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一足先に、銭湯の女主人と(2)

俺の手は今人間の手だけど、俺は今から猫の手になります。

猫の手になって、“おふろそうじ”をはじめます。


「よーし」


俺はボォォンと変に響くお風呂場で声を上げると、あたりをぐるっと見渡した。

キンキンのメスに教わったようにやる。

全部、やる。


まず、俺は床にあった軽い四角のモノを全て洗い場の上へと上げた。

どうやら人間はこの洗い場で、これに腰かけて体や毛を洗うらしい。

人間は猫のようにどこででも座ったりしない。

椅子、という座る為の専用のものに座る。

水浴びの時も椅子を使うなんて、人間はとても椅子が好きなのだろう。


まずは下にある全てのものを床からどかす。

最初に床をゴシゴシするように言われたのだ。

俺は左右と真ん中にある全ての椅子を洗い場の上に置くと、キンキンのメスから教えてもらった“せんざい”の入った入れモノを逆さまにして床にまいた。

これを使うと床のヌメヌメがなくなるという。


けれど、これをまいた後は少しだけほっとくように言われたので、俺はその間さっき俺が服を着替えた“脱衣所”の掃除を始めた。

これもキンキンのメスから言われた事だ。


『待っている間ぼーっとしないで脱衣所の掃除よ!』と。


人間はきりきり動く生き物だ。

ますたーもおいしいごはんを作る時、同時に2つの事をやってきりきり動いていた。


猫はきりきりしない。

猫は好きな事を、好きな時に、好きなだけやる。

時間なんて気にしない生き物だ。


けれど、俺も今は人間だからきりきり動かないといけない。

俺はなんだかきりきり動いている自分が、とても大層な事をしているように思えて嬉しくなった。

にこにこだ。


「脱衣所はもっぷを使って掃除する」


俺は脱衣所の奥にあった四角い入れモノから先のフサフサした棒を取り出すと、それで床をごしごしした。

ここは人間が水浴びをする前と後に入る所だから、すぐ濡れてジメっとなってしまうらしい。

けれど、じめじめしているのは気持ちの悪い事だからしっかりと水分や汚れを取るように言われた。


「なるほどなー、なるほどなー」


俺は先のフサフサしたものが、どんどん床の水分や汚れを捉えて綺麗にしていく様を見て気分が良くなった。

人間が作る道具にはとても驚かされる。

“もっぷ”はとてもべんりなものだ。


そうして、俺はしばらく脱衣所の汚れや水分を隅々までモップで綺麗にすると、先程浴場にまいた“せんざい”の様子を見に行った。

せんざいはまいた時よりも床に馴染んでいるようで、青い色だったそれは薄く広がっていた。


しばらく待ったので、今度はメスに言われたように“でっきぶらし”を使う。

これは、もっぷと同じように棒の先に何かがついたものだ。

けれども、もっぷとは違い先はフサフサではなく緑色のとげとげだ。

触ってみたら固くてちくっとしていた。


俺はでっきぶらしを持ってまいたせんざいの上から床をごしごしする。


「わっ」


すると、さっきもっぷで脱衣所を掃除した時とは違い、みるみるうちに白いモコモコが出て広がって来た。

なんだこれは。

しかも最初よりも床はぬるぬるが増えた気がする。

それに、わけのわからない白のモコモコもまで出て来たが、これでいいのだろうか。


「ふふふ」


これで良いのかはわからないが、メスの言った通りしているし、なんだか擦る度に白のモコモコが増えて面白い。

ゴシゴシする度にもこもこは増えて、床が見えなくなる。


「よいしょー、よいしょー」


調子に乗って少しペースを上げて浴場を駆けまわる。

もちろん洗い場の下の方もきちんとごしごしする。

床がぬるぬるから次第につるつるするようになってきた。


人間の足は俺達の足のようにピタッと止まれないから転ばないように気を付けなければ。

そうやって、俺はやっとの事で浴場の床全部を白のふわふわでいっぱいにした。


「次は……」


床を水で流すように言われた。

