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治療完了、目をさますよ 作者:天寧霧佳

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第8話 あの時計塔を探せ

【あらすじ】
自殺病治療薬GMD開発の権威者が、自殺病にかかってしまうという案件が発生。
赤十字病院はそれを解決するために、汀、理緒。
そしてフランス赤十字からA級スイーパーのソフィーを招集します。

喧嘩腰なソフィーと対立してしまう汀。
彼女達は患者の脳内で、どちらが先に中枢を見つけられるか競争を始めますが…。

【登場人物】
高畑汀たかはたみぎわ
  半身不随の少女。左腕も動かず、寝たきりの生活を送っている。13歳。
  マインドスイーパーとしてとても高い能力を持っている。
高畑圭介たかはたけいすけ
  汀の主治医。とても冷酷で冷静な物言いをする。
大河内裕也おおこうちゆうや
  赤十字病院の医師。
小白こはく
  汀が拾った小さな猫。白い。マインドスイーパーの力がある。
片平理緒かたひらりお
  赤十字病院所属のA級マインドスイーパー。精神の中核を触れる。
・フランソワーズ・アンヌ・ソフィー
  フランス赤十字病院所属のスイーパー。天才的な頭脳を持っている。
動かない足。
動かない左腕。
自由にならない体。
全てが腹立たしかった。
汀は息をついて、そして目の前で折り紙を折っている理緒を見た。

「私も……折り紙やってみたいな」

右手で、グチャグチャになった紙を爪弾き、彼女は呟いた。
理緒は顔を上げ、そして微笑んで言った

「一緒にやろう?」
「一人でも出来るようになりたい」

時折、汀はこのように我侭を言い出すことが多くなっていた。
辟易まではしなくても、理緒も多少の気は遣う。
彼女は少し考えて、3DSを手に取った。

「じゃ、ゲームやりましょうか」
「……うん……」

元気なく返事をして、汀は扉の向こうに目をやった。

「高畑先生、遅いですね」

理緒が言う。
三十分ほど前、お菓子を準備するからと言って出て行ったきり、圭介はまだ戻ってこなかった。

「多分、何か仕事してるんだと思う。出ないほうがいいと思うな……」

汀がそう呟いて、ため息をつく。

「最近ずっと、圭介ああだから」
「そうなんですか……」

圭介は、汀の世話をしても、どこか上の空、といった具合が続いていた。
いつ頃からだったのかは分からないが、人の気持ちに鈍感な汀でも、多少の異常は察知していた。

「どうしちゃったんだろう……」

少女の小さな呟きは、ピンクパンサーのグラスに入った氷が、カランと溶ける音にまぎれて消えた。



圭介は、無言で病院前の郵便ポストを見ていた。
彼の両手からは、ボタボタと血が垂れている。
指を切ったらしい。
圭介は舌打ちをして、持っていた封筒をゴミ袋の中に突っ込んだ。
封筒の四隅に、綺麗にカミソリの刃が貼り付けられていた。
指に包帯を巻き、ゴム手袋をつけて郵便ポストの中をあさる。
彼がつかみ出したもの。
それは、断末魔の表情のまま固まった、猫の首だった。
野良猫らしく、薄汚れている。
血が半ば固まっているところを見ると、殺されたのはそう前のことではなさそうだ。
圭介は黒いビニール袋を何十かにして、無表情で猫の首を放り込み、そして縛ってからゴミ袋の中に落とした。

「クソガキが……幼稚な……」

小さく呟き、彼はゴミ袋を、脇のポリバケツに入れてふたを閉めた。
そこで彼の携帯が鳴った。
ゴム手袋を外して脇に放り、彼は痛めた指を庇うようにして携帯を取った。

「俺だ」

低い声でそう言うと、電話口の向こうの相手――大河内は、一瞬停止した後怪訝そうに聞いた。

『どうした? 汀ちゃんに何かあったのか?』
「残念ながら特筆することはないな。『近所』の餓鬼の悪戯に手を焼いていたところだ。お前と話す気分じゃない」
『いきなり大概だな。赤十字として、お前達に仕事を依頼したい』
「悪いが、今は……」
『あの「高杉丈一郎」が、自殺病にかかった』

大河内がそう言うと、圭介は電話を切りかけていた手を止めた。

「何?」
『お前なら、食いつくだろうと思ったんだがな』

圭介は、口の端を歪めて、いつの間にか醜悪に笑っていた。
しかし抑揚のない声調子で返す。

「治療はいつだ?」
『すぐにでも始めたい。汀ちゃんのコンディションがいいなら、連れてきて欲しい』
「分かった」

圭介は端的にそう言い、電話を切った。
ポタリポタリと、カミソリで切った傷口の包帯から血が染みて、地面に垂れている。
圭介は口の端を歪めて笑っている、異様な顔のまま、メガネを中指でクイッと上げた。

