前回までのあらすじ
コンテストに出るバンドの練習でスタジオに入ったリオ、晃、春斗、真治の四人は、咲のヴォーカルに納得が行かず話し合っていると、トイレに行った咲が戻ってこない。リオが見に行くことになったのだが・・・。
75・・・晃の家で、その1
階段を上がりきると、探すまでも無く咲はすぐ目の前にいた。トイレの前の壁によりかかり、しゃがんで丸くなっている。
「・・・・・どしたの、咲ちゃん。気分悪い?」
「・・・・・・・・・・鼻。」
「え?」
「鼻・・・・・痛ぇ・・・・・。」
リオが背後から覗いて見ると、咲は白い花の咲き乱れたピンクの爪を鼻に当て、眉間に深い皺を寄せていた。だが、なぜか口は笑っている。
「鼻って・・・・・ぶつけたの?」
「・・・・・違うよ・・・・・。中が痛いんだよ・・・・・。」
なぜだろう。そんな話、あまり聞いたことがない。何をしてあげたらよいのか・・・・・。
「う〜ん」と思案するようにリオが天井を見上げていると、咲の小さな呻きが聞こえてきた。
「・・・・・ちょー気持ち悪ぃー・・・・・。」
「え・・・・・?」
リオが咲に向かい合ったその瞬間、突然咲は両手でリオにしがみ付き、ごぼーっと下水が流れるような音を立てて口から胃液を吐き出した。それも、リオの服目がけて。
「ぅぎゃぁぁぁぁぁ〜っっ!!」
リオは自然と絶叫した。RISEのスペースいっぱいに、リオの壮絶なダミ声シャウトが飛び散った。その声を聞きつけて、同じ階の受け付けにいた怜がすぐに飛んできた。現場を見て、絶句する。わざとではないのだろうが、咲はリオのシャツを引っ張るようにして吐瀉物を受け止めさせていた。それは下にも垂れて、リオのジーパンと床をも濡らしている。
「・・・・・何でわざわざオレがバイトに入ってるときにゲロ吐くか・・・・・?」
怜はだるそうに歩きながら床用のモップを取りに行った。
地下で喫煙していたメンバーも、リオの叫びを耳にしてすぐにその場に駆けつけた。
「げぇっ、リバースっ。」
春斗が苦虫を潰したような顔で叫んだ。
咲は器用にも、自分の着ている服には全く無傷の状態で嘔吐していた。リオは汚れたTシャツを脱ぎ、怜が重ね着をしてきた綿のシャツを借りてそれに着替えた。ジーパンのほうは一度脱いで洗面所で部分洗いをし、そのまま穿いた。少々濡れてはいたが、他に着るものもないので綺麗になっただけマシだった。
出すものを出していくらか落ち着いた咲は、一階の通路にあった長いすに寝かされた。意識はあるようだが、話しかけてもろくに返事もしない。救急車でも呼ぼうかという案も出たが、リオが咲の症状を伝えると、皆で小首を傾げた。ここに来る前に酒を飲んできたのかもしれない、と。
仕方なくリオが代表して咲の荷物をあさった。鞄の中から携帯電話を取り出して履歴を見てみる。今日の分の着信履歴をスクロールしていくと、父親から何度も電話が入っていたことが分かった。それも、十五分置きだ。咲は途中からバイブに切り替えていたのだろう。つい二、三分前にも入っていた痕がある。
「・・・・・なんかお父さんから急用だったのかな。」
晃や春斗も何となくリオと一緒に携帯の画面を覗いていた。咲から父親に連絡した形跡は無い。
「あれ。」
そこに見覚えのある名前を見つけてしまった。その相手から今日、練習が始まる前に電話を受けている。発信元の名前は、『 三上優弥 』。
「・・・・・・・・・・。」
咲と優弥に繋がりがあったのか。そう意外に思ったのはリオだけではないようだった。晃と春斗の間にもそれを匂わす空気が流れた。
リオは携帯を見つめながらそのまま後ろに数歩退き、一人壁に向かった。今度はメールの履歴を見てみる。すると、優弥から電話をもらう少し前に、咲からメールを送信した痕跡があった。迷わずに開いてしまう。
『 ×のいいのが入ったよ 優弥の好きな下に来るヤツ 半分でもけっこうきたよ〜 3000! 』
リオの脳内に熱い血が昇っていく。大きな目が怒りの炎を燃やしながらゆっくりと細まった。その横顔を見ていた晃と春斗が思わず一歩退いた。
「咲・・・・・・・・・・。」
リオが振り返り、レースにまみれた咲の襟元をぐっと掴んで自分に引き寄せた。上体を起こした咲をがくがくと揺さぶりながら大声で怒鳴る。
「・・・・・これっ・・・・・どういうことっ・・・・・!」
何の前ぶれも無く興奮状態に陥ったリオを見て、晃が慌てて止めに入った。すると、体に刺激を感じたせいか、咲は突如ぱっちりと開眼した。ぬいぐるみのような真っ黒な目。その不自然な目を見て、リオの動きもすぐに止まった。明らかに咲の瞳孔は開いている。
