40・・・サヨナラ
明朝、リオはルイと一緒に十時頃ホテルを出てファミリーレストランで朝食をとると、昼前には自宅に車で送ってもらった。家に帰ると、まだ理沙が帰っていなかったのでリオはほっと胸を撫で下ろした。おみやげに、ルイがファンの子からもらったというチョコをたくさん抱えて帰った。色々あったので、リオはバレンタインデーなどというものをすっかり忘れていた。結局忘れていてもどうでもいい結果になったのだが。
「何からやろうかな・・・・・。」
自分の部屋に入ると、まずラジカセのスイッチを入れてから着替えをした。そして窓を大きく開け放つと、大音量でかかるチルドレンオブボトムを聴きながら部屋の中を片付け始めた。ごろごろ転がっているCDやらコードやらを拾い集めて所定の位置に置く。ミニサイズの棒付きモップでパソコンやギターに乗ったホコリを除く。
掃除機をかけて一通り部屋が綺麗になると、膝を付いてベッドの足元にある引き出しを開けた。隅の奥のほうに三十センチ四方の蓋の付いた箱がある。それを開けると徐に中にあるものを掴み、用意してあった小奇麗な紙袋に移し始めた。マルボロの煙草が三個、ヘアワックス、歯ブラシ、雑誌、着替え・・・・・。途中、それらを持つリオの手が小刻みに震えた。紙袋の中にぽたぽたと涙が落ちる。何度かティッシュで水滴を拭いながら黙々と作業を続ける。それが終わると立ち上り、リオは自分のベッドを見下ろした。ここで優弥と一緒に生まれたままの姿で抱き合い、熱い息を吐きながら何度も愛し合った。初めて体を重ねたのもこの場所だ。リオはしばらくベッドを覆いつくすドット柄を眺めてから、無造作に布団カバーを剥がし始めた。お揃いのシーツとピロケースも取り除くと、丸めてゴミ袋に押し込もうとして思い出したように手を止め、最後にそれに顔をうずめて少しの間泣いた。
シーツを片付けると、机の上のアクセサリーケースを開いた。たくさんの銀と黒のネックレスの山の一番上に、出掛ける時必ず付けていたジェムケリーのネックレスが乗っていた。クリスマスに優弥からこれを貰ったとき、優弥は照れ隠しのように横を向いてリオから顔を背けた。その時の優弥の前髪の隙間から見えた上気した頬を思い出す。そんな優弥が可愛くて、リオは思わず優弥にかぶり付きたいという思いに駆られたのだ。
リオは手にネックレスを持ったまましばらく動かなかった。そして、そのままそれをハンカチで包むと、さっき空にしたベッドの下の箱にしまい込んで蓋をした。
リオは机の椅子に座ると、引き出しから青いレターセットを一式取り出した。便箋を広げ、予め考えていた言葉を震える手で、一文字一文字時間を掛けてペンで書き込む。ほんの少しの言葉なのに、手の震えがひどくてうまく書けない。やっと書き終えたと思ったら、落ちた涙で滲んでしまい読めなくなってしまった。便箋をもう一枚取り出して、同じ作業を繰り返す。そのうちリオの手は、動く事をやめてしまった。涙がとめど無く流れ落ちて行く。
「・・・・・リオ?」
いつ帰って来たのか、扉が開いて理沙が部屋に入って来た。呼んでも反応の無いリオの背後に理沙はそっと歩み寄る。CDの演奏はもうとっくに終わっているので部屋は静まり返っていた。
「リオ、いたのね。・・・どうしたの?」
下を向いて置物のようになっているリオを、理沙は不思議そうに側面から覗き込んだ。
「マ、マっ・・・・・。」
リオが突然ひっくり返った声を漏らした。理沙は何事かと眉をひそめて見つめる。長い髪の毛で隠れたリオの顔が凍えたように震えているのが分かる。訳も分からず、理沙はリオの頭を両手で抱え、自分の胸に引き寄せた。
「ふえぇぇぇ・・・・・。」
