ならトイレの中でもやれる」
「何の話ですか?」
「エロい話だよ」
呆気にとられている僕の事もお構い無しに、嬉々として池沢さんは続けた。
「ところで、何でアダルトビデオを借りる時に、サンドイッチのように、他のビデオで挟んでレジに持っていくか知ってるか? あれは、別に恥ずかしいからそうしてるんじゃねえんだよ。まあ、あれは儀式みたいなもんだよな。堂々と覗くより、隠れて覗いた方が興奮するのと同じもんだな。エロに潔さは要らない。大切なのはスリルと恥じらいだ」
池沢さんの理解に苦しむ主張を流し込むように、僕はビールを飲み干した。ぽわーっと体が温かくなってくる。顔が熱い。
またも池沢さんに勧められるまま、訳も分からず、焼酎を飲まされていると、父の姿を発見した。離れた席で出版社の人にお酌をし、何かを話している。声は聞き取れないが、父のあんなに楽しそうな顔は、初めて見た。
「井上さん、また陽の話でもしてんだな」
僕の視線に気付いたのか、池沢さんも父の方に顔を向けていた。
上手く働かない脳みそに、混乱が覆いかぶさる。「僕の話ってなんですか? よく話しているんですか?」
「まあ、陽は自慢の息子だからなあ。いつも嬉しそうに君の話をしてくれるよ。毎回、べた褒めだよ。メタボじゃなくてベタボだな」
池沢さんの笑い声が聞こえるも、遠くの木々が騒めいているようで、些細な音に感じる。頭の中は、父の事で溢れていた。いつも無口で厳しい父が、僕の事を褒めている。その事が、信じられなくて、途方に暮れそうになった。
「夢は何だ?」
「あ、はい、ええ?」上の空だった僕は、池沢さんの言葉で地上に戻された。覚束無い舌を使い、なんとか言葉を作る。「ゆ、夢ですか。ああ、夢は、小説家になることです」
「小説家? へえ、作家になりたいんだ。小説書いてるのか?」
「はい。少しですけど、下手くそな小説を書いてます」
「そうか、応援してやるから、頑張れよ」僕の肩をバシバシ叩きながら、楽しそうだった。
「小説は読まねえけど、陽のは読んでやるよ。楽しみだな。おっと、もうこんな時間だ」
池沢さんは、わざとらしく腕時計を見ながら立ち上がった。「俺、新婚だから帰るわ」と全員に聞こえる大きな声で報告し、風のように去って行った。
「まだ、小説を書いてるのか?」
僕は、五年前から現代に意識を戻す。手の中には三冊の雑誌があり、目の前には作業着の池沢さんがいた。
池沢さんからの質問で、一年以上前から筆の止まった原稿を思い出す。忙しい、疲れたと言い訳しては見て見ぬふりをしてきた。胸が縮むような罪悪感を押し殺し、僕は明るく答える。「ええ、まだ書いてますよ」
「そうか。じゃあ、俺はもう行くよ。お疲れさん」
「これ、ありがとうございます。お疲れ様です」
池沢さんは台車を押しながら、出て行った。返品する本を乗せている所為か、台車はガタンゴトンとコンクリートを叩く音楽が遠ざかっていく。
僕は、エプロンを着けて仕事に取り掛かる。とりあえず、今日入荷した書籍や雑誌を全て、段ボールから取り出す作業だ。段ボールやビニールの梱包を解いては、送品表と照らし合わせ、商品の確認をしていく。その中でも、今日発行された書籍と雑誌は台車に積んでいく。真っ先に陳列するためである。
いつもの作業をこなしていると、普段は気にも留めないのに、事務所に貼られた、ご近所との付き合いが大切だぞ、と書かれている張り紙に目がいった。父が書いたものである。お客様との信頼関係が最も重要なのだ。そうでないと、うちみたいな書店はやっていけないだろう、と良く言われたものだ。
毎日繰り返してきた仕事を進めていたが、ハードカバーの新刊を並べているときだった。僕は一冊の文芸書を手にしたまま、作業を中断してしまった。初めて見るタイトル。だが、著者はいつも見ている名前だった。有名なミステリー作家が新しく本を出したのだ。
もう一度、著者名を確認してから、僕は溜息を付いた。憧れの作家がまた遠のいていく様な、焦心に駆られたのだ。僕には何が足りないのか。不安が押し寄せてきて止められない。
一気に力の抜けてしまった指で、頁を捲ってみた。タイトル、目次と過ぎていく。自然と血流が速くなっていくのが分かった。が、僕はピタリと手を止めた。開店準備の時間がなくなってしまう、と。
しかし、そうだった、と瞬時に思い出した。今日はいつもより時間に余裕がある。早起きは三文の徳とはよく言ったものだ。
僕は、心が弾むのを止められなかった。どうしても、内容が気になってしまって、仕様が無い。
躊躇う事無く、頁を進んでゆく。
第一章が終わった所で顔を上げた。
やられた。まさかこんな展開や構成でくるとは、思ってもみなかった。全く、脱帽だよ。面白すぎる。
首の筋を何気なく伸ばしながら、僕は時計を見た。九時四十分を少し過ぎている。
やられた。座っていた床から、高電流を流されたみたいに、僕は勢い良く立ち上がった。思うように足に力が入らないのは、痺れているのもあるが、焦りに因るものが大きいのだろう。やるべき事がうまく整理できない。最低限、雑誌の新刊だけでも並べておかなくては、商売にならないな。朝の時間は、週刊誌が一番動く時間帯だからだ。