「はは……高杉が……?」

小さな声で呟く。

「傑作だ」



「今回の患者は、高杉丈一郎。四十一歳。自殺病の治療薬、GMDの権威として知られている、赤十字の物理学者です」

重々しい空気が流れている中、大河内が口を開く。
赤十字の重鎮達と、元老院の老人達、そして医師が集まっている薄暗い会議室の中で、彼は続けた。

「GMDを投与しましたが、自殺病の進行は止まらず、現在第四段階まで差し掛かっています。本人はマインドスイープによる治療を頑なに拒んでいますが、これ以上の放置は危険と判断し、ダイブに踏み切ることにいたしました」
「放置……ハッ、放置ね……」

面白そうに肩を揺らしながら、隅に座っていた圭介が呟く。

「高畑医師、何がおかしいんだね?」

医師の一人が眉をひそめて口を開く。

「これがおかしくなくて何がおかしいと思うんでしょうかね」

挑発的にそう返し、圭介は目の前の資料をテーブルの上に放った。

「高杉先生は、自分の自殺病治療薬、GMDが『効果がない』ことを、自分の体で立証してしまったわけだ。赤十字としても、元老院としても、これは何とも表沙汰にしたくない問題ですね」
「……効果がないわけではありません。防衛型の攻撃性が強く、投薬による解決が中々見受けられない『ケース』なだけです」

大河内が声を低くして圭介を睨む。

「成る程。では高杉先生はその稀有な『ケース』にかかってしまった、強い悪運の持ち主だと?」
「そうなります」

圭介の言葉を受け流し、大河内は周りを見回した。

「GMDは市販されている治療薬の中で、最も使われているものです。その開発者が自殺病にかかってしまい、GMDによる回復が見込めないという状況、これは先ほど高畑医師の指摘にもあったとおりに、表沙汰にはしたくない問題ではあります」

沈黙している周囲から視線を資料に向け、大河内は続けた。

「それでは、資料の十四ページをご覧ください。今回のダイブには、通常よりも更に神経を注ぐことにします。高畑医師のマインドスイーパーと、赤十字から二人のマインドスイーパーをダイブさせることにいたします」

僅かに部屋の中がざわつく。

「この子は……新入りかね?」

元老院の老人の一人が、写真を見ながら口を開く。
大河内は頷いて言った。

「はい。今回のダイブに必要な能力を持っています。A級能力者です」



赤十字病院の中庭で汀の乗った車椅子を押しながら、理緒は息をついた。
先ほどまでああだこうだと言っていた汀が、急に静かになったのだ。
何かと思って覗き込んでみると、コクリコクリとまどろみの中にいるようだった。
彼女の膝の上にいる小白も、丸くなって眠っている。
病院に行く前に圭介が薬を飲ませていたので、心配はないそうだ。

(何だかお姉ちゃんみたいだなぁ)

そう思って、理緒は木の陰に車椅子をとめた。
そこで、彼女は黒い服とサングラスのSP二人に囲まれて、小さな女の子が歩いてくるのを目に留めた。
背丈は汀や理緒よりも低く、金白色の長いウェーブがかった髪の毛を、腰の辺りまで揺らしている。
白い病院服だった。
彼女は無遠慮に二人に近づくと、きょとんとしている理緒を見て、そして頭を垂れている汀を、値踏みするように見た。
SPの二人は、腰に手を当て、女の子の両脇に陣取る。

「あの……」

理緒が戸惑いがちに声を上げると、女の子はそれを打ち消すように、体に似合わない大きな声で、はきはきと言った。

「片平理緒。十五歳。赤十字登録の純正マインドスイーパー、A級。性格はおとなしく消極的、リーダーシップはないが、人望を集めやすく、スタッフからの信頼も高い。成る程、聞いていた通りね」

自分のプロフィールを大声で読み上げられ、理緒が目を白黒とさせる。

「え……」
「そっちは、高畑汀。元老院が指定した、特A級マインドスイーパー。詳細は不明。ナンバーズの一人ね」

女の子はそう言うと、長い髪をくゆらせながら二人に近づいた。
そして、高圧的に、まどろみの中にいる汀の脇に立って見下ろし、鼻で笑う。

「何よ、障害者じゃない」
「あなた……何ですか、いきなり。失礼じゃないですか?」

理緒がおどおどしながら言う。
それも鼻で笑い、彼女は続けた。

「特A級スイーパーがどんな人間か、この目で見たかったら、わざわざ全ての仕事をキャンセルして『来てあげた』っていうのに、何? 日常生活も碌に送れないような、小娘じゃないの。それに猫? 馬鹿にするにも程があるわ」
「……馬鹿にしているのはあなたでしょう? 誰かは分かりませんけれど、汀ちゃんのことを悪く言うのは許せません」

