85 三柱神
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巨大な髑髏を船首に構え、無数の白骨をプロペラ代わりにした悪趣味な飛空艇は、真っ直ぐにこちらへと向かっていた。そして次の瞬間、船上から小さな影が勢いよく飛び出した。
白い影は、グングンとこちらに近づく。キラキラと輝く銀髪と、白骨の手足を目一杯大きく広げながら。そして魔界の三柱神――死神ヘルは、ケラケラと笑いながら俺達の前に降り立った。
「クーカイ! 他の人間も、死にたくなければ目を閉じておけ!」
ヘルは現れるやいなや、そう宣言し、左手を掲げた。白骨の左手がみるみると不気味に黒ずんでしていく。あれは、やばい――
「久遠! 三好! 目を閉じろ。絶対にあの左手を見るな!」
続けて、抱えた姉御に覆いかぶさり、突然目を覚まさないよう目をふさぐ。前回"あれ"を使った時の様に、死神の力を抑えていた大結界はもはや存在しない。本調子を取り戻した【死の左手】は、その黒光を目にした者全てを冥界へと連れ去るだろう。
――その後聞こえたのは、死神ヘルの楽しげな高笑いと、天使達の感情の無い叫び声だけだった。
「もうよいぞ」
それは肩に乗っかっていたミルの声だった。そういえば、こいつにはヘルの【死の左手】は効かないんだったな。
顔を上げると、転移装置に群がっていた天使達、後方から追いすがっていた天使達は、全て消え去っていた。影一つ見えない、まさに一掃である。恐るべし【死の左手】。
そして俺の目の前には、巨大な大鎌を肩に担ぎ、不恰好な王冠をちょこんと頭に乗せたワンピースの少女が、胸を張って立っていた。
「おう。おうおう。クーカイ。ひさしぶりだのう」
「そうだな、ヘル」
「そっちはミヨシだったか……それになんだ、ウラナはお寝んねか。アハハハハハハ!」
俺の隣で気絶中の姉御を見つけ、ヘルはカラカラと笑っていた。
「ヘル。なぜ貴様がここにおる」
「む。むむ。その声は、ユミールか! 久しいのう。どこだ?」
キョロキョロと周囲を見渡した後、ヘルは俺の肩にいたミルに気がついた。ちょこちょこと走り寄ってきて、そのミルをわしづかみにする。
「なんだ!? なんだなんだ!? ユミール、貴様のその格好。ちっさ! どうした、しばらく見ないうちに、随分と小さくなったな。アハハハハ!」
ミルはジタバタと抵抗しながら言う。
「黙れ。寄るな。掴み上げるな。何故ここにおるのかと聞いておろうが」
「魔王の指示だ。他にも来ておるぞ。ほれ、そこに」
ヘルの指差した先、俺のすぐ後ろに、灰色の長髪を垂らした男が立っていた。ギラギラと野性的な眼を持ち、毛皮で作られた灰色のマントで全身を覆っている。牙と爪で構成されたアクセサリーを大量に身につけた、長身痩躯な男だった。
何を思ったのか、その男は、俺の足元に横たわる十にゆっくりと歩み寄ると、眠る十の無防備な唇に顔を近づけたのだ。
「おい――」
声をかける隙も無く、流れるような動作で男はそのまま十の唇にキスをしてしまった。
「なっ……」
「ほう」
「おー……」
余りにも自然な動きによるこの不意打ちに、絶句する俺達。それは姉御にキスをしたとい事実よりも、この後起きるであろう地獄の方を反射的に思い浮かべてしまったゆえの反応だった。
イヤイヤイヤ、意味がわからん。コイツ、死にたいのか? そして十がぱちりと眼を開ける。なんと間の悪い女だろうか。
姉御はキョロキョロと眼を動かすと、現在の自身の状況――男に唇を奪われているという状況に気が付き、プルプルと体を震わせた。
「久しぶりだな、ウラナ――」
「しねゃあああああ!」
何事か言いかけたその男を、姉御は容赦なく弾き飛ばした。さらに【爆術】により、吹き飛んだ場所もろとも大爆発を引き起こしていた。
十が跳ね起きて、周囲を見渡す。
「いきなり何なんだよ!? ちょっと待て、なんで私がキスされてんだ!? ざっけんな!」
「落ち着け姉御――」
「落ち着いていられるか! クー! てめぇの差し金か!」
「違う。そいつがいきなり出たんだよ。俺達は関係ない」
弾き飛ばされた男を指差す。巻き添えはごめんだ。俺達は本当に関係ない。
見ると、半狂乱となった姉御の攻撃を喰らったはずのその男は、ほとんどHPバーを減らす事無く立ち上がった。年はおっさんというには若いが、30台と言った所だろう。
マジで、誰だ? こいつ。
だが、姉御はその姿を見て顔色を変えた。
「て、てめぇは……」
「はっはっは。ウラナ。いきなりひどいじゃないか」
「なんだ知り合いか。誰なんだよ」
その質問に答えたのは十ではなく、後ろでゲラゲラと笑い転げていた死神ヘルだった。
「アハハ! アハハハハ! そいつはな、我が兄者――三柱神が長兄、破壊の君フェンリルだ!」
「な……」
破壊の君だと? こいつが?