商品を出すことだけに集中する。雑誌の状態や付録をちゃんと確認する事も忘れ、どうにか雑誌を並べ終えたときには、開店時間になってしまっていた。仕方がないので、書籍を出すのを後回しにし、僕はシャッターを上げた。午前十時、ぎりぎり、時間通りの開店。
「いらっしゃいませ」
開店から少しして、本日初めてのお客様が来店された。幼稚園の息子を連れた親子だ。
子供が元気よくレジの前を走っていく。「走っちゃダメでしょ」といいながら、母親が後を追う。
「早く選びなさい。予約の時間に間に合わなくなっちゃうわ」
「もうちょっと、まってー」
レジの中で、今日発売のコミックスにシュリンクをかけていると、店の奥にある、児童書が置かれている棚の方から、親子の言い合う声が聞こえてきた。僕は作業の手を止め、耳を向ける。
「もう、どちらかにしなさい。ご褒美は、一冊っていう約束でしょ」
「でもー、でもー、どっちもほしいー」
「早くしないと、買ってあげないわよ」
子供は、嘆願するような声で、盛大に何かを訴えている。自分の欲求を満たすのに必死のようだ。
「駄目です」
母親の有無を言わせないスッパリした声が走った。残念ながら、子供の敗色は濃厚の様だ。
しかし、次の瞬間、子供はあっさりと最終兵器を発動した。泣き出したのだ。
店内に、けたたましい声が鳴り響き、その声に合わせるようにして、棚を蹴る様な、破壊的な伴奏も聴こえてきた。どうやら、泣くだけでは弱いと思ったのか、暴れるという合わせ技も持ち出してきたみたいだ。
「やだ、歯医者さん、行きたくない。まだ、ここにいたいよおー」
母親がいくらなだめようと、子供は武器を仕舞う素振りを全く見せなかった。完全な、形勢逆転である。
「わかった。じゃあ、こうしましょう」母親が、ついに譲歩してしまった。「歯医者さんで、お利口さんに出来たら、帰りにもう一冊買ってあげる。だから、今は一冊だけにしなさい。分かった?」
子供はピタリと泣き止んだ。同時に、さっきまでの騒音が嘘みたいな、落ち着いた店内が戻ってきた。
親子が会計を済ませたとき、お騒がせしました、と母親は会釈した。その横では、目のまわりを赤くした子供が、満足げに笑っている。
僕は二人を笑顔で送り出すと、再び、コミックスにビニールをかけていった。
それからは、週刊誌を買っていく人が数名いたが、いずれも目当ての物を手にすると、足早に出ていた。落書きをした者はいない。
それから一時間程して、シュリンクの終わったコミックスを並べていると、賑やかな集団が来店してきた。制服を着た中学生三人が、髪の毛を湿らせたまま、僕の横で漫画本を物色して始める。三人共、大人の身体に子供の顔が付いているようで、堅実よりは無邪気に近い気がした。
「マジ、暑いなあ。おお、新しいの出てんじゃん」
お前、これ読んだことあるか、と話しながら、中学生たちは漫画談義を始めた。大袈裟に笑い合ったり、知識に乏しい相手をけなしたり、共感したりと、忙しなく表情を変えて楽しそうだ。
そんな彼らを見ていて、ふと疑問が浮かんだ。今日は平日だぞ。
「君たち、学校はどうしたんだ?」僕は、率直に疑問をぶつけてみた。
三人はこちらに顔だけ向け「校長の誕生日で休みだった」と、声を揃えた。それから、口々に「行って損した」「でもラッキーだったな」「俺、宿題やってなかったから助かった」などと盛り上がる。
「今は、そんな休みがあるのか。でも、なんでこんな時間に制服で遊んでいるんだ?」
「ああ、誰もいない校庭でサッカーをしていたんだよ」
いけしゃあしゃあと、まだ声変わりしていない高い声が、返って来た。こめかみから汗が垂れている。
「校庭が広く感じて楽しかったよな」
「マジ、最高だった。地面はぐちゃぐちゃだったけどな。たまには、禿げ校長も役に立つな。そういえば、校長の奴さあ――」
ぎゃはは、という笑い声が木霊する。
このぐらいの年齢は、本当に元気だ。体力もあり、縛られる事も少なく、自由に生きている。見ているこっちも、愉快になる。
「御免あそばせ」
声をかけられて振り向くと、莱人軒のおばちゃんがいた。背筋が、ぴんと、真っ直ぐしていて、とても八十歳を超えている様には見えない出で立ちだ。綺麗な白髪と年季の入った割烹着がよく似合っている。
「いらっしゃいませ。ご注文頂いていた本、入荷していますよ」
僕は、レジの後ろにあるお得意様用の棚から、取って置いた書籍と雑誌を出した。十冊近くたまっていたので、ずっしりと重い。
「あらま。こんなにたまっちゃっていたのかい」
おばちゃんは、嬉しそうに驚いた。顔中の深い皺が元気に表情を作っていく。
僕が、商品を袋に詰めていると、おばちゃんが話しかけてきた。最近は、車が多くて恐いわ、としっかりした発音を聞いていると、おばちゃんが若返ったような錯覚を覚える。
