58・・・テンペスト
翌朝、久々にすっきりと体が軽くなったのを感じながらルイは目覚めた。
「抜けたな・・・・・。」
気持ちよく欠伸あくび)をしながら両手を挙げて大きく伸びをする。そしてすぐにベッドに目をやり、リオの姿を探した。
いない・・・・・。ルイは立ち上がり、となりのリビングのドアを開ける。ドアから顔を出すと、ひっそりと静まり返った部屋の空気は止まっていた。
(帰ったのか・・・・・。)
ルイが肩を落としてベッドに戻ろうとすると、ふと視界の隅に何か動くものを見つけた。目を凝らすと、背を向けた二人がけのソファーからにょっきりと伸びる白い足が見えた。急いで近寄って覗いてみると、首の下から毛布をすっぽりと被ったリオが、毛布から片足だけを突き出してソファーで一つにまとまっていた。
リオはしっかりと化粧を落とし、いつもより幼い顔ですやすやと寝息を立てている。
「リオ・・・・・。」
寝起きで停滞していたルイの血液が、血管の中で一気に波打ち始める。すぐに膝をつき、しがみ付くようにリオを抱きしめた。その頬に自分の頬を擦り寄せる。
「ごめんな。こんなとこで寝かして。」
そしてルイは自分のベッドに運ぶために、毛布ごとリオの体を抱き上げようとした。とそのとき、妙に生々しい感触が気になってリオを包む薄い毛布を捲ってみた。
「うっ・・・・・。」
急遽、ルイの心臓が不健康な活動を強いられた。一瞬にしてカッと体が熱くなる。
リオはその身に何も纏っていなかった。無防備にも、生まれたままの姿を惜しみなくルイの眼前に晒していた。
ルイは硬直したまま、時が止まったようにその白い体に目を奪われていた。リオは顔だけ横を向き、体は仰向で内股に片膝を立てながら、あどけない顔で眠っている。むき出しの胸には長く茶色い髪の毛がまとわりつき、その間から、先端のうっすらと色づいた部分が顔を覗かせていた。
「リオ・・・・・。」
乱れる呼吸を抑えながら、ルイは本能的にその手をリオの柔肌に伸ばしていく。
そのとき、リオの口が小さく動き、微かな声が漏れ出た。
「優弥・・・・・・・・・。」
触れそうになったルイの手は、すんでの所で静止した。そして力を失ったようにだらんと垂れ下がった。と同時に言いようのない虚無感と劣等感が体中を駆け巡り、それがルイの生気を吸い取っていった。
ルイは、長い溜息を吐きながら再びリオを毛布で包み直すと、抱き上げて自分のベッドまで静かに運んだ。眠ったままのリオをベッドの真ん中に寝かせると、自分も隣に横になり、リオの頬にかかった数本の髪の毛を指で除けてやった。
ルイは思い出したように身を起こし、仰向けで眠るリオの顔の横に真っ直ぐ両手をつき、その寝顔を上から眺めた。そしてゆっくりと沈んでいくように顔を近づける。
「好きだよ・・・・・。」
消え入りそうに囁いてから、ルイはその丸い唇に優しく口付けた。切なさで泣きそうになる自分を抑えながら・・・。
「リオも・・・・・。」
ふいに、合わせた唇が小さく動くのを感じてルイは目を開けた。ルイの襟足に、細い二本の腕がしなやかに絡みつく。見ると、リオが虚ろな目を向けて花のように微笑みかけていた。そのあまりの艶美な姿に、ルイは軽い目まいを覚えた。
「リオ・・・・・。」
再びルイは唇を重ねる。ただ無心に、溢れる愛おしさを訴えるように、柔らかく・・・。
「熱、下がったかな・・・・・?」
口が離れると、リオはそっとルイの額に手をあてた。
「うん・・・多分。まだちょっとだりぃいけど。」
ルイは微笑を浮かべながらリオを見下ろして言った。
「良かった・・・・・。何か、元気そうだね。」
「・・・・・とりあえず下のほうは元気だぜ?」
「・・・・・へっ・・・・・?」
「リオが、すごい恰好してるから。」
「・・・・・あっ。」
そこでリオは、自分が全裸であることにようやく気付いた。慌てて無駄の多い動きではだけた胸を毛布で隠した。
「・・・お前、けっこう大胆だな。」
ルイが笑いながら言った。
「・・・・・だってっ、ちゃんと洗っとかないと今日着てくのがないと思って・・・・・。」
見ると、窓の外のベランダにはリオが昨日洗濯したものと思われる衣類が大量に干され、ひらひらと風に揺れていた。昨日着ていた制服のブラウス、そしてその横には上下七セットの色とりどりの下着たちがベランダを派手に彩っている。
ルイが一瞬絶句してから言った。
「・・・・・お前、そんなにいっぱいうちに泊まる予定だったの?しかも、洗濯物持参で?」
