二話:異才
右脚を前に出し、両膝を軽く曲げ抜力した右半身の構えをとる。
右手は鉄棍の半ばを緩く、左手は杷――棍の根元、一番下――から拳四つほど空けた辺りを確りと掴み、前を向く。
「すゥ………………はッ」
呼吸と共に周氣――氣を体内で巡らせ、右手を強く握る。
すぐさま実在しない仮想敵の腹へ放つ突き三本。風巻いて三連、一点集中。
直後、瞬きの間も与えず左脚で踏み込み、握りを緩めた左手を、手中で棍を滑らせるようにしてその中央まで辿り着かせる。同時に、右手もまた棍を滑って梢段――先端から全体の三分の一までの部分――まで移動させるが、右腰の脇を目指して引き寄せることも忘れない。
するとどうなるか。杷段が左から右へ、敵の右脇腹を叩くのだ。
「散ッ」
更に、一歩退いて棍を回転させながら、左手はまた杷段、右手は中央へ滑らせ、その勢いを速度に変える。
今度は右から左へ、顎の高さを振り抜く一撃が放たれ……続けては流れるように手首を返し、また左から右へ、脚を掃い倒す旋撃へと繋ぎ、腰の後ろまで振り抜いた右逆手状態から両腕と両手首を回す、回す、回す。
身体に張り付き花開く如く、上下左右に縦横に、何度も回転する棍。矢が飛び来ればその一切を弾き落とすだろう風車は、下手な鎧より信頼出来た。
やがて、ごう、と空気が唸り、打ち出されるは下段突き。
「打ッッ」
突き出した棍を引き戻し右脚で強く踏み込めば、次に閃くのは上段からの叩き落し。
跳躍と共に大きく振り上げた凶器で叩き伏せ、そして捻転。
鈍色の鉄が百八十度の半月描き、背後へ振り向きながらの薙ぎ払い……から、その棍を地面に立てるようにしつつ身体を浮かす――鉄とは逆の半月担って右後ろ回し蹴り。
遠心力を殺さず、着地の爪先から脚を通し腕に伝えることで力と成せば最後。
今まで作ってきた捻転全てを乗せて頸へ放つ渾身の突きは、
「呵ァァッッ!!」
捻り螺子られ空間ごと貫き殺す。
ぞっとした。
それが孫策の正直な感想である。
中段三連突き、脇腹打ち、上段払い、下段払い。
舞棍を挟み下段突き、上段打ち下ろし……そして大薙ぎ払いから旋蹴へと繋ぎ、最後に上段突き。一連の動作は淀み無く。
練武の目撃者――孫策は、背を駆け上がる怖気に悦び拳を握る。己が武より……否、今まで見た誰の武より強く獰猛苛烈、なのにまだ先へ至れると訴えていた。
これがどういうことなのか、孫策は己が目を疑ったものの、一度現実であると認識をしたのだから、どのように生きてきたのならば現状を生み出せるのか等々考えることは無駄だと悟る。彼女は性格的に、問えば済むだろう問題に時間をかけることを厭う。
「今まで何で生計を?」
「はン? 農民、狩人、傭兵、料理人」
「ふゥん……最初と最後がここまで似合わないのも珍しい」
先程から断続的に聞こえる風を切る音が、歓迎の曲が如く気分を盛り上げてくる。
身が疼く前に形にしたい、そう訴えてくる心に従い孫策は会話を続ける。
「何故、あなたの名がこの私に届いてないのかしらねぇ」
「しッ……ッは。知らんよ」
「あのね。姓は孫、名は策、字は伯符なのよ、私」
ぴたり。
天から地へ振り下ろした鉄棍をブレひとつ無く静止させ、男――平民の服にざんばらの黒髪をのせた燕来は、会話が始まって以来初めて、左後方の孫策へ顔を向けた。
否、誰かが後をつけてきていると気付いてから初めて、であった。
「はッ、はは。まさかの孫伯符だ……随分と艶やかな」
練武を止め、黒瞳で彼女を一瞥した燕来が笑い零すは素直な感想。
十五の成人を迎えてから五年ないし七年……ざっと二十代の前半だろう美女。
その長い薄桃色の髪も、この地域に多い褐色の肌も、蒼い双眸も全てが日に照らされ輝いている。明るい赤紫の袍――日本では所謂チャイナドレスと呼ばれているそれを、変形、というより最早別物だろう程に切れ込みを入れ露出だらけにした際どい服装も、高身長且つ美しい均整を保つ孫策にはよく似合っており、釣り目と相まって鋭くも女性らしさを失わない色香があった。
朝から目の保養だ、などとやにさがるもつかの間、燕来は己の顎に手をやった。
