25・・・大雪
優弥がピアノに向かって一心に鍵盤を叩いている。
曲目はベートーヴェンのピアノソナタ第二十三番ヘ短調「情熱」。先日ピアノ講師の星野静江からこの曲を課題にどうかと薦められたのだが、しばらくして示し合わせたかのように、母親からこの曲を今度のパーティーで弾いてくれないかと頼まれた。そのために、今日は静江に頼んで特別にいつもより多くレッスンをしてもらっていた。
実際は父親の開くパーティーなのだが、父からは優弥に話しづらいので、代わりに母が言ってきただけだ。
優弥の父親は音楽仲間を集めて自宅でたまにパーティーを開いている。パーティーといっても、集まるのは両親の友人とその家族、そして母が講師を務めている音大の学生たちという顔ぶれで、その人数はせいぜい五人のときもあれば二十人近いときもある。いずれにしても皆クラッシックをやる演奏家ばかりだ。
ここ数年前から、両親は何かというと優弥を人前に出したがった。父親としては、自分の手中からはみ出てしまった息子を、何とか少しでも自分の世界に引き入れたいというのもあったし、母親は見栄えの良く育った息子を人に見せたかったのもある。でも、ロック少年になった優弥としては、クラッシックの世界にはさほど興味が持てなかったし、父の知り合いと関わることも面倒に思えた。今回は、指定された曲が優弥の興味を引くものであったということと、リオが忙しくて会えない分時間も空いていたという理由から、「別にいいけど」と返事をしてしまった。
父であるプロの演奏家の息子としての自分を評価されるのは優弥にとってはどうでもいいことだった。ただ、猛練習する理由は、自分がその演奏に納得がいくかどうかの優弥自身のプライドの問題だった。
「優弥君、あのね、雪がすごくて小田急線も相鉄線も止まってるんだって。」
麻里江がレッスン室の扉を小さく開けて顔を覗かせそう言った。その顔は柔和で、全く深刻な様子が感じられ無い。もうすぐレッスンが終わる時間だった。優弥がここに来る時もかなり降っていたのだが、まさか電車が止まるとは思ってもみなかった。今日はリオがBloody Dollsのライブをやるので、終わる頃にライブハウスに着いて、帰りは送りついでにそのままリオの家に泊まるつもりだった。でも電車が動かないのではそれもできない。こんな日にレッスンに来た事を、優弥は今更ながら後悔した。
(金曜日なのに、ついてねぇ・・・。)
「優弥君、うちに泊まっていったら?お父様に迎えに来てもらうのも大変だし。雪で視界も悪いでしょう?うちの主人も今日は帰らないから、送ってあげることが出来ないのよ。」
静江が明るく上品にそう言った。優弥は雪の事よりも、父親に頼んで迎えに来てもらうことの方に抵抗があった。父とは相変わらずもう何年も口をきいていない。かといって、母親にこの豪雪の中を運転させるのはあまりにも不安だった。ここから自宅まで車だとたっぷり一時間以上はかかる。その距離をわざわざタクシーに乗ってまで帰るべきか。タクシーに乗ったところで無事家まで着くのだろうか。
「じゃあ、もう少し様子を見て、考えます。」
と優弥は答えてからリオにメールを打とうとしたのだが、もうライブが始まっていることを思い出し、後にすることにした。
「いいじゃない、泊まって行きなさいよー。」
静江はピアノの先生というよりは、優弥にとっては近所の普通の主婦という印象だった。
静江は父と学生時代からの友人だということを、優弥は先日バイトの帰りに麻里江から聞かされた。
「優弥君も小さいころはよく泊まっていったのよ。」
静江にそう言われても全く思い出せない事を考えると、せいぜい幼稚園ぐらいのときの話だろう。
優弥に対し、静江が無条件に好意的な態度を見せるのは、静江の人の善さもあるのだろうが、やはり親同士の付き合いの長さのせいなのかもしれない、と優弥は思った。そうなると、麻里江ともずいぶん昔にすでに出会っていたことになるが、記憶に無いので優弥にとっては関係のないことだった。
「もっとやりたいんだけどさー、雪でみんなが無事に帰れないといけないから、この辺にしとくよー。」
ヴォーカルのルイがそんなMCを入れた。今日Bloody Dollsが出演したライブに集まったのは全部で100人程度。実際はこの三倍以上を見込んでいた。
開場の時点で既にだいぶ雪が積もっていたせいか、三バンドも出るにも関わらず寂しい結果となった。始める前からライブハウスのスタッフとも話し合って、各バンド短めに終わらせることにしていた。
