四話:単騎
孫呉の重鎮、周公瑾の部屋に声が増えたのは、陽が傾きだした頃だった。
「孫子曰く、凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ……」
「……私は今、仕事中なのだが?」
許可を得て書庫から持ち出した兵法書を捲りながら包子――蒸しあがった肉まんを口に運び咀嚼、滴る肉汁ごと啜り飲み込む燕来。
「奇正の相生ずること、循環の端なきが如し……ふむ。美味い」
「はぁ……食べるか喋るかどちらかにしろ、呼阮」
最後のひとつを食べ終えて、空になった蒸籠を横に除ける男。呆れた表情の周瑜に声をかけられても、どこからか運んできた自前の椅子に悠々と座る。
「孰れか能く之を窮めんや……戦場で奇法と定石が生まれ合う様子に終点は無く、その頂点など極められぬ――との解釈で宜しいか?」
「正法で立ち、適宜に奇法を用いるのが戦の基本。だが、戦勢とは千変万化。その変化は天地に通じ、黄河の如く尽きない。完全には読みきれんと言うことだな」
午後の休憩までに処理すべき案件、その最後の一通を手に取り、燕来を追い出すことを諦めた周瑜は答えを返し、筆を走らせ仕事を終わらせる。
目頭を揉み込んで眼鏡をかけ直してから、軍師の部屋に相応しく膨大な量の竹簡書簡が整然と並ぶ自室への乱入者に問うた。
「兵法の指導は穏に頼んでおいたはずだが?」
「うむ。伯言殿に教えを請いに伺い……孫子を見せてしまった」
答える燕来は苦い顔。それだけで周瑜は理解した。
「ふむ……絞られたか」
「そうなる前に逃げたから此処におるのだ。全く、公瑾殿も人が悪い」
背高の椅子に座り机を挟んで向かい合い、含み笑いで肩を揺らす女に眉を顰め、勉学に励んでいた燕来が思い返すは先の騒動。
有り体に言えば、兵法の解説をしてもらおうと陸遜に呉孫子八十二篇を持ち寄ったら彼女が発情した。燕来は逃げ出した。
陸遜、字を伯言、真名は穏。
主に、筆頭軍師である周瑜の補佐を行う副軍師の地位に立つ女性で、黄緑色の短髪と垂れ気味な目に、ちょこんと音がしそうに小さな眼鏡をかけた、肉感的な肢体――特に豊満を豊潤させたほどに立派すぎる胸を誇る知者である。穏健な口調、それに見合った空気を持っているが、その実体は相当の切れ者。周瑜の愛弟子に足る実力者だ。
そして、未見の書を目にすると性的興奮を覚える厄介な性癖持ちということを、燕来はつい先程に身をもって知った。孫子の内容は暗記している彼女だが、写本と竹簡では細部に違いがある場合が云々と語りだし、瞳を潤ませ燕来に身を擦りつけて、熱い息を首筋に吹きかけたのだから、とにかく彼が持っていったものは初見だったらしい。
「本人は抑えようとしていたが、読ませ続ければ耐え切れなかっただろうよ」
「おまえならば穏も嫌がらないと思ったのだがな」
「生憎と、今は武芸と将才以外の甲斐性を持つ余裕などありませぬな」
おわかりだろう、と兵法書――孫子を閉じて、燕来もまた目頭を揉み解し、背もたれにゆっくりと身体を預け、力を抜く。
天井を見上げて目を閉じ、一仕事したとばかりに息を吐き出す。
「八十二篇……世の軍師達の頭にはこれが全て入っているとは。途方も無い」
「六韜、三略、呉子……他、孫子を含めこれら兵法書を学び覚えることは、我等軍師にとっては前提に過ぎん。状況に合わせた選び方と使い方によって策の上下が決まり、敵の軍師とぶつけあって戦の趨勢が決まるのだから」
「俺には真似出来そうもない……ふゥ」
瞼の裏に何を見るか、武人の声音には諦観と尊敬の念が乗る。
微笑する軍師は髪をかきあげ、そこに助言を投げ込んだ。
「何も軍師と同じ土俵に立てと言っているのではない。武力を競う将であっても、学ぶことで糧になる知識が兵法書には幾つもある、ということだ」
「それは認めましょう。読んだ分だけでも、数え切れぬほどに得心させられた……昔、学ぶ喜びを教えられた頃のように」
