八話:虚実
昼に夜に、日に日に変動を見せるのが動乱の世というもの。
動き乱れる時世において数ヶ月という刻は、一時の平穏から再びの大戦へ舞台を移すのに十分な時間であり、これが事実であることを一枚の書状が知らせる。
それは、荊州へ入り込んだ賊――黄巾の残党を何度か討伐しつつ、袁術に気取られぬよう地力を固めていた孫呉陣のみならず、後漢全土に行き渡った。
昨今、漢の都・洛陽に陣取り、帝を傀儡に悪政を敷く董卓、許すことならず。この義に賛同する諸侯は一同に集い、董卓誅すべし。
「董卓さんは許せないので、皆さん、やぁっておしまい!」
檄文の送り主、袁紹の台詞を使えば、つまりはそういうことだった。
反董卓連合はこうして発起する。
事の起こりは、黄巾の乱が鎮められて一ヵ月後の事件……つまり後漢王朝の第十二代皇帝――諡号は霊帝――が没したことだと言えよう。脆弱を晒した王朝の主、その死を切欠に、黄巾の乱の終結後から活発だった各地諸侯の動きはより積極性を増す。
動乱中、州牧に兵権が認められる等、豪族の成長を煽る出来事が続いたのも、群雄の萌芽に拍車をかけていた。
しかし、そんな地方の動きを気にする余裕など中央の宮廷には無かった。
次代皇帝は二人の皇子、劉弁と劉協のどちらかになるのだが、それぞれの後見は朝廷内で対立していた軍閥と宦官。各々が跡目争いで手一杯だったのだ。
結果として勝利を収めたのは、劉弁を後見する軍閥側になる。彼等の主導で劉弁は、新たな皇帝、少帝弁として擁立された――しかし。
帝の母である何太后と、その兄である大将軍・何進は、勝者の油断か、新帝の後見人として最高権力を掴んで間もなく暗殺されてしまう。儚い栄光だった。
だが直後、何進ら軍閥と対立していた宦官集団・十常侍がこれらの暗殺劇に関わっていたとされ、彼等のうち数名が、何進の副将だった袁紹の手勢に殺害される。
この襲撃から少帝弁と劉協を懐中に逃亡を遂げた宦官が、十常侍の中でもその権力が最も高かったと思われる者、張譲である。
彼は逃亡中、西涼に軍を持つ董卓を呼び寄せることで武力を得ると、意気揚々と洛陽に引き返し――そして、飼い猫と思っていた獅子に噛み殺された。
少帝弁と劉協を手にした董卓には、張譲など用済みの虫に見えたのだろう。
こうして、少帝弁を廃し劉協を新帝につけ、献帝と名乗らせた董卓は権力を握り――
「……と、そういった流れが、血で血を洗う朝廷の現状だと書状には書かれていたな。一体どこまでが真実で、どの部分が偽りなのかは、ある程度しか判断出来んがな」
「はン、そりゃあ伯符が笑うわけだ」
普段から軍議に使っている館庭で、燕来は周瑜の説明に唇を歪める。卓を囲む孫呉の重臣達も、各々違いはあれど似たような反応をしていた。
「一連に関わった袁紹の、結局は権力を握れなかった私怨が透けて見える書状だ。その意味でも笑えるが、雪蓮が笑ったのは別の意味だろうな」
「雪蓮さまはぁ、この騒動を独立の準備にするつもりでいらっしゃいますねー?」
「そういうことだ」
口癖である肯定の言葉で陸遜に頷いた周瑜は、書状を手にした孫策がこの機を活かすため袁術への謁見に向かったこと、またその首尾如何だが、まず間違いなく反董卓連合に参加となるだろうことを告げる。
功をあげ更なる名声を得て、軍備や資金力、人材の強化に繋げる。
対董卓軍の戦で巧妙に動き、可能な限り袁術の軍勢に疲弊させる。
連合に参加する諸侯の力量を確認し、今後の参考とする。
この三点を大目的に据え、且つ、将兵に経験を積ませる等の思惑も含められる連合軍の誘いは、孫呉にとって非常に有益なものであった。
他の諸侯としても似た思惑はあるはずで、有力諸侯や野心ある者が参加してくるのは確定と見ていい。袁術を袁紹の尻馬に乗せてしまえれば、名門袁一族が発起人となり、この二人に睨まれるのが面倒だと考える勢力も参加するだろう。
