およそ真っ当な恋愛などできぬと思っていたら、見事に予感が的中した。
クラスで可愛らしいと思っていた女の子に、何故か告白されて、二つ返事で了承したのだが、彼女は所謂、オタクという人種であるらしかった。付き合い始めて三日目にその事実を知った。青天の霹靂というやつだろう。成る程、その日は確かに鬱陶しいくらいに空が晴れ渡っていた。
先述したとおり、可愛らしい。背が低く、華奢で、ころころと表情を変える。先がふわりとカールした色素の薄い髪は、本人は嫌いというが、俺は大好きである。愛らしい。
しかし、オタクである。完膚無きまでに。古今無双、天下無敵、天衣無縫のオタクである。
そもそも、オタクについて説明せねばなるまいか。
広義には、マニアと同じ意味合いを持つ。しかし、狭義になると、あくまで二次元媒体――アニメやゲームをこよなく愛する人間のことを言う。
萌える、という言葉を聞いたことはあるまいか。最早オタクの間では他に説明のつかない言葉であるからして、その説明は困難であるが、端的に言ってしまえば「ものすごく可愛い。俺のツボだ!」という言葉を単語にしたものである。無論、このような説明はあくまで苦し紛れであるからして、オタクの前で同じ説明をしてはならない。オタクに萌えとは何かと尋ねられれば、「萌えとは萌えだ。他の何物でもない」と答えるのがセオリーである。おそらく大半のオタクは然るべき説明など出来ないので、その言葉で納得する。
萌えは属性というものに区分されていて、たとえば人間のモノではなく、猫の耳が生えているアニメの少女を好む者は「ネコミミ属性」と呼ばれる。また、ネコミミ美少女本体をさしてネコミミ属性とも称する。メイド好きならばメイド属性。ニーソックス好きならばニーソ属性と言われる。順に挙げていけば枚挙に暇がない。これはあくまで男のオタクについての説明であるが、女性とて似たようなものであり、求める属性に差異があるだけである。厳密に言えばまた違うらしいのだが、考えるだけ気分が滅入るだけなので、敢えてそこまで知ろうとはしていない。
彼女は確かに可愛らしい。裸を拝んだことはないが、どうやらスタイルも良いらしい。だが、オタクである。まごうことなく。驚くほどに。
金曜日の帰りに必ず寄る喫茶店で出てくる内容はアニメについて。日曜のデートの最中はゲームについて。密かな憧れであった恋人と下校というシチュエーションも、彼女が現在書いている小説の説明が大半を占めた。理解ある恋人を求めた結果、理解ある恋人になってしまったらしい。
何も知らない友人は羨む。確かに取り立てて長所のない男に、少し風変わりだが気立ての良い、可愛らしい少女が好意を寄せているのだ。まさに知らぬが仏。知らないほうが良いことというのは、案外多い。
恋愛感情というものを上手く把握できないが、彼女に恋をしているという意識はそれなりにある。微笑んだ表情は見惚れるほどに可愛いし、照れて目線を泳がせた時など、いじらしくて抱きしめたい衝動に駆られる。否、実際抱きしめたこともあるのだが。
それでも、彼女はオタクなのだ。この前貸してくれたCDにはアニメソングが十五曲ぎっしりと詰まっており、おまけにそれぞれの曲に関する感想のメモ書きが添付されていた。ちなみに、頭が悪くなりそうな素っ頓狂な歌にまで律儀に感想がつけられたそのメモは、大切に俺の机の中に保管されている。疲れた時に見ていると、何故か気分が軽くなるのである。苦笑も漏れるが。
また、携帯電話のメールを見ると、送信元の大半が彼女の名前で占められている。だが、あまり恋人らしいとは言えぬ。先日、好みの女性を訊ねられてドキリとしたら、オチは小説のネタにするのだという。夜中に赤面しつつ『君が俺のタイプだろうか』という短文を送った時の、あの高揚感は、返信と共に儚く霧散した。
趣味というのは人それぞれであり、仕事同様貴賤のあるものではないと思う。陶芸や詩作は立派な趣味であり、同時に道楽とも言える。だが、アニメ鑑賞及び、その関連商品収集は道楽とは呼べても、立派な趣味とは口が裂けても言えない。
だが、やめろとも言えない。彼女がアニメについて語る様は実に楽しそうで、真摯である。そのときの笑顔は魅力的であり、俺の大好きな顔なのだ。それに、彼女が一度漏らしたことがある。オタクをやめたら死んじゃう、と。恋人を死の淵に追いやる真似など出来るはずもない。