師と呼んだ人間の影を思い浮かべ、男の声音には懐かしさが宿る。
「ほう……? 庶人だった割には学があると聞きはしたが、気になる話だな」
「字も持たぬ子供が、己と師の名を文字で書けた時の感動は忘れられぬ……」
懐古に緩む口元から幼少を語りだす燕来と、興味深そうに頷きつつも、時折自分の話を挟み込んで話を広げる周瑜の緩やかなひととき。
途中から混ざった孫策の笑い声も流れるようになった部屋は、そのままであれば彼等の何気ない一日の欠片であったが……主君を探し辿り着いた兵士の報告が、記されずの日常を、後世に語られる孫呉第二の契機に変えた。
孫呉初陣よりしばし後――官軍を打ち破り各地で膨らんでいた黄巾党の暴乱が、孫策や他の諸侯の目覚しい活躍で勢いを衰えだしたこの時期。
そこに再び袁術の使者が現れて、孫策を迎えにきたとの報告。今度はどんな無茶だと身構えた孫呉の将達は、呼び出しから帰ってきた主君の切り出しに呆れた。
袁術曰く、冀州の黄巾党本体二十万人を撃破せよ。
兵数一万が精々の孫策軍には、正気を疑う命令であった。
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「本拠地の前に出城潰しか。肩慣らしと考えるのは見下しやもしれん」
「どうかしら。油断はしないけど、賊は賊、しかも分隊。烏合の集よ、きっと」
「個人的にだ。調練で上々だったとは言え、前回の十倍を率いるわけでなァ……公瑾殿と公覆殿は、余程俺を扱きたいらしい」
設置した陣で昼食をとった後、主君と会話を交す燕来が浮かべるのは、言葉とは裏腹に挑戦的な笑み。面白い、と顔に書いてあった。
現在の孫策軍で一千人の兵士と言えば、実際に戦場に出て戦える総兵数の十分の一に匹敵する。そう考えると、燕来は大きく出世したと言えた。初陣では百人だけの小隊を率いていた人間が、次の戦では千人を率いる一端の将扱いにされているのだから、肝が据わった者でも緊張しかねない。
だからこそ、そんな状況で、まるで一騎討ちの承諾のように獰猛に笑った男の勇は、天賦の戦才を持つ王にして武人である孫策に好感を抱かせた。
「……ふふ」
「どうした伯符、何かおかしかったか?」
「今、そんな眼ができる男だから、私の勘が逃がすなと伝えたのかな。ってね」
「……ッ。買い被りにならんよう、励むとする」
なんて顔で微笑みやがるこの女……と、思ってみても口には出さず、髪を纏めるために額から後頭部にかけて巻いていた黒白の布を結び直す燕来。赤茶色で統一された孫呉の兵鎧をがちゃりと鳴らし身づくろいする男の隙を、されど孫策見逃さない。眉下げて意味ありげな薄笑い。
「おやぁ? 呼阮、照れてる? ねぇ照れてるの?」
「ッは。女の笑顔は綺麗なもんだと改めて思い知らされただけだ」
「……そこで"おまえの笑顔"と言えないのはどうかしらねぇ」
「伯言殿の件で甲斐性無しを晒した俺に、主君兼友人を口説く余裕ねェよ」
情愛でなく友愛の気持ちなのだから、照れはしても求愛は湧き上がらないと燕来自身が自覚済みではある。が、恥ずかしいものは恥ずかしい。自然、どこかぶっきらぼうに荒れる口調は孫策をにやつかせ、舌打ちして無性に髪を掻き毟りたい衝動に駆られる男の姿が、陣中で見かけられた。
そんな一幕を挟んでの行軍は、彼等を戦場へ運ぶ。
呉の旧臣と合流する前に当たるだろう緒戦へと。
――そう。孫策達は、以前の内乱による衰退で荊州へ落ちた時、袁術の沙汰で兵力を分散させられて散り散りになっていた仲間と、ここで合流する許可を得ていた。
孫呉で二十万を叩けと言うのなら、各地に散った旧臣を呼び集める許可を出せと条件を突きつけた孫策に、深く考えず頷いた袁術……その先見の無さのおかげで自軍を楽に増強出来ると周瑜は喜び、家族的な連帯感の強い他の将兵もそのことだけは歓迎した。
討伐令を受けてすぐに、旧臣への連絡、兵站の準備、軍略作成に軍編成と十分な時間を使い、完璧に準備を終えてから出陣した孫策軍。