「今日もね、大きなトラックが店の近くに止まっていて、嫌な気分になっちゃったわ」
「そうなんですか。路上駐車の取締まりが厳しくなったのに、この辺は対して変わらないですね」
「このところ、急に華やかになった駅あるじゃない。あっちの方は、取締りが厳しいらしいのよ。だから、皆こっちに逃げて来ているのかしらね」
「そうかもしれないですね」僕は、商品の入った袋を持ち上げた。持ち手が、ずっしりと掌に食い込む。「お待たせしました」
「陽ちゃん、いまも小説を書いているのかい?」
商品を渡そうとレジから出ると、おばちゃんが好奇の目を向けてきた。僕は心臓が壊れたのかと思うぐらい、動揺した。が、平静を装い曖昧に頷く。
「そう、まだ頑張っているの。良いことじゃない。若いうちは夢を追いかけなくちゃ。とことん、やりなさい」とおばちゃんは小さくガッツポーズをした。その期待を握りしめた拳が、痛くて、以前にも似たような体験をした記憶が、揺さぶられた脳から零れる。あれは、作家になると両親に打ち明けたときだった。
先祖の仏壇の置かれた和室で、僕は両親と向かい合っていた。緊張した背筋を伸ばし、慣れない正座をして。
「大学を辞めます」僕は、弱々しく両親に報告した。深く頭を下げる。「小説が書きたいんだ」と続けた。両親に迷惑をかけるのは、済まないと思う。でも、この意気だけは譲れなかった。
顔を上げると、母が険しい面持ちで僕を引きとめてきた。「何を、どうして……。何も辞める必要は無いわよ。いままでの学費だけでいくら掛かっていると思っているの。ここで辞めるなんて……。大学に通いながらでも小説は書けるでしょ」驚きつつも理解に苦しむといった母の表情が、とてもツラくて、目を背けたかった。
しかし、僕の決意は、固い。大学生のままでは、親に守られていては、駄目だとも思っていたのだ。険しい作家の道を行くのであれば、甘えは無用だ、と。
「――あなたも、何かいって下さいよ」
頑として動かない僕を見かねて、母は父に助けを求めた。僕の正面で黙っていた父が、重い口を開ける。
「お前のやりたいことをやればいい。やるなら、とことんやりなさい」
内臓に響くような重い言葉だった。僕は奥歯を噛みしめる。そうしていないと、込み上げてくる、感謝や決心の混ざった一言では言い表せない、熱いものを堪えられなかった。
「ふう、しょうがないわね。がんばりな」と母は、どこか悲しげに笑っていた。
僕は、その後すぐに大学を辞め、家を出た。その一年後、父が体を壊し入院してしまう。幸い、命に別状はないという事だったのだが、父の代わりに僕が本屋を継ぐことになった。
それからの数年間は、書店員をしながら執筆活動をしていた。一度だけ、短編の新人賞で最終選考までいったのだが、次には続かなかった。今では、書きかけの原稿と睨めっこをしても、先に進める事はしていない。
「疲れた顔しちゃって」おばちゃんの声で我に返る。記憶を押しこめると、僕は無理に口角を上げた。
「たまには、うちに食べに来なさいよ」おばちゃんは健康的な白い歯を覗かせた。「あら、もうこんな時間だわ。大変、ランチタイムが始まっちゃう。御粗末様」
おばちゃんは、商品の入った袋を軽々と受け取り、小走りで出て行った。
今日は、小説を書いているのか、とよく聞かれる。もしかしたら、執筆への焦りが気配に出ているのかもしれない、と不安になった。
「この付録かっけえなあ」例の中学生たちは、まだ店内をうろうろしている。彼らしか、客は見当たらない。全然ストレスの含まれていない声が飛ぶ。「俺、目覚まし壊れてんだよ。こういう時計探してたんだよなあ。いいなあ」
その音が聞こえたのは、僕が商品の補充をしているときだった。軽快にビニールの破れる音がしたのだ。僕が顔をあげると、中学生たちがコミックのシュリンクを剥がして、仲良く三人で同じ漫画を読んでいた。
「こら、何をやっているんだ」僕は、レジから出て行って、彼らの後ろに立った。「読んじゃいけないから、ビニールがしてあるのだろ」
少し強めに注意をすると、彼らはふて腐れた態度を隠す素振りもしないで、無言で持っていた漫画を置き、立ち去ろうとする。そのとき、雑誌を縛っていた紐がほどけているのを見付けた。雑誌の上には、付録が入っていたと思しき段ボールと、小さな置時計が乗っかっている。僕は、それも中学生たちがやったのだと思い、彼らを引き留めて、頭ごなしに怒った。
「ちょっと待ちなさい。これも君たちがやったんだろ」と、時計を中学生たちに突き出す。「なんで、わざわざ紐で縛っているか分からないのか」
「知らねえよ」一番前にいた子が、舌打ち混じりで吐き捨てる。後ろにいる二人も、下唇を出して、僕を睨んでいた。
「コミックのビニールもそうだが、紐で縛っているのは、買ってから見てもらうためなんだ。勝手に紐を取ったら駄目なのくらい、中学生なら分かる筈だろ」
「だから、知らねえよ」
「なんだその態度は。悪い事をしたら、まず言う事があるだろう。それぐらい小学生でもわか――」
