九話:威名
反董卓連合発起の檄文が送られてから暫しの後――
表裏様々な理由で書状に呼応した諸侯は、東部方面から洛陽へと進軍しやすい位置に定められた連合軍駐屯地に集結し、発起人の袁紹の陣幕を中心に陣を張っていた。
袁紹、曹操、公孫賛、劉備、孫策……これら黄巾党本体の殲滅時に集った雄に加え、袁紹と連名して発起人となった袁術、馬騰を盟主とした涼州連合、故何進の部下だった諸侯、等々――総勢十五万の軍勢で、董卓軍二十万に挑むこととなる。
彼等は連合結成後初めての軍議を終え、各々が動く用意に取り掛かっていた。
そのうちのひとつ、孫旗を掲げる陣で、武具の最終確認を終えた不精髭の将――燕来は、待っていた主君と参謀が天幕へ入ってきたことで腰をあげた。燕来と一緒に居た他の武将や軍師の皆も立ち上がり、それぞれが軽く頭を下げる。
「あの子、大きくなるわ」
「存外に強かだったな。仁徳だけの人物ではないようね」
「劉玄徳か?」
劉備の陣から戻った孫策と周瑜の感想らしきものに、燕来はあたりをつけた。
反董卓連合中の一時的な同盟――共同作戦を劉備に提案しに行った二人だ、彼女達が帰陣しての第一声は劉備、でなければ劉備陣営の誰かに対する話だろう、と。
「ああ。予想以上だったが、あれぐらい出来ねば乱世を生き残っていけまい」
「笑顔に反して食えない質だわ。老獪に育ちそうよねぇ」
劉備、字は玄徳、真名は桃香。
黄巾党の乱で義勇軍を旗揚げ、その仁徳で多くの人々を惹きつけ大将の任を果たし、遂には幽州は平原の相――郡太守に似て異なる高位職――にまで成り上がった。
劉備軍には彼女の大徳に魅せられた勇将知将が揃っているとの噂で、旗揚げしてから勢いが衰えたことのない仁の人、劉玄徳。
連合軍駐屯地で開かれた軍議で一悶着あり、洛陽までの道程を阻む砦のひとつにして第一の難所・汜水関を攻める先鋒を単独で受けさせられた彼女に対し、与しやすいかと見て協力姿勢を選んだ孫策と周瑜だったが、目論見通りとはいかなかった。
協力を申し出れば、二つ返事で感謝と肯定を返してくるのではないか? そんなふうに思えてしまう人の良さが、孫策達が耳にした劉備の噂にはあった。
そして、ふわりとした茶髪を揺らし、曇り無き碧眼で真っ直ぐに来訪者達を見る少女は、前漢の中山靖王劉勝の末裔、つまり王族に相応しい王威は薄く、代わりに陽の光のような暖かな笑顔と、何者をも包み込んでしまいそうな佇まいを持っていた。
けれど、会合の結果は実に現実的。
孫策軍が助力を申し出てくれるのは嬉しいが、あなた方が信用に値するかをその働きで示せ、とこうきたものだ。これが軍師の入れ知恵だとしても、それに頷いて決断し、孫策に突きつけたのは劉備自身であろう。
外見や雰囲気の穏やかさと、思考や言動の強かさの大きな差異。
慈心と高徳で人民から高い人気があるが、優しさだけで成り立たないものがこの乱世に多いことも知っている。清濁併せ持ち、濁の部分でも人徳が濁らない逸材。
英雄になり得る逞しい人物。
それが、面白そうに笑っている呉王と軍師の下した、劉備の人物評だった。
「関羽と張飛も、噂に違わない豪傑だったし」
「ほォ。伯符が見ても本物だったか。矛を交えてみてェな」
「あれだけの将をあの人物が率いているのだから、合同作戦でも上手く役割を果たしてくれるだろう。さて、その作戦だが……」
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「これだけ馬鹿にしても出てこないなんて、予定と違うのだ!」
「将としての己で、武人である己を抑えられる者だったのかもしれんな」
頭の後ろで両手を組み顰め面になる義妹――張飛の隣で、関羽も眉根を寄せた。意志の強そうな双眸は、攻略しなければいけない砦、汜水関に向けたまま。
連合軍の陣地を発ち、峡谷を幾つか抜けた先の城壁……絶壁と絶壁の間にある広い道を塞ぐ目的で建てられた砦が、難攻不落と呼ばれる汜水関である。
その威圧感、防御性能は非常に高い。
攻撃側に包囲をさせず、大軍を広く展開させることも許さない地の利。防衛側は正面の攻撃にのみ対向すれば良い。これを相手に真正面から攻城しても時間の無駄だ。