「・・・違うっ。あれは、たまたま昨日買ったばっかで持ってて、ついでと思ったからっ・・・・・。」
リオが頬を紅潮させて精一杯力説するのを見て、ルイはおもしろそうに鼻で笑った。
「ふぅん・・・。まぁいいや、何でも。・・・それよか、そろそろ支度しないと学校に遅れるぞ。」
そのとき、時刻はすでに午前七時三十分を回っていた。リオは慌ててシャワーを借りて支度をすると、食事もしないでルイのマンションを飛び出した。出掛け際、今日も学校帰りにここに寄る約束をした。
「おはよーリオ。珍しいじゃん。ノーメイクだ。翔君のお説教に懲りた?」
教室に走りこんできたリオを見るなり、開口一番に愛里が言った。何とか時間に間に合ったようだ。別にたまに遅刻したとしてもリオにとっては大したことでもないのだが。
「・・・翔君・・・・・って・・・・・?まさかあの新しい担任のこと?」
嫌なものを見るような顔で愛里に言う。すると、隣の席で両手で頬杖をついていた松本が口を挟んだ。
「何か、一部の女子の間じゃすっかりアイドルみたいだぜ?」
「・・・げっ。マジ?あり得ないよ、それっ。」
少なくともリオにとって倉田は邪魔者に他ならない。リオはホームルームに向けてブラウスのボタンをはめ、蝶ネクタイを締めた。松本もそれなりにきちんとした恰好で待機していた。
「リーオっ。おはよー。昨日は誰のとこに泊まったのかな〜?」
カレンがにやにや笑いながらA組の教室に顔を出した。カレンのよく通る声は関係の無い周囲の人間にもよく聞こえてしまう。皆そういう話題には敏感に反応する。クラスメイトが何となく耳をそば立てているのを感じながら、リオはお笑い芸人のような意味不明なジェスチャーをしつつ弁解した。
「ま、まだそんな関係じゃないよっ。」
とたんに松本が椅子ごと仰け反りながらアハハと声を上げて笑い出した。
「誰も相手が男だとは言ってないんですけど〜っ。」
「・・・・・・・・・・。」
周囲の生徒たちもリオをさりげなく見ながらくすくすと笑っている。墓穴を掘ってしまったリオはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。するとそのとき、ガラリと音を立てて扉が開き、担任の倉田翔平が教室に現れた。慌てたカレンは「バイバイ」と言って敵の前から急いで逃げ去った。
「出席をとる。」
今日も倉田翔平の笑顔は爽やかだ。問題を起こさない生徒の前では。
授業を受けながら、リオはルイのことを思い返していた。
昨夜の、しっとりと涙を流すルイを。顔を擦り付けて甘えてくるルイを。そして、今朝ルイに言われた言葉を・・・。
『好きだよ・・・・・。』
たまらずにリオは、両手で強く我が身を抱きしめた。早くルイに会いたい・・・。
「・・・じゃあ、ここのカッコに入る語句を・・・増田っ。」
「・・・おい、・・・おい。リオ・・・っ。」
松本が横からシャーペンの先でリオの腕を突く。
「・・・・・あ?」
英語の授業をしていた倉田が、リオを指名したのだ。すっかり自分の世界に入っていたリオは、今度は別の孤独な世界に置き去りにされた。こういうとき、今までなら秀才の白井晴太が秘かに答えを耳打ちしてくれたものだが、同じクラスとはいえ白井とは今、席が離れている。隣の松本は頼りにならない。リオが絶望の淵に立ち尽くしていると、教室の外でなにやらまた人の言い争う声がした。
「うるせぇーんだよ・・・・・。」
廊下から聞こえてくるその声を聞きつけて、倉田が動き出した。
「ちょっと待っていなさい・・・。」
そういい残して倉田は出入り口の扉を開けて廊下に顔を出した。そのときリオの携帯が光って震えた。見ると、『白井晴太』からのメールで、『答えはfor』という内容だった。すぐに、少し離れた席に座る白井を振り返る。すると、遠慮がちな笑いを浮かべた白井と目が合った。
扉が開き、倉田が戻ってきた。再び教科書に目を落としながら言う。
「・・・・・じゃ、増田・・・・・。」
放課後。鞄を抱えたリオが廊下を歩いていると、音楽室のほうからダイナミックなピアノの調べが聴こえてきた。リオは吸い寄せられるままに音のするほうに歩いていった。
この曲は聴いたことがある。以前優弥が自分に弾いてくれたベートーヴェンの『テンペスト』だ。だが、優弥のそれとはまた雰囲気が違う。
リオが音楽室のドアを開けると、がらんとしたその空間に白井晴太が独りでグランドピアノを弾いていた。
「おぉっ・・・・・。」
