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ライブラリ
作:トカゲ



ヒーロー


 「サンタを捕まえたんだ」
 夏の日の午後。空港からの帰り道、警察官の父が、突然そんな事を言った。嬉しそうに、自慢気でさえ有った。
 「そんな、カブトムシじゃあるまいし」
 苦笑する他無い。父の表情は、まさに、カブトムシを捕まえた少年のそれだった。その後で父は、「カブトムシは最近捕まえられないんだ」と悔しそうに顔を歪めた。
 「サンタは捕まるのにね」
 言いながら、私はサンタクロースの姿を思い浮かべる。赤い服に、白いひげ。でっぷりとした肉体は朗らかでは有るが、威圧感は無い。子供の、ヒーローだ。
 「サンタや泥酔した中年なら、簡単に捕まるのにな」
 父は、寂しそうだった。時代は変わった、と言いたげな様子だ。
 「で、そのサンタさんは、何をしたわけ?」
 警察官に捕まるという事は、何かをしでかしたのだろう。
 「プレゼントを配ってた」
 「プレゼント?」
 それは、サンタの在るべき姿だと思われた。が、続けて父は、こう言った。
 「だけど、今は時代が時代だ。真夏に現れたサンタは歓迎されない。それで捕まえる羽目に成った。まぁ、注意だけで終わったけど。変わった子だったな」
 奇跡の実現。それが、そのサンタに扮した二人組みの、その内の一人の、少年の目的だったらしい。「真夏にサンタが現れたら、奇跡だろ」少年はそう豪語して、警察を困らせた、らしい。
 「随分、エキセントリックな子だね」
 「子供じみていると言えば、それまでだが。必死に見えた」
 父は、その少年を弁護している様だった。その様子に、私はハッとする。
 妹の事を思い出した。父も、思い出している違いない。
 妹といっても、私と年は離れていない。一卵性の、双子の妹だ。そして、もう一つ言うなれば、今はもう居ない。あの子が死んでから、もう七年が経っている。
 サンタ。妹。二つの言葉が互いに混ざり合い、突然目の前に、過去の情景が展開された。
 クリスマスイブの夜だ。妹も、サンタを捕まえた事が有るな、と思い出した。

 「サンタ!サンタ!捕まえた!」
 妹の叫び声に、私は飛び起きた。何事だ妹よ。私は眠い眼を擦って、立ち上がる。そして、妹が、サンタの足に必死にしがみ付いている姿を目撃した。確かこの時は、私が何かの拍子で、「サンタの正体はパパ」という事に気付いていて。妹は「サンタは実在する」と信じていた時期だ。
 父は、しっかりとサンタの衣装に身を包んでいた。万が一、私達が眼を覚ました時の事を考えた扮装だったのだろう。ただ、流石に、捕まるという事態は想定していなかった様で、狼狽している事は明らかだった。その姿を見て、私も慌てた。
 「サンタ!サンタ!」
 正体がばれる事を恐れたサンタは、かなり強引だった。「うおー!」と叫びながら、力ずくで妹を引き離そうとしている。が、妹の小さい身体のどこにそんな力が有るのか、妹も離れなかった。「うぉおお!」と叫び声まで出している。どちらかと言えば、妹の方が迫力が有った。
 私はどうしたら良いか判らず、悲鳴を上げた。クリスマスイブの夜。私の家は、悲鳴と絶叫に埋め尽くされた。
 結局、サンタは妹がベッドに倒れこんだ隙に、プレゼントを置いて走り去っていった。その後で父が、「サンタが慌てて逃げていったが、何が有った?」と極自然な仕草で部屋に戻ってきたのだが、その時の演技は、そこそこ賞賛しても良い。
 「逃げられちゃった」
 妹が、悔しそうに言う。
 「そりゃ、あの迫力で足にしがみ付かれたら、誰だって逃げるよ」
 私はなるべくやんわりとそう言った。強盗だって逃げそうな迫力だった。
 「お願いが有ったのに」
 口を尖らせる妹に、私は、「プレゼントは一人一個だよ」とお姉ちゃん風を吹かせた。ただその後で、妹が「プレゼントなんて」と言いながら泣き始めたので、私は狼狽する。
 一体何のテレビ番組を見たのか。妹はサンタに、「絶滅していく動物を救って欲しい」とお願いするつもりだったらしい。「油に塗れて飛べなくなった鳥に、もう一度空を」「飢えた熊に、食べ物を」そうも言うつもりだったらしい。
 父は、唖然として。それから、突然顔を綻ばせ、「俺から、ちゃんとサンタさんに話しておいてやるから」と無責任極まりない台詞を放った。「サンタとは、マブだ」と似合わない台詞も吐いた。
 一方で私は、サンタ、つまりパパに頼んでおいた、魔女っ子の変身セットを見て、頭を抱えていた。これは、私の負けじゃないか?そう思った訳だ。

