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第3章 守られぬ約束(3)
 結局その日、あたしは夜半過ぎになっても課題が終わらず、部屋に戻れなかった。
 やっと終わらせて、ふらふらになりながら教室を出ると、扉の横でシュルマが顔を曇らせて待っていた。
「あの……皇子がお召しだったんですけど……授業が長引いていることをお伝えしたら、それならいいと言われてしまって。……あのセフォネが、昨日のことを根に持っていて……すみません」
「……いいの。今日は疲れたし、こんな時間までお待たせできないもの」
 本当は今からでも彼の部屋に行って、その腕の中に飛び込みたい。
 ――でもそんなこと、許されない。
 何をするにも、許可がいる。
 なんて窮屈なんだろう……。ツクルトゥルスでの日々が嘘のようだった。

 同じ城で過ごすにも、こんなに違う。ふた月前は1日会えなくても、こんなに辛くなかった。
 遠くから一目見るだけでも、満足できた。
 やっぱり、あたしはずいぶんと欲張りになってしまってる。
 それでもいいと、シリウスは言ってくれたけれど……やっぱり、欲張りになった分だけ望んだことがが叶えられないのは辛いみたいだ。

 最初から多くを望まない方が、後で辛い想いをしなくていい。
 それでも――。
 あたしは……シリウスを信じる。
 きっと、彼は約束を守ってくれる。
 怖くてたまらないけれど、今はまだ彼を信じようと思った。


 *


 翌朝、あたしは寝不足の頭を抱えて、朝食に向かった。
 外宮には食堂があり、皆それぞれそこに集まって食事をとることになっていた。

 あたしは、他の妃候補と顔を合わせるのが嫌で、少しだけ遅めに食事をとりに行った。
 しかし――
「あらあらあら」
 一人の豊満な体をした女性があたしに近づいてくる。
 豊かな栗色の髪を二つに分け、頭の高い位置で美しく結っている。黒いダイヤのような目が挑戦的にこちらを睨んでいた。まだ幼さを少し残すその顔とは不釣り合いなくらいに、上質な絹のドレスに包まれたその体は大人びている。……胸など、服がはち切れそうで、比べるのも馬鹿らしいほどに大きい。胸元に埋もれるように一粒の大きな宝石が派手に光っていた。
 つんと花の香りが鼻を刺す。香水だろうか。なんにせよ、付け過ぎだ。
 ……昨日シリウスと一緒に居た女性の一人だ。隣に似たように印象のきつい侍女を連れている。
「遅いお出ましですこと。夜のお勤めがあるのですものね、仕方ないとも思いますけれど」
「いいえ、エリダヌス様。昨晩の伽はこの方ではなかったそうですわ」
「え? 皇子の愛妾って、この子でしょう?」
 愛妾……。
 あたしは固まり、横でシェルマがムッとした顔をして、尋ねる。
「どなたがそんなことを言われているのです!」
「その辺の侍女を捕まえれば、みんなそう言うわよ」
 エリダヌスと呼ばれた娘は何ともない口調でそう言う。
 今度はシュルマも絶句した。
 彼女はそんな様子を面白そうに見つめて笑うと、視線をあたしの体に移す。舐めるようなその視線にあたしは思わずたじろぐ。
「その割には……なんというか。お子様なんじゃないの、まだ」
 彼女は自分の胸とあたしの胸を見比べて鼻で笑った。
 横でシュルマが今にも噛み付きそうな顔をしている。
「外見では分からないのかもしれませんわ。なんといっても、今まで誰も寄せ付けなかったあの皇子を落としたのですもの。可愛らしいふりをしていても、案外……」
「ああ、そうなのかしら。寝台では大胆なのかもしれないわね」
 下品だと思った。
 いったい何を想像しているのだろう。

