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【未完】牙喰らい  作者: 蜂八
二部
17/17

十五話:獅子吼


 膝穿つ黒色の鋼、銀刃に掬われ目的成せずも、くるり踊りて叩き落としに変化。

 半歩下がって避ける呂布、目の前を通った棍の風切りに感想を一語。


「……昔より速い」


 地を踏み締め、互いに一撃一撃の重みが増した飛将と烈将。一打合わせる度に武器が甲高い悲鳴を上げ、腕は軋み氣は迸り、土を削って戦場を舞う。


「そらァな。証明すると言っただろう、がッ!」


 中央寄りに握った両手がその時々で梢に滑り杷を利用し、刃を弾いた瞬間に棍が廻旋を始め逆側から打擲せんと続ける様子は、万物の流転を鉄で表現するかの如く。指揮官という枷を外され、体力の長期的持続という抑制を解除し、そして馬上という最後の鎖を引き千切った男の連撃に――呂布は思う、光すら弾き返しそうだと。

 "如何にして殺すか"を発露させた燕来の武芸は一撃が完殺の威、それは馬上槍で知ることが出来ていた。しかし、必殺たる初手は、本来は後の十手にまで繋がる研鑽された一手であったのだと、攻めあぐねながらも彼女は理解した。


 即死させるに十分な威力と速度の一打を本気で放っておきながら、そこからどう連携するかを予め何通りも用意し実行出来る。それはつまり燕来が、自分の渾身でも倒れぬ可能性の高い相手――呂布を想定して鍛錬を行っていた裏づけであった。


 遥かな高みに到達せんと磨かれた武。

 だが今は、呂奉先を倒すためだけに磨かれた武でもあると思わせる。


「やっぱり軽くなかった……でも判ってた」


 少し器用な自分と戦っている、そう考えれば良い。それでも押し通る。

 そう決めた飛将軍のすべきことは、いつもと何も変わらない。


 武を求められたのならば。

 恋と言う名の少女は眠り、呂奉先は只、敵を屠る矛で在る。






**********


「間に合ったわね……いいなァ。愉しそ」


 孫策がその場に辿り着いた時、紅黒の決闘は中盤から終盤へと移り変わった。

 接戦を繰り返していた両軍勢も、二人の対決の熱に中てられたのか引き摺られたか、散発的な決着と大多数の膠着に落ち着いて、対陣の中央に龍虎を迎える。


 地上戦に移行後、都合二十を越えて打ち合ったが両者倒れず、掠り傷はあっても勝敗を傾けるほどの一撃は入っていなかった。但し、本来の地力を隅々まで活用可能な環境になった燕来が、五手に一手は呂布を防御に専念させる密度で押している。

 馬上の不利を地上の有利にて面目躍如せんと――あれが燕呼阮の全力だと思われたくない意地を燃やし続け、にも関わらず威勢の衰えぬ呂奉先の武力に熱狂し、興奮と歓喜で燕来の猛攻は激化を継続していた。


「これが三万を蹴散らした腕か! これが飛将かッ! ぐはッはははッ、はァ! 強い強い強い強い、おまえはそれでも人の身かァ呂奉先――ッ!」


 横っ面を叩く右上段払いを防がれ、梢段――棍先端側が跳ねるも、地面へ垂直に腰を固定した燕来の身体はぶれを起こさず、弾かれた反動を利用して鉄棍を引き戻し、反撃が来るより疾く鳩尾を抉らんと差し込ませる逆手の中段突き。


「うるさい……ッ、おまえには言わせない」


 大口開けて笑う燕来の台詞が呂布の癪に障った。左脚を軸に右半身を引き、打ち込みを避けたつもりだったが、薄く皮膚を焼いた痛みは攻撃を避け切れなかった証拠。

 苛立ちが身を固くしたか。袈裟に斬り込みながら、呂布の脳裏に往日が()ぎる。


 飛将軍の生は常に、異端を忌避する視線に晒されていた。

 そんなもので心を折る呂布ではなかったが、いつしか現れた理解者達のおかげで他人と交流する世界になってからは、冷えた昔を思い出さずに済む温もりを知った。


 その呂布に対して、"同じもの"が、どの口で人外だとほざくのか。ほざけるだけ余裕のある人生を送ってきたとでも言うのか……この戦で呂布達が負ければ董卓軍は落ち、彼女に温もりをくれる理解者もいなくなる。友達も奪われる。

