三話:再起
「はよぅ来んか。策殿が待ちかねておる。ぐび……」
「黄蓋様、せめて杯は隠して下さい。孫策様が羨望なさろう」
喋る口元で酒器を傾けて歩く銀髪の女性は、深紫の袍の裾を靡かせ城内を進む。
袁術が孫策達に宛がったこの城は、客将に与えるにしては立派なものと言えた。袁術本人やその配下が、孫策の器を認め相応の居城と地を用意したのか、それとも太守袁術としての度量を示すためかはともかく、絢爛豪華とはいかずも内外共に堂々たる城だ。
「ここまで来れば、気にせねばならぬ部下もおらん。堅さを抜け」
「……しからば公覆殿よ。伯符の元に着くまでには飲み切ってくれるか」
「構わんが、飲み終えればもう一杯呷るだけじゃぞ」
「くッ、ははは。公瑾殿が居ない孫呉は酒浸りだとよォく分かったわ」
彼女――黄蓋、字は公覆、真名は祭――について歩く燕来は、緩く笑う黄蓋の答えにこれは処置無しと笑うしかなかったが、それが好ましいとも思っていた。
本人の気風の良さが如くさらさら流れる銀糸の長髪が振り撒く香りより、酒のそれの方が強く匂うのだから、彼女がどれだけ呑み続けているのか定かではない。それでいて孫呉の宿将たる風格も円熟した女性の魅力も霞まない器量を持ち合わせている。
大胆に背中が開かれ、また腰までの切れ込みも入った袍は、孫策と同じく江東の炎天を証明する日焼けした肌を惜しげもなく晒すが、蠱惑より壮健の色が強かった。
袁術配下の監視の目をいつものことだと受け流し、練兵場を眼下に廊下を抜けて二人が到着した執務室では、眉根を寄せた孫策が嫌々と竹簡の山を眺め、明らかに気力など失せた所作で君主の仕事を果たしている最中であった。
しかし黄蓋と燕来の顔を見た途端、椅子の背もたれに正にふんぞり返っていた姿から一転して立ち上がり、床に落ちる竹簡を気にもしないで二人に手をあげ歩み寄る。
「待ってた待ってた! の前に祭、私にも頂戴!」
「うむ、どうぞ一献」
「これはもう止められんな……公覆殿、俺も頂いて宜しいか」
「そうかそうか、呼阮は話が分かりよる。飲め飲め」
駆けつけ三杯の因習などありはしないが、三人揃えばまずは酒とばかりに一献。二人にひとつづつ渡しても、黄蓋の腰に下げた酒器の本数には余裕があった。
「一献どころか一本寄越すか……豪気な人よ」
「んくッ……んくッ……ぷはぁ。あぁ、仕事中のお酒って美味しいわぁ……」
「わっはっは。そうじゃろ、酒は人生の友よ。呼阮も策殿を見習って一気にやれい」
「応。んむ…………ッかぁああ。良い酒だ」
王が政の最終的な判断を下す部屋に溢れるべき知性と威厳は、そも孫策のあの様からして殆ど無かったが、溢れ出した酒臭さで決定的に消え失せた。
砂粒ほど残っていた良心と共にあっさり滅したそこに残ったのは、気分良く目を細め喉を鳴らす主君と将軍。そして、彼女達を止められなかった時点で、姿の見えぬ軍師様に叱られることが決定し、どうせならと自分も手を出した配下の男。
後日周瑜から降らされる雷を今はさて置いた男は、一杯二杯と酒精を食んだ身の背を壁に預けて、さァて……と、男臭い不精髭の顔を主君に向けた。
孫策に仕えてからは仕事と鍛錬の時間が増し、整えるのが面倒だと放置された髭が瑕ではあるが、彼の顔立ちは男性的な精悍さに溢れていた。濃く孕む野性味のおかげで、美しさとは縁遠いとしても。
尚、そんな無骨な男が顔を向けた相手――孫策は、一般の男性と比べても長身の部類だが、その孫策よりも燕来は拳ふたつ分近く高い六尺強、百八十センチ半ばの身長だ。この時代では十分巨漢を名乗れる体格だが、彼の傍に在っても見劣りも気後れもしない呉王と宿将。その三人で作られた空気は、外見や権威を些細と笑う親しげなもの。
孫策が当初から燕来に目をかけ懇意になっていった点もあり、この数ヶ月で彼は早くも孫呉の気風に馴染み、だからこそ呉の重臣たる黄蓋と気安く話しながら歩いたり、酒の席に誘い合う仲にまで至った。孫策とは今や気心の知れた同士である。