「・・・・・おい、ヤッベーよ、この人。救急車、呼ぶか?」
真治が言った。すると、咲が金属音のようなヒステリックな声を上げて反応した。
「病院はダメっ。今、パパを呼ぶからっ・・・・・・・・・・。」
そのあと、咲は家に連絡をとり、迎えに来た父親に抱きかかえられて帰っていった。
咲の父親は一言、「娘が迷惑かけてすまなかったね」と皆に言ったときだけ口元に笑みを浮かべ、すぐに無表情に戻った。ぎすぎすと痩せた体形と、年の割にはしっかりと生えそろった長めの髪が、芸術家のような繊細な印象を受ける。
こういうことには慣れているのか、父親は咲の症状などろくに訊ねたりしなかった。そこが、あえて四人は妙に思った。そして何よりも、咲を横に抱いて歩く父の姿に、リオは変な違和感を感じた。それがなぜなのか、具体的にはリオにもよく判らなかった。
結局、咲のことで大騒ぎをしているうちに、スタジオの使用時間は終わってしまった。一行は気の抜けた表情でだらだらと帰り支度をした。
「このあと予定は・・・・・?空いてればミーティングしねぇ・・・・・?」
晃の提案で、残った四人は歩いて晃の自宅に向かうことになった。
晃の住まいは築三十年は経っているかと思われる、灰色をした県営団地だった。晃の家は一番上の五階だ。造りが古いので勿論エレベーターは付いていない。晃の住む二号棟の横にある公園を、小学生らしき子供が数人、奇声を上げながら走り回っている。
「おじゃましまーす・・・・・。」
リオと真治は初めて上がる他人の家を落ち着かない目で見回しながら、遠慮がちに靴を揃えた。春斗のほうは、自分の家にでも上がるような慣れた動作だ。
「今、兄貴もいねぇーからさぁ・・・・・。」
気を使うな、とでも言いたげに晃が言った。
「お母さんもお仕事に行ってるの?」
リオがそれとなく聞くと、
「親はいねえ。二人とも俺が小学生のときに出てったっきり。今は兄貴と俺の二人だけ。」
リオを見ないで晃は言った。
「そーなんだ」というセリフを用意していたが、出さなくて正解だったようだ。晃の言い方は極めてさりげなかったが、リオは咄嗟に言葉を失った。晃から出た言葉の重みに、どう反応したら良いのかと悩む。真治の背中にもそんな意識が何となく感じられた。
「男二人のわりにはキレイだろ?」
沈黙を救うように晃が軽快に言った。リオと真治は部屋をよく見もしないでうんうんと頷く。実際、室内はよく片付いているようだった。
「兄貴がマメでさ。」
「・・・・・お前は散らかすだけだもんな。」
春斗が明るく言った。
「そうそう、役割分担。昔っから。」
言いながら、晃は笑った。
勝手知ったる春斗がリオと真治を晃の自室に案内した。中学、高校と晃と一緒だった春斗は、この部屋には昔から通い慣れているという。
晃の部屋もリオ同様、足元に色々なものが転がっていた。壁際にはベースの他にギターもあった。晃は作曲をするときだけはギターを使うと言った。
真治とリオは晃のCDや貼ってあるポスターなどを見て、五畳ほどのスペースの部屋をしばらく物色していたが、一通り見終わるとジュータンの上に腰を下ろした。
「吸ってもいいよね?」
春斗がポケットの煙草をあさりながら晃を見た。
「ああ。まだ当分兄貴が帰って来ねぇから・・・・・。」
男三人は徐に煙草に火を点けた。毎度のことだが、リオは空気の悪いこの空間にいるのが少し辛い。
ミーティングと言っても、四人で話し合ったことと言ったら咲の噂話と代わりのヴォーカルの話だ。
「・・・・・じゃあ、目ぼしいヤツもう一度あたってみるか。咲もうちらの音楽性、気に入らねーみたいだから、丁度いいだろ。」
晃が言った。咲にはやめてもらうという形でバンドの話はそれでまとまった。話はそのまま休み明けの中間考査の話になった。公立という共通点からか、彼らの通う高校は三校とも試験日は同じだった。
「え?毎日?先生に勉強見てもらってんの・・・・・?試験前なのに?」
リオの話に春斗が驚きの声を上げた。
「うん。今時、珍しいよね、その先生。なにげに熱血教師っていうか・・・・・。最初は嫌なヤツかと思ったんだけど、何か、実はイイヤツみたいなんだよね。・・・チョー紛らわしいんだよ。時々悪魔みたいな顔するときもあったりして、ころころ変わるもんだから・・・・・。」
そこで、淡々と話していたリオが急にケホケホと咳き込んだ。
それを見て、晃が黙って立ち上がり窓を少し開けた。
「吸わないんだよね、リオちゃんて。見かけによらず。」