故に馬上の姉妹は、汜水関に篭る董卓軍の将の一人、華雄を引きずり出す役を負っていたが、武に誇り高い華雄の威を散々に罵倒し出撃させるという作戦は、予想に反して成功の目が見えてこない。
猛将にして良将と称される華雄ほどではないが、姉妹の武名は噂されている。劉備軍の関雲長と張翼徳と言えば、武力も将器も一級品、主君の勝利を支え続けてきた二振りの槍として、劉備と共に売り出し中の名だ。
調子づく新参者が我が武を汚すか! ……そのように激昂した華雄が、我慢しきれず出てきたところを野戦に持ち込む。関に篭るもう一人の将、神速と名高い張遼も、華雄を釣れば出ざるを得ないだろう、と、周瑜は読んでいた。
敵将が釣れたら即、"先鋒の支援"を理由に孫策軍が駆けつけ、両軍で協力して董卓軍を攻撃する形を取れば、孫策達に対する袁術の目も誤魔化せる。
諜報や斥候を放ち掴んだ情報――汜水関を守っている兵数の予測と、それを率いる主な将が華雄と張遼であること――を元に周瑜が立てたこの策。実は劉備の軍師、諸葛亮と鳳統も、華雄を釣り野戦に持ち込む策を考案しており、三者合意の献策となった。
そうして慣行された共同作戦。
後方に軍勢を置いた関羽と張飛が馬を進め、汜水関の前で大声張り上げ罵倒を始めてから暫く経っても、動きが無いのが現状だった。
「しかし、他に策があるわけでもないだろう」
「ぐぬぬー、鈴々は考える役じゃないのだ」
頭を悩ませるつもりも無く、小さな身体で唸るだけの義妹に苦笑いする姉。
劉備と孫策、両軍合わせても、その兵数は汜水関の董卓軍八万には届かない。
かといって孫策以外の援軍にも期待は出来ない。劉備軍が劣勢に追い込まれた場合、その隙に手柄の横取りを狙う諸侯には欠かないが。
事の元凶――自分の握る権力と兵力を背景に、半ば脅しで劉備軍に先鋒を申し渡した袁紹も、彼女達を捨石と考えていることだろう。
あれだけの兵力を統率している袁紹を全くの愚物とは思わぬが、軍議での彼女の言動を鑑みるに、名門の看板と配下の将の働きで大きくなっただけではないのか……関羽の目にはそう映り、だからこそ当てにしていない。
雄々しく、勇ましく、華麗に進軍せよ――兵の士気を上げるには悪くない言葉だが、この台詞は出陣前の宣言ではない。袁紹の提案した"作戦"である。
連合の総大将に自分を推させるために一刻かけた袁紹が、望み通りの総大将として、満を持して自信満々に掲げた、洛陽までの攻略作戦の内容である。
高笑いと共に告げられた作戦が、つまりは「かっこよくすすめ」だったのだ。
演技だとしても器が知れる、と諸侯が判断したとて無理も無い。作戦は無いから各自好きにやれということだと都合良く解釈した一部の将が、鼻で笑っていた。
総大将を決めるだけのことに時間を費やす軍議に嫌気がさし、今も民は苦しんでいるというのに腹の探り合いで時間を潰すなど無駄、おまえが大将をやりたいならさっさとやれと袁紹に噴火した劉備も、あの時ばかりは物言えぬほど呆れていた。
その後の対話で、袁紹から若干の物資援助の約束を取り付けはしたものの、孤軍奮闘を覚悟していた劉備軍……そこに手を差し伸べてきたのが孫呉だ。
外側の味方が欲しいから協力関係を結ぼう――味方が欲しい要因と自分達孫呉の現状を話し、劉備から条件付き賛成を得た孫策の顔を、関羽は思い出す。
灼熱の覇気を感じさせる女が、袁術の客将に留まる気は無いと語調を強めたあの時。
劉備とも、曹操とも違うあの王器。あれは、そう……
「鎖を引き千切る寸前の虎……そんな眼だ」
「あら、誰のことかしら」
答えるまでもなく関羽の視線、自分の隣に馬を進めてくる孫策へ流れる。それを受け止め悠々と、張飛に挨拶までしてみせる風格の呉王。
自分の軍勢を劉備軍の横に進めさせながらも、孫策は甘寧と周泰だけを連れて更に前に出てきた。その行動が意味するところはひとつだ。
「ま、褒め言葉と受け取っておきましょ。――前線が硬直してるのを論拠に、今すぐ私が動く許可を袁術ちゃんから取ってきたわ。作戦を微修正して華雄を釣るわよ」
「あなた自身が華雄を罵倒すれば釣れると言うのですか」
「私の母様に負けてるのよ、華雄」