逆に、彼女に近しい者と、鍛錬で手合わせする武官以外とは余り接点が無いのだが、そのうち機会もあると燕来は楽観している。孫策達とこうして付き合えていれば、今のところ彼には不便や不満に思うことはなかった。
――ともあれ、燕来は打ち解けた空気の中、目を合わせた主君に問う。
「ところで伯符。何用かあったのだろう?」
「……くはぁ……、あ。そうそう。呼阮にね、準備の段階を進めてもらうから」
「なんじゃ呼阮、おぬし、宴の準備でもしとったのか?」
「いや……ああ、しかし、先を見れば。俺にとっての宴と言えるか」
察したらしい男に満足げに頷き、そろそろ大丈夫な時期だと思うの、そう言って竹簡を机の上から片手で除け、その机に腰を下ろして酒器を置く孫策。
椅子も使わず、床に散らばる竹簡が増えても構い無し。奔放を絵に描けばこうなる、の見本のような彼女だったが、桜色に塗られた爪がなぞる唇から出たのは鋭言。
「一隊を率いなさい」
**********
孫子曰く、将に五危あり。
必死は、殺すべく …… 勇猛で死を軽んじ思慮に欠ける者は殺される。
必生は虜とすべく …… 生き延びることに拘る臆病者は捕虜にされる。
忿速は、侮るべく …… 激昂しやすい短気は挑発されると軽率に動く。
廉潔は辱しむべく …… 名誉欲が過ぎる者は侮辱に惑って我に染まる。
愛民は煩わすべし …… 兵を労わる情深い者は苦労を呼び込み続ける。
「言うまでもなく必生、多分に忿速。黄巾全体で見れば稀に愛民も居るか?」
「隊長ォ。難しい話は分からんですわ」
「糞共の指揮官連中は、追い込めばすぐに逃げるか降伏するってェことよ」
「うんこはうんこ、情けねえってことですかい。それなら知ってまさぁ」
部下の隊員と品の無い会話をする燕来は、主君に隊を率いよと命じられてから三ヶ月が過ぎた今日――孫呉に招かれてから数えれば半年が経過したこの日、荊州にて暴れている黄巾党との戦場に立っていた。
黄巾党――それは、黄色い頭巾を頭に巻いた賊の通称である。
彼等の発生、その大元は約数ヶ月前に溯ると言われている。
数ヶ月前、後漢の大地にひとつの標語が流れ、凄まじい早さで庶人に浸透した。
「蒼天、既に死す。黄天、正に立つべし」
この旗標の意味するところを、横行する賄賂政治に苦しめられる民衆は、現王朝は既に衰退したと見切りをつけ、今こそ次代を求め反乱を起こすべきである、と解釈した。そして、そう解釈した数多くの民草がこの旗に賛同、蒼天に代わる黄天を示す印として黄色い頭巾を被り、官軍を敵として蜂起。王朝打倒を目標とするこの動きは、大陸中に一斉に広がる。
後に"黄巾の乱"と名付けられることになるこの乱の首謀者は大賢良師なる者で、旗標を用い民衆を率いる求心力によって彼等を軍事組織化し、勢力を伸ばしに伸ばした。
……と、これが"一般的に知られている"黄巾の乱の概要である。
しかして実情は大いに違う。違わない部分も今では変わってきている。
張三姉妹という旅芸人の人気が唐突に急上昇し、いつしか彼女達の歌声を望む聴衆が大陸で膨れ上がった。それに伴い、三姉妹の公演中、その聴衆の余りの多さに街の官憲は暴動を恐れ、解散を訴えに行くことが多くなる。
すると今度は聴衆が官憲に抵抗する場面が増え、遂には三姉妹の曲の歌詞や舞台演出の台詞を自己解釈した聴衆の一部が、漢王朝へ反乱の兆しを見せ…… と、嘘のような話だが、これが乱の発端の真実である。
当の三姉妹ですら予想外であり、こんな馬鹿げた理由だとは神でも思うまい。
更にはこの大乱に肖り"元々野盗だった者達"が挙って暴れだし、その流れに呑まれた今、黄巾党の殆どが"王朝打倒を名目にして街や人を襲う賊"に堕ちていた。
これではもう、知られている発端と概要で間違っていない部分は、実際に王朝は腐敗しきっており、民の生活は苦難に満ちて既に限界だった、という点くらいだ。