理緒が眉をしかめて、彼女と汀の間に割って入る。

「誰ですか? ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」

女の子はそれを聞いて、深いため息をついて、やれやれという仕草をした。
そして肩をすくめる。

「一緒に仕事をする人間のことくらい、調べておかないの? 日本人って」
「一緒に? どういうことですか?」

逆に聞き返され、女の子は目をぱちくりとさせた後、SPの一人に食って掛かった。

「どういうこと? 何で日本のマインドスイーパーが、私が来ることを知らないわけ? 一人は寝てるし!」

忌々しそうに汀を指差し、彼女が喚く。
SPの一人は、腰を屈めて女の子に流暢なフランス語で答えた。
それを聞いて、女の子もフランス語で返し、
何度かやり取りをした後、彼女は苛立たしげにSPを突き飛ばした。
屈強な男が、それで揺らぐわけもなく、彼はまた手を後ろに回し、先ほどと同じ姿勢をキープした。

「……どうやら、連絡の行き違いがあったようね。私としたことが、とんだ誤算だわ」

彼女はまた深くため息をついて、頭を抑えた。
そしてSPのもう一人から薬を受け取り、口に入れて噛み砕いてから理緒を見た。

「私の名前は、ソフィー。フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。フランスの赤十字から、今回のマインドスイープのために派遣されてきたわ」

腰に手を当て、見下すように理緒を見て、彼女は忌々しげに鼻を鳴らした。

「あなたと同じ、A級能力者よ」

ソフィーと名乗った女の子は、髪を掻き上げてから、物憂げに二人を見た。

「…………先が思いやられるわね」

「どうしてそんなに喧嘩調子なのか、私には良く分かりませんけれど……今回のお仕事でご一緒するんですね。宜しくお願いします。私、理緒っていいます。あ……ご存知でしたね」

そう言って手を差し出した理緒を無視して、ソフィーは汀の脇にしゃがみこんだ。

「起きなさいよ、特A級能力者。日本のマインドスイーパーは、挨拶も出来ないわけ?」
「汀ちゃんは、今薬で眠っています。あまり刺激しないでください」

理緒が、慌てて車椅子を遠ざけようとする。
そこで小白が目を覚まし、シャーッ! と鳴いてソフィーに噛み付いた。

「痛っ!」

小さくそう言って、彼女は手を引っ込めた。
うっすらと血が出ている。

「だ、大丈夫ですか?」

理緒が駆け寄ろうとするが、SPに止められる。
ソフィーは、涙をうっすらと目に溜めて、吐き捨てるように言った。

「ふん……精々私の足手まといにならないように気をつけることね」

きびすを返して、中庭を去っていくソフィーを、ポカンと理緒は見つめていた。

「……ナンバーズ?」

呟いて首を傾げる。
汀は、まだコクリコクリと頭を垂れていた。



汀は、きょとんとして目の前の、背の低い女の子を見上げた。
施術室で目を覚ました時、腕組みをした女の子が仁王立ちになっていたのだ。
脇で理緒がおろおろしている。

「やっと起きたわね、高畑汀。この私を二時間三十五分も待たせてくれるとは、いい度胸してるじゃないの」

鼻の脇をひくひくさせながら、女の子――ソフィーが言う。
汀は首を傾げて周りを見回した。
ソフィーのことは完全に無視していた。

「ここ……どこ?」

理緒にそう問いかける。
理緒はしゃがみこんで汀の頭を撫で、そして言った。

「赤十字の施術室です。これからお仕事ですよ」
「私、そんな話聞いてないよ」

それを聞いて、理緒は少し表情を暗くしたが、慌てて言いつくろった。

「急に決まったんです。汀ちゃん寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」
「やだ、帰る」

また我侭を言い出した汀に、理緒は息をついてから言った。

「どうして? 患者さんがいるんですよ」
「今日はそんな気分じゃないの。何か……むしゃくしゃする」
「でも、今日ダイブしないと患者さんが危ないんです」
「知らないよ、そんな赤十字の都合なんて」

赤十字の医師達に囲まれている状況で、汀が大声を上げる。

「帰る!」
「汀ちゃん、落ち着いて……終わったら一緒にゲームしよ? 折り紙も教えてあげるから……」
「やだやだ! 今帰る!」

駄々をこねる汀を、呆気に取られてソフィーは見ていたが、彼女はすぐに怒りの表情に代わり、バンッ、とテーブルを平手で叩いた。
それに汀がビクッと体を震わせる。

「とんだ侮辱ね……この私を前にして、よりにもよって『帰る』……? 一体どれだけの労力かけてここまで……」
「汀ちゃん、起きたのか!」

そこで大河内がゆっくりと施術室の中に足を踏み入れた。
汀が一瞬ポカンとした後、慌てて右手で病院服のしわを直す。

「せ……せんせ!」
「心配したぞ。高畑が汀ちゃんに薬を投与したって言ってたから、今日の施術が出来るかどうかも、分からなかったしな」

大河内はそう言って汀を抱き上げた。
汀は顔を赤くして、右手を大河内の肩に回した。
そして頭を擦り付ける。
車椅子に取り残された小白がニャーと鳴いた。

「せんせ、会いたかったよぉ。どうしてすぐ来てくれなかったの?」
「仕事が立て込んでいたんだ。悪かったな」

理緒が、大河内の出現で、とりあえずは安定を取り戻した汀を見て息をつく。
そこで大河内は、肩をわなわなと震わせてこちらを睨んでいるソフィーを目に留めた。
そして汀を抱いたまま、彼女に片手を向ける。