本当に悪政が布かれているのならば、それを正し、洛陽の民を救いたい。
そう思う義心が諸侯に無いわけではないが、少なくとも発起人を筆頭に、義より野心が幅を利かせる連合になるのは目に見えている。
私達とてそうなのだがな、と、自嘲の薄い声音で周瑜は締めた。
「憂い想われる国では、なくなってしまったのね……」
「天子を飾りと見なす佞臣が朝廷にのさばり、我欲を満たし続けたのです。国家を導くべき官吏が、庶人を虐げ享楽に耽り、この国を腐らせてしまった……孫権様は重々承知でしょうが、民あっての国、これを忘れてはなりません」
民在りて国在る、そう考える孫呉は、呉の民とその笑顔を大切にする。孫家は言わば呉の民が奉る庇護者、皇帝であり、これに例えた周瑜の言だった。
覇道の野望よりも民の安寧に傾く孫権にとっては釈迦に説法、孔子に悟道だが、惨状を招いた現王朝を思った彼女は真摯な表情で頷いた。
孫策の帰還を待つ間に真剣な雰囲気で行われていた朝議は、ただいま、の軽い一言と共に戻った王の口から、拍子抜けするほどに首尾よく事が運んだと伝えられてからも、肩の力が少々抜けただけで、その真剣みが欠けることはなかった。
「皇帝になれる、なーんて餌に簡単に食いつくとはね」
「あの孺子ならさもありなん、じゃろ」
「子供が子供のまま権力を得る、その恐ろしさを改めて目の当たりにした気分だな……愚かな相手であることは、こちらとしてはありがたいが」
これもまた、袁術という玉を為政者に相応しく育てられなかった臣が招いた結果。
彼女に対する批評を三人が交わす横で、衰退し孫呉に飲まれる袁術を想像した男は、上に立つ者の責は何処でも重いものだな、と腕を組んだ。
「張り合いが無いのは、つまらんな」
「あ、呼阮もわかるー? 復讐相手がああだと、魂が満足しないのよねぇ」
「ふぅ……戦闘狂二人は放っておいて、準備の指示を出しましょう」
はいはい、と手を叩いた周瑜に唇を尖らせる二人。
「私が王様なのにぃ」
「俺、将になったンだがなァ」
からかうようにぼやく王と将を仕事に就かせ、自分の職務に戻る筆頭軍師。
些か堅いが真面目で実直な人物である孫権などを除き、孫呉の王と将は癖が強く尖りすぎている。この軍を纏めようと思えば生半なことでは務まらない。
他の勢力でもそうならば、軍師同士は話が合いそうだと、周瑜は天を仰いだ。
**********
「そんな指示、ボクは聞いてない!」
洛陽の宮廷、その政務室で軍師の少女が叫んだ。
賈駆――字は文和、真名は詠――の怒声が部屋の壁を叩くのは毎日のことで、部下達は驚きもせず、予想した通りの対応に頭を下げた。
白に近い薄黄の長袖上衣を翻し、片腕を振り声高に否定する賈駆。小さな体で大きな身振りの彼女は活力に溢れる印象を周囲に与えるが、最近はその活気も知恵働きと神経の遣い過ぎで消耗されるばかりであった。
眼鏡を指で押し上げ、黒い裙子――所謂プリーツスカートの裾揺らし部屋を出ていく賈駆は、勇猛が過ぎて何事にも猪突ばかりの仲間に頭痛を抑え切れない。
「霞が居ないと、完全に手綱の切れた猪だわ……ああもう!」
董卓軍の軍師、賈文和の心労は、周公瑾に勝るとも劣らなかった。
涼州で郡を統治していた頃の董卓は、西や北の五胡――漢民族以外の諸族――と何度か矛を交えたが、賈駆の軍略を元に勝利を重ねた軍は精強になり、一部の部族とは手を取り合うことも出来たりと、どうにか上手くやれていた。
治める民の笑顔を見て柔らかく微笑する主君の傍で、賈駆も微笑むことが出来た。
張譲が助けを求めてきた時、手を差し伸べたのは董卓の優しさ。
