ブルー・トレインPDFで表示縦書き表示RDF


「ご乗車して頂きまして、誠にありがとうございます。当列車は行き先の決まっていない、大変珍しい列車です。そのため、乗車された方の意思によって行き先を決めさせて頂きます。もしも途中で降りられる場合は、遠慮なくおっしゃって下さい。それでは、どこがよろしいでしょうか? ……おや、他にも乗車された方がいらっしゃるようですね。申し訳ありませんが、あちらの方を優先させて頂いても……。あ、ありがとうございます。それでは、あちらの方が降りられるまで……しばらくの間、お付き合い願いたいと思います」
ブルー・トレイン
作:イヌズキノネコ


     1


 彼らは空から飛んでくる。地上に向かって飛んでくる。地上に降り立った彼らは、術を唱える言葉おとを発して、その身から無数の分身を作り出す。作り出された分身は地面にその身体を投じて、地上に悲しみを募らせる。悲しみを受けた地上は、その身体に薄らと涙を浮かべていた。
 天から舞い降りてくる彼らを、私たちは魔法使いや忍者などとは呼ばない。術を唱えようが、分身しようが、時と場合によってその姿を変えようが、彼らがそう呼ばれる事はない。なぜなら、彼らは“雨”という名を持っているから。

 悲しみを与えてくる彼らから身を守るようにして、一人の男がある場所で雨をしのいでいた。紺のスーツに身を包み、黒のネクタイが首元を締めている。よれた白のワイシャツが折角の正装をだらしなく見せて、男の気持ちがどこか弛んでいる事を表していた。
「ハァ……」
 ため息が一つこぼれ落ちる。落ちた言葉はすぐさま夜の闇に飲み込まれた。
 
 彼以外誰もいない駅のホーム。そこは昔駅だった場所。
 数年前に列車の運行が廃止され、今は駅という建物の姿だけを残している。木造建築の建物は、時代の流れと共に朽ちていき、ホームの至る場所から雨漏りをしている。並べられている青いベンチは、鮮やかとは程遠い薄く汚れた色をしていて、赤褐色の斑を持っていた。
 なぜ、そんな場所に彼が居るのか? その答えは彼だけにしかわからない。

 猫背でベンチに座っている男は、この世の終わりが来たような暗い顔をしていて、2つある眼には生きる力が宿っていなかった。
 しきりにため息をこぼしては、浮かない表情を更に暗くさせていく。
 彼は一人の人間である。しかし、見る人によっては危ない人と呼んだり、良くない事があって落ち込んでいる人と呼んだり、単に暗い人と呼んだり……。その呼び方は、さまざまであろう。彼は“雨”のように固有の著名を持たず、また無機質なモノでもない。時と場合によって、喜怒哀楽の色を持つ生き物だ。ただ今は悲しみの色に染まっているだけ。

 彼が下を向いて、しばらく経った。降り注ぐ冷たい水の粒は、その勢いを衰えさせることなく、逆にその強さを増していた。
「ハァ……」
 彼は何度目になるかわからないため息をついた。悲しみが消える、その時を待ちながら……。

 雨の音が闇の中を響き渡る。悲しい音色を刻んでいく。彼の心を映し出したように、すべてのモノが切ないメロディーに包まれていた。
 そんな風景に、突然鮮明な色が紛れ込んできた。
 遠くから雨音をすり抜けて、聞こえてくる汽笛の音色。音は次第にその大きさを増し、彼のいるこの場所へと近づいてくる。
「ん?」
 近づいてくる音を不審に思い、沈んだままの顔を男が持ち上げる。
 “暗い表情をするのはやめろ”と言うかのごとく、光が彼の顔を照らし出した。近づいてくるモノは、どうやら光を放っているらしい。闇を切り裂く強い光に、彼は顔をしかめて、近づいてくる何かをじっと観察した。