姓は孫、名は策、字は伯符。
大陸を流れる長江の下流域である江東で瞬く間に名を上げて勢力を広めた孫堅、その長女にして、志半ばに戦死した孫堅の勢力を引き継ぎ統率している稀有な人物であり、武人としてもかなりの腕前。孫堅戦死時の内乱により、基盤であった江東の支配を荊州南陽郡太守・袁術を中心とした諸侯に奪われ、今は袁術の客将に甘んじている、が。
孫堅の出身地である楊州呉郡を始め、孫堅が賊を鎮圧して回った江東の民の多くが、現在も孫家に対して敬服しているをことを考えれば、さて……。
と、以上がこの地、荊州で足を止め暮らしている期間に燕来が耳にした話で、そんな人物であると名乗った彼女に対して浮かぶ疑問を、率直に口に出す。
「この地を訪れてから、俺は鍋を振り包丁を握っていただけよ。問いを問いで返すが、その俺を追ってこんな川辺まであの孫伯符が来た理由が分からん……此処は街に近くもなく確かな道もなし、流水弾けるのみ。挙句、俺が街を出たのは日も昇る前だ」
ひとつ頷き孫策、簡潔に答える。
「勘よ」
朝日の映る水面を背後に、不自然な点を挙げ連ねた燕来を一言で断ち切る女。その顔は当然のことを喋っただけの極めて自然、夏は暑いと告げるに似たそれでしかない。
呂布との一対一から数年が経ち、当時よりも身長が伸びて厚みも増した身体は大きく高く、筋肉の鎧を纏った雄に成長した燕来だったが、その肉体を飾る質素な服は庶人のものと何ら変わらず、黒い鉄棍を持っている以外、一見しては非常に体格の良い平民、または休暇中の一般兵としか見えないだろう彼を、勘が働いた――只それだけでこの女は、御供もつけずにひとりで延々と追って来たと告げたのだ。
彼女が本物の孫伯符だとしたら、成る程、大器と噂される者は常識外を生き、どこかおかしいらしい……そう燕来が思っても否定はしづらい事態と言えるか。
「であれば更に問う。何故俺の名が届かなければならないか」
「私の仲間は優秀だし、他所で名が通っていた者がこの地を踏めばすぐに知れること」
「そら、自分で答えを言ったぞ。つまりは俺が、通る名を持っていなかっただけよ」
「それよ。その答えが出ることがおかしい、って言ってるの」
そう、この男が名を上げていないことが腑に落ちない……目の前で長い鉄棍を、手足のように、ではなく、自前の手足として、身体の一部として扱ってみせた男だ。技量が計り知れない人間なのだから――そんな彼女の考えを、だが男は否定する。
「孫文台は高名だ。して、孫伯符は大器と噂されるが、国中に知られているや否や」
「――成る程ね」
未来の小覇王は、そういうことかと一応納得する素振りを見せた。母の名と比べれば孫伯符は未だ地に伏していることなど、己が一番知っている。知らざるを得ない。
同様のことが自分でも在り得るとこの男は言いたいのだろう、察したがしかし、これで完全に納得して終わる孫策ではない。彼女には誰にも持ち得ない才がある。
「なら、それはさておいて。たった今思い出したんだけど――」
人さし指を唇に這わせる孫策の表情は、悪戯を思いついた子供のようで。
「以前にね、凄まじい強者だ、って者の話を聞いたの。それも、二人」
続く言葉は半信半疑よりも確信側に傾いた声音で放たれた。
「まず、ここからは遠い地の者だけど、確か、……呂奉先。知ってる?」
「……その武威ごとな」
「そう。遠方への用事で寄った酒家で、偶然に小耳に挟んだ……それも、古い噂か作り話なのか、軽く話してすぐに別の話題へ移っていた程度の、そしてそれ以降は再び耳にすることが無かった噂だったけど。ふふ、実在したのね――呂布と同格の武人」
そうでしょう? 二人目の豪傑。そう言わんばかりの笑みに。
燕来は呆れた顔で、未知の何かを見せられた愉快さも含め両手をあげた。
「これも勘だとしたら、真実あなたは大器だな」
**********
男が負けを認め、名を交換し手頃な石に座って女と話し始めてから程々の時が過ぎ。
即席の昼食を軽く腹に収めながら再開した会話は終盤を迎えていた。
「条件?」