僕の話を最後まで聞かないで、三人は急に走り出し、あっという間に店からいなくなってしまった。示し合わせたように複数の人間が同時に居なくなる。その状況に、僕は呆気にとられてしまい、言葉が続かない。視界には、時計を持った僕の手が、何もない空間に情けなく取り残されていた。
行き場を失くした手を惨めに引っ込めて、大きく息を吐き、むかむかした気色を薄める。悪ガキ中学生が荒らした、コミック、破かれたビニール、雑誌、付録の時計、結ばれていた紐、付録の入っていた段ボールを持って、レジへと戻った。
コミックに新しいシュリンクをしてあげてから、雑誌を元通りに直す。変形した段ボールに付録を仕舞うとき、確かにこの時計はかっこいいな、と僕は手を止めていた。透明の球体に入った時計をまじまじと見てしまう。大きさはテニスボール位で、一か所だけ平らな部分があった。そこを下にして置くのだろう。球の中央には、丸くて白い文字盤が位置し、当たり前だが、アラビア数字が等間隔に書いてあった。しかし、その裏にはむき出しの歯車たちがいて、それぞれが接し合い待機している姿は、緻密でいて芸術的である。「最近の付録は豪華だな」と、つい感心してしまった。
縛り直した雑誌を定位置に戻しに行く。発売されたばかりの雑誌は平積みする事にしているので、積まれている二冊の上に重ねようとして、ある事に気が付いた。今一番上にある歯車専門誌が、歪に膨らんでいるのだ。おそらく、縛り方が下手くそだからそうなってしまったのだろう。池沢さん、しっかり縛って下さいよ、と内心で詰る。もしかして、と手にしている雑誌を見て、この紐が取れていたのも池沢さんの所為ですか、と問いかけていた。もちろん、返答はない。静かに雑誌とコミックを棚に戻した。
誰もいなくなった店内で、伝票の整理をしていると、どこか疲れた顔の男が入ってきた。二十代前半だろうか、ジーパンに茶色いシャツを羽織っており、ラフな格好である。男は、店に入るなりレジに近づいてきた。
「すみません。週刊誌はどこにありますか?」
張りの無い声で聞かれ、僕は笑顔を作り、男の後ろを指した。週刊誌の棚は入ってすぐ横にある。
「あちらにございます。何かお探しですか?」
男は、今日発売された週刊誌の名前を口にする。
「ございますよ。そちらは、一冊でよろしいでしょうか?」
「あるだけください」
「え?」僕は取りに行こうとしていた足を止めた。いや、止まってしまった。男の顔をまじまじと眺める。「店頭にあるのを、全て、でしょうか?」
男がこくりと頷く。からかっている雰囲気が無いのが、少し不気味に感じた。
僕は悩んだが、全て、計二十五冊を売ることにした。週刊誌の棚を眺めると、一か所だけポカンと空いていて情けない感じだったが、あとで発注すれば済む話だ。
会計しているときに、「こんなに買って何に使うのですか?」と何気なく聞いてみたが、男は頬を引き攣らせて「ちょっと、仕事に使うのです」と答えるだけだった。
「――ありがとうございました」
雑誌男がいなくなるのを確認すると、今買われていった商品を発注するため、僕は取次会社に電話を掛けた。電話に出た女性と二、三話した後、池沢さんに代わってもらえますかと頼んだ。しかし、「本日、池沢はお休みをいただいております」と、事務的な口調が返ってきてしまった。僕は、頭を捻る。事情は分からないが、相手がいないのでは話は出来ない。とりあえず、早急に雑誌を入荷して欲しい事だけを伝えると、電話を置いた。
十二時を過ぎると、一日で一番混む時間帯で、駅の方から昼休みの会社員たちが流れくる。駅周辺の再開発で救いなのは、大型書店の参入が無い事だった。そのおかげで、うちの店も潰れないでいる。
レジを打っていると、スーツ姿の人で賑いだした店内を、人を縫うように走り回る影が目に入った。
「ぼく、歯医者さんに行ったんだよ。えらいからご本を買ってもらえるんだ」
今朝の子供が、歯ブラシを振り回しながら、声を張り上げている。母親が、周りに謝りながら追いかけていた。注意するべきか迷ったが、客を捌くので手一杯だった。
途切れることなく続いた客の列を、ようやくさばき終わり、お昼の休憩を取ろうと思っていたとき、はしゃぎ疲れて眠った息子を抱えた女性がレジに来た。そのとき、落書きを見付けました、と例の雑誌を渡されたのだ。
「これは……」
「今、見付けました。ひどい人がいるのですね。あの、大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫ですよ。教えて下さって、ありがとうございます」
親子の帰ったあとは、ぱたりと客足が途絶えた。
今日一日を思い返してみても、大きな発見はない。僕が客から目を離したのは、莱人軒のおばちゃんが来たときと昼の混雑時だけだ。混んでいるときは、他の客もいるから、脅迫文を書くことはできないはず。では、おばちゃんを接客しているときはどうだろうか。あのとき店内にいたのは、中学生だけだ。あいつらが犯人か?