既に黄巾党は単に"駆逐すべき害"でしかなく、感化されなかった民にとって、また帝に従う諸侯や地方豪族にとっても敵である。
よって、袁術に命じられ、孫策達は荊州黄巾党の本体を殲滅することになった。
敵陣発見の報により出陣する直前の体にある孫呉、抱える熱気は大地を覆わんほど。
「敵が逃げるならすぐ終わりそうですな」
「いや、誰一人逃がすな。楽はさせねェよ」
先代孫堅から今代孫策に王が変わった孫呉、その初陣であるこの戦の重要度は高く、圧倒的勝利――誰一人逃がさず捕らえず皆殺し、庶人の怒りを晴らして名を上げる――という結果を掴む必要があると、目線が高い者ならば気付いていた。
先日の調練中にふらり訪れた孫策に告げられた通り、燕来隊は彼女を近くに見る前線で佇む。最先鋒の呉王の後ろで時を待つ空気は、獣と対峙した狩人の緊迫感に近い。
当初は二十人から始まった隊員数も今では百。五人の分隊長にそれぞれ二十を与え、全体を統括する燕来を長としたこの隊は、初陣の最前線でも浮き立たない。
「うんこ共が逃げ出す前に捕まえればいいんですかね?」
「逃がさぬ策は公瑾殿、……周瑜様が考えていらっしゃるだろう」
「ああ、呼び直さなくても燕来隊の分隊長は全員、隊長が周瑜様と字で呼び合ってるの知ってまさぁ。ついでに前の休みに黄蓋様と酒酌み交わしてんのも見ました、肩なんか叩かれちまっててまぁ、妬ましいんですがどうしやしょう」
「知るか阿呆」
緊張感を台無しにする分隊長を、燕来は一睨み。兵士として浮き足立っていないのは良いことだが、訓練の賜物がこの軽口を招いたと思うとやるせない。
されども戦前の今、空元気や虚勢ではなく、自然体でこうしていられる自隊の部下達を、燕来は心強く思う。彼等の目には焦りや怯えが見えず自信と芯がある。
加減したとは言え、黄蓋や孫策に助言を受けつつあれだけ扱いたのだ、こうあるのも当然かと笑みを浮かべ……そして百人隊の隊長は、肩で遊ばせた鉄棍を強く握る。
「まさかもう右手で周瑜様、左手で黄蓋様を揉み比べて」
「おまえは戦の前に死にてェらしい……が。命拾いしたな」
口は達者でろくなことを言わない部下の筆頭を燕来が軽く小突き、視線で開戦の合図を伝えたのは、自軍に向き直った孫策が兵隊を見回すのと同時。
それだけでもう、誰も彼もが口を噤んで彼女に注目する。
周瑜、黄蓋、陸遜らと不適に笑っていた孫策は、一際立派な馬に跨り剣を抜いた。
「勇敢なる孫家の兵達よ! いよいよ我等の戦いを始める時が来た!」
掲げた長剣、南海覇王の両刃が蒼天を映し煌めく。
「新しい呉のために……先王、孫文台の悲願を叶えるためにッ! 天に向かって高らかに歌い上げようではないか! 誇り高き、我等の勇と武を!」
五千の兵の視線を一身に受け、出陣宣言は続く。
対峙する黄一色の賊を無法無体の獣と断じ、剣を振るい矢を放ち正義を示せと王の言を以て命ずる。奮える軍声、震える大地、膨張する熱気。
「全軍抜刀せい!」
じゃらららららららららららッッ――剣が槍が弓が、黄蓋の一声で牙と化す。
黄天信ずる貴様等を滅ぼすと、黄巾睨み鉄牙を剥く。
兵士全ての意気を背に浴びて、孫策は敵を睥睨し、大きく息を吸い込む。
「―――― 全軍」
剣が鋭さを放ち、槍が穂先を光らせ、弓が弦を絞り、馬が蹄を鳴らす。
周瑜と陸遜、軍師二人が知謀を脳裏に走らせ、将軍・黄蓋が馬上で大弓に矢を番え。
そして燕来、その黒鉄で地を叩き、配下共々前傾に構え口元を引き締めた。
叫ばれる王の号令。
今、孫呉は再び走り出す。
「 突 撃 せ よ !! 」
孫策達の言い様で怒り猛る黄巾党の将達は、この相手がこれまで撃退してきた官軍とは勝手が違うことに、遅まきながら気付き始めていた。