 そんな妹と私も、高校生に成った。自分で言うのもなんだが、私は成績優秀で、三年生の時には、生徒会長にも任命される様な優等生だった。一方、妹は出席日数すら危うく、再試再試と休みの日にも学校に顔を出す、そんな有様だった。
 妹は決して、素行が悪い訳ではない。授業中に机の上に足を置いたり、煙草を吸ったり、暴走族と付き合ったり、などという様な真似は、決してしない。
 「夢の中に、ジョン・トラボルタが出てきまして」
 「え?」
 「ジョン・トラボルタが、絶滅に瀕したトドを守るのが、私の運命だ。と教えてくれました」
 「え、え?」
 「と言う訳で、私はちょっと北に行かねば!」
 妹は一週間帰ってこなかった。何故、ジョン・トラボルタだったのか、何故、トドだったのか、因果関係は全く不明だが、とにかく、その時の妹には、使命を与えられた英雄特有の凛々しさが染み出していた。呆気にとられて、間抜け面をしている私に止められる筈が無かった。
 「トドって、どこに居るんだろう」
 帰ってきた妹は、開口一番、そう言った。
 当然、私は怒った。普段、滅多に怒らない父や母も、顔を真っ赤にして怒った。学校にも行かず、トドを救う旅に出るとは何事だ。どれだけ心配したと思っているんだ。トドと学校、どっちが大事だと思っているのだ。そんな感じに、怒った。
 「トドに決まってんじゃん」
 妹は、一歩も退かない兵隊の様な態度でそう言った。
 「おかしいと思わない?今、地球でどれだけ多くの動物が絶滅の危機に有るか、知ってる?人間が不況だ、好景気だと騒いでる内に、どれだけ多くの動物が、人間の所為で苦しんでいるか、考えた事が有る?」
 今にして思えば、妹は必死だったのだろう。そして、本気だったのだろう。
 「それは、運命みたいなものだから」
 私は妹を諭す為に、そう言った。冷静に考えれば、酷い台詞だ。動物達の前で口走った日には、世界中の動物達が一致団結して、私を襲いに来てもおかしくない。
 「運命は変えられる」
 妹の台詞は、今でもはっきりと覚えている。妹の、真剣な眼差しも、目に焼きついて離れない。
 「奇跡でも起こらなきゃ。無理だよ」
 「それなら、私は奇跡を起こしてみせる」
 それから妹は、「奇跡が起これば、運命を変えられるんだ」とぶつぶつと呟いて、部屋に戻っていった。こんなに心配しているのに。勝手にしろ。私は不貞腐れて、折角帰ってきた妹と、二日は口を聞かなかった。あれが、最初で最後の喧嘩だった。
 妹は、いつだってそんな調子だった。「犬と遊んでまして」と学校をサボったり、「猫と一緒に寝てまして」と、再試を休んだり、「近所の子供と遊んでまして」と再々試を休んだり。自由人というか、風来坊というか。とにかく、私は、そんな妹が羨ましかったのも事実だ。
 妹は、身近に居る誰よりも自由だった。

