32・・・葛藤
その後の練習は気まずい空気が漂った。ルイは普段と同じように振舞ってはいたが、明らかに不機嫌な様子がガラスの破片のような尖った目が表現していた。まだ痛むらしく、腹筋に力が入らないので声もよく出ない。
十九歳と十七歳、この年齢のたった二歳の年齢差の重みは大きい。Bloody DollsとHYENAは対バンになった事もあるし、同じ地元で活動するバンド同士、ルイにとって優弥は懐いていないにしても一応後輩に当たる。その後輩に二発もお見舞いされたルイとしては尋常に振舞えないのは当然の事だろう。リオはそれを痛感している。ルイがあえてやり返さなかったのは、あの打ち上げの時にルイがリオにしたことが優弥に伝わっていると思ったからだ。一応ルイも、その事に対しては少々の負い目を感じてはいたのだ。
ルイの、殴られた左頬はしっかりと赤くなっていた。平手で叩かれたリオの左頬もうっすら変色していた。リオは、スタジオにいるほぼ全部の時間を直立不動で無気力にプレイし、まるでノルマのように自分の仕事をこなした。かろうじて涙は押しとどめることは出来た。リオはバンドのメンバーの前で自分の弱さを見せたくなかった。ここでは一人のただのギタリストでいたかった。
その場の状況を後から聞いた怜や明人、クニもそんな二人を気にして口数も少なくいつもの調子が出なかった。
そうして久々の練習は、張り詰めた空気の中で何となく時間を潰してお開きとなった。
「まあ、アイツにはイイ薬になったかもな。ちょっと手荒だが。」
帰り道、怜がリオと二人で並んで歩きながら言った。「アイツ」とはルイの事だろう。リオは黙ったままだった。結局今日は久々の練習であったにも関わらずミーティング兼夕食会は無かった。ルイの放つ苛立った空気で、皆とてもそんな気分にはなれなかったのだ。
「怜、ご飯食べていかない?リオ、いつも夜自分で作るんだよ。」
本当は「いつも」では無かったが、リオはちょっと見栄を張ってそんな事を言ってみた。今日は独りでいるのが辛そうだったから。
怜は少し考えてから「うん」と言ってリオの家に寄った。
「ママはまだ帰らないの?」
「うん、今日はちょっと遅くなるって。」
リオは冷蔵庫をあさりながらそう言った。リオのママが躾に厳しいことは怜もよく知っていた。だから怜は、いつもリオの門限に間に合うように練習時間も配慮してくれていた。
冷蔵庫にあるのは調味料と少しの野菜だけだった。リオは三十分ほどかけて家にある材料で簡単にできるパスタとサラダを作った。怜はその間ギターを弾きながらリオが以前録画しておいた洋楽のチャート番組を観ていた。
「おっ、すげーレアなのやってる。」
怜がそんな声を漏らしたとき、リオがテーブルに料理を運んできた。ニンニクの香りがするベーコンやきのこの入ったパスタ、それにあり合わせの野菜を切っただけのサラダ。怜は機嫌よく手を合わせて「いただきます」と言うと、あっという間にそれらを平らげた。
「・・・もう食べちゃったの。足りなかったかな。」
あまりにも早いのでリオが心配そうに言うと、怜は人懐っこい笑顔を見せて言った。
「いや、ただうまかっただけ。」
それを聞いてリオは今日久々に自然な笑みがこぼれた。考えてみれば、怜と二人で食事はおろか怜を家にあげたのも今日が初めてだった。こんな落ち込んでいる日でも怜が相手だと気を使う必要も無く、会話が無くても不自然ではなかった。あえて優弥の話も必要以上にしないでくれる事もリオは嬉しかった。
『Bloody Dollsやめろ。やめねぇんなら別れる』
優弥のその言葉がずっとリオの頭の中でリピートしていた。本気なのだろうか。以前リオは優弥に「バンドと俺どっちが大事?」と聞かれ、即「優弥」と答えた。でも、ここまできっぱり決断を迫られるとは思ってもみなかった。こんな選択、あまりにも無謀ではないか。リオは意気消沈したまま半分以上残った自分のパスタの皿にぼんやりと目を落とした。
「オレはさぁ、お前のギター好きだぜ・・・・・?」
突然の怜の言葉に、リオは三分の一ほど閉じていた瞼を開けた。
「お前はいい曲書くし、お前が入ってからうちのバンドもすげぇグレードアップしたと思う。それはルイや明人も言ってる。Bloody Dollsにとってお前は必要なんだよ。少なくともオレにとっては絶対必要。」
怜は片肘を付いてその手で頭を支えながら、相変わらず柔らかい笑みを保ちつつそう言った。そんな怜と目が合うと、リオのフタをしていたはずの涙腺が開いてしまった。
「オレたち、いいコンビだろ?オレとお前がタッグを組めば、最強だろ?」
リオは目の前の皿の位置を少しずらすと、テーブルに肘を付き頭を抱えて涙を落とした。テーブルに点々と水玉模様ができる。
優弥と別れたくない。バンドもやめたくない。どうしたらいい?