名前だけなら、何度か聞いた事がある。はぐれ魔術【爆術】の使い手で、ヘルやヨルムンガンドと同じ、魔界三柱神の一柱。つまり、魔界における最上位の神の一人だ。
「……姉御。こいつを知ってんのか?」
十は必死な形相で、がしがしと唇をぬぐっていた。そして忌々しそうにフェンリルを睨みながら答える。
「あぁ。以前――ちょっとな。ある迷宮の奥で、ガチタイマンをした事がある。その時はボコボコにしてやったんだが、それ以来――たまにエ・ルミタスに現れるようになってな……」
「簡単に言えば、姉御さんはあいつからストーカーを受けているって事。姉御さんをストーカーする男が居るなんて、現実世界じゃ考えられないでしょ? 凄いよねー」
三好が言った。コイツも顔見知りのようだ。しかし十をストーカーか。さすが三柱神だな――恐れ入る。この暴走女を自分から追い回すなんて、考えただけでぞっとするな。
「なにしにきやがった……フェンリル」
十が顔を真っ赤にしながら、フルフルと体を震わせながら言った。なんだ?――恥ずかしがっているのか? 姉御のこんな態度、初めて見たな。
「そこの麗しき我が妹が言っておったであろう。魔王の指示だ。奴らをここで食い止める為にな」
「食い止める?」
「そうだ。死を司る異世界人よ。あの天使の群れは天界中から湧き出している。奴らは地上や魔界を滅ぼそうとしておるのだ――ゆえに、その全てを天界で皆殺しにしなければならぬ」
フェンリルは大げさな身振りを交えて言った。続けて、その鋭い視線を左右に散らす。
つられて周りを見渡すと、周囲の地面から次々と光り輝く魔法陣が浮かび上がる。そこから先ほどヘルが一掃したはずの天使共が、続々と生み出されていた。
「おいおい。なんなんだよ、これ」
今起きたばかりの姉御が、状況を理解できずにたじろぐ。俺も説明できるほど現状を理解しているわけではないが、見た目どおりの絶望的な状況である事を姉御に伝えた。
「地上に戻れないなら、どうするんだよ」
「さっきまで、どうしようもないと思ってたんだがな――」
そう言いかけてフェンリル、ヘルの順に視線を動かす。二人共、ニヤニヤと余裕げな笑みを浮かべていた。
「フハハ! 案ずるな、異世界人共よ。手を貸すといっているのだ。我を誰だと心得る。三柱神が一柱、破壊の君フェンリルであるぞ!」
フェンリルが大きく息を吸い込み、口を開けた。そして――ワオオオオォォォォンと鼓膜が破壊されるような遠吠えすると、衝撃波のように巻き起こった空気の振動が、周囲の丘の上を駆けぬけた。
全員が耳をふさぎ、その圧倒的な衝撃に身を小さくして耐える。数秒ほど遠吠えを続けた後、フェンリルはガチリと口を閉じた。
瞬間、大爆発が起きた。俺達がいる場所を除いて、天使共がわらわらと湧き出していた魔法陣もろとも、地面がはじけたのだ。火柱が上空まで立ち上り、少し遅れて衝撃波と爆風が四方八方から襲い掛かる。
「うわぁぁぁぁぁ!」
「ちょ、フェンリルてめー!」
皆が悪態を付きながら衝撃波が消えるのじっと耐える。しばらくして開けた視界には、天使共はおろかその発生源である魔法陣までが形を残さず消えている光景が写った。というか、このあたり一体の地面が数メートルほど抉り取られている――
十のほうを向き、ぱちりとウインクをするフェンリル。しかし十は、うざそうに眉をひそめるだけだった。
フェンリルははぐれ魔術【爆術】の使い手である――前に魔王からそう聞いた。フェンリルの【爆術】は十のそれを遥かに上回る威力だった。さすがは三柱神といった所だろう。
だが、なぜこいつらが俺達に加勢するのか、いまだにわからない。
「魔王の指示とかいったな。魔王本人――アンラの奴はどうしたんだよ」
「お呼びでしょうか?」
フェンリルに話しかけたはずが、その答えは背後からやって来た。驚いて振り向くと、そこにはいつの間にか、魔界のトップ――魔王アンラが立っていた。
「え……?」
驚いて口をパクパクさせる一同を尻目に、ヘルがアンラに声をかける。
「おう。おうおう、アンラ。遅かったではないか。そっちはうまくいったのか?」
「はい。少し説得に手間取りはしましたが、すぐに到着すると思います……あぁ、来たようですね」
そう言って、アンラは東の空を指差した。遠方の魔法陣から発生した天使達により、薄暗く始めた周囲の空――見るとその灰色の空に、巨大な黒い影が現れたのだ。
その影は墨で線を引くように、真っ直ぐと東の空の中で伸び続ける。灰色の粒と化した天使達を蹴散らしながら。
「あれは……」
「はい。竜の君――ヨルムンガンドです」
アンラは、涼しげに微笑を浮かべながら答えた。
遠めに見ても、その巨大さがよくわかる。黒き世界蛇は、群がる天使共を蹴散らしながら――いや、あれは喰っているな――喰い散らしながら、こちらへ近づいていた。なんというか、戦闘もひったくれも無い、一方的な捕食である。
「魔王に続いて、竜の君までお出ましか。三柱神が全員集合かよ」
「いえ。まだですよ」
俺の言葉に、アンラが済ました顔で答えた。
「……まだ?」
「はい」
アンラは、ヨルムンガンドの来た東の空を見上げたままだ。その視線の先に目を向けると、ヨルムンガンの背中――その途中から突然、真っ黒な霧が発生した。
霧の中で一瞬、刃先の様な光がきらめく。やがて霧はヨルムンガンドの体から離れると、次々と天使達を飲み込んだ。そして、それが通り過ぎた後には、一刀両断された天使達が無惨な姿をさらしていた。
霧の中に垣間見えたのは、魔界に残ったクラスメイト――六道あやねの凛とした姿だった。