 妹が死んだのは、高校三年生の時だ。私が、生徒会長に任命されて、相変わらず成績も良く、「人生というのは、順風満帆だなぁ」と感じていた時だった。
 妹は、犬を助ける為に道路に飛び込んだらしい。医者にそう説明された時、私は然して驚かなかった。むしろ、あの子ならやりかねない。とさえ思ったくらいだった。
 ただ、問題なのは。道路に飛び出した犬も、結局死んでしまったという事だ。妹は後一歩で届かず、死んだ。犬と一緒に。悔しかっただろうなぁ。と私は涙した。妹は、犬を救う為に飛んで、再々々試すら棒に振った。
 涙ながら妹を見て、私は、妹と交わした最後の会話を思い出していた。
 「お姉ちゃんが羨ましい」
 それは、私が常日頃から妹に対して思っていた事なので、少なからず驚いた。
 「私も、アンタが羨ましいよ」
 「それならさ」
 と、妹が言う。
 「一回、入れ替わってみようか」
 妹よ、何を言い出すのだ。と私は顔をしかめた。
 「ダメかな」
 「ばれるに決まってるじゃない」
 「本気でやってみれば、意外とばれないものだよ」
 経験済みだから、と言いたげな口調だった。
 「いつかばれるに決まってる」
 そう言うと、妹は不安そうな顔をした。泣き出しそうだったのかもしれない。

 「私の嘘も、いつかばれるのかな」

 妹の嘘とは、なんだったのだろうか。私は、父が運転する車の中で、そんな事を考えていた。窓の外の景色を眺める。久しぶりの故郷だが、ビルの森に郷愁は感じない。
 大勢の人が、信号に引っかかって億劫気な顔をしているのが見てとれた。その上を、自慢気なカラスが横切る。鳥は良いな。そう思いながら、果たしてこの中に、犬を助ける為に車道に飛び出せる人間が、何人居るだろうか、とも考える。多分、零に近い。
 今度は車が信号に引っかかって、ちっとも前に進まなくなった。代わり、とでも言う様に、人々が歩き始める。
 父が、「サンタだ」と言ったのは、その後直ぐだった。「え?」と私は、聞き返す。
 「ほら、あそこ、あの、コンビニの前を歩いている奴。ちょうどこっちに向かってきているな」
 「どこ?」
 どこを探しても、サンタは居なかった。
 「あの、こっちに向かってくる、若い男が居るだろ。黒い服の」
 確かに、父の言うとおり、それらしい男は居た。ただ、どう見てもサンタには見えない。
 「あいつが、捕まったサンタの片割れだ。偶然の再会だ、奇跡だよ」
 愉快そうに父が手を叩いた。私は眉を潜める。何を言っているのだ、父よ。大丈夫か。と要らない心配もした。
 それから、父が突然ウインドウを開けて、大声を出した。
 「おーい!」
 「ちょ、父さん!」
 変な奴とは関わるなよ。子供の頃、私や妹にそう言い放っていた父が、今正に、それを実践していた。いや、父こそが、変な奴かもしれない。
 程なく、男はこちらに気付いて、向かってきた。手を上げながら、嬉しそうに笑みを浮かべている。
 「あ、どうも。こんにちは」
 「やぁ、奇遇ですな」
 父も、嬉しそうだ。
 「今日は、サンタをやっていないのですかな?」
 言葉に、男は苦々しく頭を掻いた。勘弁してくださいよ、と照れくさそうだった。
 「その節は、お世話に成りました」
 意外にも丁寧な男だった。年は、私と同じくらいだろうか。とてもではないが、この真夏にサンタの扮装をして世間を騒がせ、挙句の果てに逮捕される様な無軌道な男には見えない。
 「どこかに向かう途中ですかぃ」
 父は、馴れ馴れしかった。仮にも、警察官と前科者ならば、もっと大きな溝というか、心に聳える壁というか、とにかく、付き合い始めのカップルの様なぎこちなさが有るべきに思えたが、二人は、まるで長年の友人の様に話をしている。
 「えっと、まぁ。いつも通ってる喫茶店に向かう途中だったんだけど……なんというか、住み慣れたと思ってる街でも、一本道を変えただけで訳が判らなくなるものだなぁ」
 つまり、迷子か。と私は呆れる。
 「《ライブラリ》?」
 父が、そう指摘する。男が、そうです、と頷いた。
 「それなら乗っていくと良いよ。道すがらだから、乗せていこう」
 「父さん。『知らない人に付いていっちゃいけない』って言うのは、警察官の殺し文句じゃなかったっけ?」
 「見知った仲だ。警察と、前科者だぞ?旧友みたいなものじゃないか」
 ああ、そうですか。私は呆れる他無かった。

