13・・・レッスン
優弥がピアノを弾いている。横には四十歳前後の女が腕を組んで椅子に座って優弥の演奏を聴いていた。星野静江というピアノ教師だ。
「ああ、そこそんなに簡単に弾かないで。もっと優雅に情感を込めていきましょう。はい、もう一度。」
優弥の演奏に静江から注意が入った。さほど感情的な言い方ではない。優弥は無言のまま手を止めてもう一度その部分を弾きなおす。
優弥がこのピアノ教師のもとに通うようになったのは中学に入ってからで、父親の知り合いということで紹介された。ピアノをやる人間にしてはさほどアーティスティックな態度をとらないところが気に入って、優弥はずっとこのピアノ教師に習っている。
それまでは、優弥が三歳のときからずっとピアノを教えていたのは父親だった。両親は優弥をクラッシックのプロの演奏家にしたいと望んでいた。優弥は一人っ子だけに両親の期待を一身に受けて育った。普段物静かな父はピアノのことになると人が変わったように厳しかった。優弥が思うように出来ないと父は大声で怒鳴り、満足がいくまで何度も優弥の顔を叩いた。そのせいで優弥はしばしば顔を腫らしたまま小学校に登校した。それでも大好きな父に褒められたい一心で優弥は毎日必死に練習した。だが、殴られることへの恐怖心から、練習をさぼっては友達と一緒に野球に出掛けてしまうこともあった。そうするとさらに父の怒りを買い、優弥への暴力は倍になって返ってきた。
優弥も最初はピアノが好きだった。実際、生まれてはじめて感銘を受けた音楽もクラッシックのピアノ曲だった。だから、
「俺のヒーローはベートーヴェン。」
そう言って優弥はリオに、ベートーヴェンの「テンペスト」を弾いて聞かせたことがある。
だが、強制的に押し付けられたレッスンと執拗に繰り返される暴力に段々と父への反抗心が芽生え始め、それと平行して優弥のピアノへの情熱は次第に失せていった。
中学二年の終わり、優弥の父親への不満はピークに達する。またしても父に怒鳴られたのきっかけに、優弥は突然目の前の白と黒の鍵盤を両手で思い切り叩きつけると、
「うっせぇんだよっ!!」
とドスのきいた声で叫んで乱暴に立ち上がり、呆然と立ち尽くす父の顔面を拳で思いきり殴りつけた。
おとなしかった優弥の突然の変貌。優弥が父にそんな態度にとったのは初めてのことだった。優弥にとってプロのピアニストである父は常に畏敬の存在だったのだ。
父親は優弥に飛ばされた拍子に床に手を着き手首を捻挫してしまい、そのせいで自分の大事なコンサートを休まざるをえなかった。ついでにこのとき奥歯も一本抜けてしまった。部活でバスケットをやっていた優弥はそのころ既に体格も良く腕力もあった。この事件以来、優弥は父とろくに口もきいていない。
それから、しばらく優弥はピアノから遠ざかっていたのだが、そのうちに母親に懇願され、他の先生に見てもらうという条件でまたピアノを弾き出した。高校卒業までは続けるという約束もした。といっても、優弥としてはやめてしまっても問題は無かったのだが、それでもわざわざ電車に乗ってこんな遠くまで通っている自分がよく分からなかった。
「ありがとうございました。」
レッスンが終わって帰ろうとすると、いつものように麻里江が声をかけてきた。
「優弥君、麻里江クッキー焼いたの。優弥君のためにあんまり甘くしなかったから食べてみて?」
パッチリとした大きなかまぼこ型の目と小さな丸っこい唇、小柄な体系。か弱い小動物のペットを連想させる麻里江は、可愛らしさを最大限表現しつつクッキーの皿を両手で優弥に向かって差し出した。
優弥は横目でちらとそれを見て、無言でクッキーに手を伸ばす。
「優弥君、せっかくだからこっちで食べてって。せっかく麻里江が優弥君のために作ったんだから。」
静江は機嫌よくそう言うと、「今お茶を入れるから」と優弥の返事も待たずにキッチンのほうへ引っ込んでしまった。
またか・・・。チッと心で舌打ちして、優弥は仕方なくリビングのソファーに浅く腰掛けた。広々としたリビングには西洋風の調度品がいくつも飾られていて、中央のガラステーブルにはカサブランカをメインにした生花のアレンジメントが置いてあった。
麻里江は星野静江の娘で、優弥と同学年の高校二年生だ。優弥が麻里江の存在を確認したのは、優弥が静江のもとに通い始めた中二の頃だった。
麻里江はやはり裕福な家の一人娘らしく、気立てのいいお嬢様の雰囲気がある。優弥がレッスンに来ると、麻里江は必ず何かしら理由を付けては優弥を引き止める。それに母親の静江も、「麻里江がせっかく○○だから」といつも親ばか風に優弥が断り難い状況に持って行く。
まぁいい、今はリオもまだバイトをしている時間だ。そう思い、優弥は出されたカップに手を伸ばしのんびりとコーヒーを啜った。麻里江のクッキーはサクサクしていてなかなかおいしい。彼女の作るものはいつも優弥の口に合った。
「優弥君のバンド、ライブやらないの?麻里江、また見に行きたいな。」
麻里江が優弥の横に座り、優弥の顔を見上げながら楽しそうに言った。