「紹介がまだだったな。こちらは……」
「フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。よく勘違いされるけど、日本人とフランス人のハーフだから。高畑汀。会えて光栄だわ」

鼻の脇を吊り上げながら、彼女は目だけは笑っていない顔で汀に手を突き出した。
しかし汀は、大河内を盾にするように体をひねると、顔をしかめてソフィーを見た。

「……誰?」
「日本人は自己紹介も出来ないわけ?」

ソフィーがヒステリックに大声を上げる。
それにビクッとして、汀が小さな声で理緒に言った。

「理緒ちゃん、お家に帰ろうよ……」
「汀ちゃん、それは……」

言いよどんだ理緒の言葉を、やんわりと遮りながら大河内が口を開いた。

「ソフィー、最初から喧嘩腰なのはいけないな。ほら、二人とも怯えてしまっている」
「ドクター大河内。彼女達の態度は、とても仕事に向かう姿勢だとは思えません。そんな人達と、この私が一緒にダイブするなんて、考えられないことです。ナンセンスだと思います」

はきはきと大河内にそう言うソフィー。
大河内は、汀を車椅子に戻し、彼女の膝に小白を戻してから言った。

「この子達の解決した案件は、説明したとおりだよ。今現在、日本で一番確実な力を持っているマンンドスイーパーさ。どうか、仲良くしてやってくれないか?」

彼にそう諭され、ソフィーが眉をひそめて二人を見る。
大河内はその視線を無視して、汀に言った。

「フランスの赤十字から派遣されてきた、A級マインドスイーパーだよ。今回は協力して……」
「お断りします」

そこで、ソフィーが声を上げた。
医師たちがざわついて顔を見合わせる。
二人のSPにフランス語で何かを言い、しかし彼らに止められ、しばらく口論してからソフィーは向き直った。
そして、腕組みをして馬鹿にするように理緒と汀を見る。

「それでは、こうしましょう。私と、あなた達二人。どちらが早く患者の中枢を見つけることが出来るか、競争しましょう」
「ソフィー、何を言い出すんだ」

大河内が息をついて彼女の方を向く。

「今回は協力すると、契約書にも……」
「どうです? 競争、しませんか?」

ニヤ、と笑い、彼女はきょとんとしている汀に言った。

「それとも、二人がかりでも、私に敵わないんでしょうかね? 『特A級スイーパー』の高畑汀さん」

挑発的にそう呼びかけられ、汀は、そこで初めてはっきりとソフィーを見た。
そして眉をひそめて、彼女に言う。

「敵うとか敵わないとか、何の話をしているの?」
「実力に差があると、そう言いたいまでです。あなた達と、私には」
「面白いじゃないか。いいだろう。今回は競争だ」

圭介がそう言いながら、白衣を着て施術室に足を踏み入れる。
両手はポケットに突っ込まれていた。

「高畑……何を勝手な……」

大河内が止めようとしたが、圭介は柔和な表情でソフィーに向き直った。

「そんなに自信があるなら、一回挑戦してみてもいいんじゃないかな? フランスのマインドスイーパーさん」
「ドクター高畑……」

そこで、ソフィーは彼を汚物を見るような目で見て、吐き捨てた。

「元老院の子飼いと話すことは何もありません」
「つれないな。俺はただ、君を応援しようと……」

圭介はそう言いながら、包帯を巻かれた手を彼女に伸ばす。
ソフィーは怯えたように喉を鳴らすと、いきなり

「触らないで!」

と怒鳴って、その手を勢いよく振り払った。

「……ッ!」

圭介が顔をしかめて一歩下がる。
傷口を直撃したらしく、包帯にじんわりと血がにじんでいる。

「圭介……?」

不思議そうに、汀が口を開いた。

「どうしたの、それ……」
「……お前には関係ない」
「……圭介に何をしたの!」

汀が大声を上げて、ソフィーを睨みつけた。
豹変した彼女の調子に合わせることが出来ず、ソフィーは言いよどんだ。

「わ……私はただ、振り払っただけで……」
「圭介に危害を加える人は許さない……! 競争でも何でも受けてやるわ。あまりいい気にならないことね……!」
「ふ……ふん! 大概じゃない。後で泣き面晒しても、私は責任を取らないから」
「二人とも落ち着いて……」

理緒がおろおろしながら汀を落ち着かせようとしている。
大河内はため息をついて、横目で圭介を睨んだ。

「……どういうつもりだ?」

小声で彼に問いかける。
圭介は柔和な表情のまま、口の端を吊り上げて笑った。

「いや、何。フランスのマインドスイーパーとやらの『性能』を見てみたくてね」

彼の呟きは、大河内の耳にはっきりと届いた。

「それだけさ」

そう言った圭介を見て、大河内は息を呑んだ。
彼が、どこか暗い、表情の読めない不気味な顔つきをして、ソフィーを見下ろしていたからだった。
ソフィーと汀が睨みあう。
圭介は柔和な表情に戻り、汀の頭を、血が出ていない方の手で撫でた。

