十三話:正念場
紅黒再臨が起きていた時に前後し、虎牢関を前にした戦場の各所でも、各々が天王山を迎えていた。この時点での董卓軍の勢力は、孫策軍と対峙している鬼札の呂布とその補佐陳宮を除いても際立った将が三名は存在し、継戦に充分であった。
その有能な将の一人が張遼――張文遠。
先行した呂布と華雄を追って関を飛び出して以降、追いつく手前で曹操や袁紹の軍が張遼を包囲しに現れてからも、神速の女は連合軍二大勢力を相手に一歩も退かず、時には翻弄すらしてみせる熟達さを惜しげもなく披露した。
翻る群青色、閃く赤い柄、龍刀鮮やかに、碧玉揺ぎ無く。
「遅い遅いッ遅いで袁紹ォ! 立派なんは鎧だけ、デカいんは声だけかい!? そないどっしり構えたいんやったら、好きなだけウチの背中ァ眺めとれ!」
狙いを定めた完全な迎撃や、人の波で圧し切る方法を採ろうとしても、自由気侭な風は捕らえることが出来ない。ほんの僅かの隙間があれば入り込み、固まって守ろうとも横合いから殴りつけ、追ったところで触れる頃にはその手をすり抜ける。
張遼隊はそんな風の気質を持ちながら、そよ風の甘さが欠片もない旋風。こうも見事に速度を保ち、隊全体をひとつの個として律する張遼は噂以上の良将か。
が、翻弄される側の袁紹軍が弱兵かと問われたら、それは違う。
財力に群がる凡庸な者が多いとは言え、数とは暴力。人数という分母が大きければ、質という分子も増えやすい。名門を支える高官が屑ばかりなはずもなく、弱者か強者かで区切れば後者の分類に入れても否とは言われないだろう。
相応に優秀な将が平均的な兵士を纏めあげ、軍全体に回す防具の質も水準以上を誇る袁紹軍は、正面からの大人数による戦法で王道を歩めば、無類の強さを発揮出来たのは間違いない。――但しそこには"包括的に考えた範囲ならば"という一言が付属する。
これが虎牢関の戦いである故に、金色の軍は優勢に立てない。
漢の大地を揺るがす大戦が、並の戦と同じはずも無い。ここで勝利を得るためには、並大抵や平凡とは縁を切った力量か、突出した何かが求められていた。
「ああもう邪魔、邪魔ですわ! さっさと捕まえなさい!」
「そうは言ってもさ、姫ぇ……」
「どうしてあの速さで乱れないんだろう……はぁ」
黄金に輝く鎧の海の中、主の感情的な声に耳を傾ける顔良は疑問と溜息を零す。砂塵を弾きそうに艶々しいその黒髪が揺れ、戸惑いを表した。
先ほど探した時には袁紹軍の側面を削っていた紺碧の張旗が、今は袁紹軍前曲を横撃の形で駆け抜けている――馬術に長けた者が多い董卓軍だろうと、幾ら何でも張遼隊の速度と秩序は化物染みていると、袁紹軍二枚看板の一人を以てしてそう思わせた。
「それに、あれだけ走り回っているのに歩兵の動きと連携がとれるのはおかしいよ……ねえ文ちゃん何であんなこと出来るのどうしてなの張遼さんは背中に目が在るの!?」
「おお落ち着け斗詩、落ち着け! えーと、そのだな、あー……あ! 曹操!」
「あら、ちんちくりんが戻ってきましたわね」
語調を強めて詰め寄る顔良を片手で押さえながら、苦し紛れにふらつかせた瑠璃色の瞳に映った曹の旗――これ幸いと誤魔化すように曹旗の長の名を叫んだ文醜につられ、彼女の視線を追った袁紹が口を挟んだことで会話の主題が変わる。
袁紹軍とぶつからない距離まで前曲を進め整然と並ぶ曹操軍は、暫し前に一度張遼隊に貫き通されており、それ故に袁紹は"戻ってきた"と表現していた。
どの諸侯より早く張遼を叩きに行った曹操だったが、初の槍合わせで縦横無尽な驍将に陣形を崩され止む無く後退。彼女の軍が体勢を整え終えた時、既に張遼隊は、曹操と入れ替わるようにやってきた袁紹軍へ突き込んでいる最中であった。
「ふん……今更戻ってきたところで、この名門ッ、名門袁家の大軍団が小生意気な敵を華麗に討ち取る場面を見学するだけのことですわ。おーっほっほっほっほ!」
袁家頭領の高笑いが響くその頃。