僕はすぐに首を振った。いや、彼らがやったのであれば、コミックを読み始める前に書いた事になる。悪戯をした後に、わざわざ、僕に目を付けられることを自らやるとは考えにくい。
――考えが暗礁に乗り上げてしまい、重い沈黙が漂う。だめだ、分からない。
いったん休憩しよう。客を入れない方が、万が一爆発が起きても、被害を抑える事が出来る。そう思い立ち、休憩中と書かれた札を出入口の扉に貼った。その時、外に今朝見たトラックがまだ停まっているのが目に入り、嫌悪を催す。
裏で休もうと、事務所の戸に手を掛けた時、勢い良く戸が開き、景色が回った。体から重力が消え、内臓が圧迫される。息が出来ない。背中に衝撃を覚えたとき、自分が飛ばされたのだと気付く。本棚に突っ込んだらしく、体の上に書籍が降ってきた。固い部分が頭に当たり、さらに激痛が走る。
爆弾が爆発した、と頭を過った。自分は死ぬのか。二度と小説を書く事も、読む事も出来ないのか。どうせなら、今朝読んだ小説を全部読んどけば良かったな、と。
錯乱した頭のまま、恐るおそる目を開けると、四人の男が僕を見下していた。目と口だけが開いているマスクをした男達に囲まれたこの状況に、思考が追い付かない。爆発はどうなった。こいつらは誰だ。僕は生きているのか。
「動くな。金を出せ」黒いマスクをした体格の良い男が、銃口を僕に向けてきた。黒いマスクの下で、目が笑っている。四人とも、黒いズボンにお揃いのベージュ色の作業着を着ている。そして、全員の手には銃が握られていた。黒々とした不気味な光がちらつく。「大人しく従えば、命までは取らない」
命までは取らない、ということは僕はまだ生きているのか。爆発も起きていないのか。ところで、こいつらは誰なんだ。黒いマスクの男の声を聞いたとき、どこかで聞いた事のある声だと思ったが、気が動転していて上手く思い出せない。
「シャッターを降ろせ」
黒いマスクから、どすの利いた声が飛ぶ。すると、横にいた赤、黄、緑のマスクをした三人が銃を片手に、店のシャッターを降ろし始めた。男たちの靴から泥が床に落ちていくのが見え、誰が掃除するんだよ、と関係ない事を考えてしまう。三色の男たちは手間取りながらも、完全にシャッターが閉まり外が見えなくなると、僕は絶望を感じた。不安が体に絡み付いてくる。外が見えなくなるだけで、こんなにも心細くなるのか、と目の前が狭くなった。
「おい、立て。早く金を出すんだ」
僕は、恐怖から体が震えてしまい立てないでいた。
いつまでも座っている僕に苛立ちだした黒は、銃を構え直し叫んだ。「殺されたいのか! 早くしろ!」レジの方を乱暴に顎で指す。
僕は静かに深く息を吐くと、床に散らばっている本を踏まないように、ゆっくりと立ち上がった。足に力が入らない。そして、遅蒔きながら、自分が本屋強盗に襲撃されていることに気が付く。
黒が僕の背後に回り、背中に銃を突き付けられながらレジに向かう。覚束無い足取りで、散乱した本を避けて歩くが、ふと、黒も本を避けているのが見えた。大きな靴なのに、見事に本に触れていない。
その時、僕の中でいいようのない違和感が生まれた。何が原因かは分からないが、それが、とても重要な事のような気がしてならない。思考の復旧作業が追い付かないのが、歯痒かった。
「金をこの中に入れろ」
レジに入ると、黒から革製品のボストンバッグを渡された。バッグの大きさからして、一億は入りそうである。これを埋める程の、この強盗団を満足させるだけの金が、この店にあるとは、とても思えなかった。開けようとしていたレジを、一旦止め、意を決し、僕は黒を睨みながら聞いてみた。
「目的は金だけか」
言った後で、心拍数が肌で分かるほど上昇していく。
僕の心臓が破裂しそうな程の勇気に対して、黒は黙っていた。瞬時に、銃口が僕とレジの間を往復する。恐ろしく冷たい視線。喋ってないで早くしろ、という事らしい。
僕は、大人しくレジを開ける。事情も知らずに、いつも通り勢い良く開いたレジから、渡されたバッグに現金を移していく。レジには十万強入っていた。四人の強盗で分けたら、一人三万弱しかもらえない。いくらなんでも、安すぎるだろ。罪を犯した見返りがそれだけでは、馬鹿らしくて自分は御免だな、と冷静に分析していた。同時に、少ないと逆上して殺されるのではないか、と危ぶむ。
小銭も入れるよう催促され、直接バッグに流していると、横に広げてある例の雑誌に目がいった。再び手が止まる。例の落書きされた頁が開いて置いてあったのだ。強盗団の所為で、爆弾の件をすっかり忘れていたことに、焦る。
「――お前らが爆弾を仕掛けたのか」
自分でも気が付かないうちに、声が出ていた。驚くほどあっさりと、かつスムーズに、疑問が空気の振動に乗っていた。行き場の無くなった炭酸が、音を立てて逃げていくのに似ている。
驚いていたのは、黒も同じだった。一瞬だったが、マスクを装着していても分かるほど、大きく目が泳いだのだ。
「爆弾なんて知らねえよ。早く金を寄こせ」
飛んできた返答は、あまりにも高く可愛らしい声だった。この緊迫した状況に不釣り合い過ぎて、聞いたときに、僕は何が起きたのか把握出来ずにいた。声のした方に首を回すと、銃口がこちらを向いていて、その奥に赤いマスクが見える。そこで、こいつが喋ったのか、とようやく理解する事ができた。赤から出たその口調には、緊張感が全く感じられず、むしろ今の状況を楽しんでいるみたいで、愉快犯という単語が脳裏を走る。
「この店には、爆弾が仕掛けられている。爆弾が爆発するかもしれない……」
「爆弾なんか関係」黒の銃から、カチリと金属が噛み合う音がする。「早くしないと、撃つぞ。それと」黒はレジにある脅迫雑誌を指差すと早口で命令してきた。「ついでに、その本も一緒に詰めろ」
