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五章:ひとつひとつ(3)
六限目、今日最後の授業である数学を終え、さらにその後のショートホームルームを今終えた。松原先生の挨拶に被さるように、下校時間を知らせるチャイムが学校中に鳴り渡る。
「由里」
もう耳に馴染んできたその声が私の名前を呼んだのは、周りに座るクラスメートと特に意味もない話をし、それを畳みながら帰る用意をしていた時だった。
今では圭織や裕子、千晴以外のクラスメートとも普通に話せるようになっている。そのきっかけを作ってくれたのはきっと、裕子と千晴だろう。彼女らにそう言っても、何のことかわからないというかも知れない。しかし私にはわかる。
人はトラブルを避けたがる。だから私や圭織がいじめられていたときは誰も私たちに話そうとはしなかった。そのとばっちりを食らいたくないからだろう。けど、あの一件に決着が着いても、裕子と千晴以外の女子は私たちに話しかけてこなかった。きっと、確証が欲しかったに違いない。若干の気まずさを残しながらも周りのクラスメートが声をかけてくれたのは、裕子と千晴が何の問題もなく私と話しているのを見ていたからだ。私は彼女たちを責めはしないし、蔑んだりもしない。自分が大事だというのが普通だと、私にもわかっているからだ。自分よりも大事な人がいることは、それだけで幸せだということも。
それに、上辺だけで深い付き合いじゃないとしても、クラスメートと自然に他愛もない話ができるということは悪いことじゃない。言うならば、それは私がこのクラスの一員であると、大多数に認められているということだからだ。その点においても、裕子と千晴には感謝している。
「もうホームルーム終わった?」
「うん、今帰る準備してたとこ」
「え、なになに。もしかして神谷さんの彼氏?」
私の隣に座る彼女――私と同じく2Bの理系に所属する笠原さんだ――が興味ありげに聞いてくる。別に私たちの関係は隠そうとはしてはいないが、言いふらして広めているわけでもないというのはさっきも述べたとおり。だから知らない人もいて当然。そして知らない人にストレートにそう聞かれてしまうと、否定はしないが、肯定するのには若干の恥ずかしさが私にはあった。
「えっと、うん、まあ……」
「まあ、ってなに。まあ、って」
若干ふてくされたように、しかし冗談めかして彼は言う。
「由里、紹介してよ。ちゃんとね」
「わかったって」
わざわざ後半の部分を意味を含ませて彼は言った。そんな言われ方をされなくても彼が私にやらせたいことはわかっている。それに私だって――
「笠原さん、こちら私の彼氏の愁也君。愁也君、彼女は笠原さん。私と同じ理系なんだ」
さらっとした、必要最低限の紹介だったが、それで十分だろう。決め付けるのはよくないが、私と笠原さんは所詮挨拶をし、休み時間に軽い雑談を交わす程度の一クラスメートにしか過ぎないし、今後もそうなるはずだ。少なくとも、私が『私』である間にこの関係が劇的に変わることはない。だから他の場面で接点がなければ愁也君と関わることもないだろう。そして愁也君にも笠原さんのことを詳しく理解する必要はないはずだ――というより、私が笠原さんについて知っているパーソナルデータの全てを話しただけだが。
二人は互いに軽く頭を下げて挨拶した。愁也君は名前しか教えなかった私の不手際をカバーして苗字を含めてもう一度名乗った。それに笠原さんも返すようにして名乗る。
「へえ、神谷さん彼氏いたんだー」
その後に「なんか意外」と付けたした彼女に私は「そう?」と問い返した。
「だって神谷さん、確かに同姓から見ても可愛いと思ってたけどさ、北高のミス・クールとか呼ばれてたし。それに……あの二人とは仲良かったみたいだけど、他の人と神谷さんが仲良くしてるところ見たことなかったから」
私は思った――ああ、またそれか。ここまでみんなに言われてみればどうやら私が周りからそう呼ばれていたのは確かのようだった。そしてそれはあの時に美奈が考え出したのではなく、それを知っていた美奈が茶化しながらも教えてくれたのだろう。美奈が考え、それを広めたというのは考えられなかった。なぜなら、伝わっていくときに意味は変わったりしたことはあれど、最初にそれを言い始めた人間は決して好意的な意味で言ったのではないことは誰でも少し頭を働かせればわかることだろう。
私の偏見で言わせてもらえば、女子は男子と違って陰険だ。間に何かを噛ませるか、表現を変えて噂として広める。直接は自分で行動には出ないし、独りでは何もしない。だから、彼女が今言ったことだって裏があるのはわかる。そうでなくても、心の奥にしまっていることがポロッと出てしまっているのだ。
端的に言えば私とは話しづらかった、ってことだ。面と向かってしゃべっているのだから、言いたい事は言ってくれたほうが楽なのに。そうやって不安定な基盤の上にさらにゆがんだピースを乗せ続ける。愛想笑いをして、歪んだピースを嘘で塗り固める。そんなことをするなら、互いに言いたいことを言い尽くして、たとえ全てが崩れたとしても、最初から組みなおしたほうがいいのに。少なくとも、私はそう思う。
「私、人見知り激しいからさ。だから気兼ねなく話しかけてね」
「うん。話してみたら神谷さんって物知りだし、結構面白いし」
果たして、彼女は今の文脈で結構という言葉が否定的な言葉だということに気づいているのだろうか。それとも、私が考えすぎなのだろうか。
「今度どっか一緒に遊びに行こうね」
「うん」
不安定な基盤を築きあげることを否定しながらも、私も同じようにしてそこにゆがんだピースを重ね合わせる。たぶん、一緒にどこかに行くことないだろうな、と思いつつ。おそらく、向こうもそう思っているだろう。いわゆる社交辞令というやつだ。別に、私がこの後何が起こるのか、クラスメート、そしてそのほかの人々との関係があんなことになるなんてわかってていったわけではない。予感があったわけでもない。ただ単に、私はその会話についてもう興味がなかったというだけだ。特にその先を考えたりせず、とりあえずその時はその直後の愁也君とのデートに思いを馳せていた……ということに過ぎなかった。
「じゃあそろそろ遅くなるし、行こうか」
愁也君もそこが切り上げどころと判断したのか、さりげなく時計に目を走らせた。
「あ、この後放課後デートなんだ?」
「うん……隣駅に新しくできた喫茶店で」
余計な話だったが、質問の裏の意味を汲み取ってしまった以上、答えないわけにはいかなかった。あまりに秘密主義な女子は女子に嫌われるからだ。中途半端な噂を立てられるのは精神衛生上よくない。明かして大丈夫なことは聞かれればできるだけオープンに、そして重要なことは信頼できる親友だけに。
「チーズケーキがおいしいってお店じゃん」
「それを食べてみようかって話になって。今日は二人とも暇だったからさ」
「そっかー、佐藤君は甘いもの食べれるんだー」
いいなー、甘いもの好きな彼氏、と彼女は続けた。もう十分だった。私は話を切り上げることにした。
「今度感想聞かせるね」
「絶対だよ? かっこいい彼氏とのおしゃべりに夢中になって味忘れるなんて無いように!」
きちんとオチまでつけて笠原さんは私たち二人に手を振った。私と愁也君も一言残して手を振った。まあ、たとえ愁也君でなくても大体の相手なら彼女は言ったのだろうが、自分の彼氏が『かっこいい』と呼ばれた些細なことが嬉しく、私は愛想笑いを浮かべる必要もなく、頬は自然に上がった。
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