孫策の母、つまり孫文台――"江東の虎"の名は関羽とて知っている。勇を語る二つ名に恥じぬ戦ぶり、独力で身を立てた烈士。華雄に勝利したというのも納得がいく。
しかし、あそこまで武を貶めた罵倒に耐えた者が、敗北を与えられた敵、その娘からの挑発と言えど食いついてくるのだろうか……孫策の容赦ない罵倒が終わるまでの間、関羽は疑問を飲み込み考え込んでいた。
「――尻尾を巻いて逃げるが良い。負け犬の華雄殿!」
最初から最後まで不適な笑顔を通し、見下す声音で叫びきった孫策は、いい仕事したとばかりに額の汗を拭う動作などしながら。
「……それじゃ駄目押しといきましょうか。興覇、幼平! 軍を関に寄せろ」
御意、の返事を残し即座に軍を動かしに走る甘寧、周泰。
主君に対し疑心の一切無い二人の即応に、言葉に出さず賞賛を送っていた関羽や張飛にまで、孫策から声がかけられた。
「劉備ちゃんから伝令が来るはずだけど、あなた達にも寄せてもらう。無造作に、堂々とね……そして釣り上げたら引き込んで分断。私達は華雄を、劉備軍は張遼を」
「二段構えであられたか……えげつないことだ」
新参者に武勇を貶められ、敗北の記憶を勝者の娘から抉られ、その熱が冷めきる前に威風堂々と――未だ引き篭もる貴様の弱矢など風以下だと、そう言わんばかりに嘲笑う進軍までが行なわれる。武に触れた者ならば怒り心頭に発する行為の連続。
よく考えつくものだと呆れ半分、驚嘆半分の関羽に、それは我が軍師に対する最上級の褒め言葉にしかならぬと、薄桃色の髪をかきあげ孫策は笑った。
「周公瑾の性格の悪さは大陸一なの」
「覚えておきましょう……鈴々、行くぞ!」
「応なのだ、愛紗。孫策おねーちゃん、またね!」
後ろで一本に結った美しい黒髪を翻して自軍へ馬首を返す関羽、小柄な身の丈の三倍はある長大な矛を担ぎ関羽に続く張飛。その二人の背中に、今思い出したといった感で孫策は訂正を告げる。ああ、そうそう、と。
「鎖を噛み千切る虎……見られるかもね」
「……どういうことでしょうか」
「獲物を前に襲い掛かる寸前の猛虎が、私とは別に居るの」
洛陽に着くまでには分かるわ。――寄せてくる軍を待つ孫策の謎めいた言葉に、張飛は首傾げ、関羽は得体の知れない予感に首筋を震わせた。
**********
「燕来様! 孫策様より、大物を引いていくから対応しろとの伝令です!」
「出てきたか。はいよォ……燕来隊、承った」
孫策・劉備両軍が兵を関に寄せてから間も無く、後方で待機していた呉軍と、更に奥の袁術軍に、前線から伝令が走らされていた。前者は迎撃準備、後者は一応の報告だ。
呉軍両翼を率いる周瑜と陸遜の元に伝令を急がせて、燕来は前方を見据える。視線を固定したまま、傍に立つ副官に指示を出した。
「作戦通り、前線と連携し切り込む。動きに遅れるなと下に通達頼むわ」
「了解でさぁ。燕旗のお披露目、失敗させやしません」
「ッか、はは。おまえが色選びしたんだったァな、あれの」
前線に孫、甘、周。両翼には前線と別の周、そして陸。
翻るそれら武将旗の中に、孫呉独立に関する所用で不在の黄蓋と孫権のものは無い。代わりに、此度の戦から増えたものがある――"燕"の旗だ。
これまで燕来は面倒がって、孫家の兵を示す一般軍旗を使い回していた。だが、黄巾本体の大将首を取る大功をあげた将の旗が無いのは格好がつかないと部下に騒がれ、他の将にも旗の重要性を散々に諭された。
「あの燕呼阮が居る――それが一目で知れる旗は、既にして我が孫呉では兵の士気向上と継続に繋がるのだ。大賢良師との戦い以降、おまえの武勇は兵達の間で大いに語られ大いに広まった。燕来歩めば敵は等しく塵だとな」
武勇の噂、それも仲間内で広がったものであれば、過剰な賛辞になるのはそう珍しいわけでもない。味方からは頼もしく見える、身内自慢なのだから。
孫策のように大陸中に名が知られている程では無いが、荊州に細作を放っている諸侯の耳に、燕来という名の烈将が孫策に仕えている、と入る程度はあろう。
そのあたりのことを、旗の話をした当時に周瑜が冷静に語っていた。
「自分の家名の旗なんてものには、慣れそうもねェな……」
靡く赤土の旗――焼けた大地の煉瓦色、焼土の燕旗を見遣り頬をかく家主。