曹操陣営には、敗残者とは思えない強気な表情の主君とその重臣が在った。
「今頃あの女は、敗走した者が何しに来た、などと笑っているでしょうね」
「ですが、そう思えば思うほど、私達には都合が良い……予定通りです、華琳様」
「ええ。良い策を示してくれたわ、桂花。好機は一度限り……だがその一度を逃すようでは、この先の覇道など歩めない。――さぁ、狩りの時間よ。春蘭、秋蘭!」
天色の瞳にぶれの無い芯を携えた曹操の命に御意と頷き、小柄な彼女と対照的に長身の夏侯姉妹がその場を離れる。姉は右翼で剣を抜き、妹は左翼で矢を番え……曹操軍の両翼と言われる二人は、文字通り前曲の翼を担い動き出した。
彼女達の舞台は、袁紹軍の側面から垂直――真っ直ぐ進んだ場に、彼我の距離を考慮して進軍し停止した。それは駒を配置する感覚に近い。
一見して遠間から控えめに機を伺う勢力、しかして実態は否。
「っしゃあ抜けた……で……って曹操!? んにゃろ、懲りずにまた来たんかい!」
袁紹軍の前曲を横撃で突き抜けた張遼騎馬隊の進行方向には曹旗、そして夏侯の旗。斜めに受け皿を作ったような夏侯旗と夏侯旗、色違いのそれの片割れが隊全体で即座に弓を高く構え、時間差を使いながら、鏃の磨かれた矢を降らせる。
降らせ続ける――
「ん? ……ッ、ちぃ、お前ら、曲がるのやめや! 直進せェい!」
――曹操軍の側面に回ろうとした張遼隊の、鼻先に。
馬の鼻先を掠めるに留まった矢の雨はまるで五月雨、落ちて終わらぬ流水が如し……もしも張遼が気付かず走っていたのなら、雨に打たれた彼女達は瞬く間に数を減らし脚も止まり、曹操軍の突撃を受けただろう。
故に続くは夏侯淵の静かな称賛、静かな宣言。
「ふむ……流石は神速の張文遠、この程度に当たりはしなかったか。だが、その先へは進むこと叶わずだ。――やれやれ、あれだけの量を降らせたとなれば、拾い集める後続には苦労をかけてしまうな。これで終わりでもないのに」
水より濃くて青より薄い、空色をした髪が風にそよぎ、それを撫でつけて夏侯姉妹の妹は薄く笑った。皮肉を孕まぬその笑みは、肉感的な美しさよりも機能美の風情を纏う彼女の涼やかな印象を強める。赤系統を基調とした戦装束の姉に対し、青系統の衣装が映える夏侯淵は、五月雨を生み出す役には似合いと言えよう。
顔の右側を隠すように垂らした前髪の隙間で、緋色の瞳子が驍将を視ていた。
神箭手に観察されている張遼はと言えば、袁紹軍と夏侯姉妹軍の間に生じた空隙から回り込む術を矢雨で断たれ、しかして後退するには背後の金色が邪魔であり、虎牢関側の迂回路を選ぶにも自隊の歩兵が妨げとなり、余儀なく直進。
つまりは曹操軍右翼――夏侯惇の待ち構える修羅の地へ飛び込んでいく。
立てた槍を一斉に下ろす槍兵の中央で、戦場の指揮棒――剣を対岸へ突きつける赤き餓狼、夏侯惇。腰まで伸びた黒髪は陽を浴びて輝き、響く主の大声で蝋色に踊った。
七星を冠する刃が知らせるは鉄火か修羅か、狼牙の味か。
「来るぞ来るぞ張遼が来るぞ! はァーッははは! いなせいなせ!」
「なんやえらい元気なんがおるな……さっきの矢ァは夏侯淵やろし、もうひとつの夏侯の旗でこんだけ喧しいちゅうことは、猪やて有名な姉の方かい。ッは」
正面から懐に斬り込むことになった相手が豪傑だと知った張遼、鼻鳴らし不敵に笑う姿は強敵と再び出会えた喜びからであろう。一度は崩した曹操軍の前線が、勇猛で名を馳せた夏侯元譲に率いられて復讐を果たしに来たことが、戦況で考えれば良いことではないと理解しつつも、武人としての張遼に欣幸を覚えさせていた。
隊の頭が放胆なれば従う者も右に倣う。倣えるだけの度胸と腕を持っている張遼隊士に怯えは無く、隊長の背中を瞳に収めながら、ある者は無言である者は笑い、ある者は冷静にある者は果敢に、その先に広がる敵軍へと、ひた走る。
そして、激突。
「おうッらァァアアア! 加減せんで抜いたれッ!」
