六話:夜明
その日の戦端は、驚くほど容易に開かれた。
「細作が上手く煽ったか。さァて、何日後に動けば良いか」
「日取りは冥琳が決めるじゃろうが……実は細作は、殆ど働かずに帰ってきとる」
孫呉で作戦が決定され、袁紹陣営へ間者を送り込んだ翌日。
打撃を与えていた少数の攻城兵器が集中的に攻撃される中、兵の命を武器に敵城敵軍の体力を削る攻城戦へ移行していく戦場を遠目にしながら、この戦を誘発させた周瑜の手腕、見事と賞賛を送る燕来は、呆れ疲れたような黄蓋の様子に疑問の視線で促した。
「儂らの前日に袁紹軍は到着していたらしいんじゃがの……三日と待てずじゃな」
「既に限界だった、と?」
「ほんのちぃと煽ったら、大将の金切り声が陣幕に響いたそうじゃ」
袁紹が伊達に袁術の従姉ではないことを、呉の将達が知らされた一件であった。本来は策に時間を要する場面でその穴に自ら飛び込む、ある意味非凡。
名門に負け無し――その発言者に実力と裏付け、理知と才覚があれば誇り高い言葉になろうが、まさか戦の勝算が"袁家は名門、相手は国賊……故に袁家が勝つ"という楽観だけだとは、袁の牙門旗の下、実際に戦っている兵達のどれほどが知ろうか。
「武を揮うこと成れば、何処でも良いと思っていたのだがな」
「袁紹軍を見て思い直したか? それとも孫呉の者となって気が変わったか?」
「公覆殿ほどに忠心は無いが、呉の居心地が良いことは否定せんよ」
孫呉の雰囲気は、どこか家族のそれを感じさせる。両親の情を殆ど知らない燕来は、孫策達との付き合いで生じる暖かみに、戦中の安らぎを覚えた。
反面、外側に対し少々淡白なきらいはあるが、冷淡というほどもなく。燕来のような性格の人間としては、無償博愛、平等精神などよりも、悪く言えば身内贔屓の方が信用に値することもあって、呉の淡白さは欠点にならなかった。
だからといって、義と民のために戦う義勇軍に苦手意識を持つこともない。心底からそう思って剣を手にしたのならば、詳細な真実を知らぬ他者がそれを穢す権利は無い。自分達や家族の生活のために戦っている者も大勢いるだろう。
燕来個人としてはそんな風に考えており、それでも孫呉が好きだった。
「だが、おぬしは策殿のためにと誓っておる。反故にする男では無かろ」
「恩には報いるが、俺が戦うのは己のためよ。戦う理由を他には預けぬ……主君の野望成就の一助、その道に俺自身の戦いが重なったのだ」
自分を呉の一員に招き厚遇し、存分に武を発揮出来る場と、強者と戦える多くの機会をくれた孫策。彼女に感じる恩義に全力で報いる気はあるが、戦うこと自体は元々己で望んでいたのだからと、それが燕来にとっての譲れない部分なのか確りと訂正した。
「口が達者じゃな……策殿の喜ぶ顔が見たい自分のため、の間違いじゃろ」
「何よりも強者であれと、誓い誓わせたから俺は武を磨く……だが。伯符の、友の笑顔を嬉しく思う、そのこと自体が悪いとは公覆殿も思わんだろう」
恥ずかしいことを言わせないで頂きたい、と棍を掌中で転がしていた燕来だったが、急に何かに気付いたように、そそくさと場を離れた。
「なんじゃ、呼阮のやつ。催しでもしたのか」
「私が来たのに気づいたからでしょ。ホント、恥ずかしいこと言っちゃって」
「……おお、策殿。聞いていたのか」
「最後少しだけ、ね」
まだ天幕にいると思っていた主君が背後から顔を出したことで、男が場を去った理由を知った黄蓋、青い青いと笑いながら孫策に挨拶。夜の準備で活気のある陣だったが、臣二人の会話は王の耳に届いていた。
「のう、策殿。呼阮は良き男じゃが、孫呉の重臣には向かぬかもしれんな」
「うーん。それって、私と孫呉のために死ねるって心が見えないから?」
「左様。策殿を主として敬っておるのはわかる。じゃが同時に、友とも言う。この孫呉を好いており、その敵は戦場で打ち倒すが、己のために戦っていると言う……蓮華様や思春あたりが耳にしたら、怒っても仕方あるまい」