絢爛華麗な牙門旗や、関から飛び出した華雄の旗――漆黒の華一文字に比べれば地味な色合いのそれだが、燕来自身は悪く思っていなかった。
踏みしめて歩く地面を旗に掲げる。
悪くない。どこまでも生きている感じがなんともまあ、悪くなかったのだ。自分の旗を仰ぐのに慣れずとも、色は気に入っていた。
「し、……抜ッ、刀ォ!!」
頬を軽く叩き、回した鉄棍を蒼天に突き上げる燕来の声が、旗を誇らしげに見上げていた騎兵、弓兵、歩兵合わせて五千を一斉に抜刀させる。
銀装飾が眩しい将校用の黒い鎧を着込んだ立派な体躯は、馬上での見栄えと燕来本人の力強さで、兵達に極めて屈強な存在感をこれでもかと見せつけた。
「我等が王が、我等の精強を示すために、雄敵を連れてきてくださるぞ!」
叫びながら燕来が頭上で棍を花開かせる風音、雲打ち払う如く。
「敵は勇猛で名の知れた将だそうだが……おまえらは、燕呼阮の率いる戦士だ」
五千人の端から端まで眺めてから、燕来は肺に空気を溜めた。
己の噂が兵達から流れたものであるなら、精々活用してやると彼は決めていた。身内の語る過重な賞賛など全て本物にしてしまえば良い――望まれたから見合うように努力するのではなく、贔屓目の勇名に負けてやるつもりなどが、この男には毛先ほども無いだけだ。
「勇ましく、猛々しく、強い敵がやってくる……」
ひゅん ッ ―――― 黒い相棒、鉄の凶器で前方を指し睨む。
「……誰よりも勇ましくッ誰よりも猛々しく、誰よりも強い我等に向かってだ! それが一体どれだけ無謀か、蛮行かッ! その手の剣で教えてやれッ!」
孫呉の兵から吹き上がる鬨の声が、勇気と熱気を帯びて伝播する。空を焼かんばかりにうねって膨れた勇熱……やがて副官が手振りで抑え、燕来に大きく頷く。
燕来隊の熱が爆発してしまう前に、前方の砂塵を確認したからだった。
――ぎり、
孫策を先頭に、戦いながら董卓軍を引っ張ってきた前線が広がっていく。華雄率いる精鋭の突破力は尋常では無く、孫呉の前線が耐え切れず薄弱に崩れたかと見えた。
しかしそうではない。計略の一環だ。この機を待っていた軍師二人の率いる後曲両翼が果敢に前進し、華雄隊に強かに横撃をかけんと雄叫びをあげ攻め立てる。
――ぎり、ぎり、
下らぬ雑言しか飛ばせぬ惰将と弱兵共、そう見下していた者達が、予想外に強い攻勢を仕掛けてきたことで、進軍速度を一時的に落とした華雄隊の兵が悪罵を吐き出す。
猛烈な突進力を誇る華雄隊の脇腹に食いつき、足を鈍らせるその攻撃力を侮るわけにはいかず、されど打ち滅ぼす迄だと気勢を弱めぬ彼等は確かに精鋭。
孫呉の強さを理解し、侮りを捨てて対応する彼等は正しかった。
ただ、華雄隊の精強さを前に欠片も揺らがぬ呉軍をもう少し怪しむべきだったのだ。
口に出す言葉ではどうあれ、孫策や周瑜でも認める強さが華雄隊にはあった。
他の諸侯が野盗退治や黄巾崩れの掃討を行う程度だった時期に、頻繁に侵攻してくる異民族の強靭な騎兵と戦い続けていた涼州董卓軍は、現在の漢帝国で最も戦場の経験を積んだ軍のひとつに数えられ、質高い歴戦の兵士達の集合体である。
それでも孫呉に動揺が広がらないのは、呉最大の強弓が引き絞られている故だと。
――ぎり、ぎり、ぎりぎりぎりぎり……ッッ!!
華雄隊の足が鈍り、孫呉の前線が両翼と合流し中央が開く……そこに漆黒の華一文字を捉えた鷹の眼、瞬間見逃さず馬腹蹴りつけ、ひゅぱん、風切り飛び出した。
いつかの戦場のように、燕来を鏃の切っ先とし、限界まで絞られた弓から放たれる矢と化して燕来隊が動く。今から死ぬぞと弓兵が矢雨で知らせ、砂塵伴い騎兵が駆ける。
大地を掲げた者共が、地鳴りを歌声に血の降る土を生み出しに。
「噛ァァァ、みィィィ、ちィィィぎれッッ!!」
荒れ叫ぶ我と我等が、誇張を事実に変えに征く。
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「華ァァァ、雄ゥゥゥ、のボケがァァアア!!」
「待て落ち着けこれは孫策の罠!」
「見りゃわかるわいアホンダラァ何タメ口利いとんじゃあ!?」
「サーセン! 一兵卒でサーセン!」
荒れ叫ぶ張遼はキレた。