「そういう下世話なお話は、こんな場所でされない方がご自分のためでなくって? 聞いていて気分が悪いわ」
 後ろからのんびりとした声が聞こえて、あたしは振り返る。その口調と内容のキツさがかみ合っていないような気がして一瞬混乱する。
「な、なによ」
 エリダヌスはムッとした様子だが、下世話と言われたのが堪えたらしく、言い返そうと考え込む。
「南部の方はこれだから。もっと趣味の良いお話などされれば良いものを」
 冷たく微笑まれ、勝ち目が無いと思ったのか、エリダヌスはぎりぎりと歯ぎしりをすると、憤怒の表情を浮かべたまま侍女を引き連れ食堂を出て行く。捨て台詞も忘れなかった。
「覚えてらっしゃいよ!」


「ありがとう……」
 ホッとしながらあたしはその少女にお礼を言う。
 見ると、おそらく同じくらいの年齢だ。
 銀色の細い髪は腰よりも長くその華奢な体にまとわりつくようにしていて、大粒の真珠で出来た髪飾りが耳元で遠慮がちに光る。
 灰色の瞳は優しげだった。
 ふんわりとした桃色の可愛らしいドレスが似合う、可憐な少女だ。
 彼女はにっこりと笑う。花が溢れるようだった。
「礼には及びませんわ。別に、あなたのことを庇ったわけではありませんし……。言わないだけで、同じように思っていますし、ね」
 ――何て言ったの、今。
 その表情とはあまりにかけ離れた言葉に、あたしは唖然とする。
 そっちの方がひどいんじゃ……。

 あたしのそんな様子を見て、彼女は嬉しそうに微笑む。
「ああいうやり方より、もっといい方法があるのに……結局は皇子を手に入れたものの勝ちなのですから。
 ……ふふふ。わたくし、シェリアと申しますの。
 あなたも北部出身なのでしょう? いろいろお聞きしてますわよ。……お父様は平民、お母様は……いろいろいわくありげなお仕事をされていたみたいですけど。
 ……その娘なら……いろいろ手練手管を持っていらっしゃるのでしょうね。皇子が夢中になるような。あとで教えて頂きたいくらいだわ」
 最後の方は、あたしにしか聞こえないように、耳元で囁いた。
 あたしは背筋が冷える気がした。
 母さんのこと、知ってるなんて……。この人……。さっきのエリダヌスよりもずっとたちが悪い。
 あたしは、そう思った。

 シェリアは呆然とするあたしを見て楽しそうに微笑むと、軽い足取りで食堂を出て行った。



「あの……その、皇子のお相手って……お二人なのかしら」
 あたしは落ち込んだまま、シュルマに尋ねる。
 手にパンを持ってみるものの……口に運ぶ気力も無かった。
「……いえ……4人と聞いています」
「4人……さっきの二人はジョイアの貴族みたいだったけれど」
「ええ。南部ガレのエリダヌス様、北部ケーンのシェリア様。どちらも資産家の娘ですわ……だから皇室としても断りきれないのでしょう。……あとは……」
 シュルマは、ひどく言いにくそうに口を開く。
「大臣メサルチムの娘タニア様と……テュフォン王国のアリエス王女……だそうです……」
 ……大物だった。
 シリウスがそれを断るには……いろんなものが足りない気がした。
「スピカ様……」
 シュルマが心配そうにあたしを覗き込む。
「大丈夫」

 ……今はまだ。
 でも、……覚悟をしなければいけないのかもしれない。
 ワガママを言ってシリウスを困らせてはいけない。
 そう、最初あたしは覚悟していたはずだった。何人かの妃の一人でもいいと。傍に居ることが出来れば良いと。
 あの人たちの中では、……妃として並ぶのも難しい。着ていた服も、付けていた宝石も、あたしは何も持っていない。身を飾るはずの髪でさえ……持っていないのだ。
 あたしは長さが分からないように纏めた髪をそっと撫でる。

 正妃なんてとんでもない。
 皆、あたしを妾妃としか見ていないのだから。

 あの約束は……忘れよう。
 その方が、彼のためだ。
 今度会ったら……そう伝えよう、あたしはそう思った。
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