 サンタ男が車に乗り込んできて、私の顔を見て、ハっと息を呑むのが聞こえた。
 「娘だ。さっき、アメリカから帰ってきたばかりなんだ」
 父が私の代わりにそう説明した。私が自己紹介をしようと頭を下げる前に、男が、
 「嘘だろ」
 と、呟いた。それから急にまごついて、口をパクパクと動かしている。「嘘だろ」ともう一度呟いた。
 何が嘘なのだ。と私は不満に思う。そうこうしている内に、男が、
 「ひ、久しぶり」
 と、照れた笑みを浮かべる。まるで、古い恋人に偶然再会した男の様な仕草だった。しかし残念ながら、私にサンタの知り合いは居ない。
 「俺を覚えてないか?」
 「え」
 私は、記憶の箱をひっくり返し、目の前の男をジっと見つめる。言われてみると、どこかで見た顔かもしれない。いや、スマップのメンバーの顔も覚えきれない私の記憶など、当てには成らないかもしれない。
 「えっと、ごめんなさい。どこかで会ったかしら」
 正直に、そう言った。残念ながら、やはり全く記憶に無い。男が肩を落とした。「まぁ、当然かもな」と自嘲気味に笑う。
 「なんだ、知り合いか?」
 父が、前を見たまま言う。ニヤニヤと、薄ら笑いを浮かべているのが見てとれた。
 「高校が一緒だったろ。隣のクラスに、俺みたいな奴が居た記憶は無いか?」
 覚えが無かった。高校の同学年など、殆ど思い出せない。ましてや、クラスが違うのなら尚更だ。
 「小西君?」
 適当に、言った。小西という男が居たのかさえ、覚えていない。男は「誰だよそれ」と苦々しい笑みを浮かべて首を振った。
 「まぁ、覚えてないなら良いんだ」
 そんな事を言われると、尚更誰か気に成るじゃないか。と、私は負けず嫌いを発揮する。
 「判った。大西君だ」
 「残念、外れでした」
 何故か父が、嬉しそうにニヤニヤと笑っているのが気に成った。
 「父さん、どうしたの?」
 「いや」
 と、父はやはり前を向いたまま、
 「あの子の事を思い出してたんだ」
 あの子、というのが誰の事か、考えなくても判った。妹だ。その瞬間、私は背筋に冷水を流されている様な居心地の悪さを覚える。
 「あの子は、嘘が嫌いだったよな」
 父が何を言っているのか判らないまま、私は「そうだね」と呟いている。
 「だから、いつまでも嘘を続けているあの子が、可哀想で仕方無かったんだ」