二人が聞いたところを想像したのか、くすり、笑い零して首振る孫策。
「別に、冥琳だって私を親友って言うわよ? それにね、向いてないって言った祭自身がわかってるはずよ。呼阮は信頼出来る男だって」
視線を感じるのか、後頭部の髪をくしゃくしゃにかき回しながら歩く燕来は普段より挙動が大きい。それが面白い孫策は肩揺らし……黄蓋もまた、溜息ひとつで苦笑い。
「呼阮はね、自分が仕えるに相応しい王が、正しく望めば槍働きで応える。家臣としては十分だし……友のために命を張る必要があれば、あの男はそれを厭わないでしょう。呼阮の"友"という言葉は、それだけの重さがあるの。今は、それでいい」
「ふ……そうじゃな。呼阮にとって大切なものが孫呉に増えれば、いずれ"呉のために"という気概にもなるじゃろ。自然とのう」
これ以上は拗らせることになりそうだと、黄蓋は答えを落ち着かせた。
若者を諭すのは、先代の頃から孫呉に仕える自分の役目。とは言え余計な手を出さず見守るだけの方が良い結果を生む場合があることも、宿将の経験で理解していた。
「大切なもの、ねぇ。冥琳や祭や穏、それに部下の何人かは、もう大切でしょ」
「そうかもしれんが、あやつがはっきり友と呼ぶのは策殿だけじゃからのう」
「ふふゥん。羨ましい?」
自慢げに鼻鳴らす孫策の姿に、彼女が初めて剣の指導役を打ち負かした子供の頃の顔を重ね、臣の身ながら主君に対してどうにも可愛らしいなどと思ってしまう黄蓋。
立派な王となられたが、こういうところはちぃとも変わらん――御守役が感慨に浸る時間は、伝令が部隊編成の確認を頼みに来るまで続いた。
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寡黙で己に厳しく、元・江賊ながらも孫権への忠心は随一、常に彼女の傍らに控える護衛役として深く信を置かれている忠義の人。武人としての武力と、将としての統率力のどちらもが、二十に満たぬその若さで宿将黄蓋に匹敵し、更には海戦でも無類の強さを発揮する上に工作活動も成し遂げる、遍く能力が高い極めて優秀な闘将。
それが甘寧、字は興覇、真名は思春。孫呉を代表する将の一人である。
巻き上げ纏めた青紫の髪は、前髪を眉の辺りで綺麗に揃えており、簡素だが特徴的な親衛隊服――両腕だけが灰色の、腰丈より少々長い程度の赤い上衣――に、百六十半ばのすらりとした肢体を包んでいる少女……その、きつい吊り目に湛えられた冷たい光沢の冷静さと、戦場の前線を走る姿に危うさが全く無い様子を見知れば、衣服と刀の柄に括った鈴を鳴らし、赤く燃える夜を前進する彼女が甘寧だと判るだろう。
「……後方が騒がしいな」
周泰達と共に城内へ侵入し、兵糧庫への放火を成功させた彼女は、黄巾党の内部混乱を深刻化させてから突入部隊と合流、現在は敵城の本丸目指し突き進んでいた。
突入から余り間も置かず、己が率いる一隊の後方から動揺とざわめきが起こり、波紋のように徐々に前方まで流れ広がってきたその声に、甘寧が耳を傾けんとする直前……部下の驚きと報告が声高に彼女へ飛んできた。
「か、かッ、夏候惇だ! 夏候元譲が来てるぞ!」
「甘寧様! 曹操軍が追走してきております!」
その報告に、だが甘寧は振り返りもしない。
「構うな。我等は燕来隊の討ち漏らした黄巾、目に入った黄巾を滅するのみ」
事前に周瑜が予想していたが、やはり曹操、読みが鋭い――噂に聞く人物評に間違いは無かったと思うも、甘寧は言い渡された任務を冷静に遂行する。
袁紹軍の攻城開始から数日後の深夜、周瑜の作戦通りに囮の隊が正門を叩き、その隙に潜り込んだ甘寧達による火計と夜襲が発生。夜天に紅の煌きが暴れだした瞬間、それを確認した黄蓋は、即座に囮役から本格的な攻城へと指揮を変更――猛々しく攻め立て続け、昼間の袁紹軍の苦戦が嘘のように、早々と城門を開かせた。