戦士達に各々が相棒として磨かれた馬は、刃の鋭さを知りながらも恐れない。精兵の堅さや人の敵意を知っていて恐れない。背に座る主人が手綱や脚を通して下す命令が、自分と共に戦い生きる意志なのだとわかっているから恐れない。
主を信頼する馬、愛馬を信頼する主――こうして董卓軍の軍馬と兵士は強靭な騎兵へ至り、敵兵を踏みつけ散らして疾く強く。騎馬の真髄、速さを見せつける。
「華琳様の兵たる貴様等が、この夏侯惇の下で負けることは許されんぞ!」
対して夏侯惇隊の勇士はどうだ。槍での掃いひとつ取っても練度の高さが伺え、騎兵の突撃に一歩も退かず敵を見据える胆は鍛えられた証。あの張文遠に率いられた騎馬隊相手にその姿、最早それは勇気ではなく蛮勇だと笑わば笑え、我等の底力は無理無謀を覆す――それは言外、眼で告げられる彼等の本心。
崩れぬ迎撃、止らぬ騎兵。
両者は退かず、馬は貫き槍は弾いた。正面から前線に突き入り斜めに抜ける騎兵と、正面から迎え撃ち斜めに逃がす迎撃……これを言い換えれば、張遼隊を外へと"いなす"夏侯隊。
先に夏侯惇が叫んだ指示は完遂された。
騎馬泳がせる受け皿の槍、修羅の地より獄へと贄を送らん。
「ん、な……―――― して、やられたっちゅうことかァ……!」
疾駆する張遼は、夏侯の旗を置き去りにしてから、足りなかった何かに気付いた。
曹操軍全体を把握するに至れなかった己の力不足に臍を噛み、背後へ首を巡らすが、そこにも彼女が欲していた光景は在らず……悔しげに叫ぶ。
「横から来るでェ! 張遼隊、耐えッ――」
「――させないッッ!!」
命令が先だったのか、否定が先だったのか。
それは、物と物が、者と者が、覇権を賭けてかち合う轟音。
響く衝突の音色。
夏侯惇隊の裏……即ち曹操軍の後曲にはためいていたはずの、"曹"の牙門旗。それを掲げる部隊が、砂塵をかき消し一撃で張遼隊騎兵の大部分を飲み込んでいた。
真っ先に馬群へと突き刺さったのは、曹操や袁術より尚も小柄な少女が投げつけた、体躯に似合わぬ巨大な厚い鉄塊――表面に陰陽描く重円盤。
「ようこそ張遼さん、悪来典韋が歓迎します よッ!」
胸部、腰部、それと膝から下以外は覆わぬ軽鎧に手甲姿の彼女は、細すぎる腕に全く似合わぬ破壊的な武器を、赤く塗られた太い紐一本で引き戻しながら堂々名乗りて指揮を執る。厚く大きな円盤二つを重ね、その間に紐を巻きつけた得物を片腕で操る、黄緑髪の少女――曹操軍で一、二を争う腕力の持ち主、その名は典韋。
主君から悪来の二つ名を冠され、その名に恥じぬ怪力で幾度も兵を打ち倒す。
そういった戦勢の流れを、牙門旗の下、伝令と物見、自身の目を使って確認していた曹操だったが、銅鑼が鳴らされるより早く夏侯惇隊から飛び出した隊長を目視したことを最後に、ゆっくり、満足げな笑みと共に瞼を閉じる。
張遼隊の歩兵は、巧みに位置を変えた夏侯淵の指揮する矢壁で抑えられていた。彼女の妙技は、同時に袁紹軍の乱入をも防いでいる点だ。そして騎兵には典韋の重撃が襲い掛かり、乱れた隊を纏めんとする驍将自身の前にはやがて餓狼が現れるだろう。
金色の海から抜け出した駿馬を、雨で遮り坂で疲れさせ、最後に柵で転ばせる。
打ち手は曹操、棋譜は荀彧、駒は両翼と悪来。この献策を採った際に、参加する将達に告げた言葉を、曹操は今ここでもう一度、確かめるように舌に乗せ。
「この戦場で最も速く吹く風を、私の前に連れてきなさい」
**********
張遼が黄金の海を嘲笑い、曹操が罠の作成にかかり始めたのと同時刻。
呂布を除いた董卓軍の際立った将三人のうち、二人目の女が激昂していた。
「いつの間に……どうして奴等が此処に居るのだッ!」
暫し後に張遼が浮かべることになる心境――夏侯旗を抜けた先の牙門旗を見た瞬間に滲み出た、驚愕と疑問――を、彼女よりも先に味わった華雄の怒声。
率いる隊に轟く怒りの原因は何なのか。それは孫策軍の横撃で呂布隊と切り離されてから、早々に潰して終わる予定の袁術軍に粘られ、少々の焦りが兵に出始めた、という辺りで伝令が叫んだ報告にある。