 目の前を光が通り過ぎると、正体不明の物体がハッキリとその姿を現した。
 長い胴体に青い身体、角張った骨格に光を放つ鼻、レールを走るための円い足に等間隔で並んでいる四角い透明の肌。
 彼の前に現れたのは、一列の列車だった。
 列車はゆっくりと速度を落とし、彼の座っているベンチの前で停車した。

 なぜ列車が、こんな場所に……。

 奇妙な出来事に、彼は驚きを隠せない。
 そんな彼を他所よそに、列車はドアを開けて彼を招いてきた。
 何が何だかわからず、茫然としている男。だが、身体は思いに反してベンチから腰を上げていく。立ち上がった身体は、地面に置かれていたカバンを右手で拾い上げ、左足はゆっくり歩行を始めた。

 どうすればいいのだろう?

 誘惑にうながされる体を止めることができない。
 彼は誘われるまま、列車の中へ足を踏み入れた。


     2


 ドアを隔てた列車の中。そこにはもう一つの世界があった。
 青い絨毯が地面を這い、壁は群青色と水色のチェック柄にコーディネートされている。天井から降り注ぐ淡い光は、周りの色彩を受けて本来の色ではない青い色をしているように感じた。
 先ほどの世界とは一変した青の世界。そこに涙でぬれたモノは存在しない。同じように悲しい色をしていても、外より随分と暖かい空間である。

 男は中の方へと歩みを進めた。
 自動ドアを潜り、たどり着いたのは客室。左右2席ずつの列を作り、中央に人が歩ける道を作っている。入口から続いている青い絨毯に、壁も同じチェック柄。並んでいる席も紺色をしていて、外見から内装まですべて青色をしている。
 不思議な感じのする車内。なぜか心が落ち着いてしまう。
 彼は一番手前の左端に位置する席へと腰をおろした。
 身体をねじって窓の方を向くと、外では冷たい雨がすべてのモノを濡らしていた。
「彼らは私に『涙を流せ』と言っていたのか? だから、延々と降りつづけているのか?」
 男の呟く声に、列車が返事を返すよう汽笛を吹いた。


 流れゆく景色。黒い世界。
 窓際で頬杖をついてまま、男は外を眺めていた。
「この列車はどこへ向かっているのだろう……」
 彼は行き先もわからない列車の中で、ようやく正常な考えを持ち始めた。
「この列車はいったい何なんだ? この線路を走っている列車は無いはずだが……」
 口にした言葉をいったん切って、心の中で言葉を続けた。

 まあ、この列車がどんな不思議なものでも良い。
 どこに向かっていようが、全然構わない。
 どうせなら、このまま永久に走り続けくれたら……。
 
 本音を言葉にした彼は、頬杖をついていた態勢を崩し、現実から目を背けていた身体を正して椅子に座り直した。

 揺れる車内に目を向けると、前方の自動ドアがゆっくり開いた。ドアの向こう側から誰かが歩いてくる。
 身体をくの字に曲げて杖をつき、おぼつかない足取りで一歩一歩進む。頭は白髪に覆われて、鼻の下は白いひげに包まれている。開いているのか開いていないのかわからない目をしていて、しわの寄った顔は見る者にやさしい印象を与えていた。
 老人は空いている席に腰かけることなく、こっちにゆっくり歩み寄ってくる。右足を一歩……左足を一歩……杖をついて、また右足を。のろまな歩みは危なっかしく、老人を見ている彼は心配そうな表情をして見守っていた。

 彼の横を通りかかった時、今まで真っ直ぐ向いていた顔が彼の方に向けられた。
「隣の席は空いていますか?」
 他にも空いている席があるのに、彼の隣を志願した老人。

 どうしてここなんだ?

