笑わない男の最後の微笑み
少年の目の前には一人の女性がいた。
凍った滝のような真っ白な長い髪をした、二十歳ほど思われるその女性。
冬の山、それも降り積もった雪の中において、その女性は周りの雪のように純白のワンピースだけを身に纏い、それでいて寒そうな素振りも見せずに平然と雪の中に立っている。
「ほら、あれが町だよ、少年。後は道なりに進めば町に着く」
小高い丘から眼下の町へと続く小道を指さしながら、女性は少年へと振り返りそこでにっこりと微笑えんだ。
その笑顔に、少年は何かが背中を走り抜けた気がしたが、その感覚は押し寄せる寒さに晒されてすぐに判らなくなった。
「あ、ありがどうございまじた……おかげで助がりまじた……」
寒さで震える歯の奥から、少年は女性に向けて謝辞を告げる。
「なに、構わんよ。私としてもちょっとした気まぐれだ」
本当ならこんな事はしてはならないのだがな、と女性は胸の内で付け加えるが、無論その事に少年は気づかない。
「ではな、少年。もうこんな雪山で迷うんじゃないぞ?」
◇ ◇ ◇
男は高名な登山家だった。
大学時代から日本各地の山に登り、大学を卒業してからは世界中の山を制覇した。
男が登山家として有名になった理由の一つに、彼は冬山、それも雪山ばかりを登ったという事実がある。
しかも、その殆どが単独行で。
ただでさえ厳しい冬の雪山を男は大抵の場合一人で登った。
彼が一人で登らないのは、ガイドとしての仕事を請け負った時ぐらい。
それ以外は、男は常に一人で雪山へと挑んだ。
「どうして、いつも一人で……それも雪山ばかり登るんだ?」
いつだったか、顔見知りの登山家が男にそう問いかけた事があった。
そして男は、その問いにこう答えた。
「雪山で探しものがあるからさ」
そう答えた時、男の眼は遥か遠くの何かを見ていた。
男に質問した登山家は、後にそう答えたという。
◇ ◇ ◇
この日、少年は友人たちとスキーに来ていた。
スキーは彼が小学生に上がった時からやっており、中学も卒業間近になった今ではすっかり上級者の域に達している。
だが、そこに油断があった。
初心者の多い友人たちと離れ、一人上級者コースを滑っていた少年。
今日は他のスキーヤーの数も少なく、これなら思いっ切り滑る事ができる。
そんな逸る心を押さえながら、少年は勢いよくコースへと飛び出す。
いつもなら何の問題もなく、気持ちよく滑走できるコース。何度も来た事のあるスキー場の、何度も滑ったコース。
しかし、ちょっとした油断から僅かな雪の凹凸を見逃してしまった。
ほんの僅かな凹凸にスキーを取られ、少年はバランスを崩す。
更に間の悪い事に、横から急に吹き付けた突風が少年の身体をふわりと舞い上げる。
やばい。そう思った時にはもう遅かった。
少年は転倒してコースから外れ、そのままコース脇の斜面をごろごろと転がり落ちて行った。
更に更に間の悪い事に、彼が転倒して滑落するところを目撃した者は誰もいなかったのだ。
◇ ◇ ◇
日本の富士山。
アフリカ大陸のキリマンジャロ。
南アメリカ大陸のアコンカグア。
北アメリカ大陸のマッキンリー。
ヨーロッパはモンブランやエルブルス。
オセアニアではプンチャック・ジャヤ。
そして誰もが知る、世界の最高峰エベレスト。
男が制覇した山は数知れない。男が登山家として手にした栄誉もまた。
だが、男は決して笑わない。
いつも寡黙でにこりともせず、ひたすら頂上を目指して登って行く。
そして登頂に成功しても、男は微笑む事さえしないのだ。
それどころか、逆に落胆の溜め息を吐く事さえある。
家庭を持つ事もなく。仕事以外に親しい友人を得る事もなく。男はどんどん年を重ねて行った。
当然両親はとっくに先立っている。それでも、男はいつも一人で山へと出かける。
三十を過ぎて。四十を経て。五十を超えても。
男は山へと──冬の雪山へと出かけて行くのだ。
「寂しくはないのか?」
誰かがそう問いかけるも。
「寂しくはない。山にいれば俺は一人じゃないからな」
男は相変わらず笑みを浮かべる事なく、いつも決まってそう答えるのだった。
そんな男を、いつしか周囲の者はこう呼ぶようになった。
──笑わない男、と。
◇ ◇ ◇
遭難した少年は、最初こそ滑り落ちた所でじっとしていたが、寒さと空腹からじっとしていられなくなり、やがてゆっくりと歩き出した。