このフワフワは面白かったので水をかけてしまうのが少しだけ残念だ。

俺は、でっきぶらしを壁にかけると、同じく壁の隅の方に隠れていた緑色の細長い管のようなものを手に取った。

先っぽは穴があいている。

俺はその先っぽを手にとると、近くに会った銀色の変な形をしたグネグネをきゅっと捻った。


少し固い。


「ふひっ」


強く捻った瞬間、俺の持っていた緑のあいた先っぽから水が勢いよく出て来た。

びっくりして、思わず手を離してしまった。

すると、それは白のフワフワの上でのたうちまわりながら水を吹き出し続けている。

まるでヘビのようだ。

渡瀬神社にもよく奴らは現れるが、俺はどうにもアイツらの事は好きになれない。

動き方が俺の中の嫌な部分に丁度当てはまるのだ。


「うげぇ」


俺はへびのようにのたうちまわる緑のヤツに顔の上の方にある毛がグッと真ん中に寄るのを感じた。

その間も、ヘビのようなヤツが出し続ける水のせいで白のフワフワが一斉に消えていく。

しかし、俺も「うげぇ」とばかりは言っていられないので、手元にある銀色のやつを、今度は水を出した時とは反対側に少しだけ戻した。


すると、ヘビのようなヤツは水の勢いを弱めのたうちまわるのを止めた。


「よーし」


俺は動きを止めたヘビのようなヤツの先っぽを握ると、床のフワフワに水をかけて行った。

すると、確かに床のフワフワが消えた後の床はとても綺麗になっていた。

ぬるぬるもなくなりつるつるのきらきらだ。


ふしぎだ。とても、ふしぎである。


そんな感じで床の掃除を終えた俺が次に始めたのは、あの大きな山の絵が描かれている下にある窪みの掃除だ。

ここは“浴槽”というらしく、ここに湯を溜めて皆で体を温めるのだそうだ。


俺は床を洗ったのとはまた違う“せんざい”を、床の時と同じように窪みの床にまいた。

これも少しだけゴシゴシまでは待つようにと言われている。


だから、今度はその間はキンキンのメスに言われた“せんざい作り”をやる。


“せんざい作り”と言ってもメスに言われた青い色の底の深い入れモノに、また別の“せんざい”を入れて、それに水を加えるだけだ。

ぶんりょうはてきとうでいいと言われた。

けれど、目安は“せんざい”がフタ5杯分で、水がフタ20杯分らしい。

俺は言われた通りにそれをすると、入れモノの中の“せんざい”を手でかきまぜた。


少しだけ中でふわふわができる。

本当はたくさんまぜてふわふわをいっぱいにしたいのだが、メスにあまり混ぜすぎるなと言われたので我慢する。


ここまで終わったら、入れモノは置いておいて、先程窪みにまいたせんざいの方へ戻る。

今度も、床に馴染んで色が薄くなっている。

ここまでくると俺も次にどうして何をするのかが自然とわかるようになってきた。

ここをゴシゴシする為のものは、今まで使ってきた“もっぷ”や“でっきぶらし”のような棒のついたものではない。

ただ、形は“でっきぶらし”の先のチクチクの部分から棒を取り除いたようなものだ。

今度はこれで浴槽をごしごしする。


ごしごししながら、俺はいつの間にか体中がしっとり濡れているのに気付いた。

水で濡れたのもあるが、しっとりの殆どは俺の体から出ているもののようだ。

なんだろう、これは。

ごしごししながら考えていると、ポタポタと俺の顔から水が垂れた。

触ってみると、ほっぺたや額から水が出ている。


「人間ってすぐ水が出るなぁ」


目からも出すし、体中から出す。

本当に不思議な生き物だ。


俺は体中から水を流しながら浴槽をごしごしした。

床もごしごし、壁もごしごし、隅っこもごしごし。

メスが「綺麗になれ、綺麗になれ」と思いながら心をこめて掃除しろと言っていた。

だから俺はそう思いながら掃除をする。


「きれいになれー、きれいになれー」


綺麗になるのは好きだ。

俺は体を舐めて綺麗にするのが好きだった。

俺は綺麗好きな猫なのだ。

だから、今こうして掃除をしているのも楽しい。

きれいにするのは楽しい事だ。

にこにこだ。


