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よく判るバナナの滑り方
作:田中太郎


「私は思うの。アンタさ、絶対にバナナの皮にすべる奴の気持ちなんてわからないでしょ?」

 親の敵でも見るような目で少女――――名前を安藤美咲と言う――――は、眼前の同級生の少年を睨みつける。

「えっと、ごめん。俺が鈍感なのが悪いのかもしれないけど、みっちゃんの言ってる事の意味が小指の爪の先ほども理解できないんだけど」

 それを聞いて、美咲は1度は落ち着いたその獰猛な意思に再び油が注がれるのを感じた。
 突っ込みたいことは山のようにある。なんでアンタは会って2日目の異性に、今までついてすらいなかった様なあだ名をつけて、あまつにはクラス内で流行を起こしてしまうのかとか、アンタのその一々判り辛い小指の爪がどうとかっていう喩えは一体なんなんだとか。

「――あぁ、もうっ!!」

 口にするべき言葉が喉元まで競りあがってきて、あまりの物量にどれから出せば良いのか判らなくなる。 「お前が行けよ。こういう口論の時は意味が判らなかろうが、でかい声で罵倒するのに限るんだよ」 喉元でそんな訴えをする悪口雑言の1つは、しかしそれでも自分から出て行ってくれようとはしなかった。
 喧嘩を仕掛けたのは私なのだ。ここで私が引いてしまえば、それはつまり私の敗北だ。
 想像して全身の毛が逆立った。そんなのは認められない。こいつに、そんな敗北を喫することはできない。
 高校2年生の何処にでもいるような平凡な女子の並々ならぬ決意が、彼女に最後のひと言を口にする勇気を与える。

「うるさいバカっ! アンタが、その小指の爪をやたらと短くしてるのが悪いのよっ!!」

 もしも、それを見ている第3者がいたとしたら、それはきっと子供に言い聞かせるような穏やかな、だけどどうにか納得させる為に強い決意を秘めた口調でこう口にしただろう

「美咲、負ける事は決して恥ずかしくはないんだよ?」

 声は聞こえてくる事無く、彼女の敗北をあざ笑うかのように季節外れのセミの声だけが耳を打っていた。


     /


 事の発端はかれこれ2日前に遡る。
 そこは田舎の小さな町だった。都会ではすっかり薄れてしまった隣近所との関係なんかを重要な物とみて、携帯なんて物は若者しか持っていない最新鋭の電子機器で、それを覗く老人達は、皆目を輝かせて 「それって、最新のは50文字まで打てるんだろう?」 等と言う見当外れの妄言を呟くような片田舎の町だ。
 どこかずれていて、しかしそれ故に周りとの結びつきが強いこの村で、その日突然大きなニュースが1つの家庭と共に訪れた。
 東京から、新しい人間がやってくる。
 この村の人々はその村で既に団結しているとはいえよそ者を廃絶するような動きはなく、ただ単純に東京なんていう異界からやってきた異次元の人間に対する純粋な興味と、一体どんな人がやってきたのだろうか、という好奇心からその噂は瞬く間に広まっていった。
 今からしてみれば実に意外な事であるが、これに当初最も強い好奇心を抱いたのは他ならぬ安藤美咲であったのだ。理由は簡単、そのよそ者の新しい住居は安藤美咲の家の隣で、徒歩約2分のところにある家だったからである。
 だから周りの皆が知らないような事も知っていた。引っ越してくる人たちの家族構成は両親と1人息子の3人家族。息子の年は自分と同い年で、焦らずとも次の日の2学期開始と共に嫌でも視界に入ってくるであろうという事。
 そこまで言って興味がないといえばそれは真っ赤な嘘になる。故に彼女は、その極一般的な好奇心に身を任せて、今だ引越しの荷物出しにせかされている隣人の家へと向かうのだった。
 ――そもそも言えばそれが失敗だったのだ、と美咲は思う。この時下手に距離を詰める事無く、一般的な同級生として接していれば、或いは自分と彼はここまで仲違いに成らなかったのかもしれないのに、と。