帝に黄巾討伐の勅命を受けている諸侯の軍勢が、疲弊した黄巾党を狙い今こそ致命傷を与えんと動く時期を見計らい、彼等が黄巾党の現在の本拠地――漢帝国北部、冀州に集う日時を計算して進軍する等、出来ることの全てをしておかねば勝利を得られない戦なのだから、当然のことをしたまで。
従って、孫策のこれは必然だったのかもしれない。
そろそろ敵の出城が見えてくる、その辺りの位置で行軍を一時停止した孫呉。
読み通り、出城から出てきた黄巾党分隊を見つけた斥候が、まずは軍師にと呉軍の中を走り戻る途中、蒼い眼をした美しい女に呼び止められた。
誰あろう己が主君、孫伯符その人は――報告を聞くや否や声を発する。
「誰かある! 馬を引け!」
それを止める権限など持たない斥候は急いで軍師達の元へ向かうが、彼が周瑜に報告をする頃には、騎馬に跨り前線部隊を引き連れて先陣を切っている孫策……抑えきれぬ覇気を突進力に変えた熱の塊、その姿。
慌てて後を追う重鎮の諌める声を退け、王の抜刀で開戦を告げた。
孫策にこれ以上待つ気は無かった。
出陣前に万全の戦備を整え、元より万全だった士気を備えた今の呉軍なら、この程度の前哨戦に対する戦術的な戦闘準備など、一瞬で完了すると分かっていたから。
王自らの一騎駆けで、この戦を始めるのだ。
無謀を可能とする力量は、将兵の武に、軍師の頭に、王の器に蓄えた。
だから孫呉に負けは無い。見敵即殺。見賊、必滅。
「押し通れ」
ご ッッッ ――岩を砕くよな一撃は鎧ごと人を壊す。
「押し通れッ」
ど ッッッ ――山を崩すよな一撃は気勢を削ぎ剥がす。
「押し、通ォれ……ッ!」
が ッッッ ――地を抉るよな一撃は一隊を真っ二つに裂く。
燕来がしていることは単純。待つべきでも退くべきでもない時は進むべきだ。
孫策の一騎駆けで戦が始まって以降、数頼りの賊軍は、孫呉からすれば押し寄せる鼠にしかならず、堤防の役すら果たせないまま燕来隊の激流に飲まれていく不様。
弱者を貪っていた弱者が強者に喰われる姿、野生の絵図が人にも適用されていた。
「俺が斬り込む、黄色の頭巾を屠りて進めッ!」
「隊長ォォ、後ろが追っつかなくなってきてまさぁ!」
「そうか、追いつかせろ」
「簡単に言いやがりますねこの人はよォ……!」
額に血管を浮かばせる伯長――彼自身の名前ではなく、一隊中の百人を指揮する者を指した役職の呼び名――の歯軋りを鼻で笑い、燕来は淀み無く進み続ける。歩み遅めず突出してしまった時には敵兵が壁となり、それを適度に蹴散らしている間に後続の隊員が追いついてくる。開戦から繰り返した流れだ。
「他の伯長にも伝令飛ばせェ。遅れたら、次の調練は俺との一対一だとな」
「遠まわしに地獄見せんぞって言ってんですかいそれは!」
「分かってンならただ進め。鼠共が崩れそうな気配、臭ってきやがった」
悲鳴をあげつつ敵兵にも悲鳴をあげさせている伯長、彼の脚を追い立てる理由は、今にも三日月描きそうに吊り上がりだした千人長の口元。
周囲を一瞥しても自分にはわからぬ気配……だが伯長は、上司である燕来を武の化身と評しており、その男が口にしたことならば疑う余地が無いと判断。崩れる敵は背すら向ける、そうなった瞬間、討伐は狩りへと変わるのだ。その機が遠くない先に生まれるのならば逃してはならないと、伝令役を走らせた。
その間にも燕来は前に前に、賊を踏み躙って。
「十歩か? 二十歩か? 足りぬ分だけ押し込めてやろう!」
開戦時、駆け出した孫策を守れと叫んだ周瑜は、両翼で包囲すると言っていた。
あれほどの軍師がこの程度の戦場でそれを失敗することなど考えられぬ、燕来はそう決めつけていた。
戦勢全てを読み切れぬと彼女は言ったが、百は読めずも九十は読み切る。
周公瑾にはそれだけの力があり、事実、燕来が押せと叫んでから然程経たず、戦場を掌で転がしたような周瑜の包囲――完成す。
「……今! 潰せッ!」
