夜の9時だというのに、彼女はサンドイッチと牛乳を買っていた。
大抵の人が一日の疲れを体中から滲ませている時間に、洗い立ての香りを漂わせている彼女の存在は、この駅に通じる暗い地下街には似合わない。
あと3分で家の玄関・・という所にあるコンビニのレジで、支払いを済ませた直後に携帯が鳴ったのだ。
クレームの電話だった。
頭なんか下げたくもないのに、ペコペコしている姿がガラスに映る。
今は、それを情けないと思うよりも、温めてもらったばかりのホカホカの中華丼を持って、会社に戻らなくてはならない・・という状況に対して無性に腹が立った。
小学校の夏休みに作った人生の予定表では、今頃は南米のジャングル辺りを探検している筈だったのに・・。
小さい頃からの夢を叶える為に、わざわざポルトガル語科のある大学を選んで入学したところまでは順調だった。
どこで踏み違えたのか、夢はおろか語学力を生かす仕事に就く事も出来ずに、こうして家路を急ぐ人波に逆行しながらクレーム処理をする為に、夜の9時に暗い地下街を会社に戻る為に歩いているのだ。
会社に着く頃には中華丼は冷め切って、袋の中で凍えているに違いない。
地下街の・・それもシャッターを下ろしかけたパン屋で、彼女を見つけるまでは全ての事が無意味に思えていた。
こんな時間にサンドイッチに牛乳・・なんて、他の人から見たら可笑しいわよね。
でも、私の一日は、始まったばかりだもの。
受験に失敗してから、私の人生の時計は狂いっぱなし。
語学に自信があったから英文科に通って、外資系の会社に就職して・・・上手くいったら海外勤務・・・というのが夢だった。
結局どこも落っこちて、専攻出来たのはポルトガル語。
でも、夢の半分・・いや、三分の一だけは叶ったというべきかもしれない。
外資系の会社には就職することが出来たのだから・・。
でも、12時間の時差があって、日本の昼間は向こうの夜。
人と人とのコミュニケーションを妙に大切にするお国柄のせいで、日本に居ながら、海の向こうの国の時間に合わせて生活するはめになってしまった。
せっかく日当たりの良い部屋を借りたのに、ベランダで陽を浴びて青空の輝きを享受しているのは洗濯物達だけ。
友達とランチをしたり、ショッピングに行ったりするのも無理。
合コンなんて、夢のまた夢。
すれ違いざまに、彼女の溜息と僕のモヤモヤが入り交じって一つに重なった。
今では、二人並んで夜の8時に朝食・・という生活を楽しんでいる。
夜中の12時に、東京の夜景を見下ろしながら食べる彼女の手作り弁当は実に美味い。
地球の裏側の時間に合わせた奇妙な生活も、二人だと案外楽しいものだ。
目下の悩みは、夜の9時から子供を預かってくれるような保育所が無い事。
見つからないと、いつまでたっても子供を作る事が出来ない。
「いっその事、海を渡って子供を作る?」と、彼女が笑った。
子供の頃からの夢を叶えてみるのも、悪くないかも知れないね・・と、僕は笑い返す。
窓の向こうで、東京タワーが赤く瞬いた。
おわり
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