ひとしきりごしごしした後、俺はまたあのヘビのようなヤツで水を出してフワフワを消した。

そしたら、やっぱりヌルヌルがなくなってつるつるになった。

うれしい。


「次がさいご!」


床と浴槽をつるつるにした後は、先程作った“せんざい”で洗い場を一つ一つ綺麗にするのだ。

今度は使うのは今までの中で一番小さい道具。

メスは“たわし”と言っていた。

これは茶色で、俺の手の中にすっぽり収まる、なんだかかわいいやつだ。


たわしを作った青い入れモノの中につけ、洗い場の隅っこや椅子の裏側、銀色の水が出る部分や、同じく銀色の俺の顔を映す不思議なモノのまわりを擦る。

この俺の姿を映す不思議なものはしろの家にもあったから知っている。

“かがみ”というソレは不思議な事に見た者をそのまま映すのだ。


どういうしくみなのかはわからないが、俺は人間として働く自分の姿をチラチラ見ながら、なんだか胸がむずむずするような気分になった。


俺は本当に人間になったんだという気持ちと、俺も人間みたいに働いているんだという気持ちで胸がいっぱいになる。

かがみに映る俺は体中からいっぱい水を流しながら、ごしごししている。

頭の毛も濡れてしっとりだ。


そうして、最初の洗い場をごしごしし終えた後、また手元の銀色の所で水を出そうとぐいっとひねった。


「うっぷあ!わぁ!」


またしても俺はやってしまった。

銀色を捻った瞬間、壁の上の方にひっかけられていた変な形のものから一気に水が吹き出してきたのだ。

今度の水は緑の時のように一筋ぶわーっと出るようなものではなく、変な形の先っぽの小さな穴から細かい水が何筋もぶわーっと出て来た。


「び、びっくりしたー」


思わず洗い場から撥ねのいた俺は水の出続けるソレを見て目を瞬かせた。

鏡に映る俺は毛もびちゃびちゃ、服もびちゃびちゃだ。


「こわー」


俺はここで一つおぼえた。

何でも確認せずに一気に捻るのはよそう。


そうやって、一つ一つ洗い場を洗っては細かい水の出るヤツでフワフワを洗い流す作業を続けた。

それが終わったのは俺がおふろそうじをはじめて、お腹がぐうううと深く鳴り響いた時だった。


「おなかへった」


そう、俺が呟いたのと、キンキンの女の「終わった―?」という声が響いて来たのは、ほぼ同時だった。


「はい!おわりました!」


俺は反射でピンと背筋を伸ばして、入口に居るメスに向かって返事をした。

そんな俺を見て、メスは驚いたように目を見開いた。


「うっわ!ニート君びちゃびちゃじゃない!派手にやったわねぇ!」


「水がぶわーっとかかってきてびっくりした」


「あはは!新人の宿命と思いなさい!ほら、タオル上げるから軽くふいて!私はその間に掃除のチェックをするからね」


俺はキンキンのメスからフカフカのタオルを受け取ると、そのタオルに顔を埋めた。

きもちい。

そして、じゅんじゅんに濡れた部分を拭っていく。

毛とか腕とか首とか足とか。


そうやって俺が体を拭っている間、メスは厳しい顔で俺の掃除した場所を一つ一つ見ている。これがちぇっくというやつか。

なんだか少し胸がドクドクする。

毛がピンと立つようだ。


俺が体をふきふきしながらメスの行動を一つ一つ見ていると、メスが突然「ニート君!」と俺を呼んだ。


「はい!」


俺は急いでキンキンのメスの元へ走る。

もちろん、転ばないようにしんちょうに、だ。


「ニート君、合格」


「ごうかく?」


「うん、合格」


そう言ってにっこりと笑うメスに俺は少し胸のドキドキが無くなった。

はぁ、と溜息ではない別の息が漏れる。

合格の意味は分からないがメスは笑っているので“いいよ”という意味なのだろう。


「初めてにしては綺麗に掃除出来てます。隅の方も手を抜かないで、髪の毛とか汚れも綺麗になくなってる。綺麗になれって言いながら一生懸命やってただけの事はあるわね」


「え?なんで知ってるの?」


俺が「きれいになれー」と言いながら掃除していた時、確かにここには俺一人だった筈だ。

それなのに、メスはそれを知っている。