周瑜は鋭利な声で、兵士に賊を包み潰し頸を刎ねさせる一言を発した。
軍師且つ、一軍を率いる将としても優秀だからこそ行えた、敵の息の根を止める令。
密集戦術を騎兵突撃で乱され、混乱が収まらぬうちに歩兵で押し込まれ、散らされる命と陣形。そこへきてこの包囲を完遂された黄巾党の恐慌や如何に。
陣を組むにも命令系統が上手く機能せず、言葉通りの烏合の衆に成り下がる。
やがて一人、また一人と逃げ出し始めるのも栓無きこと。
「……、あン?」
崩れだした敵を見、殲滅戦に移るかと鉄棍を一回しした燕来だったが、やや後方から昇ってくる気迫を感じて片方の眉を上げた。この状況ならば孫呉の兵の士気が高いことに頷けはする。が、どうにも妙、と言うより高すぎる。彼が武人として肌で感じた気焔は、熱されすぎているように思えたのだ。
「……阮、……! ……呼阮ッ!」
左後方から届いた、最前線の自分を呼ぶ声に燕来は覚えがあった。黄蓋の声だ。
何用かあるのかと首を回す最中……彼は、目にした光景に額を叩く。
「……ッぐ、ははは! なんたる、なんたる王かッ!」
腹が捩れたと思われるほど大笑。その後、何かを探すように視線をうろつかせ、最後の足掻きとばかりに呉軍の騎兵を突き殺す黄巾の歩兵を見つけた瞬間、飛び出した。
「それを……寄越せィ!」
疾走から繰り出した突きで、呉兵の死体から槍を引き戻していた黄巾の頭蓋を砕く。
一瞥もせずに跳躍し、騎手を亡くして駆け出す寸前だった馬に伸ばす手と跨る体……暴れだしそうだった軍馬を宥め抑えて、隊長としての声を張り上げた。
「燕来隊! 後は造作も無いことよ、おまえらで存分に喰い散らかせッ!」
「え、あ、た、隊長は何やってんですかい!?」
一瞬にして馬上の人となった男は、説明の時間も惜しいのか、伯長には応えず即座に馬を走り出させる。だが、燕来の方を見ていればその理由もわかるだろう。
「なによ呼阮、私の魅せ場なのにぃ」
敵の最奥に真っ向突っ込む燕来の隣を行く一騎の騎馬。
……後方から突撃してきた孫策が、愉快そうな顔で並走していた。
燕来が気付いて馬を走らせなければ、混乱している敵兵の只中を孫策一人、王一人で駆け抜けることになっていたはずだ。彼と並ぶ直前まで、彼女の身は単騎だった。
状況が変わった瞬間を嗅ぎ取り、崩れた敵大将までの最短の途を即座に見抜き、副官や己の親衛隊すら置き去る迷い無しの速度で、自軍の兵士の隙間を抜く……眼で耳で肌で感じ、桁違いの域に達した戦勘を以て初めて可能とする、孫伯符のこの神技。
大陸中を探したとしても、こんな真似が出来る人間が、この女以外に居るだろうか。己ではまず不可能な戦場の妙を見せられ、燕来は唸るほどの賞賛をしたくなった。
一騎駆けで幕を開け、一騎駆けで幕を閉じる――実に痛快で、実に無茶。
「一度ならず二度までも! ……と、公瑾殿は怒るだろうな」
「あはは、後が怖いわねぇ……」
「伯符の邪魔はせん。が、一騎駆けでも護衛役が付いていたという話ならば、多少なりとも軍師殿の溜飲も下がろう。これくらいは呑め、ッくく」
主君の一騎駆けを目にして上がりに上がった兵の士気、それこそが先に燕来が感じた気迫であり、黄蓋が彼の名を呼んだのは、孫策をどうにかしろと言いたかったからだ。凡そ事態を把握した燕来の笑いは収まりそうになかった。
「ま、それくらいならいいか。一騎駆けならぬ双龍駆けね」
「どちらがより激しく龍となれるか競うか、伯符よ」
「ふふ……あっはっは! なにそれ、護衛じゃなかったの?」
「護る暇があれば敵を叩けと、おまえの眼はそう告げているぞ」
その返しにまた笑う孫呉の王は、ぎらついた蒼眼を隠しもせず。
「正解」
薙いだ大剣で、餌場を蹂躙した。
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「雪蓮ッ!」
「ひゃあ」
「呼阮ッ!」
「ぎゃあ」
周瑜は説教で蹂躙した。