後は孫策が指揮を継ぎ突入を図り……その最前線の先頭を燕来が切ったのは暫し前。
この時間差があった上で、呉の動きに連動してきた曹操が放った将こそ夏候惇。
曹孟徳が片腕として音に聞こえた武威の持ち主、猛将元譲である。
「邪魔だ賊共ッ! はッはァーッははは!」
美しい黒髪が乱れるのを一切構わず、その長身、その豪腕で振るう幅広の剣は、斬ると言うより叩き殺すと言った方が相応しい有様で黄巾党を打ち倒していく。
本能を天賦の才で補い、日々弛まず武を磨けばこうなるという好例の一人、夏候元譲の突き込む先を邪魔すれば只ではすまぬ。
「進め進めッ! 雑魚は払って前に! 前にだ!」
夏侯惇が率いる曹操軍の兵もまた精鋭。していることは将に従い進むだけだが、その将が"大将の頸を目的とした夏候惇"である、乱れず離されないだけでも見事。
孫呉の強兵ですら慌てさせる気焔、甘寧隊に追いつき抜き去らんその勢い。
しかし迫られて尚の冷静を保つ甘寧は、嘆息して部下達に一喝。
「貴様等は燕来殿を見ていなかったのか! 忘れるほどの時が経ったのか!」
甘寧は思い出す。呉の兵士達は思い出す。
突入開始と同時、鉄棍の一薙ぎで内部の門兵を文字通り吹き飛ばした。
待ち構えていた雲霞、押し寄せる黄巾党を、雄叫びだけで震え上がらせた。
武器を構え直す敵の群れに直進し、幾度振られたか見切れぬ棍撃が爆ぜた。
嵐が明確に殺意を持って移動したなら、あのようになるのだろう。道塞ぐ敵を瞬く間に物言わぬ肉の塊に変え一顧だにせぬ……路傍の石を弾いて進む如く。
続く燕来隊は火の玉となって寄せ、突入を命じた孫策が歩く王者の道を作っていた。
「あの時、孫呉の勝利は決定した」
甘寧の声音は確信に満ちて、部下の焦りを全て消す。
我等は我等の任務を全うする……当たり前のことを当たり前に戻し、炎に彩られた夜を喧騒に包んで前を向く。呉の精兵を自負する甘寧隊員だ、あれを見ておきながら一時でも慌てた己を恥ずかしくすら思った。
「行くぞ」
鈴の音に導かれ行く。
迫り来る曹操軍を、今度こそ気にせず進む甘寧隊の姿が其処に在った。
立ち込める血風、無情刻む音の波、陽光の黄を塗りつぶす鉄錆びた赤。
見渡す限り、ただ、ただ、意志と意志が殺し合う光景だけだ。
平伏せと叩いてくる矛、死ねと突き出される槍、落とせと斬りつける剣、討ち死ねと刃を暴れさせる鉈、とにかく来るなと総動員される黄巾党からの暴力。
「破威ィイイイイイイ!」
燕来は全て砕いて全て散らす。
降り注ぐ矢を、棍の旋風を傘代わりに雨粒と模して流し弾けば一閃、突きを避けては突き返す二閃、刃は無駄と知らしめる三閃、足りねば重ねる四閃、五閃。
無尽蔵かと思わせる体力は、敵本陣へ駆ける速度を落としもしない。
「槍とはな、こう使うのだ……ッ!」
闇雲に突き出された敵槍を片手で奪い、元の持ち主の腹に石突を叩き込む。返す槍首で三人を一度に貫き殺し、膂力に耐え切れず折れた槍を捨て棍を振る。
恐怖し立ち止まる賊徒は、後方から飛んでくる矢と寄せる孫呉兵に屑とされた。
「逃げ出す惰弱は捨て置けィ。――そォら、大将首が顔を出したわ!」
それを合図に一層と励む燕来隊が、黄巾党大将旗へとなだれ込んだ。
猛火に照らされ鬼気迫る修羅の軍勢は、迎える側に現世の終わりを思い起こさせる。大賢良師を詐称する男にとっては、事実、生の終わりを意味していた。
数で勝り篭城することで不安を無理矢理消していたが、突然の火災に兵は混乱。同時に一気呵成の孫呉兵士に攻め立てられ、かろうじて執っていた指揮も今では破綻。
本物の大賢良師達――張三姉妹が居ないことを伏せていたのも拙い。今更自分が偽者だと明かしたところで、どうせ殺されると偽張角は悟り、漏らす一言。