 解ってはいた。けれどそれを思い出した瞬間、一気に噴き上がり滾った怒りを、仲間を守る強さに変えて、呂布は全身に漲らせた。


「恋が、みんな守る。おまえは邪魔――ふッ!」

「ぐ……ッ、重くなりやがったかァ……!」


 国、民、家族、友人、仲間――他者を背負う重責は、人を強くする。

 守護の一念に充たされた袈裟斬りの重みは、防ぐ燕来から反撃の余裕を奪った。これを切欠に呂布が積極攻勢に転じる。肘を廻し、放つは追撃の逆袈裟。

 上体を逸らし紙一重でそれを逃れた燕来が、はらりと落ちた己の前髪を踏み潰して前に出んとするところを、させじと断ちに来る方天画戟――そして散る火花。


 両端を握った棍を頭上で横に掲げ、三連撃の最後を弾き退けた男の両脚、その爪先は地面を浅く抉り、後退を最低限に留める。しかして呂布と燕来のこの間合い、棍を使うに悪くはないが、戟を振るうに理想的であった。

 呂布にとって、穂先で突くにも刃で斬るにも、踏み込み一度で過不足無く調整出来る最適解。それは燕来と棍術にとっては、多角自在に目前なれど遠い距離。


 この一歩差を保つことが仲間を守ることに繋がる――そう信じた呂布は、直感と反射神経を総動員して燕来を近寄らせない戦法を貫く。実力に開きがあっても、己の得物にとって有利な間合いさえ保っていられたなら格上を打倒可能なほどに、戦闘においての間合いは重要だ。


 呂布以外が相手であれば労を承知で得意距離に踏み込む燕来だが、多少苦労する程度ではあの戟に叩き斬られるのが目に見えている。これまでの、そして今現在の打ち合いから実感出来る分、それは推測より上、予知に近い断定。

 故に心に重石を乗せ、一打返すごとに指先分だけじわり、じわりと詰めた。


 濡れた紙の上に立ち、破かぬよう、進展に気付かれぬよう進むが如き牛歩。

 塵を積もらせ山と成し……そうして足の裏ひとつ分、距離が縮まった時。


「しつ、こい……ッ」

「――焦れたな?」


 やや大きな踏み込みと、決めにかかる強撃用の振り被り。呂布の気が逸り、その二つが重なった瞬間――これを待ちわびていた燕来は前傾姿勢で急襲、肉薄。

 一対一での同格に慣れず、その上で友の生死を焦慮しなければならなかった呂布は、普段の冷静さから少しだけ外れてしまった。望んだ好敵手との激戦に高揚し猛りながらも、敵を打破する行為そのものは理性的な燕来――幼少時に師から学ばされた忍耐を、武術の中から消さなかった男との差が出た果てである。


「シィ、ッ!」


 戟の適正距離より内側に切り込んだ武人の両手が、棍中央に滑りそれを回転させる。下から跳ねる棍の杷段――根元側で、振り下ろされる戟の柄を叩いて止めた。

 続けざま燕来は手首を返し、回した梢段で顎を狙い振り抜く。終結を導くがための、所謂"詰み"となる即効の一手だ。威力を削り精度を重視したこれで頭を揺らし……


 否。


「 ご   ッは ァ!?」


 苦悶の声を漏らしたのは燕来。

 腕と鎧の隙間を縫い、脇下に突き刺さった呂布の左拳。強撃を止められた際、その後の流れを予感して戟を放していた左手――棍の影に隠れたそれがみしみしと骨を打つ。


 柄を棍で叩かれ戟から剥がれた呂布の左手を視認した際、燕来は、決着を急いだ大技の煽り故に、柄に届いた棍撃の重さを然しもの呂布でも受け止めるのは敵わず、片手が外れてしまったのだろう……と、瞬間的に判断していた。