「怜・・・・・。背中、貸して・・・。」
下を向いて鼻をすすりながらリオが言った。
「・・・背中でいいの?」
「うん・・・、彼女に・・・、ミカさんに悪いから。」
怜はフッと一瞬笑い声のようなものを発し、リオの隣に座りなおしてからリオの頭に手をかけて自分の胸に傾けさせた。
「いいよ、今二人だけだし。それにお前はオレの妹だろ?」
そう言われてリオは頭をこくんと一回動かし、怜の胸をシャツごとぎゅっと掴んだ。怜が「妹」と言う事で、リオは怜に甘えられるパスポートが有効になるのだ。
怜がリオを妹扱いするようになったのは、リオが高校一年の六月のことだった。当時三年生だった怜は、「一緒にギターを弾こう」と誰もいない視聴覚室にリオを呼び出した。リオは素直に喜んでそれに応じた。そして実際CDに合わせて怜と一緒に一通りギターを弾いたのだが、それが終わると怜は甘い口説き文句を吐きながらリオにキスをして、視聴覚室の連なった椅子の上に押し倒した。怜はリオに好かれているという自信があったし、過去の少々の経験と実績から今度もうまく行くと思っていた。怜はモテるのをいい事に常に手が早いので有名な男だった。しかし十五歳だったリオは、「ふえぇぇぇ・・・・・」と泣き出して大暴れし、挙句の果てに怜を足の裏で思い切り蹴り飛ばして床に転ばせた。そして、「先生に言いつけてやる」と叫んだ上でさらに大きな声で泣き喚いた。
予定外のリオの激しい反応に怜はうろたえた。実際、キス以上の事を試みようとしたのだし、大人に言いつけられては問題になってしまっただろう。怜は慌てて手を合わせ、リオに哀願したのだ。
「何でも言うこと聞くから、許してっ。」
それは、あまりにも情けない姿だった。怜にとってこんなどうしようも無い結果を迎えたのは初めての経験だった。そして、泣き止んだリオはこう言ったのだ。
「先輩チョー間抜けだね。・・・でも、嫌いじゃないから許してあげる。その代わりリオのお兄ちゃんになって。」
「・・・・・・・・・・はっ?」
「リオ、パパが居なくなっちゃたんだ。だから代わりに先輩が・・・パパじゃ変だからお兄ちゃんになって。」
リオの意外な発言に怜はしばし唖然としていたが、少し経つと、「分かった」と言ってリオに蹴られた腹を抱えて笑い出した。怜が思っていたよりも、リオはあまりにも幼なすぎたのだ。
そのあと怜は、父親が居なくなった理由というのをリオの口から聞いた。リオにしてみても、「お兄ちゃん」といってもどこからどこまでの契約かも決めていなかったのだが、それ以来怜は周囲にも自分がリオの兄だと認識させ、その任務を忠実に遂行している。
「アイツは悪いやつじゃないけど、やたらと手を上げるのはマズイな。」
怜が、自分の胸に収まったリオの頭を撫でながら言った。怜の胸で、リオは鼻で深呼吸をした。怜は何か香水の類を付けているらしく、いつもいい匂いがした。
そしてリオは、さっき自分を叩いたときの優弥の顔を思い返した。あの、野犬のように凶暴な光を帯びた眼差し。二の腕を掴まれたときから、何となくああなることを予感していた。ルイと二人きりになった自分がいけなかったのだろうか・・・。
そのとき、ガチャっと音がして玄関のドアが開いた音がした。母の理沙が帰ってきたらしい。リオは静かに怜から離れ、慌ててティッシュで顔を拭いた。
「あら、お客さん?」