「あのぉ、初めまして。隣に住んでいる安藤という者なのですがぁ……」

 見知らぬ生活のにおいに、今更ながら美咲は気圧される。そんなに居辛いなら帰れば良いじゃないか。美咲はもしもタイムマシンがあったなら、幼稚園の頃のお漏らし事件よりも優先して、そんなさりげないアドバイスをくれてやったに違いない。
 それでも現実にはそんな便利な物はないのだから時は緩やかながらも確実に進んでいく。そうして、ついに問題の彼はその姿を現した。

「あぁ、初めまして。今日から隣に住まわしていただく横山です。
 見たところ同い年位に見えるんだけど……」

 タメ? と急にやたらとくだけた口調で喋りかけてくる横山に、あぁ良かった。東京から来たっていうからどんな化け物が来たかと思ったが、予想外に普通の人じゃないか。と内心ホッとした。

「あー、うん。私も高校2年生。この近くは寂れてるからさ、高校なんて1つしかないから、多分明日から同級生になると思う。
 名前は安藤美咲って言うんだ。こんな片田舎だから、これから随分長い付き合いになると思うけど、よろしくね」

 よろしく、と自分でも完璧に決まったとガッツポーズを決めたくなる位の愛想笑いだった。見る人が見れば、その笑顔に打ちのめされるか、或いは普段との誤差から幻覚を見たのだと逃避する人間のどちらかであろう

「うん、よろしく!
 俺の名前は横山幸助。多分、明日学校で会うと思うから、その時もよろしく!」

 そう言って手を差し出してくる横山。少しばかり他人を異性としてみていない節はあるが、それ以外は実に良い奴ではないか。美咲の中で、東京の印象がほんの少しだけ良くなった。

「じゃぁ今はひっこしの事で色々忙しいみたいだし、今日はちょっと失礼するね。
 またね横山君。また明日、学校で会いましょう」

 ほんの少しクールな風を世覆いつつ、髪を掻き揚げて流し目を送りつつ美咲はその場から離脱しようとした。
 ――不意に、足元に予想外の感触。擬音で表すとしたら、むにゅっ、とかにちゃ、とかその辺りの、なにか柔らかい物を踏みつけた感覚。
 それと同時に安定を失う美咲の片足。
 それは、本来現実で見る事など叶わぬ筈の光景。詰まる所、美咲はバナナに滑って豪快にずっこけたのだった。
 しばし時間が止まる。お互い動けないままに、美咲が 「よし、何事もなかったかの用に立ち上がってさっていこう」 と決意を固めた時になって、時はようやく再び刻まれ始めた。

「ぷっ……」

 なにか空気の漏れる音。それが、押切ることができなかった横山の笑いなのだと気付いて、美咲の時間が再び止まる。

「ぶぁーーーははははっっ!! はっはっ、ちょ、みっちゃん! バナナって、バナナに滑って転ぶって!!」

 ――静かな田舎の昼過ぎに、悪魔の叫びが響き渡る。
 その日、美咲の中で東京は悪魔の住処という判断をくだしたのだった。
 それから横山は 「東京者」 というなんとも微妙なレッテルを貼られつつもたったの1日で片田舎のクラスに順応した。
 彼は憎めない奴だった。どこか空気を読めない気もするけれど、それを覆い隠すほどに大らかな人柄の持ち主だったから。
 ただ1人、本人も知らない間にみっちゃんなんてあだ名を付けられて、誰にも知られていないとは言えバナナに滑って豪快にずっこけた現場を見られた、彼女を除いてはの話ではあるが。