 だが。押さえ込めなかった反動で痺れているはずのその左手は今、逆に燕来の全身に痺れを走らせ、一瞬だが確かに彼の動きを止める。焦燥を理性で衝かれ生んだ不利を、飛将軍は経験と野性で覆した。


 更に、拳を放つと同時に引いていた右腕が、息もつかせず男の鳩尾に戟の柄尻を突き込み振り払うことで、彼の胸前にあった鉄棍を除けつつ、戟の最適距離に戻す。

 失態に呻く燕来。紛れも無く、一瞬で呂布が詰み返した流れだった。


「死ね」


 先の失敗を教訓としたか、過度に振り上げはせず、だが鎧とその下の骨肉を断ち切るに十分な予備動作から、飛将・呂奉先の斬撃が唸る。腕が邪魔して頸は狙えなくとも、彼女の剛力ならば防具は無意味、真一文字に燕来の胸を切り裂く斬閃。


 黒鎧が真っ二つに割れ、分厚い胸から赤々とした血が噴出した。

 戦場に咲く血華、飛沫と散って。






「――――呼阮ッ!」


 切羽詰った孫策の叫び声が間近で聞こえ、彼女の傍で前線全体の戦況に目を光らせていた士官は、咄嗟に中央の二人を注視する。そこには、燕来が斬られ仰け反っているという、孫呉兵士の殆どが目を疑う光景があった。


 呉の人間は燕来の武勇をよく知っている。特に士官級の者や燕来隊士は直接に指導を受けていたし、それが叶わぬ他の兵達も、演習で彼と刃を合わせ肌で実感していた。何より、汜水関で一人対軍勢の実演が行われたばかりである。

 董卓軍の飛将、何するものぞ……対陣前にそう息巻く声は多かった。


 重臣達の大半も、噂でしか知らない呂布の強さより、目の前で見せられた燕来の破格の武力――常軌を逸する"何か"を上に置いていた。一騎討ちにさえ持ち込めれば、最悪勝てずともこの男が敗れることはまず無いと思っていたのだ。

 呂布を疎む者達と同様、燕来の異常を敬遠する者が孫呉にも――孫策や周瑜の言行に抑えられてごく少数だが――居たのだが、その者達ですら燕来の不敗には積極的に否を唱えきれなかったのだから、呉の共通認識と言えよう。


 これは、再起以来の常勝が生んだ、孫呉の慢心である。

 問題が起きても孫策の立ち回りと軍師の策、将兵の強勢を以て残さず解決してきた、または解決の見通しを立てていた彼等が躓いた初の事例。目下の未来もありえると想像していた例外は、孫策、周瑜と陸遜、かろうじて甘寧や周泰、といった中核組のみ。


「俺が見ているのは……現実か?」


 兵士の一人が頬を抓り、そう呟きを落とすのも仕方がなかった。


 馬で飛び出すのを自重する孫策の左手は掌に爪が食い込み、右手は王剣の柄をきつく握り締める。黄蓋が居れば、矢を放てと命じていたかもしれない。

 それは全軍の士気低下を免れるには正しい援護だが、しかしこれは一騎討ちである。正々堂々たるその形式で始めた以上、勝負がつく前に手出しをすれば、武人の誇りは地に墜ちる。――それを理解していても、孫策は燕来の死を防ぎたい。


 とは言ってもこの時。

 彼は援護など必要としていなかった。


 仰け反り苦悶の表情で歯を食い縛りながらも、燕来がふらつかせた腕の先には、鉄棍を決して放さない五指があり、緊張する肩が反撃の予兆を見せる。


 呂布の一撃を受ける寸前、燕来は鳩尾を突かれた余波を利用して一歩後ずさり、自ら背を反らすことで即死を避け、致命傷未満の痛撃にまで押し留めた。飛将の武威に対し防具は無意味なれど、将校用の鎧は兵卒のものより厚みがあり、そのほんの僅かな差がこの修羅場では命を繋ぎ、反撃の牙を生やす貢献者になりえた。