官軍の兵数が自分達より多かった場合も、王朝への憎悪を持った党員の気概と、殺し奪う楽な生活を続けたいがための執念で、一気呵成に潰せたのだ。寡兵の敵など、黄天の旗の元に大波となって押し流せば軽く蹂躙出来る。敵軍の将は美しい女、捕えた後の楽しみもあるといやらしく哂っていた。
ところが、である。
「この孫伯符自ら殺してやる、獣には過ぎた褒美よ!」
先鋒を率いる総大将の馬上剣が、いとも容易く黄色い頭巾の頸を刎ねていく。褐色の肌を紅く彩るのは黄巾の血だけで、本人の流した血など一滴も無い。
一糸乱れぬ騎兵と共に、賊軍を切り裂く鋒矢の陣が道を拓く。
尤も、陣形と呼べずも、馬の進路を迎撃して塞ぎ包囲殲滅すべきと、乗り越えてきた戦から自然と身に付いた勘で動く者が黄巾党にも存在した。
だがそれを行う余裕は与えてもらえない。鋒矢の前後で本物の矢が飛んでくる。
「ふん、一度に一匹では面倒じゃ。纏めて死ねい」
一射で一人、二射で三人、十度射たなら十五は斃れ伏す。
一度の射撃で二矢放つ黄公覆の多幻双弓、強弓鋼矢を番え放ちて頸を貫く。
配下の弓隊も射殺した敵の屍を無尽蔵に積み上げ、呉王孫策の露を払った。
迎撃を潰し防御も間に合わせぬ疾風迅雷、雑草を処理する如く命を刈り取る孫策軍の精兵に対し、黄巾の一般兵士は怯えるか錯乱するか、でなければ無謀な攻撃を行うことしか出来なかった。
将も将で、腑抜けた官軍と違う"本物の精兵"とどう戦えばいいか判断出来ず、震えの混じった大声張り上げ、倒せ殺せなんとかしろ、と怒鳴るのみ。
弱者を虐げ、欲に任せて略奪していただけの賊徒が今の黄巾である。
庶人を省みぬ国の兵士ではあるが、賊を討伐することは正義だと官軍は信じていた。その正義がぬるま湯の意思だったから、黄巾は官軍を打ち倒すことが出来た。が、軍団として鍛えられた真に力ある強兵が、心服する主君の号令の下、義を掲げ強固な意志で襲い来る――これに抗う術は、無い。
孫堅の代から付き従う古強者や、孫策の器に魅せられた若き雄、孫家こそが我が主と誓う者達が、昇陽の瞬間を胸に雌伏の時を過ごしてきた。消せぬ屈辱を過酷な鍛錬へと昇華し、家族を想う心を勇気に変え、孫呉への信奉を宿らせた武器を手に、やっと踏み出せた一歩が初陣を飾る……その強さたるや、実戦を重ねた諸侯の軍にも劣らない。
孫伯符の孫呉は、初戦にして既に覇軍の煌きを放っていた。
そのような兵を相手にして、黄巾党の将は誰もが敗戦を認め、生き延びる術を考える方向に走った。降伏すれば命は助かる、だが、逃亡すれば命も助かる。その考えが浅慮に過ぎたものだと知るのは、その将の命が失われる時であった。
「ま、まず、拙い……もう逃げ、」
ぐち ゃ 。
「次ィ……」
無造作に振り回された鉄棍が指揮官の顔を潰す。
その一振りで同時に周囲の五人をも叩き殺した燕来の脚は止まらぬ。黒光りする鉄瞳で戦場を見据え、騎馬と弓矢が拓いた道を広げにかかる。
「死体ってなぁ歩くのに邪魔なもんですな」
「死んでまで邪魔になるなんて、賊は本当に塵より役立たずです」
「隊長ォ! 偉そうな糞が居たら俺達の分も残してくれって言ったじゃねえか!」
しかし何故俺の隊は口が悪い奴ばかりなのだ……伯符の親衛隊は守るべき君主と違い性格も規律正しい者達だと聞いたのに、俺の下は規律を守っても口調がべらんめえだ。十秒に一度は軽口を飛ばす。悪童上がりにも程がある。
戦中にそんな思考を持てるほど、燕来には余裕があった。
個の武勇を魅せる機会もやってこない、というより必要もない戦場であった。燕来は隊の纏め役を意識し、少数精鋭としてどう動けばいいのかを覚えることが今回の主目的だったのだから、それだけを考えれば良い。
本来、五千の兵中、百名だけの小隊が前線で勝手に動けば邪魔にしかならぬ。
故に孫策の指揮に合わせた行動が求められるのだが、彼女自身は騎馬隊を駆る……となれば、歩兵隊全体を率いる将の判断を仰ぎ、小隊として動くべきである。
しかしここに、王は軍師を説得して無茶を通した。
呼阮自身に考えさせ、好きに動いてみせてもらおう、と。