このメスはなにものなのだろう。実はすごい奴なのかもしれない。

そんな事を俺が思っていると、メスはふっと小さく笑って俺の背中を叩いてきた。


「私も隣の女湯を掃除してたからね、キミの声、聞こえてきてたよ」


「……そうだったんだ」


どうやら、このメスも隣のおんなゆという所を掃除していたらしい。

俺の声はそんなに簡単に向こう側に聞こえてしまっていたのか。

恥ずかしい。

そうして少しだけ顔が熱くなるのを俺が感じていると、メスはそれまでの笑っていた顔をひっこめて俺の顔をジッと見て来た。


その瞬間、俺の顔の熱さがなくなり、どきどきが復活した。

メスのこの顔は狩りの前のように厳しい。

すこしだけ、怖い。


「けど、2つだけニート君にもダメだった所があったから言うよ」


「っへ!?だめ?」


「そう、なんだか自分で分かる?」


「…………」


そうメスに言われ、俺は落ち着かない気持できょろきょろと風呂場の中を見た。

ゴシゴシもした、水もながした、隅っこも、汚れも綺麗にした。

メスに言われた事は全部やった筈だ。

何がいけなかったのだろう。


「わかんないなら、わかんないって言っていいの。だから、黙りこまない」


「……はい、わかりません」


そう、俺が正直に言うとメスは厳しい顔を少しだけ緩めて、指をピンと立てた。


「まずは一つ目。これはニート君は今日が初めてのお仕事だから仕方のない事だけどね、時間」


「じかん?」


「そう、時間が掛かり過ぎ。私はここと同じ広さの同じ場所をニート君の半分以下の時間で終わらせて、タオルの洗濯や、受付の掃除、そして靴箱、玄関の掃除、お金の計算までぜーんぶ一人でやりました」


「半分以下のじかん……」


「私は最初に急いでいるって言ったよね?けど、ニート君にはその時間の意識が足りなかった。仕事ってね、きちんと言われた通りの事をするだけじゃなくて、言われた時間内で終わらせる事も含めて“お仕事”なの。わかる?」


「……はい」


そうか、そうだったのか。

初めて知った。

“仕事”というのはやるだけじゃなく、決められた時間内にやりきる事が仕事なのか。

俺はどこか初めてのこのお掃除にワクワクし過ぎて、“仕事”という意識がなくなっていたようだ。


よくは分からないが、きっとそれはいけない事だ。

いけない、いけない。

いけない事をした時、人間はこう言う。


「ごめんなさい」


「気にしないで、とは言えないけど、まぁ、こればっかりは初めてのキミに頼んでるこっちは予想の範疇よ。それに、スピードばっかりはやり慣れないとどうしようもないから、きちんと丁寧にやってくれた事だけで今は合格点よ。ただ、そういう“時間”の意識は忘れない事!」


「はい」


俺はメスの言葉に自然とウンウンと頷いていた。

そうか、そういう意識を忘れずにやらないと仕事は仕事ではないという事か。

よくりかいした。


「あともう一つ!こっちは完ぺきにニート君のミス!」


メスはもう一度指をピンと立てると、そのままその指を在る方向に指した。

そこには。


「片付けがなってない!外のモップは出しっぱなし、デッキブラシも出しっぱなし!ホースも広げっぱなし!バケツもたわしも放り投げっぱなし!これはダメ!ダ・メ!」


「う、あ!そ、そうだった!」


俺はメスの言う通り全ての道具の散らばった風呂場を見てピョンと体が跳ね上がった。

そうだ、確かに掃除はしたけど道具がそのままだった。


「片付けまで終わって仕事完了!それはどんな仕事でもそう!最後まで気を抜かない!何か足りないものはないかと一旦止まって考える!いいね!?」


「はっ、はい!」


「わかったら、出しっぱなしの物を元あった場所に片付ける!それでお仕事終了!」


「はい!」


俺はメスに言われた瞬間、飛び上がって散らばる道具のもとへ走った。

そのせいで、俺はツルリと滑って床に転がった。



あぁ、人間ってとてもむずかしい。


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