理沙が買い物袋を抱えてリビングに顔を出し、目を丸くして怜を見た。
「おじゃましてます。」
怜は営業スマイルのようなものを作って理沙に軽く会釈した。泣いた後の顔を見られないようにして、リオは下を向いたまま「おかえりなさい」を言った。
「・・・あの、リオの先輩で、同じバンドの沢村怜さん。」
と、リオが怜に平手を向けながら理沙に紹介すると、怜は、
「こんばんは、沢村といいます。創啓大学の国際学部の一回生です。リオさんとは高校の軽音楽部で一緒でした。」
と、さらさらと熟れた挨拶をした。意外な怜の一面を見た気がして思わずリオは怜を見上げた。そういえば、怜の通う大学はともかくとして所属する学部までは聞いた事がなかった。派手な身なりをしながらもそつ無く挨拶をする怜に、理沙は好感触な笑顔を見せた。冬服なので、タトゥーが隠れていたのが幸いだとリオは思った。
「あら、そうなの。ゆっくりしていってね。」
機嫌よくそう言う理沙に、
「あ、僕はもうそろそろこれで・・・。」
と、リオに目配せをしながら怜は立ち上がった。リオも続いて立ち上がり、「下まで送ってくる」と言って二人で玄関を出た。
「ママに気に入られたかもよ。」
エレベーターに続く通路に沿って並ぶ観葉植物を眺めながらリオが言った。
「なんか、怖いママだと思ったらキレイなお姉さんって感じでびっくりした。痩せてるし、藤原紀香ばりだな。」
「若いでしょ。実はママも昔ロック好きでライブとかよく行ってたんだって。ガンズとかもママに教えてもらったんだ。」
「そうか。ママの若い頃が奴らの全盛期だった頃かな。」
「そうみたい。」
エントランスを出ると、怜はリオを振り返って言った。
「リオ、お前はさ、どこにでもいるありきたりな女じゃないよな?」
怜は珍しく真顔だった。リオは怜の言葉の意味するところを必死に考え、悩んだ。でも、それは何となくリオにも伝わった。返事を返そうとリオが言葉に詰まっていると、
「オレはそう思ってる。・・・・・じゃあ、ごちそうさま。うまかったよ。・・・またなっ。」
急に活気を帯びてそう言うと怜は再びいつもの笑顔を見せ、リオの頭をぐりぐりと手でいじってから帰っていった。
リオはじっと怜の後姿を見送っていたが、怜の姿が小さくなってからやっと言葉を返すことが出来た。
「リオは、どこにでもいるありきたりな女だよ。普通に恋してるだけのただの高校生だよ。」
リオの瞳から再び涙がこぼれ落ちた。突き刺すような冷気の中、涙がそのまま雫形に凍ってしまいそうだ。
「優弥のことが、ただ好きなだけなんだよ・・・・・。優弥と一緒にいたいだけなんだよ。」
リオの脳裏に優弥との思い出が次々と靄のかかった映像となって映し出される。
ステージの上から「好きだ」と叫ぶ優弥・・・。リオの悲しい過去を聞いて涙を拭う優弥・・・。リオの上で揺れながら「好きだ」と呻く優弥・・・。思い浮かべるだけでどれもリオの胸を苦しいほどに熱くさせる。
ひゅうっと北風が吹いてリオは我に返った。ふと目を凝らすと、ちらほらとまた白い雪が踊るように舞っていた。それを手で受け止め、リオは全身が凍るように冷えていた事に今更ながら気付いた。リオは擦り合わせた両手に白い息を吹きかけながら、急いでエントランスに駆け込んだ。
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