 疑問に思いながらも、彼は「ええ、空いてますよ。どうぞ」とやさしく答えた。
「すみませんねぇ」
「いえ……」
 簡単な会話を挟みながら、老人は彼の隣に腰をおろした。
「どうも」
「あ、どうも」
 会釈してくる老人に、彼も作った笑顔で答える。
「私はこの列車の車掌を務めております、時任 楓(ときとう かえで)という者です」
 初対面の相手に突然名前を打ち明けられた事とその聞き慣れた名前に彼は驚いて、作ったばかりの顔が崩れそうになった。ほどけそうな表情を何とか食い止めた彼は、少し崩れた顔を誤魔化すために老人へ声をかけた。
「車掌さんでしたか……。その年でまだお仕事をなさっているとは、すごいですね」
「ホッホッホ。そんな事はないですよ」
「いえ……すごいと思います」
 本当は話をする気分ではないのだろうが、老人はそんな彼に有無をいわず話しかけてくる。
「あなたはどこから来られたのですか?」
「どこから……ですか?」
「ええ」
「私は都内から――」
「それはまた遠くからお越しになられたのですねぇ」
「ええ、まぁ」
「旅か、何かですか?」
「そういうわけではないのですが……」
「そうですか。もしかして、何か良くない事でもあったのですか?」
「――――」
 彼の表情が急に硬くなる。
「もしかして、当ててしまいましたかね?」
「……」
「申し訳ありませんねぇ。年をとると、ついつい余計なことまで言ってしまうのですよ」
「あの……」
「ん?」
「どうして、そう思ったんですか?」
「別に大したことではありませんよ。ただあなたを見ていると、そういう感じがしたもので」
 老人は、何もかも見透かしているような澄んだ瞳を彼の方へ向けた。
「そうでしたか、顔に出ていましたか……」
「はい」
 老人はコックリと頷いた。
「もし宜しければ、どんな事があったのか教えていただけませんか? 次の駅までは結構時間がありますし、それに胸に抱えているモノを口に出してみたら、少しは気持ちが軽くなるかもしれもせんよ」
 微笑みを浮かべている老人は、すべてを受け止めてくれるような雰囲気を纏っていた。
「……そうですね」
 彼は心に蓋をしている重石を、ゆっくりと取り払った。
「私はある会社で経理を担当していました。忙しい毎日でしたが、同時に充実していた日々でもありました。
 12月も中旬に入り、私は年度末の決算に備えて、お金の整理をしていました。束になった領収書を一つ一つ確認しながら……。整理がすべて終わった時、ある重大な事に気付きました。収支額が合わないのです。どうして合わないのかよく調べてみると、ある請求書の金額が一ケタ誤って記入されていました。億の数字であるモノが、零を一つ失くして書いてあったのです。その時……私は自分の犯した過ちにやっと気付きました」
 彼は話の途中に一呼吸おいて、落ち着いた口調で続きを話し始めた。
「慌てて請求先の会社へ連絡をしましたが、当然のように断られました。約3億円の赤字……。私のミスは、一人の人間が背負うには余りにも大きすぎるモノでした。自分の失態を受け止める事が出来なかった私は、そのまま無言で会社を去りました。行き先もわからず、ひたすら歩き続けて……気がついたら、この場所に辿り着いていた――という事です」
「そうでしたか。それはそれは、辛い出来事……でしたね」
「ええ……」
 老人は彼の気持ちを察してか、弛んでいた顔をいつの間にか真面目な表情へと作り変えていた。
「やはりあなたは、この列車の乗客に間違いないようですね」
「?」
「それでは、乗車券をお出しください」
 先ほどの話を受けて、なぜ自分が乗客と判断されたのか? 彼は困惑した。そして、持っているはずもない乗車券を求められて、戸惑った。
「すみませんが、私は乗車券を持っていません」
「そんな事はありませんよ。胸のポケットを調べてみてください」
 老人の指示に従って、ポケットの中に手を入れる。
「えっ!」
 ポケットの中から出てきた一枚のカード。それは文字や絵など余計な細工がされていない、深い青色をした無表情なカードだった。
「では、受け取りましょうか」
 老人がカードを奪い取る。呆気にとられていた彼は、その光景をただ黙って見つめていた。
「なんで、そんなモノが……」
「ん?」
「私はそんなモノをポケットに入れた覚えはないですよ!」
 声を荒げて、老人に訴える。
「これはですね、皆さん普段から持ち歩いているモノなのですよ。ただ、普段はそれが見えないだけ。この列車の中では、それが見えるのです。驚かれる事ではないですよ」
 老人は淡々と説明をして、彼の訴えを退けた。
「さて……乗車券を受け取ったところで、あなたの向かいたい場所をお聞きしましょう。この列車は、乗車された方の意思によって行き先を決めます。どこがよろしいですか?」
 変な事を聞いてくる老人に、彼は戸惑いながらもこうつぶやいた。
「どこか……遠くへ」