 「それじゃ、お二人さん。父はちょっと用事が有るから。―――そうだな、二、三時間で戻るよ。適当にお茶でも飲みながら待っててくれ」
 「どこに行くの?」
 「此処ではない何処かへ!」
 父は、私とサンタの男を《ライブラリ》という喫茶店の前で降ろすと、そのままどこかへ走り去って行った。私は呆然としたまま遠ざかるエンジン音を聞いている。どうしろというのだ、父よ。
 「君のお父さんは変わってる」
 「確かに、ちょっと変かも」
 真夏にサンタの格好で捕まる貴方も、十分変だけど。とこっそりと思う。それから、古ぼけた喫茶店に眼をやる。お洒落なカフェには程遠い、古びた喫茶店だ。
 「とにかく、お茶でもしようか。君が覚えて無くても、俺には積もる話が沢山有るんだ」
 男は、楽しげにそう言って、そのままの足取りで喫茶店に入ろうとした。
 「言っておくけど。ここから愛が始まるとか考えないでね」
 私は釘を刺すつもりで、そう言った。相手が糠なら、今度は叩くまでだ。べたべたな恋愛に、私は興味は無い。「それを言っちゃあ」と男が頭を掻いて、そのまま喫茶店の中に入る。ベルの音がした。仕方が無く、私も後に続く。
 涼やかな風が、頬を撫でた。室内は若干暗く、煙草の匂いがした。ジャズが流れている。茶色い壁が、眼に写った。どちらかと言えば私は、喫茶店よりも、壁が白くてデザートが甘い、カフェの方が好みだ。喫茶店というものは、物憂げな中年達の溜まり場だと思っている。
 店内は、閑散としていた。奥に、赤い髪の男がこちらに背を向けて座っているのが眼に入った。ついで、手前の席でアイスコーヒーを飲んでいる、無精ひげの男が居る。アイスコーヒーが旨そうだな、となんとなしに思った。
 どうやら、開いている席に好き勝手に座って良いらしい。男は慣れた動作で椅子に座り、私も向かい合う様に座った。程なく、店員が水とメニューを運んでくる。
 「どうも。―――ン。恋人さんか」
 美人で、ぶっきらぼうな店員だった。睨む様な吊り眼は、西部開拓時代の保安官を思わせる。いや、だが、それでも美人なのだ。西部開拓時代の保安官と美人は、矛盾しない。女の私が言うのだから、間違いない。
 「いや、残念ながら」
 男は本当に残念そうに言った。店員の女性は一言「そうか」と気って捨てただけだった。最初から余り興味が無かったのかもしれない。それから、
 「この間は、本当に悪かった」
 と、突然頭を下げた。男がうろたえ、私も何故かうろたえた。
 「いや、あれは。別に灰音(はいね)が悪い訳じゃ」
 「何か有ったの?」
 私が聞くと、男が、んー、と唸った。
 「まぁ、色々と」
 色々、と言われると詮索したくなるのが私の性格だ。「色々って?」と私は聞く。
 「お父さんから聞いてないか?」
 そこまで言われて、察しが付いた。
 「もしかして、サンタの?」
 「そう、まさしく。俺と灰音が、世間を騒がせて御用に成ったサンタだ」
 若干の照れと、誇らしさがまぜこぜに成った複雑な表情を男が作った。
 「そう、そして、灰音はまさしく、私の弟だ」
 店員が悔しそうに言った。
 「奇跡を起こす為に?」
 私は、そう聞いていた。そして咄嗟に、妹の事を思い出していた。「奇跡を起こす」それはまさしく、妹の台詞だ。「奇跡を起これば、運命を変えられるんだ」そうも言っていた気がする。
 「我が弟ながら、アイツの考えている事は判らない」
 「まぁまぁ」
 男が、やんわりと店員をたしなめていた。この様子を察するに、どうやらかなりの常連らしい。上級者だ。
 それから、男はブレンドの珈琲を注文し、私はウインナー珈琲を注文した。