僕は黒いマスクを凝視した。言われるがままに、雑誌もバッグに入れる。
「じゃあ、これも一緒に入れろ」
雑誌と現金の入った、すかすかのバッグを黒に戻そうとしたら、横から何かが割り込んできた。それは漫画本で、赤が銃口越しに差し出している。この光景を見ていた黄と緑も、赤に続けと騒ぎ出し、漫画を数冊寄こしてきた。「俺のも入れろ」「これも入れろ」
レジ台を挟んで、赤、黄、緑のマスクが並んでいる。信号機みたいだなあ、と率直な感想が浮かんできた。三人とも物騒な銃を僕に向けているのだが、致命的な程、威圧感がない。
僕は、四人の顔に視線を送った。八つの瞳、四つの銃口と目が合う。
金と雑誌、漫画数冊を入れたバッグを渡すと、黒は、雑誌を縛るために置いてあるビニール紐で僕の両手を縛ってきた。腰の後ろに手を回し、手首にきつく食い込んでくる。自力では取れそうにない。
「これが鳴るまでじっとしていろ」
縛り終えると、黒は上着のポケットから出してきた、手の平サイズの真ん丸な時計を、レジに置く。目覚まし機能が付いていて、二十分後の十四時にセットされていた。
「あっ! その時計は――」僕たちのやりとりを見ていた、緑が叫んだ。が、すぐに黒が大きく咳払いをして、それを遮る。
その瞬間だった。僕の中で、今日一日、蓄積されてきた違和感や疑問が、一本の道になっていく。爽快な快感で脳が開放される。
仕事の終えた四人の強盗は、互いに頷き合うと、散乱している本を避けながら裏口に向かっていった。誰一人、本を踏むものはいない。
それは、僕の閃きに確信を与えるには、十分な威力だった。
黒を先頭に、間抜けにも背中を見せてそそくさと裏口の方に逃げていく強盗団に向けて、僕は落ち着いた声を張り上げた。
「仕事はどうしたのですか? ――池沢さん」
大きく反応したのは黒だった。びくんと身体を硬直させ、振り向く。信号機もこちらに体を向け、動きを止めた。誰一人として、微動だにしない。静寂が、皆を縛りあげているみたいである。
最初に動いたのは、黒だった。十メートルと離れていない距離から、徐に銃を抜いた。真っ直ぐこちらを狙っている。しかし、銃口の奥にある、黒、いや池沢さんの眼には、明かに迷いの色が窺えた。
「仕事もしないで、何をしているのですか? しかも、中学生までそそのかして、何がしたかったのですか?」
僕は、芝居がかったように呆れて見せた。溜息を吐き、ゆったりと首を振る。本当に呆れていたのだが、知り合いと確信していても、銃口が向けられ威迫されている緊張を、振り払いたかった。
中学生という単語に反応したのか、信号機たちがおろおろしだしている。
その光景を眺めていた黒いマスクの下から、がははと、盛大な笑い声が発せられた。
「良く気が付いたなあ。十四時を過ぎたら、ネタばらしをしようと思っていたんだが、いやはや、陽くんを見くびっていたよ」
「お前たちも、もう取っていいぞ」黒いマスクを外すと、池沢さんの顔が現れた。信号機が、おずおずとマスクを外していく。やはり、信号機の中身は、今朝の悪ガキ中学生三人組だった。三人とも、あからさまに不満そうな、遊びを打ち切られた子供の表情をしている。正体がばれた事に、納得がいっていないようだ。好き勝手に文句を垂れ始めていた。「もう終わりかよお」「うわあ、何でばれたんだ?」「ちぇ、意味分かんねえ」
池沢さんに促され、元強盗犯の四人は、僕の周りに集まってきた。
「なぜ、わかった?」池沢さんは照れくさそうに頭を掻いている。「結構、自信があったんだがなあ」
僕は、頭の中で言葉のパズルを並べ始める。少なからず、まだ混乱と興奮が、思考を妨げているから、整理する必要があった。
「まず、初めに疑問を抱いたのは、強盗犯が本を避けて歩いているのを見たときです。本屋強盗する様な人が、本を大切にするのか? そう、思いました」
僕は、床に散乱した本に視線を向けた。池沢さんが小声で「しまった」と、悔いるのが聞こえてくる。
「人に拳銃を向けるような奴が、本には優しいなんて、しっくりしない感じがしました」
僕は、丁寧に話しながら、池沢さんを観察した。首が傾き、何故、と顔に書いてあるのが可笑しくて、気持が和んでいく。本来の自分に、ようやく再開したという安心感があった。
「次に不審に思ったのは、僕が『爆弾』について話したとき、池沢さんは、『爆弾なんか関係』といいました。関係ない、訳がないんですよ。関係は大有りです。なぜなら、爆弾が爆発すれば、強盗の命も危ない、かもしれないからです。誰でも、自分の命は大切な筈です」
池沢さんの目が見開いた。見落としていたモノを見付けた顔だ。
「では、なぜ強盗犯は、爆弾に興味を示さなかったのか。少し考えたら分かりました。答えは簡単です。爆発しない事を知っていたから、もしくは、爆発する時刻を知っていたんですよ」
「しかも」僕は、四人を順番に目視した。皆、僕の一挙一動に注目している。注目されることに慣れていない為、鼓動が速くなっていく。「その後に、池沢さんは、脅迫文の書かれた雑誌を要求してきました。金以外の物も要求してきた事に違和感はありましたが、それ以上に、落書きされた物を要求したことが不可解でした。あんなものは金にもならないし、棚には落書きされていない製本が置いてあります。普通なら、あんな落書きをされた本なんて、欲しがる人はいません。なのに、強盗犯は欲しがった。僕には、理解に苦しむ行動だった」
一旦、言葉を切り、溜めを作る。
「その時、一つの仮説を思いつきました。爆弾犯と強盗犯は同一人物ではないか」
「あちゃー、簡単にばれちゃたのか」池沢さんが悔しそうな顔をして、笑った。
「僕が鎌をかけたとき、池沢さんはすごい動揺していましたし」