     3


 2人の人間を乗せた列車は、いつの間にかトンネルに入っていた。
 トンネルを抜けると、窓の向こうには茶色の地面に覆われた荒野が広がった。月の光に照らされた荒野には幾人もの人が座り込んでいて、その顔には絶望の文字が浮かび上がっている。
「ここは人生の墓場です」
 老人が男に説明する。
「人生の……墓場?」
「ええ。生きる希望を失った人たちが集まる場所ですよ」
「まさか、私がこの場所を望んでいると」
「さぁ……。私にはその真意を確かめる事ができませんので」
 言葉はそこで途切れて、二人の間に沈黙が流れた。
「あなたはこの世界を見て、どう思いますか?」
「何とも悲しいような、寂しいような、虚しいような……。見ていて気持ちの良いものではありませんね」
「そうでしょう。ここにいる人たちは、生きるという事を放棄したのですから。……初めは、あなたと同じように過去を悔いる者たちでした。彼らは過去に囚われてしまい、悔いることしか出来なくなり、そのまま希望を見失ってしまい……成れの果てが、これなのですよ」
「つまり、私にもこうなる恐れが――」
「否定はできませんね」
 いぶかしげな表情で2人の男は、荒野を見つめていた。

 老人の隣で彼は、自分が今危ない橋を渡っているという事に気づいた。このままでは彼らと同じになってしまう、と。そして、この場所を望んでいた自分が実際にいた事を認めた。
 ――どこか遠くへ行きたい。
 それは、現実の世界ではない別の世界へ行きたい、という思い。現実を忘れさせてくれるのであれば、何処でも構わなかった……たとえ、そこが人生の墓場であったとしても。
 だけれども、今は違う。生きる事を止めてしまいたくなるような場所に行きたいわけではない、と考えを改めた。