 殆ど見も知らない男に、「実は俺達、付き合ってたんだぜ」と言われる事程、不気味な事は無い。私は露骨に顔をしかめて、椅子を少しだけ引いた。
 「いや、別にだからどうこう言う訳じゃない。覚えてないみたいだし、別にもう良いんだ。ただ、そんな事も有ったなと思って」
 「私が?貴方と?本当?」
 「本当だよ。俺達は、付き合ってた。―――まぁ、たった三日間だけだったけど」
 言われて、私は自分の高校生活を思い出す。確かに、私は大勢の男と付き合った。その中に、一人二人くらい、全く記憶に無い男が居てもおかしくはない。別に「愛に飢えていた」だとか、「理想の人を探している」だとか、そういった理由ではない。ただ単に、折角意を決して告白してくる男を、むげに断る事が出来なかったのだ。告白してくる男と片っ端から付き合って、直ぐに別れた。それの繰り返しだった。
 いや、それにしても、
 「三日……凄いね」
 自分の事ながら、感心してしまう。
 「まぁ、君にも事情が有ったから」
 男は訳知り顔で言う。事情も何も、本当は無いんだってば。
 そして、妹の事を思い出す。あの子は私と違って、そういったものにはかなり慎重だった。というか、男よりトド!といった調子だった。トドに、犬に、猫に、鳥に、ついでにそう言えば、男という生物も居たね、という調子だ。蜘蛛の次くらいに。
 「ごめん。本当に覚えてない」
 流石に、悪い気がして、私は手を合わせる。男は、「いいんだ」と言うばかりだった。こう見ると、誠実で、しかも中々格好良く見える。たった三日とは、どういう訳だ私よ。
 「そういえば、アメリカに行ってたんだって?」
 不意に話題を変えられて、私は、「どうして」と言った。どうして知っているのだ、と。
 「どうしても何も、さっき言ってたじゃないか」
 「ああ、言ったかも」
 父が。
 「凄いな。それじゃあもしかして」
 と、男は一度言葉を切り、思わせぶりな間を作った。満面の笑みを、嬉しそうな笑みをこちらに向けて、続けてこう言った。

 「―――夢を叶えたのか?」

 その言葉に、私は反応出来なかった。夢?なんの話だろう。今、私はアメリカで、大手会社の受付をやっているのだが、それが高校生の頃の私の夢とは思えなかった。夢?
 「ごめん、それって……」
 私はそれさえ思い出せずに、確認をしようとした。かなり情けなかったかもしれない。ただその前に、突然喫茶店の厨房の奥から甲高い声が聞こえて、聞くタイミングを逃した。
 「ねえちゃーーーーーん!」
 声は、喫茶店中に響き渡った。一瞬、店中の客達が顔を上げたが、直ぐに何事も無かったかの様に顔を下ろした。私は、顔を上げたままだ。静かな筈の喫茶店で、甲高い叫び声が聞こえるという異常事態に、驚いている。
 「灰音だ」
 男が、苦笑した。
 「灰音って。さっき話題に上がった、あの例の?」
 奇跡を起こす、と豪語した少年の事か?
 「名物みたいなもんだよ。ちょっと騒がしいけど、慣れたらなんでも娯楽だ」
 続けて男は、「すめばみやこ」と、有名な諺を請け合いに出したが、それは使い方が間違っている気がした。
 私は、無意識に灰音という少年を探していた。喫茶店の中を、視界が忙しなく動く。話を聞く限り、その灰音という少年と妹がどこか似ている気がして、興味が有った。
 そして、厨房の奥から、その少年、灰音が飛び出してきた。ぜいぜいと呼吸が荒く、茶色が混じった柔らかそうな髪の毛が乱れている。
 「姉ちゃん!牛乳!牛乳ある!?」
 「灰音、ここをどこだと思ってる?」
 店員が、険しくそう言った。明らかに、怒っている。私はハラハラと見守った。なんだ、この心臓に悪い喫茶店は。
 「喫茶店だろ。喫茶店。喫煙して、茶をする店だ。別に、騒いじゃ行けないっていう法律は無いだろ。いや、そんな事はどうでも良いんだ。いま、大事なのは、政治や法律よりも、恋愛よりも、生や死よりも、牛乳だ」
 訳の判らない事を捲くし立てる灰音に、私は親近感を覚える。妹がそこに居る気が、確かにした。それから、先の店員にも親近感を覚える。妹を嗜める役割は、いつも私だったからだ。
 「犬だ。犬が居るんだよ。店の裏に、めっちゃ可愛いんだ。それに、腹が減ってるみたいでよ。あの犬に牛乳をやる為なら、俺はなんだってやるぜ。世界平和だって実現してやる。世界中から、地雷を撤去してやるよ」
 ついで、灰音は言う。
 「―――空だって飛んでやる」
 「そんなに騒がなくても、牛乳くらいやれるだろ……」
 先の店員が、うんざり、と言った調子で言う。私も、妹の台詞にうんざりしていた事が多々有った。
 灰音と眼が合ったのは、その直後だ。私の視線に気付いた訳でも無いだろうが、灰音が不意にこちらを見た。
 そして次の瞬間、嵐の様だった灰音の騒がしさが、止まった。こちらを見て、眼を丸くしている。「え……」と、声を漏らした。亡霊でも見るかの様な表情で、私を見ている。
 「おい、灰音」
 先の店員の声に、灰音が我に返った。
 「え、―――ああ、ぎ、牛乳発見!あばよ客ども!」
 嵐の様に、灰音は去った。客は皆苦笑している。大丈夫かこの店、と心配しながらも、私は灰音という少年を見送った。