リオはそのまま理沙の胸に頭を押し付けて泣き出した。
「リオ・・・・・。」
理沙は、しゃくり上げながらいつまでも泣き続ける我が子を包み込んで、背中を擦りながら黙って見守るしかなかった。
その日の夕刻、三上家の地下のスタジオでは優弥の父三上智志が内輪でパーティーを開いていた。二、三人の学生がバイオリンやピアノの演奏を終えると、優弥は父に紹介され、細身のシャツと皮パンという相変わらずの黒ずくめの恰好でピアノの前に座った。
主に父の友人とその家族という顔ぶれのおよそ十五人のオーディエンスに見守られながら、優弥はヴェートーベンの「情熱」を弾いた。ここ数日優弥は全くピアノに触っていなかった。今日の事も前日に急に思い出して気まぐれに少し練習しただけだ。観客はワインを傾けながら優弥の演奏に聴き入っている。その中に星野静江と麻里江の姿もあった。麻里江は紺地に白い襟の付いた清楚なワンピースを身にまとい、少し離れたところから優弥を見守っていた。麻里江の目に映る優弥は血の気を無くした病人のようで、和やかな雰囲気の中、まるで優弥の周りだけに別の空気が流れているようだった。
麻里江は昨夜、リオに優弥と自分の事実関係を告白した。その後リオと優弥はどうなったのか、麻里江は何も聞かされていない。でも、優弥の様子を見る限りではとてもハッピーエンドを匂わせる雰囲気は感じられなかった。麻里江は昨夜のリオを思い浮かべた。今の優弥のように生気を失い、ただ涙を流すだけのリオの白い顔。その顔は後味の悪い残像となって、麻里江の脳裏にいつまでもしつこくこびり付いて離れない。
演奏が終わり、拍手の渦の中優弥が立ち上がった。周囲に軽く頭を下げて形式通りの挨拶をする。優弥は、笑顔で自分に語りかけて来る数人の大人たちにそっけなく対応してから、テーブルにあったワインの首を一本掴み、それをぶら下げたままスタジオを出て行ってしまった。
スタジオの外の廊下を歩き始めると、扉が開き誰かが出てくる気配がした。
「優弥。」
自分の名を呼ばれて優弥は一瞬立ち止まったが、すぐに声の主が父である三上智志だと判断すると、何も無かったかのように再び歩き始めた。
「優弥、待ってくれ。・・・今日の演奏良かったぞ。」
優弥は立ち止まった。だが父の方を振り返らず背中を向けたままだ。智志は少しためらうように続ける。
「・・・良かったぞ。お前は昔から頑張り屋だった。俺はお前に才能があるのを分かっていた・・・。」
「ふざけんな。」
久々に自分に向けられた言葉を聞いて、智志は優弥の丸められた背中を穴が空くほど凝視した。ゆっくりと優弥が智志を振り返った。
「何、・・・・・今更言ってんだよ・・・・・。」
智志を見据えた優弥の目は氷のように冷たく光っている。だが、奥のほうではそれを溶かすほどの熱いものが込み上げているのがわかった。
「優弥・・・・・?」
優弥の血走った様子に智志は困惑の色を隠せなかった。優弥の目は見る見るうちに赤く染まり、全身から熱を帯びてきているのが智志にも伝わった。
「今更おっせぇんだよっ!!」
優弥は突然ざらついた声でそう怒鳴りつけると、手に持っていたワインのビンを思い切り壁に叩き付けた。ガシャンとものすごい音がしてビンが割れ、破片と一緒に鼻をにつんとくる赤い液体が白い壁と木目の床を派手に彩った。その音を聞いてスタジオの中が小さくざわめく気配がした。
「優弥っ・・・・・?」
おしまいに、手に持っていたワインの首も足元に放り投げると、うろたえる父に背を向け、瞬く間に優弥はその場からいなくなった。
大股で歩きながら、優弥の中で、やり場の無い感情がぶつかり合う。