 どこか静かで……安らげるような場所がいいなぁ。

 彼は口には出さず、心の中で願った。
 列車は荒野を抜け、再びトンネルへと入った。


 次に出会った世界は、なんと水の中だった。
 魚の大群が窓を横切り、単独で漂っているエイが気持ちよさそうにその大きなヒレを伸ばしている。窓の下側には、サメが率いる軍団がいて、照りつける光から身を隠すように薄暗い水の中を徘徊していた。
 テレビで流されているような海の映像。いや、それよりもっときれいである。ここから覗き見ている海の世界は、水がとても澄んでいて、太陽の光が波のように揺れながら降り注ぐ、幻想的な世界を思わせるものだった。
「海の……なか?」
「そうみたいですね」
「なんとも美しい世界ですね」
「それはそうでしょう。ここは、人間の世界のように酷く醜いものなど存在しませんから」
「自然とは、どこもこうなのでしょうか?」
「そうですね……。一概に、すべて一緒とは言えないでしょう。しかし、自然には人が作りしけがれや汚れを浄化させてくれる力があります。もしかするとそうなのかもしれませんね」
 波模様の光が2人の顔を照らしている。老人は何か懐かしむような顔を、男は新しいものを見つけたような無邪気な顔を浮かべて、その光景に釘付けされていた。
「なんでここには、悲しみに濡れたモノがないのでしょうか?」
 彼は老人に問いかけた。
「私の推測ですがね、おそらくここで生きているモノは、小さな事にこだわらないからだと思いますよ」
「小さな事?」
「過ちや罪などの事ですよ。ここでは、そんなモノが意味をなさないのです。生きること以外に大事なことなどない、前を向き続けなければ死が待っていますからね。エサを取り逃がしたり、襲われている仲間を見捨てたり……そんな事で悔やんでいる暇はないのです」
「……なるほど」
「ですが、人間は違います。過ちや罪に対して悔やむ気持ちを持っています。だから、あなたがここにいる生物と同じになる事はできないでしょう。しかし、似せる事はできますよ」
「どうすればいいのですか?」
「生きる事に一生懸命になればいいのですよ。人間には悔やんだり悲しんだりする事が出来るのと同時に、その後悔の念と悲しみを次へ踏み出すための力に作り変える事が出来ます。
 人間とは他の生き物よりも知性が発達した生き物で、色々な考えを持つことが許された生き物です。しかし、その事が逆に人間を苦しめてしまう……。平和な世の中に生きる我々は、特にそうです。周りに身の危険を感じさせてくれる者がいないという事は、幸せなことかもしれません。けれども、そのせいで生きているという実感が失われている事もまた事実。自分は何のために生きているのか? 生きることに何の意味があるのか? そういう疑問が絶えず脳裏に浮かんできます。そして、その疑問は不幸にあった時ほどより強烈に語りかけてきます。本来なら、その時になってようやく自分のいる位置を知り、歩くべき道を見つけていくのでしょう。ですが、最近ではその事に気がつかず暗い闇の中を迷走する者がほとんどです。
 辛い事にあって初めて本当の自分を知る事が出来る、というのは誠に皮肉なことです。あなたはどうでしたか? 心を蝕まれて、道を誤ろうとしていませんでしたか?」
 男は自分に問いかけた。

 順調に進んできた人生。何不自由なく過ごしてきた日々。それは、とても幸せだったと思う。
 ……しかし、本当は退屈な毎日だった。同じ事を繰り返す日常に、自分の存在がわからなくなっていた。
 私は何を求めて生きている?
 お金か、名誉か?
 そして私はどういう人間なんだ?
 今までを振り返ると、完璧な人間? いや……違う。ミスもするし、落ち込む事もある。それにずっと気付かなかっただけ。
 本当の私は、些細なことでもくじけてしまうような人間だ。他人の助けなしには生きていけない弱い生き物だ。会社で起こした過ちを私一人が背負えるはずがない。だから、周りに手を差し伸べてくれる仲間がいるのだ。私はそれを無視して、一人でもがいていたのだ。
 私が求めるモノ。それは人から頼られる人間になる事。周りを頼ろうとしない私が、そんな人間になれるはずがない。そしたらどうすればいいのか?
 それは……。

 素直な気持ちで自分と向き合った彼は、今までにないほど穏やかの表情をしていた。
「やっぱり、この場所も私の望んでいる場所ではありませんでした」
 老人はにっこりと微笑み、「それでは、本当の目的地へ行きましょうか」とやさしい口調で囁いた。
 列車は海の世界を通り過ぎて、またトンネルの中へと入っていった。


     4


 トンネルを潜り抜けて、列車は走る。暗闇を切り裂きながら、目的地を目指して走り続ける。
 車窓には田畑に包まれた田舎町が映り、列車は速度を徐々に落とし始めた。
「もうそろそろ終点ですね」
 走っている位置を確認して、老人が言葉を発する。
「ええ」
 彼もまた旅の終わりを感じていた。

 列車はある駅のホームに入ると、速度を落として停車した。
「着きましたね」
「どうやらそのようです」
「この場所で間違いはないですか?」
 老人の問いかけに、男は大きく頷いた。
 彼は床に置かれていた荷物を拾い上げると、座っていた席から腰を上げた。老人に向かって一礼をし、そのまま客室を後にした。