 「相変わらずだなぁ」
 のんびりと、男がそう呟いた。あれが相変わらずか、と私は驚く。
 「えっと、なんの話だっけ。ああ、そうだ。夢だ、夢。凄いな、夢を叶えたんだ」
 「ご、ごめん。それって、なんの話だっけ」
 「それも覚えてないか?」
 まるで、記憶喪失に陥ったヒロインの気分だった。何も、思い出せない。目の前の男と付き合った記憶も、夢の事も、綺麗サッパリ覚えていない。そりゃ、スマップの顔なんて判る訳ないなぁ、と私は自分に呆れる。
 「私の夢って……」
 「君は、こう言ったんだ」
 男は、私を真剣な眼差しで見た。
 「アメリカに、動物保護団体が有るんだ。って。私は、動物達のヒーローに成るって」
 「それは……」
 「格好良い、と思ったよ。その後で、君は俺にこう言った。だから、結婚を前提にしたお付き合いをしてくれ、って。因果関係が判らなかったけど、断れる訳が無い」
 ―――それは。

 景色が不意に変わり、私は妹の後姿を見送っている。まるで、先程の、灰音の後姿の使い回しの様な映像だった。いつの光景だっただろう。と考え、それから直ぐに、妹が北に旅立った日の光景だ。と思い出す。絶滅に瀕したトドを救う為に旅立った、あの日だ。間抜け面の私は、妹の後姿を見送って、羨ましい、と思ったものだ。
 きっと、あの灰音という少年も、「学校と犬、どっちが大事なんだ?」と問われたら、間違いなく、「犬に決まってんじゃん」と膨れるのだろう。
 犬。
 犬を守る為に飛んだ、妹。
 犬に牛乳を上げる為なら、空だって飛ぶ灰音。

 小突かれた様な気分で、私は立ち上がる。行くのだ、と誰かが私を叱咤している。
 「どうした?」
 「行こう」
 「え、え、え、ど、どこに?」
 男は明らかに慌てていたが、それでも立ち上がった。私は目の前の男を張り倒したい衝動を必死に堪える。灰音の様に、「この馬鹿!」と叫びたかった。
 「良いから、来て」
 「どうしたんだ。急に」
 「良いから来て!」
 叫んだ。妹の様に、灰音の様に、必死に。店内が突如として静まり返った。私は男の手を引き、財布を取り出すと、店員に声を掛ける。
 「ごめんなさい。お金、ここに置いていくから!」
 「あ、ああ」
 「おいしかったわ、有難う。また、来るから」

 そして、私は男の手を引き、雑多な街並みの景色の中を歩いている。妹が脳裏をちらついている。羨ましかった、妹。いつだって必死だった、妹。嘘の嫌いだった、妹。トドが好きだった妹。ジョン・トラボルタに運命を告げられた、妹。