     /■


「……だからさ、あの時は悪かったって言ってるじゃん」

 それから2日後の帰り道だった。帰り道が同じと言うだけの理由で、美咲は不運なことに顔も見たくなかった横山と一緒に下校する事になってしまったのだった。
 そんな事を気に留める事もなく、別段悪びれた様子もなく、横山は心底面倒くさいと言うようにため息を1つ吐いた。
 ――それが、人様に謝る態度か?
 その時美咲の中でなにかが音をたててブチぎれた。堪忍袋というものが有るのなら、きっとそれは切れるどころか、粉々にはじけ飛んだと見ても良いだろう。
 堪忍ならん。美咲はそう思い、何を言うべきかも判らずに横山へと向き直る。
 考えることわずかに10秒。少しだけ落ち着いた頭が、こんな奴にかまってないでさっさと帰ってしまえ等と言う暴言を吐き出そうとした時、美咲は世界の終わりを告げるかのような強い意志で、親の敵でも見るかのようなギラツイタ目をしながら、そのひと言を口にした。

「私は思うの。アンタさ、絶対にバナナの皮にすべる奴の気持ちなんてわかんないでしょ?」

 我ながら、実に意味の判らない言葉だったと思う。



 逃げるようにその場から立ち去って、それなのに何でだかいつもの2倍近くの時間をかけて帰ってきた美咲は、本当にくたびれたようにため息を1つ吐いた。
 正直に言おう。
 安藤美咲は、実のところバナナに滑った事を笑われたことにも、知らぬ間にみっちゃんなんていうあだ名を付けられた事にもほとんど腹を立ててはいないのだ。
 彼女が彼に向けている感情の正しい形は、怒りなんかではない。もっと陰気に満ちた、嫉妬の感情だ。
 安藤美咲は、小学生の頃までそのクラスで苛められていた。
 学校の人間が皆近所の知り合いである以上、中学や高校でのキャラ変えなんて物は元から選択肢には入らない。
 ならば、彼女はどうやって今に至ったというのだろうか。
 実に単純なことだ。彼女は、周りの皆が気にも留めないようなバナナの皮につまずいて、それでずっこけて膝をついたまま、必死に今のこの場所まではってきたのだ。
 だから美咲は彼を許せない。東京者なんていう自分なんかよりずっと面倒くさいレッテルを貼られて、それでも足元のバナナなんか視界にすら入れずに軽快な足取りで歩いていく横山を許すことができない。
 理不尽な悩みだとは自分自身理解していた。それでも、美咲は自分の心の訴えを無視することができずにいた。
 時刻はおあつらえむき人通りの少ない夕時。美咲は、誰かに見つからないように深く体を屈めて、誰かに聞こえないように声を殺して涙を流した。

「……なにしてんの、みっちゃん」

 それを、最悪の人間に見られた。
 しまった、と美咲はその顔をあげて、無理やりにでも出てくる涙を止めようと努めてみる。
 それでも涙は一向に止まってくれる気配はなく、結果として美咲は最大の怨敵である横山に、1番見られたくない情けない姿を見られてしまったのであった。

「……うるさい、アンタには関係ないでしょ?」

 関係ないからさっさと帰れ。そういう意思を込めて放ったひと言は、しかし横山には通じずに美咲を追い詰める。
 どんどん距離が縮まっていく。アレだけ唐突に攻め立てたのだ。これからどんな制裁を受けようと、正直なところ自分が大きな声を出して異議を唱えることはできない、と美咲は覚悟した。
 まさか女の子をぐーで殴るなんて事はないだろう。でも東京の文化は判らない。あぁ、それよりももしかしたら、今の状況なら暴力よりも暴行を受ける可能性の方が高いのではないだろか――――?
 まとまらぬ思考は何故だか常に最悪の方向へと向かって考えを掘り進めていく。その結果美咲の中で出た結論としては、良くてグーパンチ、悪ければ処女喪失、という物だった。
 そんな事を考えていると不意に頭の上に横山の手の感触を感じる。あぁ、拳骨か。まぁ暴行よりは幾らかマシかな、なんて変なあきらめの入った思考を巡らせていると、その自分の頭の上におかれた手の平は、不器用に自分の頭をくしゃくしゃとかき回し始めた。
 それが、自分の頭を撫でているのだと察することに約10秒もの間が空いた。当然その間も自分の頭はかき回されている。
 ちょっと恥ずかしいからやめろっ、そう言おうとして見上げた視界に、何故だか滴り落ちる水の姿が入ってきた。