春斗に言われ、ハンカチを鼻に当てたリオが頷いた。
「・・・・・煙草って、臭いし。それに、何かいけないことのような気がして・・・・・。」
リオがそう言うと、三人の間に小さな笑いが起きた。
「薬中のやつらがやってる音楽は好きなのに・・・・・?」
天井に向けて大量の煙を吐きながら真治が言った。
「・・・・・・・・・・それとこれとは別だよ。あたしは普通の高校生だし。ジミ・ヘンみたいに薬漬けになって死ぬつもりもないし。」
「・・・ジミ・ヘンって誰。」
晃が聞いた。
「昔、薬で死んだ、黒人でロックやるすごいギターの人。」
リオがそう言い終わらないうちに、突然晃がリオの顔目がけてボーっと煙を吹きかけた。視界が真っ白になり、リオが面食らう。それを見て、春斗と真治も便乗して同じようにリオの顔を煙まみれにした。
「・・・・・おーいっ!」
抗議の声を出しながらげほげほと咳き込むリオに、三人は大きな声を上げてさも愉快そうに笑い合った。
リオが一息付くのを見届けると、晃が自分の吸っていた煙草をリオの目の前に差し出した。
「吸ってみ?セッタ。自分も吸えば、ラクになれるぜー。」
晃が得意の不敵な笑みを浮かべた。
リオの周囲で煙草を吸う女友達は一人もいない。そのせいか、煙草を吸っている女を見ると違う人種のような気がしていた。でも、リオの大好きなミュージシャンは皆、煙草を吸う。正直、憧れでもあった。
「・・・・・かっこいいかもね。ギター弾きながら吸ったりしたら・・・・・。」
リオが晃の差し出したセブンスターをつまんで口に咥えた。
「レスポール持ってスラッシュになってみ?」
言いながら、晃が壁に立てかけてあった自分のレスポールを手渡した。リオが煙草を咥えたままレスポールを膝に乗せると、「おぉーっ、かっけぇー」と春斗が猿のように両手を一回打ち合わせた。リオの顔が得意気に歪む。『かっけぇー』は相変わらず大好きだ。
晃がラジカセの電源を入れ、ヴェルヴェットリヴォルバーのCDをかけた。
『Slither』をBGMに、リオは深々と煙を吸い込んだ。三人が面白そうにじっとそれを見守る。
「あれ・・・・・・・・・。」
三回ほど吸い込んだところで、リオの体から吸い取られるように力が抜けていった。上体を支えていられなくなり、ギターを抱えたまま背後にあったベッドに倒れこんだ。
「・・・・・何か・・・・・あたしの体には・・・合わない・・・みたい・・・・・。」
呆けた顔で伸びているリオを見て、春斗が笑いながら言った。
「合わないって・・・・・最初は吹かすんだよ。」
「・・・・・蒸かす?・・・・・お芋みたいに・・・・・?」
「・・・・・はぁ?」
リオの間抜けな反応に皆でげらげらと笑っていると、玄関のほうで何か、鍵を開けるような物音が聞こえた。
「やべっ・・・・・。帰ってきたっ・・・・・・・・・・。」
晃の声を抑えた叫びで、四人は慌てて煙草の火を灰皿に揉み消す。急いで窓を全開にするが、遅かった。換気をする暇も無く、晃の兄のものと思われる不機嫌そうな声が耳に入って来た。
「晃・・・・・、煙ぃぞー・・・・・。」
そう聞こえた瞬間、さらりと襖がスライドされた。緊張のあまり、リオはレスポールを三味線のように抱えたまま無意味に正座していた。
「おじゃましてます・・・・・。」
来客の三人がバラバラにそう言った瞬間、開いた襖の向こうに立つ男を見上げて「あっ」とリオが叫んだ。
「先生・・・・・っ!」
思わず指を差していた。そこに立っていたのは、午前中一緒に時間を過ごした担任の倉田翔平だった。
リオを見るなり、倉田のほうも「しまった」というように露骨に気まずい顔をした。
「晃君も、倉田さん・・・・・。先生も、倉田さん・・・・・。」
リオが倉田を凝視したままぶつぶつと唱える。
「・・・何か、マズイ予感してたんだよなー・・・・・・・・・。」
倉田翔平が諦めたように苦笑いをして言った。
「えっ・・・・・何?・・・・・どういうこと・・・・・?」
春斗が二人を見比べて、目を丸くしながら言った。
倉田翔平は晃の兄で、たった一人の同居人だった。
スラッシュ→元Guns N' Roses で現在Velvet Revolverのギタリスト。レスポールに咥え煙草がトレードマーク。
Velvet Revolver 『Slither』→http://www.youtube.com/watch?v=CA4YtbNxlAs
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