それを断るよう言えなかったのは、賈駆の甘さと自信の高さ。例え問題が起きても、親友の月――董卓を巻き込ませない覚悟と自負が賈駆にはあった。
大陸中央、洛陽に出てきてこうなってしまったのは、自分の見通しが甘かったという点に尽きるのだと、己に厳しい少女は主君の責を求めない。親友への愛情と己の能力の高さ故に陥った現状が今である。
賈駆は文官としても軍師としても優秀で、こと謀略に関しては、温厚な董卓では行うに難い無情な領域を担ってきた経緯もあり、同年代はおろか歴戦の軍師ですら苦々しさを感じる策を考案・実行出来る胆力と才覚を備えていたが、宮廷の住人であり海千山千の宦官共を政争相手にするには、経験と年季があと一歩、足りなかった。
朝廷という戦場で敵を陥れる腹黒さに負けた、と言えよう。
洛陽に着いた後、張譲が暗殺された一件に危機を感じ、悪辣な宦官を排除し董卓の身を護ろうとした賈駆が、大将軍・何進の部下だった張遼を仲間に引き入れ、その伝から軍部の権力と兵力を使い、数名を残して宦官の排除を終わらせた頃には、彼女は既に罠に嵌められていたのだと知る――反董卓連合の書状が出回っていた。
「袁紹、袁紹……あれを嗾けたのは多分……ッ、いえ、今はそうじゃないわ」
経緯の真実を明らかにするのを無視しては拙いが、それは今するべきでは無いと賈駆は理解している。行動に優劣をつけることは得意だった。
月か、それ以外か……始まりはそんな、親友を何よりも大切にしたいという幼心。
「霞を……張遼将軍を探しておいて。賈駆が練兵場で呼んでいたって」
補佐に言いつけ、煌びやかな――けれど寒々しい城内を彼女は歩む。
**********
董卓軍所属、第一師団師団長、呂奉先。
そう名乗り一人で三万人を相手取った無双の飛将軍が軒先で丸まり、飼っている何匹もの犬猫に埋もれるようにして眠っているのを想像しろと言われても、戦場でしか彼女を知らない者には無理難題。しかし幻などではなく現実だ。
呂布が恩賞の全てを金銭で希望する訳は、これらの動物に与える餌代を捻出するためである。度を越した強さのあまり周囲から距離をおかれ、故に董卓や賈駆といった僅かな仲間や部下以外には孤高を貫く呂奉先、そんな彼女を心よく思わない者達が吐き出す陰口に"守銭奴"がよく挙がる理由でもあった。
「……ふ、ぁ……」
薄ら開いた寝惚け眼で流れる雲を映しつつ、昼近い陽気を呂布は肌で感じる。うつらうつらと重い頭、首を回すと友達――仔犬のセキトの顔が目に入った。逆側を向けば別の友達が座っており、彼等も起きたばかりの欠伸をしていた。
朝方、友達にご飯をあげ、食事中の彼等を眺めていたことまでは呂布も覚えていた。その後、食べ終えた猫が丸まって眠りだしたのに釣られ、隣で横になって――
「……寝てた」
上体を起こして右手を軽く伸ばせば、指先に触れるは鉄の冷たさ。例え眠る時でも、否、眠る時だからこそ、何時でも掴めるその距離に武器を置くのは呂布の、武人の、命の遣り取りを日頃から繰り返す者の消せない習性。
燕来と刃を交えた時よりは大人びて、少女から女性へ開花している最中といった風情の呂布が、まだ少女になったばかりの頃……戦場に出るようになったその頃から続く、ずっと変わらない習性だった。
方天画撃を手に、ぼう、と目の焦点を合わせていると、セキトがひと鳴き。
「恋……また寝てたわね、もう」
真名で呼ばれた彼女が振り返ると、碧髪に黒い軍師帽を乗せた賈駆の姿。飴色の瞳が呆れと慈愛を帯びて呂布を覗き込んでいた。
「おはよう……詠」
「おはよう、じゃないわよ……もう昼なんだからね? 恋が担当するはずの調練だって終わっちゃったんだから。あの猪が代理をしてたけど、あいつ、篭城の準備に回す予定の時間も野戦訓練に使ってたのよ? ボクが言ったこと全然わかってないし!」