「あまり怒るな。俺は大丈夫だから。じゃ、準備を始めるぞ」
「高畑先生! 本当に競争なんて……」

理緒に頷いて、彼は続けた。

「ああ、勝った方には、ご褒美をあげよう」



ムスッとした表情のまま、汀は目を開けた。
そこは、地下室のような空間だった。
広さ十畳ほどの小汚い壁、床。
出口などはどこにも見られない。
天井には裸電球がゆらゆらと揺れながら、時折点滅しつつ光を発していた。

「汀ちゃん……」

どこかおどおどしながら、理緒が後ろから近づいてくる。

「どこですか、ここ……?」
「表層心理壁の、煉獄に繋がる通路よ」

そこで、はっきりとした声が、二人の後ろから投げつけられた。
汀の肩の上で、小白がニャーと鳴く。
振り返った二人の目に、腕組みをして高圧的にこちらを見ているソフィーの姿が映った。

「日本には馬鹿しかいないるのかしら?」
「フランスには礼儀知らずしかいないのね……」

汀が低い声でそう返す。
ソフィーは鼻を鳴らして、現実世界とは異なり、しっかりと自分の足で地面に立っている汀を見た。

「へぇ……『かたわ』のままダイブしてきたらどうしようかと思ったけど、そこら辺は特殊なのね、あなた」

平気で差別用語を口にし、ソフィーは眉をしかめた理緒に目を向けた。

「何ボサッとしてるの? マインドスイーパーなら、やらなくてはいけないことがあるんではなくて?」
「……あなたに言われなくても、分かっています」

理緒はそう言ってソフィーから視線を外し、ヘッドセットのスイッチを入れた。
汀も遅れてスイッチを入れる。

「ダイブ完了しました」
「…………」

無言でソフィーを睨んでいる汀の横で、理緒が圭介に状況を説明する。

『今回のダイブでは、俺が三人のナビゲートをすることになっている。だが、このダイブは「競争」だ。ひいきはしないから、そのつもりでな』

圭介がそう言うと、理緒が少し言いよどんだ後、言いにくそうに口を開いた。

「あの……先生。患者さんの命がかかっているんですよ? 競争だなんて……みんなで協力した方が……」
『出来るならそうしたらいい』

投げやりに圭介が言う。
突き放されて、理緒は何かをゴニョゴニョと呟こうとしたが、失敗して口をつぐんだ。
不満そうな彼女の脇で、ソフィーは足を踏み出すと、扉の一角に目をやった。
そこだけ、鋲が打ちつけられた扉のようになっていた。
壁に、手の平大の窪みがある。
正方形だ。
そして、床には薄汚れたルービックキューブが転がっていた。
色がバラバラになっている。
ソフィーがそれを拾い上げた途端、ガコンッ、という音がして四方の壁が一センチ程、三人に向かって『近づいて』きた。
そう、壁と壁の距離が、狭まったのだ。
理緒がビクッとして肩をすぼめる。
汀は、まだ暗い視線でソフィーを睨んでいた。
ソフィーはそれを意に関することもなく、ヘッドセットの向こうに言った。

「ドクター高畑。あなたのナビゲートを受けるのは心外だけど、この際仕方ないわ。一時的に会話をしてあげます」
『それは光栄だ』
「心理壁に繋がる道を開きました。次の指示をお願いします」

カチャカチャとルービックキューブを動かし、彼女は無表情でそれを壁の窪みに嵌めた。
色は、六色全て揃っていた。
また、ガコン、という音がして、今度は十センチ程壁と壁の距離が狭まる。

「汀ちゃん! 壁が近づいてきますよ!」
「当たり前のことをいちいち喚かないで」

理緒の悲鳴を冷たく汀が打ち消す。

「それじゃ、お先に」

ソフィーがニッコリと笑って手を振る。
シャコンッ、と音を立てて、鋲がかかっていたはずの扉が開いた。
向こう側は白い空間になっている。

「え……? ちょ、ちょっと待って!」

理緒が大声を上げる。
しかしソフィーは口の端を吊り上げて笑った後、壁からルービックキューブを抜いて、床に叩きつけた。
プラスチックが砕ける音がして、ルービックキューブがバラバラになる。
また、壁が今度は十五センチほど近づいてきた。
かなり狭くなった部屋を見回し、ソフィーは余裕の表情で白い空間に体を躍らせた。
次の瞬間、またシャコンッ、という音がして扉が閉まった。
そして鋲が内側からせり上がり、しっかりと扉を固定する。

「嘘……」

理緒が呆然として、砕けたルービックキューブに駆け寄る。
また、壁が狭まった。

「壊されちゃった……! これ、多分この人の心の中に入る鍵なのに……!」
「選別してるのね。マインドスイーパー用のトラップだわ。この患者、私たちのことをよく知ってる」