 入ってきた場所へ来ると、入口のドアは既に開かれていて、男の門出を待っていた。
 男が外への一歩を踏み出そうとしたとき、やさしい声が男を呼びとめた。
「忘れ物はありませんか?」
 振り返ると、あの老人が彼のすぐ後ろに立っていた。
「夢や希望などの忘れ物はありませんか?」
「ええ」
 彼は自信に満ちた表情で、老人に応えた。
「そうですか。悲しみ以外の置き忘れが、どうかありませんように……」
 老人は深々と頭を下げて、立ち去る彼に最後の言葉をかけた。

 男はまっすぐな姿勢を崩さず、外の世界へと旅立っていく。その姿は、列車に乗ってきた男とは見違えるほど、逞しく勇ましい姿だった。
 彼が列車を降りた直後、出発を知らせる音が鳴り響いた。彼はサッと後ろを振り返り、老人に今まで隠していた事を口にした。
「そういえば、まだ名前を言っていませんでした。私の名前は時任 楓(ときとう かなで)。実は、あなたと同じ名前なんですよ」
「それは不思議な偶然ですね」
 老人は驚く様子もなく、やさしい笑顔で返事を返した。
「あなたとはまたお会いしたいです」
「ホッホッホ。そう思って頂ける事は非常にうれしいです。ですが、おそらく会う事はないでしょう。あなたは本当の自分を知ったのですから」
 老人の言葉を残して、ゆっくりとドアが閉まっていく。
 完全に閉まったドアの向こうで、老人が深く頭を下げた。外にいる彼もまた、列車に向かってお辞儀を返した。
 列車がゆっくり進みだす。徐々に速度を上げて走り出す。汽笛だけをその場に残して、闇の彼方へと去っていく。

 私を心配して、わざわざ会いに来てくれたんだね。
 ありがとう、もう一人の私……。

 彼はその姿が消えるまで、ずっと見守り続けた。

 彼が降り立った駅のホーム。そこは昔駅だった場所。
 空から落ちてくる雨の姿はなく、東の空から太陽が顔を見せ始めていた。
 真っ直ぐ前を向いている男は、朝焼けの中を歩き始める。この先にいかなる困難があろうと、もう立ち止まることはないだろう。彼の瞳は、希望ひかりで満ち溢れているのだから……。


     5


 暗闇の中を走り続ける不思議な列車がある。悲しみに暮れる者の元へ突如現れては、自分と同じ名前の者が出迎えてくれるらしい。乗車した者は乗車券として青いチケットを渡さなければならず、その代わり降りる際には悲しみが消えて無くなっているという。その列車は名前というモノを持たないが、乗車した者はその列車をこう呼んでいる。
 悲しみを運び去ってくれる青い列車――“ブルー・トレイン”と。


 今宵も救いを求める声が聞こえてくる。闇の中で悲しみを抱え、どこに行けばいいのかわからず迷っている者の声があちらこちらから聞こえてくる。
 列車は闇の中を走りゆく。闇を切り裂く光を放ち、救いの声にレールを忍ばせて、希望の音を響かせながら……。

 列車はある場所で停車した。
 目の前に止まっている列車に、不審がる人間。
 列車はゆっくりと扉を開く。まるでその者に誘いかけるように。

 “さぁ、お入りください。今宵はあなたがお客様です”


「長時間お付き合い下さいまして、ありがとうございました。グダグタと長い話になってしまい、申し訳ありませんでした。私が話下手な者で、皆さんにはご迷惑をおかけしたかと……。本当に申し訳ありません。え〜と、このような事を聞くのもあれなのですが、実際私の話はいかがでしたか? 少しでも楽しんで頂けたら幸いです。こんな私の話に最後まで付き合って下さいまして、心より御礼を申し上げます。あまり長いと嫌われそうなので、ここら辺で。それでは、また……」













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