斜面の上を見上げれば、樹木の枝に積もった雪が邪魔をするばかり。
スキー板とストックは転げ落ちた拍子にどこかへ行ってしまった。こんな事なら菓子の一つもポケットに入れておくんだったと後悔するも遅く。
やがて日も暮れだし、同時に天候も怪しくなって来た。
そしてついに真っ暗になった森の中。吹きすさぶ風が雪と地吹雪を舞い上げる中。
少年はその女性と出会ったのだ。
「こんな所で何をしている、少年?」
その女性の最初の一言。
それを少年は──後に高名な登山家となって名を馳せても、彼は生涯忘れる事はなかった。
◇ ◇ ◇
あの白い女性は一体何だったのか。
雪山の夜。テントの中で男は、固形燃料の揺れる炎を眺めながらいつも考える。
そして脳裏に思い浮かべるのは、四十年以上経っても色褪せることないあの女性の姿。
凍りついた滝のような真っ白な長い髪。
その身に纏うは周囲の雪よりも更に白くふわりとしたワンピース。
白磁のごとき、透き通ったような白い肌。
白ばかりが占めるその身体の中で、唯一色彩の異なる自分をじっと見詰めていた黒曜石のような黒瞳。
ぞくりとするほど整った、透明な氷のような鋭い美貌。
普通に考えれば、あの女性は人間ではない。あの極寒の中でワンピースだけで無事な人間がいる筈がない。
もしいたとしても、それは狂人というものだろう。
では、妖怪変化──ありたいていに言えば雪女──か。
それとも極限状態が生み出した幻影の類であろうか。
だが、そんな男の思考の行き先はいつも一緒だった。
──彼女が妖怪だろうが狂人だろうがどうでもいい。
それが男が辿り着いた結論。
ただ、男はもう一度あの女性に逢いたかっただけなのだから。
逢ってどうしようというものでもない。ただ、逢いたかった。
もう一度あの女性と言葉を交わしたかった。
それだけの思いで、男は雪山に挑む。
この雪山のどこかにあの女性がいるかもしれない。
不意に「また逢ったな、少年」と声をかけて来るかもしれない。
その想いが、男を雪山へと追いやる。
だが、ある日を境に男は雪山へ行く事が適わなくなる。
なぜなら。
六十を目前にして男は病に倒れたのだ。
◇ ◇ ◇
白い病室。
男が馴染んだ雪の白とはまるで異質な、どこか病的なもの──あるいはそれは「死」であろうか──を感じさせる病室で。
男は眠りについていた。
浅く何度も繰り返される呼吸。男の表情には相変わらず笑みが浮かぶ事もなく。
親類縁者のいない男は、一人病院で眠りについていた。
治療費の心配はない。
時に山岳ガイドとして。時に登山のアドバイザーとして。
男が生涯をかけて稼いだ金額はかなりのものだった。著書だって一冊や二冊じゃない。
男は家族もいなければ、登山以外に特定の趣味もない。だから彼の手元には稼いだ金の殆どが残っていた。
それに登山家として社会的な名声もあったため、彼は大都市の完全看護の大きな病院に入る事になった。
病に倒れ、病院のベッドから動けなくなっても。
彼の意識は常に雪の山にあった。
──きっと眠っていても雪山の夢を見ているに違いない。
時折ここを訪れる見舞客たちは、眠る彼を見ながらそう思っていた。
そんなある冬の日の夜。
最近ではもう殆ど眼を醒ます事のない彼が、不意に眼を開いた。
薄暗く、それでも白くぼんやりと輝くような病室の中。弱めの暖房が稼働しているが、それでも尚病室の中はまるで男が長年身を置いた雪山のように冷たい。
男はそんな張り詰めた冷たい空気の中で、不意に枕元に何かが動く気配がした。
それを感じた男は、もう動かす事も苦しくなった首を無理矢理そちらへと向ける。
そして男は眼を見張る。
あの白い女性がそこに、いた。
「久しいな、少年。おっと、失礼。もう少年と呼ぶような年齢ではないか」
くくくと笑う女性を、男は大きく見開いた眼で凝視する。
白く長い髪も。ふわりとした髪と同じ色のワンピースも。氷のような鋭い美貌も。
あの時と寸分変わらぬ姿で。
何度も夢で見たあの女性の姿が、そこにあった。
「どうした、少年……ま、面倒だから少年でいいな。で、どうした、少年? 鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔をしているぞ?」
「おおお……よ、ようやく……ようやく逢えた……」
たくさんの皺が刻まれた男の目尻に、透明な雫が沸き上がる。