冷静に言う汀に、ルービックキューブの欠片を拾い集めながら、理緒が青くなって言った。

「汀ちゃん手伝って! これを早く直さなきゃ……」
「そんな必要はないよ」

汀は肩の上の小白を撫でてから、不思議そうに理緒を見た。

「どうして、この人の心が作ったルールに、わざわざ合わせなきゃいけないの?」
「でも合わせなきゃ扉が開かないんですよ。他に、どうすればいいっていうんですか!」
「こうすればいいんだよ」

汀はそう言って、扉の前に立った。
部屋はもう、二人が立っているだけでやっとといったくらいの四方の狭さになっていた。
汀は、軽く助走をつけると、右足を強く鉄の扉にたたきつけた。
凄まじい音がして、次いで部屋のいたるところから、血液が噴出した。
それを浴びて、面白そうに汀は何度も、何度も扉を蹴った。

「汀ちゃん、何してるの……やめて!」

血の雨を浴びながら、理緒が悲鳴を上げる。
しかし汀は、扉を蹴るのをやめようとしなかった。
そして、遂に鋲と扉の継ぎ目から、大量の血液があふれ出す。
それが溜まって、二人の腰までを血が覆い隠す。

「あは……あはははは!」

血のシャワーを浴びながら、汀は嬌声を上げた。
そして、十数回目の蹴りで、扉がひしゃげ、どろりと溶けた。
汀は、そこで理緒の手を掴んで、胸の高さまで上がって来た血液を掻き分けながら、歩き出した。

「行こ」
「汀ちゃん、これってまずいんじゃ……だって、心の表層心理壁を物理的に破壊してるわけだから……」
「知らないよ、この人のことなんて」

汀は簡単に言って理緒を切り捨てると、その手を引いた。

「早くしないと、あの女が一位取っちゃうでしょ?」

その無邪気な笑顔を見て、理緒は口を閉ざした。
言い知れない、何か邪悪なモノを感じたからだった。
しかし、体を包む生ぬるい血液の感触に、汀の手を握り返してしまう。
彼女にニッコリと笑いかけ、汀は白い空間に身を躍らせた。



気づいた時、汀達は、地上二十メートルほどの地点に立っていた。
足元はレンガ造りの堅牢な足場になっているが、手すりも何もない。
幅一メートルほどの足場だ。
コチ、コチ、コチ、コチといたるところで時計の音が聞こえる。
全てが狂っているような、不規則な時の刻み方が多かった。
不協和音が反響して、耳が痛い。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだ。
理緒はあまりの高さに驚いてよろめき、汀に支えられて周りを見て、硬直した。
二人がいたところは、時計塔の頂上だった。
足元では直径三メートルはあろうかという巨大な時計が、二秒に一度ほど秒針を進めている。
見渡す限り、その時計塔の群れだった。
高さはまちまちで、装飾もまちまちだが、共通していたのは、それが『塔』であるという事実。
それが何百、何千と果てしなく広がっている。
空調音のようなゴウンゴウンという音は、時計の針が時を刻む、不規則な音が織り成す巨大な不協和音だ。

「何……これ……?」

理緒が唖然として呟く。
汀は鼻を鳴らして言った。

「防衛型の進行が進みすぎたせいね。理緒ちゃんは一度、入ったことあるでしょ? 防衛型。この中のどれが一つが正解なの。中枢に繋がる道の」

言われて理緒は、DID患者の中にダイブした時のことを思い出した。
その時も、同じような群れの中に一人だけ、中枢に繋がる道を持つ人間がいたのだった。

「じゃあ……今回も、この沢山の時計塔の中から『正解』を見つけなきゃいけないってことですか……?」
「察しがいいね。その通りだよ」
「でも……どうやって?」
「それを考えるのが、私達の仕事」
「あの……この前から気になってたんですけれど……」

理緒は汀を見下ろして言った。

「こういう場合、もし間違ったものを選んじゃったら、どうなるんですか?」
「さぁ? 死ぬんじゃないかしら」

汀は小白の頭を撫でて、肩をすくめた。

「わかんないな。私、間違えたことないもん」
「そんな……本当?」
「私も興味あるから、ためしに間違えてみたら? 多分、この塔はダミーだし」

そう言いながら、汀は、時計塔の起動スイッチと思われるレバーを引こうとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

慌てて理緒がそれを止める。

「何?」

不満そうな顔をした汀に、理緒は汗を垂らしながら言った。

「もうちょっと考えよ? ね? もし爆発とかしたら、どうするの?」
「面白いよ」

理緒は深くため息をついた。
そしてヘッドセットのスイッチを入れて、圭介に呼びかける。

「高畑先生。患者さんの心理壁の内面に到達しました。指示をお願いします」
『入れたのか。まぁ、汀がいるんだから、問題はないだろう?』

さして意外でもなさそうに圭介が返す。
そこで汀がヘッドセットに手を当てて、圭介に言った。

「圭介、手、どうしたの?」
『お前には関係ないと言っただろ?』
「あの女にやられたの? 何かされたの?」

食い下がる汀に、圭介は一瞬沈黙した後答えた。

『さぁな。勝負に勝ったら教えてやるよ』
「高畑先生! ふざけている場合じゃ……」
『中枢をさがして治療してくれ。時間が差し迫っている。それより先に、ソフィーの方が治療に成功するかもしれないな』

