1 日常
私は最愛の人をなくした。随分前の話だ。忘れられない。今もこうしてその人から貰った腕時計を大切に身につけている。私は腕時計をつけたその手で、自宅マンションの郵便受けに手を伸ばした。
……東京都杉並区――江木紀恵様
携帯電話の電話代の請求書、デパートのバーゲンのお知らせ、それに……白い手紙。ひっくり返して裏面を見た。
……静岡県清水市――君島彰子
見覚えのある名前だ。それどころかはっきり覚えている。最愛の人“君島直樹”の母親の名前だった。私はその手紙を手に、エレベーターに乗って六階を目指した。
玄関でスエード調の赤いショートブーツを脱ぎ、居間に入った。一番最初に目についたものは縁の白い円い壁掛け時計だった。その時計は三時十分を示している。腕時計を見ると、長い針は、ちょうど12を指していた。そうだった。この時計は遅れている。直樹が死んでから少しずつ遅れていくのだ。
私は時計から目線を離し、クリーム色のソファーに鞄を置いて腰掛けた。さっきからずっと持っている手紙の封を、ペン立てにあったペーパーナイフを使って開けた。中には便箋が二枚入っている。
拝啓
日ごとに冷気加わる今日このごろ、風邪など引いていらっしゃらないか心配です。私はおかげさまで風邪も引かず元気に暮らしております。久しいご無音まことに申し訳ないしだいでございます。
さて、直樹が亡くなってから十年、この節目にご連絡をいたしたくこのお手紙を差し上げました。このようなお手紙を最後に私が出しましたのは五年前、紀恵さんがご結婚なさる前でございます。その後も紀恵さんからお手紙をたくさん頂きましたが、失礼ながら私がお返事を差し上げることはありませんでした。
五年前までは、紀恵さんとお手紙のやり取りができ、私自身本当に嬉しく思っておりました。しかし現在は違うのです。あなたはご結婚なさいました。お子さんもいらっしゃるのでしょう。いつまでも直樹のことを引きずって頂きたくない。傷の舐め合いは止めにしましょう。紀恵さんには幸せになってほしい。これきりお手紙を差し上げることはないでしょう。
お気を悪くされたのならば申し訳ございません。しかし分かって頂きたいのです。
乱筆乱文にて失礼いたします。
何卒お体にお気を付け下さい。
敬具
十一月十二日 君島彰子
江木紀恵様
ショックだった。つまりは直樹のことを忘れろということか。無理だ。彼が死んで、片時も彼のことを忘れることなんてなかったのに。こうやって直樹との繋がりが消えていくことを恐れていた。
私は暫く放心状態で俯いていた。
ふと腕時計を見ると、針は四時五分を指していた。もう四時十五分か……。百合香を幼稚園まで迎えに行かなければならない。私は車の免許を持っていないため、歩いて行く。幼稚園までの道のりはそう遠くないので、あまり苦痛ではない。
私はソファーに置いてあった鞄を肩に掛けて、金属製の冷たいドアノブに手を伸ばした。
百合香が通っているのは、大学まで一貫の私立幼稚園である。所謂“お受験”で入ったのだ。ボロい保育園に預けられ、小中高と地元の公立の学校に通い、大学にも行かずにぷらぷらしていた私には、到底考えられないことだった。
本当に立派な建物だ。門からがっちりしていて、何度行っても入りにくい印象を受ける。レンガ造りの建物の周りには枯れ葉が舞っていて寂しく感じる。私は百合香のいる年少組の教室を目指し、園内に足を踏み入れた。
教室の中を覗いてみる。百合香は数人の女の子とおままごとをして遊んでいるようだ。花柄の布を腰に巻いて、プラスチック製のフライパンとフライ返しでこれまたプラスチック製のハンバーグを調理している。滑稽だ。子どものことでさえこういうふうにしか見ることが出来ない。私はこんな人間だ。
「……あら、江木さん」
先生が私に気付き、笑顔で声をかけてきた。
「あの……迎えに来たんですけど」
「お待ち下さいね。……百合香ちゃーん」