 未だ倒れぬ、従って手出しは無用と、鋭くなる燕来の表情が言外に語っていた。


 踏み止まり、流れを引き戻す返しの一閃――今こそ。


「ッがあ あッ――――」


 されど……そんな燕来の希望を、右脚を振り上げる呂布の姿が打ち砕く。


「無駄」


 棍が薙ぐよりも速く、最短最速の一挙動で霞む脚は、いっそ無慈悲に男の強情を刈り取った。呂布の横蹴りが肉を叩く鈍い音は、吹き飛ばされていく燕来の耳に酷く明瞭に聞こえた。腹が立つほどにだ。

 割れて落ちた黒鎧が、勝負は決したと伝えているようだった。


「がッ――――! は、ッぐ……げェ、ェ……!」

「おわ、ってェ、こッ、呼阮の旦那ァ!?」


 孫策軍側の最前で観戦していた旗持ちの騎兵は、吹っ飛んできた巨体にぶつかられて落馬し、掲げる燕旗を揺らがせた。落馬しても完全には旗を落とさない仕事人ぶりが、精強の選りすぐりである旗手を務めるに相応しかったが、血反吐で土を汚す燕来を一目見て救護に回ろうとする気遣いは、燕来本人に必要とされなかった。


「旦那、しっかりしてくれ! 陣に戻れば軍医が居る!」

「かッ、は……要らん。ぐ、……旗ァ置いて離れろ」

「勝負はついたんだ、残した頸を――」

「三度は言わねェ、……離れろッ!」


 憂虞を跳ね除けるほどに余裕が無い燕来――彼の向いている先に、死神が如く斬首の戟を担ぎこちらに疾駆してくる呂布を確認した旗手は、かろうじて呻き声をあげることだけは堪えた。

 また、どうにか膝をつかず中腰気味で立っている烈将の眼には、庇おうものなら邪魔だと拒否するのは確定的な意思がありありと浮かんでおり、それ故、旗手に出来たのは燕旗を地に立ててから退くことだけであった。


 旗手が口さがない人物だったら、燕来は誇りのために死ぬのかと尋ねられただろう。しかし、そんな重傷の彼に向かっていく呂布の思考は、目的を果たすためにここで難敵の息の根を止めねばならない――それのみであった。目は口より物を語り、剣は何より己を語る……燕来という男の様々な覚悟など、呂布にしてみれば一合交えた時に解っていたことでしかない。

 殺したはずの斬撃でまだ生きていたから、あの状況下の最速で打てる次手――蹴りに繋ぎ、仕上げで今度こそ殺す。それは燕来が棍術で行っていた連携と同じ論理であり、即ちこの戦いを通じて呂布が吸収し、戦闘中に成長してみせた結果だ。


 そして、呂布とは別に燕旗へと向かう女も居た。孫策である。

 呉王の証、南海覇王を片手に提げて懸命に馬を走らせる姿は、敵には恐怖を刻みつけ仲間には限りない慈愛で接する孫伯符の本質、その片方を象徴する実像。


「ここで死なせてあげるわけ、ないでしょう……!」


 燕来が斬られた時点では辛抱したが、直後に蹴り飛ばされた瞬間、旗手が思ったのと同様に燕来の敗北を認めた孫策は、我先に飛び出した。

 弓兵に射掛けさせるには遠く、近場の槍兵に男を庇わせても恐らくは戟の邪魔にすらならない。どちらにしても結局は彼の頸を刎ねられるのならば、相応の武力を誇る自分自身が愛剣を薙いで間に飛び込むことこそ、時間の限定された現状で燕来を延命させる唯一の方法だと判断し、彼女は駆ける。


 どよめきは耳に入れず、ひた走り……王の跨る馬が跳んだ。

 南海覇王の斬り払い、鮮やかに。






**********


 曲げた膝に手をつかず、胸の傷を押さえず、顔は俯けない。酷く不恰好だが、手中の鉄棍は杖代わりに身体を支えるものとは断じて違う。作り出されてから、持ち主が死ぬまで、死んでからも未来永劫に武器だ。一身に鋼だ。