互いのことを聞きあう話も佳境に入り、いざ孫策が切り出した本題に暫しの間を置き燕来が返した言葉――仕えるには条件が、聞き届けて貰いたいことがある――に、彼女は小さく首を傾げた。
「ああ。こうして話してみれば、あなたの器は頭領に不足無いものだった。俺の態度を不遜と取るような狭量とも無縁……己が目的、野望も語ったその上で、自らがこの俺に仕官せよと願ってくださった」
光栄だろうと続ける燕来は、そして、と一呼吸置き。
「その勘が導いたこの出会い。面白すぎて断れん」
「あっはは、そういうの好きそうな感じする。それで、条件……私への望みは何?」
「どうも将として求められたようだが、俺には兵を率いた経験など殆ど無いのだ。将器があったとしても、将の心得を学ぶには時が要るだろう」
串に刺して焼いた魚で胃袋を満たしつつ、孫策が尻尾を咥えたまま尋ねると、焚き火の後始末を行いながら燕来が頷いた。
尻尾を飲み込み話の先を促す彼女の正面――焚き火跡を挟んで向かいあう形の平たい石に改めて座り直し、何やら考える傍ら棍を引き寄せ、地面に己の名を書いていく男。名に続き出身なども綴られるそれら文字を見て、ある程度の学はあるのだなぁ、なんてのんびり考える孫策。今までの会話内容を思い返せばむしろ当然かもしれない。
「あなたには追いかけられたが、本来俺は追いかける方が好きでな」
「ふむ。んー……伯符で良いよ、呼阮。畏まるのも、今はいいわ」
ツバメって印象じゃないわね、などと付けたしながら、孫策はついでとばかりに自分の呼び名の訂正も図る。あなたと連呼されるのはむず痒かったらしい。
ならば、とまた頷く男。僅かだけ堅くしていた口語も対等のそれへ直しながら。
「俺が幾らか学び、とりあえずの将となるまでの間があれば……あれは龍となり翔けているだろう。そして俺は、虎は一息で天まで噛みつきに行くってェ寸法よ」
「へぇ……呂布は龍、か。それで呼阮は、江東の虎の再臨とでも呼ばれる気?」
将になる前提で考えている燕来に、己の武がどれほどのものかは理解しているのね、と笑いながら、孫策は組んだ両手の甲に顎を乗せた。
「それは伯符の役だろう。剥ける牙があれば何でもいいよ、俺は」
「ツバメよりは余程似合うわよ、虎……ともかく分かった。力を蓄える時間が欲しい、そういうことね? いいわよ、その条件飲みましょう」
さらり通った条件に、ほう、と存外の声を漏らす男。
「我が孫呉の初陣もまだ、だから。私達も好機を掴む力を蓄えている最中なの」
孫呉――それは、孫文台が祖となり作り上げた勢力の名である。
彼女の生前は、勢力下に置いた地も含めて孫呉と呼ばれていたが、袁術や豪族に領地のほぼ全てを奪われた今では軍名・集団名に過ぎない。
天下に覇を唱え、呉の大地を取り戻すのだと孫策は語った。
その話に納得した燕来はその後も幾つか要望を話してみたが、眉も顰めず少し考えるだけで是と頷く孫策に、迷いも嘘も見られなかった。
ここまで優遇されると逆に勘繰りたくなるが、対面で優美に座し見つめてくるその瞳を燕来が覗けば、勘繰りは下種の様と恥じるべき誠実が浮かんでいる。
「私からは特に無いけど……うーん、可能なら武術指導くらい?」
「これだけ言っておいてなんだが、俺にここまで好き勝手させて良いのか?」
「別に良いの。気付いたら私と孫呉のために動いてるだろうから」
孫策の言い草は、どうでもいいと放置する冷淡な投げ捨てとは違った。言うなれば、やれるものならやってみろと同義。表情も挑発的で確信的な――良く言えば燕来の忠心を手にするとの宣言で、取り様によってはおまえを飼いならすとの大胆な宣告だ。
これに笑わず何に笑えと言うのか、燕来は呵呵大笑した。
「――がははッはははは! おかしな気などおこさせぬと言うか、伯符よ!」
俺の奥底の性が悪性やもしれぬ、孫家の風儀に合わぬやもしれぬ、伯符からどこぞへと差し出すやもしれぬ、家臣に誅されるやもしれぬな――と、そこまで言った燕来が、数えたならふたつみっつとまだ出るだろう可能性を挙げる言を区切ったのは、変わらぬ余裕で動きもしない孫策の姿があったから。
これも一太刀で切り返せるのか?