「……無念とは言わぬ」
波才は潁川で曹操に討たれ、張曼成も南陽で孫策に破れ処刑された。張牛角が死に、跡を継いだ若造は官軍に寝返り……名のある将の悉くが、様々に消えていった。
そうすると、残った黄巾党の大半は自然とこの地に終結した。彼等を纏め上げるには張角の名を使うしかなく――本物の大賢良師を逃がした後だからこそ、彼はそうした。彼女達を巻き込まず、この乱を続けるために。
何故、火計を起こされた時点で逃げ出さなかったのか。偽の張角は何度も過去の自分を責めたが何も変わらない。逃げ出す暇を与えて貰えなかったのだと気付いたところで何になるか。自分を守らんとする部下は、今も戦ってくれている。
振り上げる拳を、意気を、剣を、巻いた黄巾を。
まだ失っていない。まだ戦える。その想いで指導者は剣を抜いた。
「……黄天は立った。そのことだけは、消えぬ!」
男の抜刀に応える黄巾の声……そこに混ざった、素っ気無い返事。
「満足したか、おう」
ごきゃ ――ッご ぎん 。
喉が潰れ頸骨が砕ける音は、喧騒にかき消える。
張角を名乗った男は、その程度の呆気ない終わりを迎えて没した。
黄巾の乱は時代に影響を与えるとしても。黄巾党の頭領が諸侯に討たれた、その結果だけが、今この時の全て。死んで潰えた黄天の世、それだけ。
男を突き殺した燕来は鉄棍を静かに引き戻し、残党を睥睨。
「逆賊の首魁は、孫呉の槍が討ち取った!」
盛大な勝ち鬨があがるが、燕来一人はそれの真似をせず、敵牙門旗の前に立つ。
四方から縄で引き地面に突き立てられた、一際大きい、本陣を示す黄天の旗。
逃げ出す残党を部下が討ち取っていく中、腰落とし両手で棍を握り、旗に背を向けるほどに上体を捻り、捻り、捻り……。
そこから解き放つ一撃は、傍の篝火を吹き消すまでの風圧を発生させる横薙ぎ。
へし折られ地に落ちる大将旗が、夜の終わりを告げた。
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倒れた大将旗を目にした孫策に追撃を命じられた孫呉の兵が、総崩れする城内外の賊を狩っていくのと時を同じくして……終幕を迎えたのは夜だけではないことに、聡明な曹操は気づいていた。自陣から敵城を見遣り、呟く。
「黄巾の乱は終わり、猿が英雄を飼う時間もまた終わるわ」
春蘭――夏候惇は旗に届かなかった。それは孫策軍の気勢が証明している。
采配が一手遅れたことを自省しつつも、曹操の胸に膨らむのは今後への期待。腹の前で組んだ手に力みが生じる愉快さを、小さな身体で受け止める。
日中、袁紹軍の攻勢に乗じていない孫策の陣から、どうにも戦火の前兆のようなものを嗅ぎつけた曹操の戦才は大したものであった。
また、彼女の武の片腕が夏候姉妹ならば、知の片腕は荀彧。荀文若の王佐の才、これに補佐された覇王の行動は、可能な限りの迅速を得たはずである。
しかして相手が、戦にかけては曹操に引けをとらぬ天才孫策。
曹孟徳に荀文若が在るように、孫伯符には周公瑾が在り、夏候元譲の勇猛は、燕呼阮の剛勇で抑えた。今宵の戦はそうして決まり、麒麟児が勝利を収めたのだ。
「次に見える時が楽しみね、孫策。それから……劉備」
今回のことで孫策の名は全土に響き、近く袁術を下すと曹操は睨む。
また、自分よりも更に一手遅れたが、公孫賛と協力体制を取っていなければその遅れが生じなかったはずの劉備も、頭角を表すに違いない、とも。
何人もの龍と覇を競い合える未来に、曹操は想いを馳せる。
苛烈な戦を望む表情、まるで恋する乙女のように。
「華琳様、申し訳ありません……!」
「仕方無いことよ、春蘭。けれど、お仕置きは与えましょうか……閨でね。ふふ」
「お待ちください華琳様! 私の手腕が足りなかったのです、罰ならばこの私に!」
荀文若、性的にも王佐の才。