そのあとも、「何の曲をやるの?」「衣装はどんなものを着るの?」といったどうでもいい質問を機関銃のようにされ、面倒に思った優弥はそれを適当に言葉少なくかわした。だが、「優弥君は進路どうするの?音大に行くの?」という質問になったとき、優弥は一気に残りのコーヒーを飲み干してライブのチケットを麻里江に手渡すと、思い出したように突然席を立った。
「もう帰っちゃうの〜?!」と優弥の腕を両手で掴む麻里江に「離して」と一言言ってその手を振りほどいた。おとなしそうな顔をして、すぐにべたべたと体に触れてくる麻里江が優弥には理解できない。何度言っても同じことを繰り返す。
(うるせーよ。)
進路のことを聞かれるのが、優弥は一番嫌いだった。そんなことは自分が教えてほしいくらいだ。音大にでも進んでプロのピアノ奏者を目指すか。普通の大学に進んで普通の会社員になるか。プロのロックミュージシャン目指してバイトをしながらバンドをやるか・・・。
一番安心なのは、会社員だ。一番危険なのは、おそらくミュージシャンだろう。でも、それが自分が一番望む進路ではないのか。そんな勝ち目の無いギャンブルに足を踏み入れていいのか・・・。
でも、まだそんなことを考える必要は無い。まだそんなことで悩む必要は無い・・・。
「セックス・ドラッグ&ロックンロール、・・・だろ?」
優弥はジーパンの左右の前ポケットに親指を突っ込んだままつぶやいた。脇には楽譜の入ったプラスチックのケースを挟んでいる。
セックス・ドラッグ&ロックンロール・・・・・。外人のロックミュージシャンが好んで使う、自分たちの生活を象徴したかのような言葉、ロック野朗の理想・・・。
ようするに、学業の伸び悩み、酒の飲みすぎ、薬のやりすぎ、女遊び等ルーズな生活態度の全てを、「これがロックだから」という理由で強引に片付けてしまう言葉だ。
(セックス?リオといつか結ばれればそれでいい。ドラッグ?酒なら飲むけど薬はいいや。ロックンロール?これはもう、オーケー。)
セックス・ドラッグ&ロックンロールを地でいってるわけじゃないけど、高校生の自分にはこれくらいでちょうどいい。これくらいで十分楽しい。
(今が楽しければ、それでいいじゃん。)
優弥は胸ポケットから取り出したマルボロを一本咥えると、黒い十字架がデザインされた銀のジッポで火を点けた。
深々と吸い込んで煙を吐き、澄み切った青い空を白く汚してやる。そして視界はすぐに、何も無かったかのように再び青さを取り戻していく。ふとその中に、気だるげに髪をかき上げながら自分に微笑みかけるリオを見た気がした。生意気そうなイイ女。そんなリオに優弥は薄く笑みを返す。
ギラギラと照りつける太陽に噴き出す汗をぬぐいながら、ブーツの靴底を鳴らして優弥は駅へと急いだ。
「暑い・・・。」
学校の視聴覚室。チェリッシュのドラマー愛里は、汗で濡れたTシャツの裾を持ち上げパタパタと動かして風を入れた。襟足までカットされた短いざく切りの茶髪の毛足が、汗でペッタリと首に張り付いていた。
「ドラムは体使うから一番暑いよね。」
とキーボードの美羽が清楚な顔立ちをさらに爽やかにして笑顔で言った。
「そう考えると美羽が一番動きが無いかもしれない。」
愛里が笑いながら言う。それでも美羽は暑いからか肩までの髪を二つに分けて下で結んでいた。
夏休みも八月に入ったが、梅雨も終わらず視聴覚室は窓を開けていてもかなり蒸していた。今日は来週のライブに向けてのチェリッシュの最後の練習日だった。視聴覚室はこのあとに優弥たちのバンドHYENAの練習が入っている。
「暑いからさ、ステージ衣装はみんなで思い切ってビキニにしちゃう?」
カレンの爆弾発言に、一同「え〜!!」。カレンは新しいビキニが早く着たくて仕方ないらしい。
「女子校でライブやるんだったら良かったんだけど・・・。」
ベースのさつきが遠慮がちに言う。真面目なさつきと美羽はあまり露出の多い恰好は好まない。
「それに、リオとカレンは暴れるから、ビキニじゃいつのまにか取れてるかもよ?そしたらお嫁にいけなくなっちゃうよ?」
と言う愛里の意見に、そんなことはまず無いと思いつつも、「ほんとほんと」と皆で笑い合った。
「・・・でも、優弥君の大いなる愛なら大丈夫かも・・・。」
美羽にそう言われ、リオは聞こえていない振りをしてそっぽを向き、アンプを通していないギターをむやみにチャリチャリと鳴らした。
「照れてる、照れてる。リオにも恥じらいという感覚があったんだねー。」
カレンの言葉にその場にまたぎゃはははと笑いが起こった。リオが無視して窓の外を見ていると、ちょうどHYENAのメンバーがぞろぞろと校門を入ってくるところだった。優弥は相変わらず両ポケットに手を突っ込みながら、隣を歩く早坂と何やら談笑している。
(今日もかっこいいじゃん・・。)
リオは一人そう心でつぶやくと、秘かにニンマリと口元を歪ませた。そして、思い出したように慌ててカバンからパウダースプレーを取り出すと、ブラウスをたくし上げて体中に吹きまくった。とたんに周囲にいたチェリッシュのメンバーも、「あたしも〜」と言ってリオと同じことを始めた。
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