 使い手はそう主張し、血化粧の施された唇から荒い息を吐き出そうが、胸から腹まで垂れる紅に染まろうが、決して武器を武器以外の用途で使おうとしなかった。


 右手側ではためく自家の旗を一瞥し、それきり燕来は呂布を待つ。

 旗手に煩わしさをぶつける不様な真似をした時、燕来の心事は走馬灯のように様々なものが流れていた。孫策への情と義、周瑜への謝意、部下達への責と見栄……呂布への感服と敵愾心。

 最終的に、男は深く深く息を吸い込んだ。感情を飲み干し身体中に覚えさせる。後はもう、こうして繭に包まれたような静謐の心を保つだけ。


 その在り方を見た呂布は、最期まで戦人を貫き通す男の誇りを受け取った。

 故に、彼女が武人として伝える餞は実に呂布らしく。


「……―――― 散れ」


 華々しく、一刃で命を絶ってやることが、飛将の示せる最大の敬意。

 呂布の視界の端に、横槍を入れんと駆け寄る孫策を捉えたが無視する。あの距離なら間に合わない、己の手で好敵手を葬る方が速いと確信を持ち、間合いに入り――


 予期しないことが起きた。


 戟を振り上げる彼女の紅い眼に、男が姿勢低く背中を向けている姿が映ったのだ。

 痛みと疲労に耐えられずよろめいた……そんなはず、そんなはずは無い。最期なればこそ何が何でも耐え抜くはずだ。背中の傷で死ぬ武人の恥にこそ耐えられぬはずだ。

 何故、背を向けているか。


「――ッくぅ!?」


 勝つためだ。


 背面へ跳躍しつつ、垂直気味に高く放たれた左の後ろ回し蹴りが、振り下ろしの始動に入ったばかりの戟の中心部――柄の中央上部を高く蹴り上げた。

 "死に際に背を向ける"という、ありえないことを見せられた当惑と疑問によって一瞬の緊張を起こした呂布は、踵の骨に皹が入るほどの膂力を注がれた蹴撃に対処出来ず、柄から腕を通して肘にまで伝播してくる衝撃に声を漏らした。


 膝が折れそうになるのを耐えている、そう錯覚させつつ、跳力を溜めに溜めていた。それが燕来の真実で――当然、最期を覚悟してなどいない。諦めていなかっただけだ。それこそ何が何でも、この一騎討ちに勝ちたいだけだ。


 身体を捻り、呂布へと向き直りつつ右脚から着地していく燕来のやや後方に、跳ねた馬上で王剣を一閃した孫策が見える。彼の敗北を認めたはずの女は、最後の最後で燕来の顔を目にして、その双眸に生きる炎が宿った瞬間、馬を跳ねさせる向きを変えた。

 呂布から救う方向を、仲間が邪魔しない方向へ。


「あは……ははッ、……あッはははは!」


 大笑する彼女の周りで一斉に落ちる、切断された矢――それは、孫呉の慧眼・周公瑾が密かに用意させていた数名の弓兵が射た、燕来敗北時に彼を救うはずの矢。呂布との間に降って衝立となるはずだった矢。

 その全てを一閃で斬り落とした孫策の喜悦、拍手代わりに虎へと届く。心胆を包んでいた繭を憤激の業火で消し炭にし、鉄瞳鋭く呂布を睨む燕来、その人へ。


 傷口から血を撒きながら、燕来は右の爪先を地面に捩じ込み回す。次いで、高く高くと上げたままだった左脚を、剛力の斧として地上に叩き落とすことで極大の踏み込みに昇華――地に響き浅く陥没させる、大震脚。

 がちり、奥歯を噛み合わせる音がした。


 爪先から足首、膝を通り腰で合流して背骨を駆け上がり、開いた肩から、弦のように引いた右腕、肘、前腕へと流れていく捻転……震脚から発した勁力。掌を上向ける右手に握られた、強靭を示し叫ぶ黒鉄の棍が震える。