彼の将器を推し測るのだと。
完璧な勝利を得るには不必要、弊害にすらなる提案に、周瑜は軍師として当然反対。その反対を押し流したのは、今後を見据えて必要だと言い切った王の言。
来る群雄割拠の時代、千で万を打ち破らねばならぬ状況が訪れる事態もあろう。
その時兵士に必要なものは、何としてでも苦境を勝ち抜く自信と、それが可能であると信じさせてくれる傑物の将。この際、兵士は少数で構わない。
だからこそ、その将、その傑物に必要なものは、勝つために考えられる頭と――
「数にも策にも屈しない……圧倒的な"何か"よ」
告げる孫策に、そんな状況は私が作らせない、と反論する周瑜だったが、孫策は一歩も退かず、遂には一言で捻じ伏せた。
「時には孫武を呆れさせる必要もある、か。ッがはは、よくも言ったものよ」
「何ですかい急に。気持ち悪ぃですよ隊長……ッと!」
思い出して呵呵と笑う男に暴言を吐いた分隊長は、刀を振り上げた敵に槍の一突きで血を吐き出させ、走り続ける隊長の後を追う。
縦横無尽に暴れまわるのではなく、敵軍に開いた傷口を見つけて刻み、また塞がれた傷口を見れば再び開かせ、傷が必要な箇所は突き破って血路を繋ぐ。
やがて見えた孫策、先鋒騎馬隊。
「よォし……馬より速い燕来隊ッッ、改めて構えい!」
唇吊り上げた隊長の一言で、分隊長以下全員の心が定まる。
今この時、自分達は軍馬より迅速に駆ける兵であると。
「疾く駆け疾く抜き疾く殺せ」
先鋒騎馬が馬首を返すために突き抜けた空間に、討ち漏らした残党が立っている。
其処へ飛び込む燕来が切っ先、続く兵士が刃の群れよ。
「我等一本の槍と成せェェェい!!」
騎馬が戻るより速く、鋭く、悉く疾風――斬り込む穂先が鉄棍を突き入れ、続く刃群が槍で貫き剣で掻っ捌く。倒れる黄色の布は真っ赤な雨に濡れる。
屍山血河を築き上げ、突貫していく鋼の殺意が死を撒いた。
**********
「後詰も向かった。望みうる最高の勝利だな」
口調とは裏腹に、眼鏡の奥の鋭い眼は油断無く敵陣を捉える。
女の姓は周、名は瑜、字は公瑾、真名は冥琳。
主君と同年代だろう彼女は、その主君同様、孫呉に多い褐色の肌を赤紫の際どい衣装で晒しており、四肢を覆う透けた黒の薄布が余計に色気を際立てる。豊満なれど締めるべき部位は確り引き締めた長身の肢体に薄絹を巻きつかせ、艶めく長い黒髪の端を桜色の織物で結うことで、少々の可憐さをも含んでいた。
才色兼備の周瑜だが、特にその非凡な知能は孫堅存命の頃から抜群に優秀と知られており、孫呉の筆頭軍師を担うのに相応しい。実際、彼女の視線の先で赤々と燃える敵陣そして敵軍は、周瑜の策によって焼き尽くされたものである。
孫策軍に撃滅される寸前で退却する黄巾党、その機を逃さず両翼から放たせた火矢がこの地獄を生み、悲鳴を銅鑼代わりにした呉軍が総攻撃を仕掛けていた。
「雪蓮が言い出した時はどうなるかと思ったが……」
眼鏡の奥、怜悧さを隠せぬ碧眼にたたえられる安堵、浮かぶ微笑。
「成し遂げたのだな……ふ。ならば呼阮、遠慮はしない」
鍛錬や戦働きを周瑜が見た限りでも燕来は、その名も高きかの飛将軍を終生の好敵手と定めた者に相応しい武力を持っていた。彼個人の武威に心配が無用なのは明白。
半年間の交流で知った人間性も、"孫策と付き合ってきた周瑜にとっては"問題は無いと思える範疇の危険性が一点あったのみ、それも武力の源に関わる点なのだから、無理に正して個性を損なわせる必要性を感じなかった。
それ以外の部分で、詰め込めるものを詰め込んで磨かせれば良い。
そう、我が王の望み通り仕上げてやろう。
軍師としては聊か皮肉だがな、と、周瑜は笑みを深めたのだった。
「隊長隊長! この腰帯、女の匂いがしまさぁ!」
「おまえ死ねよ」
「焼かれる前で良かったですわ、本当に」
「おまえ死ねよ、本当に」
燕来も笑みを深めたのだった。拳を握りながら。