「ごめん……本当に、ごめん」

 嗚咽をかみ殺して、どうにかして声は震えないように、と下唇をかみ締めながら横山はその重い口を開いた。
 ――――なんで、あんたが?
 行動突飛過ぎてなんでだか自分が悪い事をしたような気分になる美咲は、それをどうにか押しのけるために取り合えず横山の手を頭からどけさせる事にした。

「ちょ、あんた本当にどうしたのよ!?」

 横山は未だわずかに潤んだ瞳を隠しもしないで、美咲へと向き直る。
 その瞳に悪意の色は無い。それは、あの日転んだ自分を見たときと同じ、純粋すぎる瞳だけが写っている。

「……みっちゃんの言うとおりだった」

 瞳の水気はついに乾くことは無かったが、それでも彼の言葉には先ほどまでなかった強い意思と純粋な心だけが写っている。

「俺さ、昔から人の気持ちが判らない奴だって言われてた。
 それでも友達はできたし、なんだかんだでクラスでも中心から外される事がなかったし、自分で気付かなかっただけかもしれないけど、みっちゃん程人の事を傷つけた事もなかった。
 だけど、それじゃぁダメだったんだ。俺にはバナナの皮で転ぶ人の気持ちが判らない。転びたくても転べないから、きっとまたいつかみっちゃんを傷つけるんだ……!!」

 最後の方は涙声で上手く聞き取れなかったけど、それでも美咲に彼の意思は伝わった。彼は、判ろうとしなかったのではなく、真実判ることができなかったのだ。
 普通、誰もそれに転ぶ事はないのだ。だから、それを理解しろという方が元来不可能な筈なのに、横山はそれが判らなかった自分が悔しいと涙を流した。
 不謹慎だとは思いつつも美咲の両の頬に赤みが差す。自分でも認めたくはないけど、美咲はたった今、実に嫌な事実を痛感した。
 ――――やばい、コイツいい奴だ。これなら確かに、クラスに打ち解けられるのも判る。
 それでも横山を認めることはしたくなくて、それでも今こうして泣いてくれる横山に鞭を入れるような事はしたくなくって。
 しばしの思案。そうして、美咲は自分でもどうかと思うその一言を、ついつい口からこぼしてしまった。

「……なんだ。あんたも、バナナの皮に滑ってるんじゃない」

 判りづらい喩えは、私も横山に侵されたのかな、なんて事を考えて、美咲は1人苦笑した。



 横山が泣き止んで、その後1人ここに残されてから10分程度。彼は、その手に忌むべき敵を片手に戻ってきた。
 横山に対する敵意は薄れたと言えども、コイツに対する敵意だけは薄れようが無い。ならば、横山はなんでこんな物をこの場に持ち込んだというのだろうか。

「……バナナに転べる人の気持ちを判ろうと思って」

 そう言って横山は不敵に笑う。足元に落としたバナナを、まるで踏み絵にかけられたキリスト教徒かと見間違える程慎重に踏み潰した。
 むにゅぅっ
 踏んでみても転ぶことはできない。なんで自分だけ、という悔しさからその顔に浮かんでくる焦燥は、行動と反比例して深刻さをましていく。
 はぁっ、とため息を吐いて美咲が近づいてくる。別に良いよ、もう、横山君の気持ちはわかったよ。
 そう言おうとして近づいた足が、いつかと似たような感触を踏みしめる。
 ――――バナナの皮だった。それを、踏み潰して、今度は1回転して見事に着地した。

「……ははは」

 2人して引きつった笑いをする。
 別に良いじゃないか、転ぶなら転ぶで。どうせ行き着く所まで行ってしまえば、そんななさけないことでも自分たちの生きる糧となる。
 そんな事を痛感した夏の夕。2人は、おかしくなっていつまでも笑い続けていた。
 足元に落ちているバナナに気をやる人間は、もうそこにはいなかった
















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