圭介が挑発的にそう言う。
汀の目の色が変わった。

「私が勝つよ。フランス女なんかには負けない」
「汀ちゃん、目的は勝つことじゃ……」
『頼もしいな。その調子で頼む』
「高畑先生!」

理緒がおろおろしている脇で、汀は時計塔の扉に手をかけた。
そして引く。

「中に入れるみたいだよ」

理緒が答えるのを待たずに、彼女は時計塔の中に体を滑り込ませた。

「待って!」

慌てて理緒が後を追う。
時計塔内は、錆びた鉄製の螺旋階段が下まで伸びていた。
時計の内部がカッチコッチと音を立てている。
管理室だろうか。
一つだけ、ブラウン管型テレビが置いてある。
壁には、風車がついた時計塔の写真が貼ってあった。

「これを探せばいいんでしょうか……? でも、こんな何百何千ってある中でどうすれば……この前みたいに、逃げてく人を選別するわけにもいかないし……」
「多分、理緒ちゃんが言うとおり、これが正解の時計塔だね。この人の心の中で、重要なものなんだと思う」
「停止させればいいのかな?」
「うん。多分」

汀の肩の上で退屈になってきたのか、小白が大きな欠伸をする。
そこで、テレビがプツリと音を立ててついた。

「ひっ……!」

息を呑んだ理緒の脇で、汀は興味深そうにそれを見ていた。
そこには、豚のト殺場の様子が映されていた。
沢山の豚達が、機械で絞め殺されて断末魔の悲鳴を上げている。
無音だ。
しばらくして、テレビからノイズ交じりの、淡白な男性の声が流れてきた。

「アミハラナギサ、カタヒラリオ、フランソワーズ・アンヌ=ソフィー」
「なぎさ……?」

汀がそう呟いて、怪訝そうな顔をして頭を抑える。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。

「次の犠牲者は、この三人です」

画面の中に、両手両足を天井から縛られ、吊るされた汀、理緒、ソフィーの姿が映し出される。

「わ、私……?」

理緒が震えながらそれを見ている。
豚の断末魔が聞こえ、プツリとテレビが消えた。

「ど……どういうこと……?」

唖然として、ペタリとその場にしりもちをついた理緒に、頭を抑えながら汀は言った。

「ただの異常変質心理壁の特徴が出ただけ。これ以上入ってくるなら、トラウマに触れるぞって警告を発してるの」
「それにしては不気味でしたけれど……」

そこで、二人は外からキィィィ! という豚の断末魔が聞こえてきて、顔を見合わせ扉を開けた。
時計塔と時計塔の間に、錆びた鎖と、巨大な滑車が出現していた。
時計塔の歯車から動力を得ているのか、数万の鎖がギチギチと音を立てる。
そこには、おびただしい数の肉を引っ掛ける鉤が釣り下がっていた。
その先には、まだ生きている豚。
豚が、首先を鉤に突き刺されてゆっくりと進んでいる。
時計塔の頂上には、ノコギリのようなものが高速で回転しており、豚たちは、生きたままそれに両断され、ゴロリゴロリと地面めがけて、真っ二つになって落ちていく。
どこから補給されるのか、豚の数は減ることがない。時計塔で切り刻まれて、出てくる時には新しい豚が補充されているのだ。
理緒は、間近で豚が真っ二つに両断され、その血液だか体液だか分からないものを間近で浴びてしまい、悲鳴を上げた。

「これで移動すればいいんだね」

しかし汀は表情一つ変えず、出てきたばかりの、まだ動いている豚につかまった。

「理緒ちゃんも。早く」

呼びかけられ、理緒は真っ青になりながら汀を呼んだ。

「駄目……行けない! 行けない!」
「どうして? 早くしないと……」
「私高いところ駄目なの! それに、このままついてったら、ノコギリで真っ二つになっちゃう!」
「その前に飛び降りればいいよ。大丈夫。ここは、所詮脳内イメージの世界だから」
「そんな風に割り切れないですよ!」
「いいから。ほら」

汀に無理やり手を引かれ、理緒は近くの豚に恐る恐る抱きついた。

「行くよ」

汀も同じ豚に抱きつき、鎖を手で掴む。

二人を乗せた鎖がゆっくりと動き、地上二十メートルの空中に躍り出る。
意識を失いそうになった理緒の手を掴んで、汀は面白そうに、時計塔と時計塔を繋ぐ、豚のト殺光景を見た。