これは夢か? そう自問する男だが、すぐにその疑問を切り捨てた。
夢でもいい。幻でもいい。
こうして彼女とまた逢えたのだから。
涙を流す男の顔を覗き込み、女性はその白皙を若干歪ませた。
「──少年は私が怖くないのか?」
「────?」
「君も薄々は気づいているだろう。私は人間ではない。いわゆる、魑魅魍魎の類だ。そんな私が君は怖くないのかね? 不気味ではないのかね?」
女性のその問いに、男はゆっくりと首を横に振る。
「怖くなんてない……俺はずっと……初めてあなたに出会ったあの時から、俺はずっとあなたを……」
「ああ、知っている。知っているとも。私はずっと少年を見ていたからな」
女性がずっと自分を見ていてくれた。その事実を知った時、男の眼には先程とは別の種類の涙が浮かぶ。
「本来、私たちのような存在は人とは触れ合わないものだ。私たちが人と触れ合うと、多くの場合その人の人生を大きく狂わせてしまう────例えば、少年のように」
女性はくるりと男に背中を向け、そのまま男が身を横たえているベッドから二歩、三歩と離れる。
そして、背中を向けたまま続けた。
「それを判っていながら……私はあの時、君と関わってしまった。あの時、私は少年の人生を歪ませてしまったのだよ」
あの時。男が女性と出会わなかったとしたら。
きっと男は人並みな人生を送っていただろう。
高校、大学を卒業し、普通に就職して普通に結婚し、子供が生まれて、そして老いて死んでゆく。
そんなありきたりの人生があっただろう。
「君はそんな普通の人生を振り捨ててまで、生涯を賭けて私を追い求めてくれた。だから、私はこうして君の前に再び姿を見せた」
女性が振り返る。
真っ白な髪がさらりと揺れ、同色のワンピースの裾がふわりと薄闇の中で舞う。
そして。
そして女性は、あの時──初めて雪山で出会った時と同じようににっこりと微笑んだ。
「私と来るか?」
「────!」
白く細い手を差し伸べながらそう告げる女性を、男は震えながらじっと見詰める。
「もうすぐ少年の人としての生は終焉を迎える。つまり、君は人ではなくなるのだ。となれば、私とどう関わろうが何の問題もない」
男はなぜ今、彼女が姿を現したのかを悟った。
自分の死期が迫っているからだ。
死の間際に姿を見せ、そして共に行こうと誘う女性。
──まるで死神だな。
一瞬、そんな考えが頭をよぎるが、それでも構わない。
妖怪だろうが死神だろうが。
この女性と共にあるのなら、魂を売り渡してもいい。
そう決心した男が、震えながら皺に覆われた腕を伸ばす。女性の方へと。
「少年の人生を狂わせてしまった張本人の私が言うのもなんだが……詰まらない人生を送ってしまったな」
女性のその言葉に、男は再び首を横に振る。
「詰まらなくなど……ない。俺は一生を賭けてあなたを追い求め……こうしてあなたの手を取る事ができた。こんな充実した人生は他にあるまいさ」
男のその答えに、女性は軽く眼を見張り、そして再びにこりと微笑んだ。
「やれやれ。少年もとんだ変わり者だ。だが、君の人生を狂わせた償いというわけでもないが、今後私はいかなる時も少年とともにあることを誓おう」
そしてその白い女性は。
「それではそろそろ行こうか、少年。そうだな……まずは君と私が初めて出会った、あの雪の山へでも行こうじゃないか」
震えながら伸ばされた男の手に、己の白い手を重ねた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
一人の高名な登山家がその生涯を終えたのを、巡回に来た看護士が発見した。
それまで一度も笑った事がないとまで言われたその男の死顔には、なんとも穏やかで満ち足りた微笑みが浮かんでいたという。
そして。
その男の右手に白く長い髪が一本、彼を愛しむように絡みついていたが、その事に気づいた者は誰もいなかった。
以上、冬の童話祭参加作品でした。
正直、短編は初めての試みなので、これでいいのか判断がつきませんが、取り敢えず。
今回、当作品を書くにあたり、つくえ様よりシチュエーションの提供を受けました。つくえ様、シチュエーションの提供ありがとうございました。
つくえ様が活動報告で白いワンピースについて触れなかったら、自分は今回童話祭に参加していなかったでしょう。
しかし、これを童話と言い張っていいものか……?