「ああ、あれには驚いたよ。ここで中止にしようかとも考えた」
「そのあとに、なんで雑誌も入れろって言ってきたんですか?」
「それは」池上さんは不器用にはにかむと、躊躇いながら告白した。「正直に言うとな、ものすごく慌てちゃったんだよ。それで頭の中が真っ白になっちゃって。そしたら、この子たちもレジに近づいてくるし、爆弾の事は話していなかったから、その、つい、隠さなくちゃって思ったんだよ」
「そうだったんですか」真相を聞いて、池沢さんに強盗は向いていないな、と思った。
「でもよ、爆弾犯と強盗犯が同一人物だからって、なんで俺だって分かったんだ?」
「それは……その仮説を思い付いたとき、もう一つ別の謎が解けたからです」閃いたのです、というと池沢さんが身構えた気がした。「犯人がいつ脅迫文を書いたのかを考えたとき、一番楽な方法を思い付いたんです。それは、入荷する前に書く、です。店内に商品が並ぶ前に書けば、人の目を気にせず実行できる。それが出来るのは、池沢さんしかいない」
「そうか? 俺以外の奴でもできそうな気がするけどな」
「でも、これだけで池沢さんと決めつけた訳じゃないんです。池沢さんが休みを取っている事がずっと引っかかっていたんですよ。その事を知っていなければ、この答えは導けなかったです」
「へ? 何で俺が今日、有給を使っていること知ってんだ?」
僕は、週刊誌の棚を指差した。「まさかの発売日に完売しちゃったので、取次に電話したら、教えてくれました」
「そうだったか。でも――」
「ねえ、なんで俺たちの正体が分かったの?」
池沢さんが何かを話そうとした時、元赤が割って質問してきた。「俺たち、ばれない自信あったのに」なあ、と元黄と元緑が同意する。
「君たちのズボンに、泥が付いているんだよ。おそらく、サッカーのときに付いた泥が」
各自がズボンのチェックを始めては、無念そうな顔を上げた。池沢さんにいたっては、泥がなんだよ、と因果関係が未だに理解が出来ないらしい。
口には出さなかったが、中学生だと分かった要因は、声変わりのしていない声と纏っている雰囲気だった。さすがに、高すぎる声には無理があったし、十代前半の彼らには根本的に、緊張感が欠けていたのだ。
「なぜ」僕は大きく息を吸い込むと、池沢さんを睨んだ。ここからが本題なのだ。「なんで、こんな事をしたのですか? 僕の昼休みを潰す為ですか?」
どんなに考えても分からなかったもの。それは、動機だった。池沢さんに恨まれる様な事をした記憶はない。それなのに何故?
池沢さんは大きな体を、怒られている子供のように、もじもじさせながら、答えた。
「昼休みを台無しにしてしまった事は謝るよ。すまなかった。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「陽の力になりたかったんだ。ある日、この爆弾と強盗事件を、今日みたいな出来ごとを小説にしてみてはどうかと思ってね。そう考え出したら、口で伝えるよりも実際に体験してもらいたくなったんだ。その方が伝わりやすい」と池沢さんは胸を反らせて、断言した。
「だからってこんな茶番を決行したんですか」僕は全身の力が抜けてしまった。呆れる事にも疲れた。「せめて事前に教えてくださいよ。色々と、準備ぐらいは出来たのに」
「事前に教えてしまったら意味がないではないか。リアリティに欠けてしまう。それこそ茶番だ」
「そうですか。それで、その子たちはどうしたんですか?」僕は元信号機を顎で指した。「知り合いだったんですか?」
「いや、さっきスカウトしたんだ。なんか、陽に不満があるみたいだったから、誘ってみたら、みんなノリノリでさ」強盗四人組が満足げで、誇らしく見えるのが、癪だ。「俺の目に狂いは無かったな」
僕は、池沢さんの思考回路についていけず、そうですね、と適当に頷いた。
それに、と池沢さんは続けた。
「それに、初めは君のお父さんが言い出したんだ。井上さんが話を持ち掛けてきて、俺が実行した」
「父が?」思いもしなかった黒幕を告げられ、戸惑う。「父が、なんで僕に嫌がらせをするんですか」
「そうじゃない、決して嫌がらせではない。むしろ、逆だよ。井上さんは君の事が心配だったんだ」
池沢さんは、父との打ち合わせした内容を話し始めた。
ある朝、店の様子を見にきた父は、池沢さんに相談を持ちかけたという。柄にもなく、お茶でもどうだ、と喫茶店に誘って。
喫茶店に入ると、井上さんはホットコーヒーを、池沢保はミルクを注文した。
飲み物が来るまでは実の無い世間話をしていたが、飲み物が来ると、そのコーヒーを一口飲み、実は、と井上さんは切り出した。
「最近の陽は、何かに怯えている」井上さんは申しわけなそうに口を動かす。「何に怯えているのかは分からなんのだが、それから目を背けるように、一心不乱に働いているように見えるのだよ」
「そうですか? 俺には、井上さんの居なくなった穴を必死に埋めているように見えますけど」
「確かに、陽は頑張ってくれている。私が倒れてからは、色々大変だったと思う。感謝もしている。でもな」井上さんは、一呼吸置いて「あいつは、まだ若い。自分のやりたい事をやらせてやりたいんじゃ。あの時のように」
井上さんの皺が、悲しげに深くなっていく。
「あの時とは、いつですか?」池沢が聞くと、陽が大学を辞めたいと両親に告白したことを、井上さんは嬉しそうに教えてくれた。
「あの時は、子供が成長した姿を見れて、嬉しかった」井上さんは懐かしむように目を細める。「だから、応援してやりたいんだよ」
「わかりました。俺も協力しますよ。要は、陽に小説を書かせれば良いんですよね。書きたいと思わせられれば」