「サンキュー!また会おうぜー!」
ライブが終わり、リオが汗を拭いてこてこてに塗ったメイクを落とした後でも、まだ電車は止まったままだった。優弥からも、『今日は迎えに行けない』とメールが入っていた。この雪では当然のことだった。でもリオは、どうやって帰ったらいいのか・・・・・。
「このあとルイのとこでうちらだけで飲むんだけど、リオも行かない?今日はどうせまだ帰れないだろ?」
明人にそう言われてリオは素直に従った。ルイの住まいはそのライブハウスから徒歩圏内にあるということだった。
「お、今日はリオも来れるのー?」
ルイが機嫌よくリオに向かって言った。いつもリオは、門限や優弥が迎えに来る都合でほとんどまともに打ち上げに出たことはなかった。
しんしんと降り続く雪の中をみんなでぞろぞろと十分も歩くと、ルイの住むというマンションに着いた。一人暮らしのルイは、十畳と六畳の洋間と三畳のキッチンが付いた小奇麗なマンションに住んでいた。リオが驚いていると、
「ルイはね、ボンボンなの。親が会社やっててね。だからこれ全部親持ち。まあ、オレも親のスネかじってるところは一緒だけど。」
と言って怜は笑った。
モノトーンに統一されたルイの部屋の中は散らかっていはいたが、スペースが広いので余裕はあった。十畳の部屋にある四角いテーブルにコンビニで買って来た大量のビールとおつまみを並べ、ステレオの電源をオンにした。お気に入りの音楽が鳴り出すと、「フー!」という甲高いルイの奇声と共に五人の宴会が始まった。
星野家では、優弥が一人、星野親子の手料理で歓待されていた。多種多様な手の込んだ色とりどりの料理が際限無くテーブルに並び、静江の強引な勧めによって優弥は半ば強制的にそれらを口に運ばされた。
「もう、いいですっ。ごちそうさまでしたっ。」
胃袋の許容範囲の限界を感じて優弥がそう言ったときには、もう夜の九時を過ぎていた。優弥はまだ電車が動くのを待っていたが、そのあと個室をあてがわれて、そこのベッドで横になりながらテレビを見ていた。
メールをチェックすると、リオからの返信の履歴があった。
『会えなくって残念。今日は人が少なかった〜。今ボーカルのルイのうちで打ち上げしてるんだ。』
それを見たとたん、優弥の胃が不快感をアップさせた。
(ルイ?あの金髪で女みたいなヤツか。)
そんなことよりも、あの怜が一緒なのが優弥は一番気に入らない。
『あんまり飲むなよ』
そう入れて送信すると優弥は携帯をベットの上に放り投げ、再びベッドに横になった。すると、部屋の扉をノックする音と同時に麻里江が顔を出した。
「優弥君、着替えの下着ここに置いとくね。パパ用に買ってあったまだフタ空けてないやつ。お風呂ももう入れるよ。」
麻里江は愛くるしい笑顔と声でそう言った。
「・・・だからさ、俺まだ帰るかもしれないから。」
それを聞いて、麻里江は少し真顔になって言った。
「もう諦めなよ。きっと今日はもう動かないよ。だって雪降りっぱなしでしょ?ママももう優弥君が泊まるって決めてるよ。それに、もう寝ちゃったし。」
「・・・えっ?」
優弥は思わず顎を突き出した。
「ママはいつも十時には寝ちゃうの。・・・それより、これ一緒に飲もうよ。」
そう言って麻里江は水滴の付いた、よく冷えていそうな「梅酒」と書いてある紙のパックを突き出した。
「甘くっておいしいよ。麻里江もこれなら飲めるの。」
再び満面の笑顔で麻里江はそう言うと、ベッドの前にあるテーブルに梅酒のパックと二つのコップを置いた。優弥はしばらく黙ってそれを見ていたが、
「ま、いっか。」
そう言うと、ベッドの上の携帯をジーパンのポケットにしまった。
(リオも今頃飲んでるだろうし。あの怜と一緒に・・・、Bloody Dollsのメンバーと一緒に・・・。)
そう思うと、優弥はもう考えるのに疲れてしまった。
リオがあのバンドに入ってから、どれだけ同じようなことで悶々としたことか・・・。
リオを自分のものだと感じることが出来るのは、リオを抱いているときだけだ。リオを自由自在に操ることができるのはベッドの中だけだ。その時が終わってしまうと、優弥はいつも不安と孤独感に苛まれる。
「ビールは無いの?あと灰皿。」
優弥はポケットから出したマルボロを一本咥えると、火を点けながらそう言った。
麻里江はそんな優弥の横顔に一瞬見とれると、スリッパの音を立てながら、急いで一階のキッチンに降りて行った。
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