 これに生命と氣を上乗せし、放つはかつて呉王に怖気を覚えさせた一撃。

 呂奉先の心臓を喰らい破らんとする、渾身の。


「――――呵ァァァアアアッアアアッッ!!」


 捻り螺子られ空間ごと貫き殺す、燕呼阮最大の"突"。


 風を貪り音を貪り、左胸を抉りに来た凶突。阻まねば死ぬ。

 厳然たるその事実に呂布の身体は思考より速く動く。黒い鋼が胸を穿つ寸前、両腕が反射的に胸を庇い、構えた戟が棍を妨げ、そして……噛まれ、弾かれる。

 硝子を鉄で引っ掻き削り取るような衝突音、発生する火花。


「ん、く……――――ぁぐッ!?」


 捻れを帯びた棍は戟刃を削り、やや軌道を逸らされながらも押し切って弾くと、次は呂布の腕に噛み付いた。左の前腕に突き刺さり、ぐしゃりと圧し折って尚も喰らう獣。更に逸れた軌道は左肩口へ伸び、骨に痛打を与えながら彼女の細身を吹き飛ばす。

 痛みに喘ぐ声が離れると共に、方天画戟も宙に弾き飛ばされた。


 地を踊る両脚を立て直し、倒れる前に砂塵巻き上げ踏み止まった呂布が視線を戻す。

 大股で五歩は離れてしまった其処には、引き戻して振りかぶった棍で、回転しながら彼の頭上に降ってきた戟を叩き落とす燕来が居た。


 刃から地面に刺さった戟へ、軽く前に出した棍をこつりと触れさせ、胸からの血飛沫を清めの水が如く浴びせた男は、可能な限りに肺を膨らませて。


「――呂奉先の、その牙はッ!」


 戟をなぞった棍が横に振られ、風ではためく燕旗を叩き。


「孫伯符の将、燕呼阮が。死中の焔で、遮ったァ……!」


 孫策軍と呂布隊の双方に向けて叫ばれた勝利の宣言は、ざわめきと静けさが奇妙な形で混同していたその場に、うねるような勝ち鬨と怒声罵声を呼び起こす。

 燕来や呂布の名を叫ぶ者、腹の底から大声を張り上げる者、結果が信じられず呆然と立ち尽くす者、悲喜交々あれど、誰よりもこの事態を信じたくなかった者は、呂布隊側の前線で声援を送っていた、呂奉先の専属軍師であった。


「呂布、殿? ……呂布……恋殿! 恋殿ぉ!」

「陳宮様、お戻りを! ……くッ、火矢隊整列! 番え……放てッ!」

「お二人を護衛して退却だ! 虎牢関まで戻れなければ各自散開、銅鑼鳴らせ!」


 呂布が勝利した後に追撃なり退却なりで使えるからと陳宮が準備させていた火矢は、号令を下すべき軍師が傷ついた主の下へ馬を走らせてしまったので、士官の現場判断により退却開始の補助として使われることになった。それでも彼に陳宮を責める気は余り無く、然もありなんと呟いたのみであった。


 撤退に移る彼等の正面では、燕来の隣まで馬を歩かせた孫策が剣を掲げる。

 両軍前線の間に一時的な柵の如く降り出した火矢、これの数が減り勢いが弱まりだすのを待ってから、刃先で炎を反照し、喧騒に負けじと声を張り上げた。


「孫呉の精兵よ! 燕来の一念、その眼と魂に焼きつけたか? ――ならば進め!」


 天に向けた両刃剣を振り下ろし、彼女は真っ直ぐに虎牢関を指す。


「燃え盛る焔をッ、折れぬ不屈を魂魄に宿したのなら……貴様等は今、燕呼阮に劣らぬ烈士となった! 敵は等しく塵と示せッ、獅子のように吼えよ!」


 女性の高い声とは言え、流石に孫策は王である。力強さに溢れた檄はよく通り、瞬く間に孫策軍前線に行き渡って、指示出しと後方への伝達が始まった。

 呂布隊を追撃し、叶うならその勢いで虎牢関へ突入、洛陽まで一気に進軍――という指示だったが、追撃はともかく洛陽進軍は二番手以降になるだろう、と軍師達は冷静に考えていた。理由はあるが、今は語る時ではない。


