29・・・優弥と麻里江
バイトの帰り道、優弥は麻里江と並んで黙り込んで歩いていた。
途中、とても子供が利用しそうもない雑居ビルに囲まれた駅前の小さな公園に寄り、自販機で買ったホットコーヒーを握りながら二人でベンチに腰掛けた。
ほとんど日が当たらないのか、地面に残った雪が氷のように硬くなり、公園の淵を取り囲むようにして小さな山をいくつも残していた。それに紛れて、誰が作ったのか泥で薄汚れた小さな雪だるまの姿が砂場の横に二つあった。
あれから優弥は麻里江を避けていた。といっても、普段通りに過ごしていただけだ。けれど、あんなことがあったからには、きちんと話し合ってケジメを付けなければならない。そう思って優弥は重たい口を開いた。
「この前の事だけどさ・・・・・、悪いけど俺、全然覚えてねぇんだ・・・。俺には好きな女がいるから、だから・・・無かったことにしてくれないか。」
下を向いたまま、優弥は予め用意しておいた言葉を一気に吐き出した。
「・・・無かったこと?」
麻里江の語気に凄みが入った気がして、思わず優弥は麻里江を見た。麻里江が続ける。
「私にとっては大きな事だったんだよっ。嬉かったんだよっ。・・・無理矢理でもずっと好きだった人と結ばれたんだから・・・。優弥君はそんな私の気持ち踏みにじるの・・・?ひどいじゃん、じゃあ、なんであんなことしたの?!・・・・・私の処女を返してよ!」
一息にそう言われ、優弥の頭の中で和風の鐘を打つ音が聞こえた。その音はしばらく優弥の脳内で余韻を残して響いていた。
(無理矢理・・・?ずっと好きだった・・・?処女を返して・・・?)
重い・・・、重すぎた。麻里江のその言葉は優弥の胃袋に漬物石を飲み込ませた。優弥には、ふざけんなと麻里江を突き放す勇気は無かった。酒に酔っていたからとはいえ、麻里江に対して優弥が強気に出る権利など一体どこにあるというのか。
「悪ぃ・・・。俺、やっぱ好きなのはリオだけだから・・・、お前じゃだめなんだよ。ホント、悪ぃ・・・。」
肩を落として下を向く優弥を麻里江は悲しげに睨み付けた。
「許さないよ!」
麻里江は立ち上がって優弥を見下ろすと、
「あの子に言ってやる。あんな派手な子だって彼氏が浮気したら怒るでしょう?それとも・・・・・終わっちゃうかもね。」
麻里江にそう言われて、終わっちゃいそうだ、と優弥は思った。頑固一徹なリオの性格ならこんなこと許さないだろう。第一自分はいつも、リオが少しでも他の男と二人でいるだけで大げさに咎めたではないか。
優弥は脂汗が垂れるような思いで黙りこんだ。すると麻里江は急に口調を和らげて言った。
「・・・だから、誰にも言わないよ。優弥君が私と付き合ってくれたら。あの子と掛け持ちでいいよ。」
優弥は再び麻里江を見た。信じられない、という様に。
「お前、そんなんでいいのか?」
麻里江は平然と頷く。
「それじゃぁ、愛人みたいじゃん。」
「いいよ、愛人で。だから抱いてくれるんでしょう?この前みたいに。」
「抱く」、などと使い慣れない言葉を自分で発しておいて、麻里江は何だか気恥ずかしかった。
優弥は複雑な面持ちで両手の拳をにぎり、それを膝の上に置いたまま固まっている。しばらくしてから、
「少し、考えさせてくれないか・・・。」
言ってから、優弥だけベンチから立ち上がった。そして、何か思案するような顔でゆっくりと鞄を持ち上げると、ふと意を決したようにもう一度麻里江を見た。
「俺、好きなのはリオだけだから。お前と無理矢理付き合ったって何も変わらない、それだけは言っておく。」
優弥は麻里江を見下ろして無気力に、でも揺ぎ無い響きを持ってそう言い切ると、「また連絡する」と言い残し、にぎわう通りを目指して麻里江の前からいなくなった。
後に残された麻里江は、鞄を膝の上に置き、うな垂れたままベンチに座っていた。
そしてその内、重そうに体を持ち上げると、ゆっくりと駅までの道を歩き始めた。
歩きながら、麻里江の半開きになったかまぼこ型の目から涙が落ちる。
「何も変わらない」・・・別れ際に優弥に言われた言葉が麻里江を容赦無く打ちのめした。
(じゃあ、どうすればいい?どうすれば優弥君は私を振り向いてくれる?どうすれば私を好きになってくれる?私だって本当はこんなの嫌だよ。でも、こんなどうしようもない方法しか無いじゃん、優弥君はあの子しか見ていないんだから・・・。)
足元の地面だけを見ながら歩いていた麻里江の視界に、ふいに紺色のハイソックスを穿いた細くて浅黒い足が映った。と、同時に麻里江の頭がいい匂いのする柔らかい体にポソっと当たった。
「なんだよ。」
そう言って振り返ったのは、桜川女子高校の紺と赤の制服に身を包んだ女子高生だった。後ろには同じ制服を着た、似たような風貌の女子が数人、麻里江に鋭い視線を送っている。
「ごめんなさい・・・。」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を一瞬だけ上げ、すぐに下を向いて麻里江はその女子高生に謝った。麻里江より頭一つ大きいその女子高生は、麻里江の顔をさりげなく覗き込むと甲高い声で叫んだ。
「あれぇ?もしかして、麻里江じゃねぇ?」
そんな声が聞こえた気がしたが、麻里江はそれに全く反応せず、また下を向いてとぼとぼと歩き出した。
後ろから、「何、知り合い?」といったような声も聞こえた。皆、やたらと無神経に声が大きい。悩みなど何も無さそうだ。そんなことを思いながら、麻里江はもうすっかり日が沈んだ街中を、泣きながら暗い穴の中をさ迷う様に歩いた。
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