自陣の将軍を動物呼ばわりで愚痴飛ばす軍師の説教を聞かされても、寝起きの呂布の頭には、猪の肉はおいしい、くらいしか浮かばない。
ぐぅ、きゅる。腹まで鳴った。
「というか、ねねは起こしに来なかったの?」
"呂奉先の専属軍師"という肩書きを持つ少女が、呂布を探しに来なかったはずがない――そう思った賈駆の問いには、走って回るセキトの鳴き声が答えた。
そちらに視線を送った二人が見つけたのは、大型犬の背中にしがみつくように眠り、気持ち良さそうに涎を垂らす"ねね"こと陳宮の寝姿。
「えへ……恋殿のぉ、一番は……ねねですぞぉ」
「せいッ!」
「ふぎゅう!?」
薄手の長靴下――要するに黒いストッキングに包まれた賈駆の脚が美しい狐を描き、自分より更に小柄な陳宮の身体を蹴り落とす。頬を舐めてくる愛犬の心配を受け、陳宮は両手で尻を押さえて唇を尖らせた。
「む、むむぅ……何故かお尻にちんきゅーきっくを受けたような痛みが」
「天罰が落ちただけよ」
自分が古狸への対処と猪の相手と書簡の処理とで眉間の皺を深めていたのに、大好きな相手の傍で惰眠を貪っていただけの陳宮。
同じ軍師なのにこの違いは何だと、賈駆は不条理を嘆いた。
「ねね、起きた」
「恋殿! お傍に居てくださったのですな、ねねは感激なのです!」
目が覚めたら呂布が居る幸せに、陳宮は尻の痛みなど一瞬で忘れ、蜂蜜色の大きな瞳を潤ませ、八重歯覗く口元を緩めた。金色の小さな髪留め二つで纏められた浅緑の前髪が弾み、腰丈の白い上衣の裾が捲れるのも構わず、少女は呂布の腕に飛びついた。
「で。詠は何で居るのです。恋殿とねねの時間の邪魔を……」
「あんた達が、仕事をしないッ! から呼びに来たのよ!」
「ちっ」
額に血管浮かばせての叫びに舌打ちをされ、いよいよ賈駆の胃痛が限界を越える……という寸前で割り込む紅眼、赤髪。
小柄二人組の遣り取りで眠気が覚めた、無表情だが嘘の無い眼。
「詠、ごめん。恋、今から頑張る……ねねも、めっ」
「うっ……ご、ごめんなさいなのです、詠、恋殿」
こうなっては賈駆も怒れない。本心から反省した人間を怒鳴ったところで、怒鳴った側の気持ちが晴れるだけであることを知っている。そんな性格だから心労が消しきれずにいることも自覚はしていた。
「うう……今まで休んでいた分、今日はしっかり働いてもらうからね!」
「わかったのです、恋殿と一緒にねねは頑張りますぞ!」
細く二本に結った左右の髪を振り回し小さく顔を背けた少女の、いかにも怒ってますと言いたげな態度に、呂布は無言で頷き陳宮は元気に両手を挙げる。
大型の野生動物とそれに従う仔犬を彷彿とさせるこの二人は、周囲の風に少々無頓着な部分はあっても、自分勝手に事情を無視することは無い。
仲間や友達を守るためなら当たり前に無理をする呂布と、拙いところはまだまだ多いが呂布のしたいことを実現させんと精一杯に補佐する陳宮の姿は、董卓と自分の関係に似たところがあって、賈駆は面映さと共感を覚えてしまう。
「諸侯が攻めてくるのも近いわ。ボクは月を守る。負けるわけにはいかないの」
「月、優しい……詠も、月も、恋が守る。敵は全部、倒す」
「ならば恋殿はねねが守りますぞー!」
仲間のため、友のためにと声交わす少女達の決意と友情は固い。悪逆非道と語られる董卓軍の実情が其処にあった。
それでも、実態を知らぬ諸侯は自分達の義を信じ、真実がどうあれ好機と感じた諸侯は矛を掲げ、遠くないうちに洛陽へ攻め入る。
「全部倒す……どんなのでも、全部……」
覚悟を秘めて呟いた呂布の脳裏を一瞬、いつかの男が掠めた。
**********
「おーっほっほっほ! おぉーっほっほっほ!」
「……鬱陶しさも名門だな」
後日、連合天幕で軍議中、周瑜の脳裏を掠めたのはうっぜーの四文字だった。