俺なりに、実に真面目に恋愛をしているつもりである。彼女の言葉によく耳を傾け、俺も彼女に色々なことを言う。アニメやゲームの話を聞いて、その日の出来事や、俺が好きな映画の話をする。俺は彼女の話を熱心に聞くし、彼女も俺の話を熱心に聞いてくれる。彼女に勧められて、アニメを鑑賞したこともある。ドラえもんではない。深夜に放送している、女ばかりがよく出てくるアニメである。勧められたゲームもプレイした。ノベライズゲームと言われるゲームである。感動的な話であったが、エロティックなシーンが後半に挿入されていた。ますます謎は深まるばかりである。恋人にエロティックなゲームをさせようとするだろうか。誘っているのか。それともこれで我慢しろと言う暗黙のおあずけなのか。謎は深まる一方である。
物思いに耽っていると、不意に呼び鈴が鳴った。今日は日曜日で、たまたま家族が出払っているのを機会に、彼女――麻子を家に呼んだのだ。
「こんにちは」
玄関で出迎えると、麻子は屈託のない笑顔で挨拶をした。付き合って二ヶ月。初めて恋人の家にやってきたとは思えない、天真爛漫な笑みである。少し恥じらう姿を想像していただけに、毒気を抜かれたような気分である。
「おう、上がれよ」
「ん、お邪魔します」
麻子は行儀良く靴を並べて上がり、どこが響貴の部屋なの、と尋ねた。響貴とはは俺の名前だ。いきなり俺の部屋に来るつもりらしい。
「二階の奥。案内するよ」
部屋は昨日の内に片付けてある。積極的なのか、何も考えていないのかわからぬ麻子に戸惑いを覚えながらも、部屋に案内した。
「へえ、綺麗にしてるんだね。私の部屋なんかもう、大変。パソコン周りなんかぐちゃぐちゃだし、本棚も本が収まりきらなくてさあ。あ、この前書いた小説、読んでくれたかな?」
俺は無言で頷き、ファイルにとじていたB5用紙の束を取り出した。麻子がパソコンで書いた、恋愛小説である。
麻子の小説は、扱う題材さえ特異でなければ面白いと思う。文章も上手いし、登場人物の機微など、プロ並みだと思う時すらある。ただ、何故か男同士の恋愛なのである。当然のように男同士が惹かれ合う。お互いの気持ちを知りたくて不安にになることはあっても、同性であることの悩みなど無い。何故かそこだけが欠落している。訊くと、そこはお約束なのだと言う。こんな無茶なお約束があってたまるものか。
「やはり、俺などではなくて、オタク仲間に読んでもらった方がいいと思うのだが」
「こういうの、やっぱり駄目かな」
「駄目というわけでは。いや、良いとか駄目とか言う前に理解が出来ない。俺とて小説ぐらい読むが、恋愛はやはり男女で行うものだし、間違っても相手の了承無しに押し倒したりしない。ましてや、それで結ばれるのは、ありえない」
「オタク向けだからねえ。響貴には無理があったかな、ごめんね」
「いや、俺こそ力になれずにすまん」
いっそ、俺がオタクならば。二次元について熱く語り合えたら、もっと麻子と距離を縮めることが出来るだろうに。
……いや、なんか間違っている気がする。主に考える方向性が。
「じゃあさ、コレ観ようよ。一緒に観たくて借りてきたんだ」
麻子はそう言うと、鞄からDVDを取り出した。タイトルは――実写版ときメモと書かれている。途方もなく危険な代物であるのは俺の気のせいではないはずだ。何故、俺と一緒にこんなものを観たがるのだ。
「実写版ルパンよりはマシらしいよ」
それが理由でないことを祈る。
それから、幾週か過ぎた頃である。麻子からデートの誘いがあった。
「イベントに行くんだけど、来ない?」
イベントとは何ぞやと思う前に行くと答えた俺も阿呆だが、イベントの会場に着いたとき、誘った麻子も阿呆だと思った。イベントとは通称で、正式名称は同人誌即売会というらしい。場内はオタクだらけであり、時折妙な格好をしたオタクもいる。よく見ると、漫画のキャラクターの服装である。麻子に尋ねてみると、コスプレというものらしい。大半は見るに耐えないということも聞いた。
体育館ぐらいはあるだろう、広い会場はオタクで埋め尽くされていた。長机が並び、その上に薄っぺらい本や、グッズが並べられてある。最初はその規模と熱気に驚いたものだが、まだこれは小さなイベントであるらしく、夏と冬に、コミケという全国からのべ何十万人というオタクを集めるイベントがあるらしい。日本で一番金が動くという麻子の言葉も、あながち冗談には聞こえない。
麻子は、その小さいイベント会場を嬉々として巡り、たまに長蛇の列に並んだ。なぜか並べられた本は異様に薄く、高価であり、二十頁ほどで五百円もした。麻子は良心的と言っていたが、俺には狂気の沙汰に思えた。