「ふーん。そうなんだ」

空中に出て、周りを見回して、汀は呟いた。

「理緒ちゃん、目開けないと危ないよ」
「開けられない! 開けられない!」

首を必死に振っている理緒にため息をついて、汀は片手でヘッドセットのスイッチを入れて言った。

「圭介。ここ、D型の変質区域だ」
『そのようだな。先ほどソフィーからも同じ通信があった』

汀が頬を膨らませ、不満そうに言う。

「私の方が先に分かってたもん」
『そんなところでひいきはしない。何せ、ソフィーは「このため」に、フランスから連れて来られたんだからな』
「どういうこと?」
『彼女は、IQ190の超天才児だ。パズルを解くことは、何よりも、誰よりも得意なんだ』
「ゲームするうえで、チートはいけないと思うけど、まぁ、でもチートは単なるチートだよね」

汀が冷めた口調でそう言う。
彼女の目に、既にソフィーによって停止させられたのか、いくつかの時計塔が見えた。
それが上下左右対称の、幾何学的模様を描いている。
おそらく、紋様を描く時計塔を停止させた先に見える、中心のものが、あの風車のある時計塔なのだろう。
豚のト殺レールがそのルートになっているらしい。
うっすらと遠くに見えるそれを目を細めて見て、汀は歯噛みした。
そして目を閉じて震えている理緒を見た。
分が悪いのは、誰が見ても明らかだった。

「理緒ちゃんは、ここで待ってる?」

汀が釣り下がりながらそう聞く。
理緒は必死に豚にしがみつきながら、何度も頷いた。

「でも一緒に来ないと、治療した時に外に出れないよ」

汀は考え込んでため息をついた。

「いい加減慣れようよ。夢の世界って、大体こうだよ。理緒ちゃんがダイブしてた、子供の頭の中とは違うの。人間って、大きくなればなるほど汚れていく生き物だから」

まともに返事も出来ない理緒を見て、汀は回転ノコギリが迫ってきたのを見て、別の時計塔に飛び降りた。

「理緒ちゃん、降りてきて」

理緒にそう呼びかけるが、彼女は硬直してしまってそれどころではない様子だった。

「理緒ちゃん?」

問いかけた後、汀はサッと顔を青くした。
理緒がここまでの高所恐怖症だとは思わなかったのだ。

『どうした、汀?』

圭介に問いかけられ、汀は慌ててそれに返した。

「理緒ちゃんがまずいの。このままじゃ、真っ二つにされちゃう」
『どういう状況だ。いいか、理緒ちゃんは無傷で連れて帰れ。約束してるだろ?』
「わ……分かった!」

汀は頷いて、飛び上がった。
そして理緒の近くの鎖にぶら下がり、彼女に手を伸ばす。
回転ノコギリが迫っていた。

「理緒ちゃん、目を開けて! 早く降りないと、まずいよ!」
「……だ、駄目! 駄目なんです! 体が動かないの……腰が……腰が抜けちゃって……」
「理緒ちゃん!」

汀は慌てて、回転ノコギリから理緒を守る形で、その間に割って入った。
嫌な音がした。
汀の肩の上で、小白が驚いて声を上げる。

「……ッあぁ……あ……ッ!」

汀が苦悶の表情に顔を歪ませる。
彼女の左腕が、綺麗に肩口から両断されて、ボトリと時計塔の足場に落ち、転がって下に消えていった。
凄まじい量の血液が、彼女の肩口から噴出する。

「汀ちゃん……!」

理緒が目を開いて、驚愕の声を上げる。
汀は痛みに耐えることが出来ずに、鎖を離し、その場に落下を始めた。
理緒が無我夢中で手を伸ばし、彼女の右腕を掴む。
そして彼女は、悲鳴のような絶叫を上げると、汀の体を持ち上げ、豚から手を離し、転がって時計塔の足場に飛び降りた。
しばらく茫然自失して、荒く息をつく。
そして彼女は、肩口を押さえてうめいている汀に近づいて、震えながら、上腕が両断されてしまった彼女の傷口を見た。

「ど……どうしよう……! どうしよう! 高畑先生! 汀ちゃんが……汀ちゃんが!」
『どうした? 落ち着いて状況を説明してくれ』
「汀ちゃんの腕が、ノコギリで切られて、なくなっちゃった……!」
『何?』

圭介は思わず問い返して、慌てて言った。

『回線を遮断する。汀、聞こえるか? 返事をしろ』
「……圭介……私、まだやれる……大丈夫……」

病院服を右手で破りとって、腕の傷口を縛りながら汀はそう言った。
理緒が慌てて口を挟む。

「む……無理です! 汀ちゃん、戻ろう? このまま失血したら、現実世界の左腕も……」
「元々動かないんだから、どうでもいいよ……」

痛みに耐えながら汀がそう言う。
しかし圭介は、少し考えてから言った。

「駄目だ。回線を強制遮断する。二人とも、戻って来い」

彼の声は、断固とした調子で二人の耳を打った。
汀は歯噛みして、肩の傷口を押さえた。
とめどなく流れていく血液。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。
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