「り、劉備の、劉旗の軍が突撃してきます!」
それは華雄隊にとってありえないことだった。公孫賛と共に、賈駆の軍勢へ向かっていったはずの劉備軍が何故……虎牢関の正門付近では、未だ賈旗と対峙する公孫と劉の旗が健在であり、賈駆が両軍相手に奮闘しているのは間違いない。
――が。間違いなかったはずのそれが間違いであったと理解した謀士の伝令が華雄隊に届くのはまだ先で、動揺が広がる彼等に劉備軍が突貫した後となってしまう。
種を明かせばあっさりしたもので、公孫旗の傍にある劉旗は本物なれど、その実そこに劉備軍の大部分は居らず、旗と陣形で水増しされた虚兵だった、というだけの話。
これは当然、伏竜鳳雛の描いた策である。
孫策達が虎牢関から董卓軍を引きずり出した時、そこまでの流れを伝えられた劉備軍の誇る二人の軍師、諸葛亮と鳳統は思案の末に孫策軍の目的を見抜き、この機に乗じて私達も動きましょうと主君に助言、劉備もこれに頷いた。
ではどう動くか、となると、諸葛孔明と鳳士元の意見は割れた。
敵軍で最も広い視野を持つ軍師――賈駆を叩き、全体の混乱と敗走を狙うのが最良。賈駆は関の前に布陣しているので、突破後に虎牢関と洛陽一番乗りの功も得られ、実際に洛陽の民が苦境であれば真っ先に救うことも出来る、と主張した諸葛亮。
まずは袁術の救援に向かうことで、諸侯からの信頼と他者救済の仁徳を強めて風評を高め、更に袁術に恩を売れる。その際に華雄を討てれば、わかりやすい大功を得る利もある。名も実も手にするにはこれが良い、と対案する鳳統。
「ううん……どっちが良いのかなぁ」
「洛陽の民は戦に勝利してからでも救えます。ですが袁術を――連合軍の同志を救えるのは今だけです、桃香様。義を選び利も得られるのなら、迷う必要は無いかと」
「そうなのだ! 華雄だけじゃなくて呂布も鈴々が倒すから大丈夫!」
「う……そっか、すごく強いって言われてる呂布さんも傍に居るんだった」
関羽と張飛に後押しされても、もし呂布に姉妹が斬られたらと思うと不安が消せず、はわわっあわわと慌てる軍師二人の声を背景音に唸っていた劉備だったが、軍議の途中に届いた緊急の伝令――孫策からの一通の書状が、彼女に決断をさせた。
「我等孫呉が呂布を叩く。華雄と切り離す故、離された猪を狩る気はないか」
周瑜が孫策名義で劉備に送った申し出は、要約すればそのような内容であった。
面倒な呂布の相手を自ずから引き受けると言う孫策軍の申し出に、汜水関の戦い以降も協力関係にあった劉備軍は快諾……鳳統の案を基本に、調整を加えた策を公孫賛にも話し彼女に賈駆攻めを受け持って貰うことで、この計略は成った。
「うー。鈴々が呂布と戦いたかったのだ」
「贅沢を言うな……私だって呂布と矛を交えてみたいが、今回は我慢だ、鈴々」
「華雄とて猛将、良将と呼ばれる者だぞ。相手に不足は無かろう……私としては、呂布よりも燕来殿と、今度こそ武を競ってみたかったがな」
「燕来、……殿? 星よ、孫家の飛将軍と知り合いか?」
「なに、各地を回っていた時に少しな」
移動前、劉備軍の二槍と公孫賛軍の客将の間で、そんな遣り取りがあったものの。
兎にも角にも、対応の間に合わぬ華雄隊が、張飛の率いる劉備軍先鋒から痛烈な突撃を受け、関羽率いる中曲に追撃を喰らわされることになる。これを好機と見た袁術軍の張勲は、一貫しての守勢をやめて攻勢指示を出し、戦況を逆転させていく。
華雄隊、袁術軍、劉備軍が入り乱れるその場は混沌が予想され、実際荒れていたが、現在の其処は意外なほどに混乱が少なく、この時代においての戦場で花形とされる舞台が開演していた。――将と将の一騎討ちである。
こうなった場合、他の者がその対決に横槍等の邪魔を入れるのは無粋とされる。
主演の二人は身長が対照的で、浮かべた表情もまた別物。