百合香は先生の呼びかけに反応し、“お迎えが来たよ”と言われると、自分のロッカーから荷物を取り出した。自分で上手く着ることが出来ないため、コートを先生に着せてもらっている。彼女はこのコートをかなり気に入っている。パパに買ってもらったウールの赤いコートだ。ポケットにはクマのワッペンがついている。夫らしい趣味だと思う。
百合香は、こげ茶色の鞄を背負ってトコトコとこちらにやって来た。先生も自分の桃色のエプロンを整えながらやって来る。
「さようなら」
「さよなら」
先生が手を振り挨拶をすると、百合香も手を振りながら挨拶をした。私も軽く頭を下げ、教室をあとにした。
「ねぇ、ぱぱは?」
百合香が私と繋いでいた手を離し、自分の両手をたたきながら聞いてきた。またこれだ。彼女はいつも“ぱぱ”の所在を聞く。心なしか、普段から私のことを“まま”と呼ぶことがあまりない気がする。例えば“ねぇ”や“あのね”で済ますのだ。……やはり子どもは感性が鋭いのだろうか。
「……パパはお仕事よ。まだ帰ってないんじゃないかな」
百合香はいつもと同じような私の返答にしょぼんとした顔を見せた。
「……そっかぁ」
まだ五時だ。恐らく帰っていないだろう。だいたい七時頃帰って来る。その時の百合香の嬉しそうな顔といったらない。たまに“ぱぱ”の帰りが遅い時の彼女の不安気な顔は、彼のお土産のケーキで一気に解かれる。
「ぱぱ、はやくかえってこないかなぁ」
百合香が小さな声で呟いた。私はこれを彼女の独り言ととって、特に何も答えなかった。
玄関のドアが簡単に開いた。ロックをきちんとかけたはずだ。黒い革靴……。
「ぱぱー!」
「おおっ! おかえり百合香」
百合香は“ぱぱ”に抱き上げられている。
「あなた……早かったのね」
「ああ。今日は仕事を早く切り上げてきたんだよ」
夫――江木康平は一流電気機械企業――株式会社OPPに勤めている。そのため経済的には不自由がない。おかげでこんな人よりも良いマンションで暮らせているのだ。
「……おお、小島か?」
康平が百合香を自分の腕から下ろして携帯電話で話をしている。下ろされた彼女は、自分よりも随分背の高い父親を見上げている。どうやら相手は同僚の小島らしい。この二人の会話を聞いていると、直樹と鵜飼刑事を連想させる。
「……えっ? でも奥さんが怒るって? ハハッそんなのは関係ないさ」
何を話しているのかは分からないが、私にとってあまり気分の良い話ではなさそうだ。
「……じゃあ。また明日」
康平は電話を切り、下で自分を見つめていた百合香の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「明日、仲間連中と飲んでくるから」
康平は手でコップの形をつくり、酒を飲むジェスチャーをして見せた。
「遅くなるの?」
「あぁ、悪いなぁ。また何かお土産に買ってくるさ」
私の質問に、康平は申し訳なさそうに答えた。彼は本当にいい夫だと思う。娘の面倒もよく見るし、ギャンブルにのめり込むわけでも、女遊びをするわけでもない。ルックスも良ければ、一流企業に勤め私達に一切不自由な思いをさせない。
私が江木康平と出会ったのは、五年前――お見合いでの席だ。このお見合いは両親に勧められてのものだった。三十目前の娘を、早く嫁に出したかったのだろう。この時期両親はしきりに私にお見合いを勧めてきた。あまりにうるさい両親に、私は嫌々お見合いを引き受けた。そしてあれよあれよという間に結婚。康平のような男が、なぜ今まで――三十まで結婚しなかったのか不思議だったが、彼の両親も私の両親も嬉しそうだった。
結婚して五年。娘もいる。幸せを掴んだ。しかし何かが違う。その何かを求めようとすると、脳裏に直樹の姿が浮かぶ。直樹が私の中から消えることは絶対にない。たとえ少しずつだろうが、私が彼を忘れてしまうようなことは絶対に有り得ない。
私はいつの間にか手にしていた白い手紙を、もう片方の手でやさしく撫でた。 |