一応、最初は麻子について回っていた。嬉々とした麻子の笑顔は、オタクの群れの中でも魅力的であった。だが、明らかに場違いなところで連れ回された結果、あえなく俺はへとへとになり、ほうほうのていで抜け出し、近くにあったベンチでへばっていた。
会場を眺めると、オタク達は実に元気よく動いていた。長蛇の列に押し合いへし合いしながら並び、コスプレイヤーの周囲ではカメラを構えたオタク達が一心不乱にシャッターをきっていた。麻子は、こんな世界の人間であるらしい。恋人の趣味に影響を受けて、新たな趣味が開花するという話を聞いたことがあるが、どうやら俺はオタクにはなれないらしい。嫌悪感はないが、あの中に飛び込んでゆく勇気もない。ましてやそれを楽しむことなんてできやしない。
「まいった」
思わずひとりごちる。俺がオタクであれば、と思う。
もし俺がオタクであれば、麻子と一緒にこのイベント会場を巡り、趣味の会話に花を咲かせて、何も迷うことなく楽しめたであろうに。俺が、オタクでなかったばかりに、麻子が楽しそうに喋る言葉の意味が、半分もわからない。この会場の人間が、羨ましいと思えるほどである。そういえば、麻子と共通の話題など、何一つないではないか。俺は、麻子には、相応しい男ではないのかもしれない。オタクでない俺は、麻子と碌な会話もできやしない。
「やっぱり、駄目かな。こういうところ」
ふと我に返ると、いつの間に抜けてきたのか、麻子が隣に腰を下ろしていた。心配をかけてしまっているらしい。ますます、俺は駄目な男だ。
「すまん。やはり、全然駄目だ」
正直に言う。物事に正直なのは、こうなってしまった俺の、唯一の取り柄であった。この場合、むしろ短所にもなりかねないが。
「ごめんね。今日はここに来るって決めてて、でも響貴と一緒にいたかったし、名案だと思ったんだけど。やっぱり、駄目だよね。ごめんね」
麻子は申し訳なさそうな顔をして、俺の頭を二度撫でた。その感触が心地よくて、少しだけ麻子にもたれかかる。麻子は、苦笑して何度も俺の頭を撫でてくれた。たまたま目の前を通り過ぎていったオタクが、白い目でこちらを見ていた。知ったことか。俺は今、ようやくデートらしいことをしたまでだ。デートのつもりで来たのだから、何も不都合はあるまい。
「ごめんね、こんな彼女で」
頭を撫でながら、麻子はポツリと呟いた。
「ごめんね。趣味が充実してないと、我慢できないっていうのかな。響貴のことは好きだよ。けど、ごめんね。それだけじゃ私、なんだか物足りないんだ。ごめんね。我侭で」
「かまわない。謝ることでもない」
そう、別に全然かまわない。少々趣味が特殊で、その存在が大きいだけだ。そういう性分なのだから、しょうがない。俺は、そんな麻子に惚れたのだ。文句を言う筋合いなど、どこにある。
「だが、そうだな。俺の我侭も一つ、聞いてくれるか」
ただまあ、これだけじゃ俺も少々寂しいわけで。
「今日は、ずっと手を繋いでいたい。とことん付き合うから、離さないで欲しい」
「へ?」
麻子はぽかんと口を開けた。よほど意外な言葉だったのだろう。だが、すぐに麻子は小さく笑って、それいいねと言った。
「響貴が我侭言ってくれるの、初めて。なんかね、嬉しいよ」
麻子はそう言うや否や、ぱっと俺の手を取って、オタクの群れの中に突っ込んだ。
「あのサークルは、すっごい良い話を書くんだよ。絵も上手いし、お気に入りなんだ。でね、その隣のスペースの人は、オリジナル小説で『青空ぱんつ』っていうのを出してるんだけど、これも面白いんだ。あ、ちょっとストップ。この本、すごく面白そう。チェックするね」
目をキラキラさせながら、麻子は実に楽しそうに喋る。まるで子供だ。よほど嬉しいらしい。
こんな麻子を見ていると、もうなんだか周りのオタクも、麻子がオタクであるかどうかも、全部どうでもよくなってきた。麻子は可愛くて、愛らしい、俺の彼女である。
「――ああ、なるほど」
こんな場面になって、やっと気付いた。
俺は、気にしすぎていたのかもしれない。麻子がオタクであること、俺がオタクでないことを。
別に、そんなことは関係ないのだ。俺と麻子は好き合っていて、趣味は共有できなくても、時間を共有することはこのとおり、できるのだから。
「麻子」
隣にいる、恋人の名を呼ぶ。同人誌を小脇に抱えて、グッズを物色している最中であった。
「どうしたの?」
麻子は笑顔を俺に向けてくれた。屈託のない、楽しそうな笑顔を。
「いや」
少し迷って、それから意を決めて、麻子の手をしっかりと握りなおした。そして――
「好きだ」
俺らしく、場違いな台詞を口にした。 |