(今日の演奏が良かった?・・・・・冗談じゃねぇっ。)
優弥にとって今日の演奏はただ間違えずに楽譜通りに指を動かしただけにすぎない。何の抑揚も無く淡々と鍵盤を叩いただけの演奏。それは父も十分に感じ取っているはずだ。今日の優弥にはそうするしか出来なかった。なのに、自分をわざわざ呼び止めてまで簡単に賞賛の言葉をかける父が許せなかった。
(頑張り屋?・・・・・才能がある?・・・・・ふざけんじゃねぇっ。)
小さい頃から父にピアノを教わるにあたって、優弥がここまで父に褒められた記憶は皆無に等しい。優弥の中にある自分に向けられた父の言葉は、あくまで叱責や戒めの言葉しか無かったのだ。その父が、今になってお座なりでしかない演奏をした自分に対し媚び諂うかのように見せ掛けだけの賛辞を投げかける。優弥にとってこれほどまでの侮辱は無かった。
「ふざけやがってっ・・・・・。馬鹿にしやがってっ・・・・・。」
なぜ幼い頃、父の意に沿おうと死に物狂いで練習して、泣きながら父の暴力に耐えた自分にはこんな言葉が贈られなかったのか。優弥にはそれが理解出来ない。納得が行かない。許す事が出来ない・・・・・。
歩きながら、優弥の顔が悲しげに歪み、やるせない涙が落ちていく。思いがけなく突然に、ずっと心の奥にしまいこんでいた古傷を、鋭い爪でこじ開けられたのだ。
「くぅっ・・・・・うぅぅっ・・・・・・・・・・。」
小さな呻きと共にひっきり無しに溢れる涙は、優弥の頬を容赦無く濡らしていく。
優弥は自室にこもると、入り口のドアにもたれて尻を付いた。そして頭を抱えて独り嗚咽を漏らした。
泣きながら、リオの姿を思い浮かべる。
リオに会いたい・・・。あの白い胸に顔をうずめて包まれたい・・・。
今頃リオはどうしているのか。先週リオはあれから学校を二日休み、そのまま週末に入ってしまった。
三日前にリオを殴った時の事を回想する。優弥の顔を見ながら恐怖に顔を引きつらせ後ずさりするリオ。擦れた声でやめてくれと哀願しながら優弥の服を掴んだリオ。
(俺に、そんな事する資格があったのか・・・・・?アイツに、そんな事する意味があったのか・・・・・?)
優弥は今更ながら後悔の念に苛まれる。
酔った勢いで麻里江を抱き、その事をリオに謝罪するどころか事実を打ち明ける機会も持たなかった。そして、リオの肉体を容赦なく傷付け、おそらく心までもこっぴどく打ちのめしたのだ。
優弥は自分の犯した罪の重さに押し潰され、やり場の無い思いでがむしゃらに両手で頭を掻き毟った。
ガシュっと何か潰したような音がして優弥は背後に目をやった。見ると、どこかで見たような覚えがある小さい紙袋を背中でドアに押し付けていた。そういえばさっき、自分宛に何か届いていたので、自室のドアノブにかけておいたと母親が言っていた。優弥は力無くその紙袋を開けてみた。中には、自分が普段使っていたと思われる煙草や整髪料などが入っていた。そして、それらの脇にある一通の濃いブルーの封筒。「優弥へ」と表書きしてある。リオの字に見えた。急いで封を開けてみる。中を出して広げると、封筒と同柄のその便箋には二行の文字と差出人の名前だけが書いてあった。
『 優弥のこと 死ぬほど好きでした
今までありがとう サヨナラ
リオ 』
便箋に書かれたたった二行の文字を、優弥は夢でも見ているかのように恍惚とした表情で長い間眺めていた。
「リオ・・・・・・・・・・。」
優弥は便箋を握り締め、頭を垂れてその手紙に顔を押し付けた。そして、体を小さく縮めると、肩を震わせながら独り咽び泣いた。
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