思わずリオが感嘆の声を上げる。白井はリオに気付かずに、無心に鍵盤を叩いている。リオは白井の手が止まるまで、音楽室の入口に突っ立ったままその演奏に聞き入った。
この日リオは、『話したいことがあるから放課後音楽室にきてくれる?』というメールを白井からもらっていたのだった。
「あ・・・・・。」
弾き終えて、リオの存在に気付いた白井が間の抜けた声を出した。
「イェ〜ィ白井君。ブラボー!」
リオはわざとクラッシック向けの声援を送りながら白井のほうに駆け寄った。
「何だ。白井君ピアノなんか弾けたんだ。」
と言うリオに、白井は少しはにかむようにチラとリオを見たが、にこやかに目を逸らして言った。
「うん。一応小さいときからずっと習ってる。たまにグランドピアノで弾いてみたくなってさ・・・。」
「・・・へ〜え。こんな年まで習ってるってことは、将来はプロのピアニストめざしてるの?音大にでも行くの?」
「まさかっ・・・・・。クラッシックの世界で生計立てようなんて、あまりにも無謀じゃね?君のやってるような音楽で何とかするよりリスクが高いんじゃないかな。」
「そうなの?」
「うん。三上智志みたいな人はなかなか出ないよ。」
三上智志・・・。優弥の父親で著名なピアニストだ。リオは思わず口を噤んだ。白井は構わず続ける。
「俺、アイツ・・・、三上と同じ先生に習ってるんだよ。小さいときから。先生の子供も良く知ってる。あ、三上って勿論息子のほうね。」
そう言って白井はリオの顔を窺った。リオは顔を強張らせて黙っている。白井の様子は、今のリオと優弥の関係を分かっている上で話しているようだった。
「それで・・・話って・・・・・?」
リオはいくらか鬱陶しそうに頼りなく言葉を発した。白井は間髪入れずに言葉を継ぐ。
「最近俺がレッスンに行くと、たまたまなのか、いつも三上がいるんだよ。先生の子供の女の子と一緒に。それで・・・・・・・・・・。」
そこで、白井は気まずそうに俯いた。
「何・・・・・・・・・・?」
リオは腕組みをして、黙り込んだ白井を怪訝そうに見下ろした。こんな話、早く終わってほしい。
白井は言うか言うまいかというふうに、しきりと視線を鍵盤に向けて目を泳がせている。しばらく膝に置いた両手を忙しなく擦り合わせていたが、意を決したようにぼそぼそと話し出した。
「・・・俺、あの子の部屋の前を通ったとき、何か変な声が聞こえてきて、気になって扉に耳を当ててみたんだよ。そしたら、何か変な声がするんだ。うるさいロックの曲に紛れて二人のあやしい声が・・・・・。」
「だから、何?!」
思わずリオが耐え切れずに大きな声を出した。
「そんなのあたしの知ったことじゃないよっ。優弥とはもうとっくに別れてんだよ。何でそんな変な話あたしにするのっ?・・・嫌がらせっ?」
リオは半泣きになりながら早口でまくし立てた。どうしても乱れた感情を制御することができない。予定外のリオの大きな反応に白井が慌てて制した。
「違うんだっ。聞いてよっ。本当に変なんだよっ。普通じゃないんだよ・・・・・。明らかにイカれてるって感じで、大声でげらげら笑ってたり・・・・・。」
リオは目を充血させて白井に背を向けている。
「アイツ、三上、最近へんだろ?今日も廊下で揉めてただろ?今まであんなじゃなかったじゃん・・・・・俺、マジで心配なんだよ。・・・麻里江ちゃんがっ。何かヤバいことになってるんじゃないかって・・・・・。増田さんなら何か知ってるんじゃないかと思って・・・・・。」
「・・・知らないよっ。」
リオが振り返って涙目で白井を睨んだ。それを見た白井がひるんだ。
「そんなこと、知りたくもないよっ・・・・・。白井のバカ野朗っ。」
とリオは言うだけ言うと、「待って」という白井を無視して一目散に音楽室を飛び出した。
もう暗くなりかけた誰もいない廊下を、リオは独り風を切って疾走した。リオの目尻から涙がちぎれるように飛んでいく。
今はルイのことが好きだ・・・・・。ルイだけのはずだ・・・・・。
でも、優弥と麻里江が二人で抱き合っている姿を想像すると、なぜか気持ちをかき乱されずにはいられない。せっかく忘れようとしていたのに、今再び否応無しに蒸し返されてしまった。
もう関係ない。優弥はもう、他人なのだ。リオは必死にそう自分に叩き込む。
リオの脳裏に怜の顔が浮かんだ。そして、ルイの顔も・・・・・。
「ルイっ・・・・・。早く会いたいよ・・・・・。」
流れる涙を拭うこともせず、駅までの道をリオはただ泣きながらがむしゃらに走り続けた。