淡い紫、桔梗色の袍を下半身にだけ残し、胸と腕には同色を銀であしらった部分鎧を身につけた銀髪の将――戦斧を握り怒りに染まる華雄の前を、悪戯が上手くいったかのような顔をした劉備軍の急先鋒が陣取っていた。
「へっへーん、愛紗より鈴々のが早かったのだ、華雄の相手いただき!」
「汜水関で張遼に抜かれた劉備軍の弱将が、それも貴様のような子供がッ! この華雄を相手に、よくぞ吼えた……頸が要らんのだな!?」
「子供かどうかは今から思い知ればいいのだ。――鈴々は張飛! いっくぞー華雄!」
張飛、字を翼徳、真名を鈴々。
赤い短髪と首に巻いた赤布が特徴で、幼く小兵ながら巨大な武器を得物としている点は曹操軍の典韋と似ているが、向こうは大きく重く、張飛の愛槍は大きく長い。どちらにしろ、身の丈に合わぬ武器を使いこなすに変わりなく、張飛の武力は達人級――それも、夏侯元譲や孫伯符に勝るやもしれぬほどのものであった。
戦鎧どころかまともな靴すら履かず、軍師以外の誰よりも軽装だろう張飛は、余りにも小柄すぎて馬を操れるのか疑問に思われることも多いが、彼女はまだ高名といかずも名が知られる将。蛇矛を構える少女に心配するべき要素など無かった。
蹄が砂蹴り、剛力で叩きつけられる波刃の矛を、長柄の斧が受け止めて軋む……鋭い金属同士が激しく擦れ合う音は、馬上の二将が得物をぶつけ合った産物。
「――――ッ!? ほ、う……先の言葉取り消そう、張飛。貴様は武人だ」
「にっひ。思い知ったならいーのだ。まだまだいくぞ!」
「ふん、私からの返礼も受け取っておけ!」
二人が交わした言葉はそれが最後で、二人が交わす刃は是を以て本格化する。
両肩の捻りと腕の振り幅が威力に乗った答礼の斬斧――胸から上下に両断せんと迫るその一閃を、大音沸かせ跳ね上げ弾くは一丈八尺、蛇の矛。
張飛の初撃で顔色を変え、少女の高い実力に相応しい渾身の一撃にて落とそうとした華雄だったが、これでもまだ甘くみていたようだと気を引き締める。
しかし。己の武力に大きな自信を持つ華雄こそ、武人としての自分を信じてやるべきだった。力量を認めた相手との、真剣勝負の一騎討ちにおいて、無意識だろうと相手を侮るあまり甘くなる――そんな侮辱を、生粋の武人・華雄がするなどありえない。
無意識だからこそ、命懸けの真剣勝負に手など抜くはずもなく、裏を返せば己の本気を弾く実力を張飛が持っていた事実であり、これに華雄が気づいていれば、二人の結果はまた違っていたかもしれない。
だが、そんな仮定は無意味と続く三合目。
攻めと守りではなく攻撃と攻撃がぶつかった斬り合いで、矛が斧に勝りて押し返す。これは全力の一撃同士、威力同士の比較で張飛が勝ったことと同意である。華雄の顔色は更に変わり、眉間にきつく浮かぶ焦燥。
次手は疾く防がねば、と猛将が振り上げた戦斧は――ひゅ、と少女の呼気が運ぶ槍に突かれ、鉄が削り取られる甲高い悲鳴をあげ、両手と共に空を仰いだ。
――隙。
突きから自然と上段に振り上げた形へ繋がった丈八蛇矛、握る少女に躊躇は無い。眼には逝く者への敬意を込めて、終の刃を振り下ろす両手には全力を込めて。
一合、二合で挨拶交わし、三合続けた武人の礼儀。
そして四合を死業と成し。
「うりゃァ―――ッッッ!!」
ざん、と、音にすればそれだけで終わってしまうものだった。
張飛の刃は五合目に在らず。剣戟に幕引く五閃目で、敵を斬った。
茶の瞳に浮かんだ驚愕ごと、猛将華雄を斬り棄てた。
虚ろに落馬していく女の銀髪が、燦々と生を謳歌する大地に広がる。
意識が暗闇に落ちる間際、彼女は赤い旗が倒れるのを見た気がした。合流叶わず別れとなった仲間のものか、遂に敵わず頸を残した敵のものか。
しかし、そんなことよりも。
自分を討ったと叫ぶ勝者の声が煩わしくて、悔しくて、悔しくて、華雄は最期に見た旗など忘れてしまった。眼に残したのは、子供の癖に一端の武人然とした張飛の顔。
この華雄を斬り伏せた尊敬すべき武人の顔だと、彼女は強く焼き付けた。
旗の色は忘れても、それだけは。