池沢は、その場で思いついた「爆弾と強盗の話」を井上さんに提案してみた。「実際に緊迫した状況に置かれれば、緊張感も出てきて良いと思います。それに、こんなに面白いストーリーを知ったら、絶対に小説として書きたくなりますよ」
井上さんはコーヒーを啜り、やってみるか、と笑った。
「その後の打ち合わせで、客に迷惑を掛けない、商品は傷つけない、騒ぎを大きくしない、その事を守るように井上さんに言われたんだよ」
池沢さんは、父との企みを話し終えると、良いお父さんじゃないか、と僕の肩を叩いた。
父の思いを知り、僕は胸が熱くなる。一瞬でも気を緩めると、様々な感情が押し寄せてきて、号泣してしまいそうだった。人前で泣く訳にはいかないと、全神経で涙を食い止める。
「――ところで、爆弾の場所も分かっちゃったのか?」
よし、取れた、といつの間にか僕の手首を開放していた、池沢さんが聞いてきた。
「はい、池沢さんのくれたヒントでわかりました」僕は手首を摩った。痛痒い。「時計ですよね。今朝、池沢さんに渡された歯車専門雑誌の中に爆弾が入っているんでしょ。僕は、知らないうちに自ら爆弾を店内に運んでいた。しかも、爆弾とすり替えた付録は池沢さんが持っていた、目覚まし時計ですよね。それがあった場所に、爆弾を隠した、というメッセージだったんでしょ」
僕の解答を聞いて、池沢さんの顔は悔しそうで嬉しそうだった。そして、正解だ、という風に、深く頷いた。
「実は、爆弾の隠し場所と脅迫文の文章を考えたのは、井上さんなんだ」
『メインを奪いつつある家の中』とは、雑誌の付録を指していたのか。本のメインとは、活字であって、付録では無い。最近の、『付録で需要を増やす』やり方が、父には許せなかったのかもしれない。
「それから、さっきの推理で一か所だけ間違っているところがある」池沢さんは、人差し指を立てた。「落書きを書いたのは俺だけど、置いたのは俺じゃない」
「じゃあ誰が置いたんですか?」
「俺の嫁さんなんだ」池沢さんは肩をすくめた。「俺が、家で今日の準備をしているのが、嫁さんに見つかっちゃって、私も手伝うって言い出すもんだからさ」
「池沢さんの奥さんが?」
「そうなんだよ。例の雑誌を持ってきた親子が居ただろ。あれが、俺の嫁さんと息子だ」
僕は、歯ブラシを持った息子を抱える母親を思い出す。若くて落ち着いた雰囲気の人だった。あの人が、池沢さんの奥さんだったのか。
「正確には、あの雑誌は店内に置いてなかったんだよ。嫁さんが、客の居なくなったのを見計らって、家から持って来た例の雑誌を陽に見せる事にしたんだ。他の客に見つかると面倒臭いだろ」
そうだったのか。通りで、店内で落書きした人を探しても、怪しい人が出てこなかった訳だ。そんな人物は、初めから存在していなかったのだから。
「ねえ、爆弾が入っている雑誌って、これ? 上から二つ目のが怪しかったから持ってきた」
中学生が、爆弾の入った歯車専門雑誌を差し出してきた。それを受け取る。レジの上で紐を解き、段ボールを開けると、不格好な箱が出てきた。中学生たちが、興味津津でのぞき込んでくる。四角くて大きな弁当箱に見える爆弾は、ずっしりと重く、下手くそなドクロマークが書いてあった。黒いプラスチック製で、裏には小さいアナログ時計が付いている。
「手作りなんだ」池沢さんが照れくさそうに、はにかんだ。「昔、電気回路をいじくるのが好きだったから。これは、3日かかったけど」
中学生が、すげー、かっこいいと、群がってきた。池沢さんも満更でもない顔をしている。どうも、池沢さんの感性にはついていけない。
「これ、爆発しないですよね?」と池沢さんに聞いてみた。
「爆発するよ」
池沢さんはさらっといった。あまりにも自然な口の運び方だったので、僕は幻聴かと思ってしまった程だ。中学生、三人も小刻みに瞬きをしながら、間抜けな顔をしている。
「爆弾なんだから、爆発するさ」と、池沢さんはにやりと笑った。
池沢さんを除いた四人の動きが完全に止まった。本物の爆弾?
つかつかと歩み寄ってきた池沢さんは、僕の手から爆弾を取り上げると、裏の時計をいじりだした。カチチ、カチチ、と金属が噛み合い回転していく音が、やけに大きく聞こえる。徐々に心拍数も上がっていき、自分の鼓動がカウントを数えているみたいに感じてきた。
手の動きを止めると、池沢さんは爆弾をこちらに放ってきた。黒い物体が、弧を描くように、飛んでくる。
僕が慌ててキャッチした瞬間、鼓膜を痛めつける様な破裂音と共に、手の中でもの凄い振動を感じた。僕の手が粉々に吹き飛び、辺り一面に血と肉片が飛び散る。そんな光景が、一瞬、網膜に浮かんだ。
現実は、一面を紙吹雪がひらひらと舞っていて、カラフルな紙片で満たされていた。ぽっぽ、ぽっぽと鳩の鳴き声も聞こえてきた。よく見ると、眠っていた鳩時計の鳩が、鳴いている。文字盤は十四時五分前を指しているのが見え、五月蝿くて時間より早く起きちゃっただろ、と怒っているように聞こえたが、平和な響きだった。
呆然と立ち尽くしている僕を見ていた池沢さんが、がはは、と腹を抱えて大笑いしていた。
「本物だと思ったのか? 俺にはこれが精一杯だ」
回転しながら落ちてくる紙を眺めていると、今日の記憶も一緒に降ってきた。爆弾騒ぎに、強盗団の乱入。最後のオチが、手造りのクラッカーと鳩の鳴き声。急上昇した心拍数とは裏腹に、意外なほど頭は冷静であった。
僕は、赤くなった手首を擦りながら「駄作だな」と呟いた。
【完】
初めて書いた推理小説です。めちゃくちゃな小説にお付き合いいただきありがとうございます。感想など頂けたら嬉しい限りです。
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