 龍虎の宴終結から少し遅れ、華雄が張飛に討たれ……それ故に騒がしくなった横手も含め慌しく動き出す前線の中心で、燕来もまた動く。






「――――奉ォォォ先ッ!」


 右手で肩を押さえ、苦痛を訴える左腕をだらりと垂らし、陳宮の涙声に何度か大丈夫と答えていた呂布が、大声で呼ばれそちらを向くと、燕来が長戟を担いでいた。大きく振りかぶり投げられたそれが、狐を描いて呂布の近くに突き刺さる。

 何の真似だと訝しむ彼女に、男は徹底して武狂いだった。


「桁を外れ、更なる高みでまたいつかッ!」


 自分の相棒を忘れてやるな――左手の鉄棍を肩で遊ばせる彼の心の声はそんなところか。持つべき主が生きているのに、武人の魂を奪うなど論外。昔より、今より、一段と異質に成って再見を望む。その意思を一言に縮めて告げていた。


 何か返答しようにも呂布は上手く言葉に出来ず、頷きひとつで返す。

 怒気、憤慨、称賛、驚愕、自責……等々、どれを表せばいいのか分からなかった。


 その後、今にも燕来に吼えんとする陳宮の背を撫でて促すと、やってきた護衛騎馬に引き上げてもらいながら、彼の後ろに座る。手を伸ばして無言で引き抜いた方天画戟、その柄を無事な右肩に担ぐと、生じる重みに己の一部が戻ってきた感覚を得る。

 護衛に囲まれ、退却の路に紛れる彼女が燕来を振り返ったのは一度だけ。絡む視線は数秒で途切れ、呂奉先は戦場を去り、燕呼阮は戦場に残る。


 その後――

 全盛の士気で追撃にかかる孫策軍、その前曲が己を追い越してから、燕来は俯いた。

 檄を飛ばしてからは何も言わず傍に居た孫策が、下馬をして彼の肩に腕を回す。


「……そろそろ、いいよなァ。伯符」

「ええ。お疲れ様。正直ね、私も我慢の限界」

「はッ。次も、約束しちまったからよ……頼む、わ」


 それを最後に意識を失う男を、両腕で確り引き寄せ抱きとめた孫策、叫ぶ。


「――呼阮を我等の陣まで運ぶ、手伝えッ! 軍医には重傷の者がすぐに運ばれてくると伝えよ! おまえの腕が孫呉の勇名を左右すると!」


 呂布を吹き飛ばした直後に倒れていては、一騎討ちの勝者を名乗れず、孫策軍の士気もこれほどまでには上がらなかっただろう。今すぐの安静を必要とする傷を抱えながらも、前曲全員が吶喊するまで燕来が態度を崩さなかったのはそのためだ。

 相手の武器を弾き飛ばし腕を折るという明らかな勝利は手に入れた。しかしその実、刈り取られた強情を武人の意地で覆い、気迫と貪欲で瀕死を無視していただけの燕来。生命活動の危険度で言えば、敗者は彼であろう。


 例えるなら、敵の王は殺せたが、自軍は重要な城を幾つも奪われた――そんな状態の男を抱え、孫策は形相に悲を浮かべず行動するのが精一杯であった。気絶した燕来を背にもたれさせ――我等がやりますと燕来隊士が名乗り出たが全て断り――落とさぬよう紐で自分と括った呉王は、すぐに戻ると告げ、その間の前線指揮を甘寧に回させながら一心に陣幕へと馬を飛ばす。


 これで死ぬような男ではないと、孫策は確信してはいたが。

 一刻も早く閻魔の下から引き戻し、目を覚まして早々周瑜から無茶を怒られるだろう燕来の背を叩き、笑ってやりたかった。それだけだ。

 自分で運ぶのが一番速いからそうするまでのことだと、彼女は少し嘘をつく。


 難攻不落、大陸一の砦、虎牢関。

 英傑集う大戦場は、こうしてその幕を下ろした。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

申し訳ないことですが、諸事情にて未完とさせていただきます。

力不足にて。

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