 「一回、入れ替わってみようか」
 「私の嘘も、いつかばれるかな」

 泣き出しそうだった、妹。様々な表情が、私の中で目まぐるしく展開された。雑多な人の群れが、押し寄せる波の様に、こちらに向かってきた。私達は波を切り裂き、ど真ん中を通った。誰と肩がぶつかっても、気に成らない。
 嘘を吐き続けるのは、気分が良いものじゃないでしょ?私は、犬を守る為に飛んだ妹にそう声を掛けている。

 交差点。
 運命の、交差点。
 様々な人が、知らぬ顔で擦れ違っている。老人、若者、男、女。信号が青に成って、人々は立ち止まった。代わりに、川の様に、車が流れる。
 「最近、ここで事故が有ったんだ」
 男が交差点を眺めながら、深刻な声で言った。
 「知ってる人?」
 「知ってるっていうか、知らないっていうか。さっきの喫茶店有っただろ?そこで、何回も見かけた顔だよ。オレンジジュースばっかり飲んでてさ」
 「私の妹も」
 私は、意を決して言う。ドクン、と心臓が跳ねた。泣き出しそうに成りながら、必死で声を絞り出す。
 「ここで死んだの」
 少しの間が開いた。男は交差点を静かに眺めている。やがて口を開いた。
 「……ここだったのか」
 「うん、そう。犬を助ける為に、空を飛んだの。馬鹿でしょ。―――私の妹の事は知ってた?」
 「同じクラスだったよ。特別親しいという訳でも無かったけど、何回か話した事は有るよ。―――辛いだろうと思って、話題にはしなかったんだけど」
 妹が死んだ翌日、全校集会が開かれた。だから、覚えているものは覚えているだろうとは思っていたが、そういう事なら、話が早い。
 「私達は、あの子が死んだ日に別れたのね」
 「思い出したのか?」
 「覚えてる訳無いでしょ」
 三日。たったの、三日。私は拳を握る。たったの三日間の為に、妹は大嫌いな嘘を、七年も吐く羽目に成った。
 「どうせ、あの日から私が急につれなくなって、私達は終わった、とでも思ったんでしょ?」
 攻め立てる様に、言う。その権利は有る筈だ。私は、ぎろりと男を睨む。
 男は、交差点を見ていた。
 やがて、眼を瞑る。何かに思いを馳せている、とは判った。そして、
 「俺は、馬鹿だな」
 「そうよ」
 男の眼から、一筋の涙が零れるのを、私は確かに見た。交差点を見つめながら、表情を変えずに、ただ涙だけが流れている。
 「君じゃなかったんだな」
 妹の嘘は、今に成って漸く暴かれた。父は、知っていたのだろうか。知っていたのだろう。だから、私達を引き合わせた。そして、脳裏を掠める妹の姿がどんどん薄れていくのを、私は感じている。今度こそ、お別れね。と私は自分に言い聞かす。
 私は、握っていた拳を、男の頬に見舞う。拳が痛かった。これは、私の罪の分だ。そして男の頬の痛みは、男の罪だ。
 男はよろけ、しかし何も言わなかった。悲鳴すら上げない。頬を押さえ、また交差点に眼をやる。私も、交差点を見る。
 それから急に、馬鹿らしくなって、私は笑う。
 「でも、良く考えたら、あの子も悪いよね。私の振りをして、貴方を騙したんだから」
 男は何も言わず、笑みを零した。
 「冷静に考えたら、『動物達のヒーローに成るから、結婚を前提にしたお付き合いをしてくれ』ってのも、凄い話だよな。意味不明で、格好良いよ」
 「奇跡を起こす為に、サンタに成るってのも、凄いけど」
 言いながら私は、妹は二度もサンタを捕まえたんだな。と愉快に思う。
 サンタ!サンタ!捕まえた!妹の声が、小さく、小さく、小さくなって、やがて消える。












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