その予感は外れず、男はまた両手をあげることになる。
「ばかね。虎の棲み処――安住の地は、江東と決まってるのよ」
今度は呆れたような顔ではなく、笑って、参ったと告げながら。
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「雪蓮……何度言ったか数えるのも面倒だが」
「なら言わなくていいからねー冥琳?」
「良いわけないでしょう。一人や二人でもいいから……」
「――勘に従ったの」
孫策の部屋を訪れた周瑜は、懇願混じりで叱る言葉に理由を重ねられ押し黙る。
親友の勘は最早才能であることを一番近くで感じ続けてきた彼女は、機嫌の良い孫策の顔を見て早々に説教を諦めた。溜息ひとつ零すことで、感情と言動を切り替えることにも慣れたものだ……さりとて皮肉のひとつも混ぜたくなる。
「供も連れず場所も知らせず、半日以上も出歩いたに相応しい結果は出た?」
「袁術ちゃんの監視も撒いて、暫く声かけるのを我慢した甲斐があるくらいはね。明日紹介して、吃驚させてあげるから期待してて」
「紹介……そう、わかったわ」
周瑜と孫策は仕える者と仕えられる者の関係ではあるが、呼び合う真名に込められた親愛は臣君のそれだけではない。許可無く呼べば斬首も免れぬ真名を、主君と両親以外に捧げる意味、つまりは信頼の証が十二分に在った。
それは、短い遣り取りだけで概ね理解し合える阿吽の呼吸、断金の交わり。軽く欠伸をして褥に転がる孫策の姿に、微笑みを浮かべ周瑜は部屋を出た。
おそらくは初顔合わせとなるだろう誰か――孫策が見出した人間がどのような者かと想像しながら。
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「おま、こら呼阮! 辞めるたぁどういうことだ!?」
「どうもこうもねえよ。俺は明日から高給取りだ」
「面白いこと言うねおまえふざけろ。明日から誰が鍋を振るんだ! ええ!?」
「給仕の乳見てる時間と尻見てる時間を削って店長が振れよ」
「それじゃあ店長やってる意味がないだろう!」
「うるせえよ薄ら! 毛ェ散らかす以外の仕事もしろよほらァ!」
「ハゲを略すな痛ッ! おまこれ抜けッ抜け痛ァ!」
一方その頃見出された人間は毛を抜き散らかしていた。
※後漢代の地方行政に関して※
作中で使われている、この時代の行政区分に関して簡単に書いておきます。
後漢全体が十三の"州"に、州は各々が五~十二の"郡"に、郡は多数の"県"に区切られました。
漢の大地は、これら十三の州、約百の郡、約千二百の県で区分されていたことになります。
郡の長官を"太守"、県の長官を"県令"と呼び、太守を監視する職として州に"刺史"が置かれます。
更に、行政監察官である刺史は、黄巾の乱が鎮められて以降、"州牧"と改名。
州牧には兵権と州内統治権が与えられ、名実ともに州の長官となりました。
他、郡と同格の"国"や"諸侯王""国相"などは、本編に出てこないのでここでは省略します。
詳しくはウィキペディア「漢代の地方制度」「後漢」のページ等をご覧ください。