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こんにちは。お久しぶりです。

まだしぶとく書いております。
112・・・衝動
 遠くでビルの階段を駆け上る足音が木霊している。屋上に向かっているのだろうか。春斗は階段の手すりに手を置き、足を止めて上を見上げた。階段と階段の隙間からジーパンを履いたリオの黒い足と長い髪が一瞬通り過ぎるのがわかった。続いて屋上の扉が閉まる重々しい金属音。その音に向かって春斗は大またで階段を駆け上った。

「リオちゃんっ。」

 やっとのことで最上階までたどり着き、今開けたばかりと思われる鉄の扉を両手で押し開けると、真っ直ぐ先に見える二メートル以上はあるであろう高さの白いフェンスに貼り付いているリオの後姿が目に入った。春斗は血の気が引いた。確かここは四階だ。無意識にまた走り出す。

「おい、何やってんだよっ。」

 追いついた春斗の声など全く聞こえないかのように、リオは運動不足のサルのごとく不器用にフェンスをよじ登る。フェンスの外は人がやっと立つのが精一杯というほどの幅のコンクリートしかない。

「やめろっ・・・。」

 リオがフェンスを跨ごうとしたところで春斗は、唯一こちら側にあったリオの足首を掴んで無我夢中で引っ張った。

「放してっ・・・ひゃぁぁ・・・・・。」

 リオは叫びながら体制を崩し、春斗に引っ張られるままに難なく横向きに落下した。しっかりと春斗を下敷きにして。しかしすぐに起き上がり、またフェンスにへばりついた。春斗もすぐに立ち上がり、リオを羽交い絞めにした。今日はこんなことばかりだ。

「もうやめろってばぁっ。」

 散々もみ合いながら春斗がそう言ったあと、諦めたのかようやくリオの動きが停止した。しばらく息をしていた肩が動かなくなった。春斗がそっと手の力を抜くと、リオがか細い声を出した。

「君がいないと泥に埋もれちゃう・・・?はあ・・・?そのまま土にもぐって地底人にでもなれっ。」

 何の話だろう、と春斗は首を傾げたがすぐに察した。恐らく瑠偉(るい)に対して言っているのだろう。リオは地べたに両手を着いてうなだれている。垂れ下がる長い髪の毛の間からぶつぶつと声が聞こえてくる。

「・・・もう泣かさない?何言ってんだよ。どうやったら泣かないでいられんだよっ。」

 リオの声はかすれて涙声だ。肩が震えている。しかし、

「・・・別に、いいじゃん。」

 春斗は冷ややかに言った。リオの背中に向かって続ける。

「バンド首になったって、そのまま瑠偉さんと付き合えばいいじゃん。」

 リオは動かない。表情は窺えない。ぴくりとも動かずに春斗の声に集中している。

「好きだったら、それでいいだろ。ギターやめるんだったら同じじゃね?どうせやめるんなら、頭空っぽにして瑠偉さんの傍にいればいいだろ。ただの彼女でいればそれでいいだろ。」

 春斗が言い終わらないうちに、リオがゆっくりと顔を上げた。春斗を見る目はうつろで充血している。春斗は少しひるんだ。激しく乱れた髪が手伝ってまるで幽霊のようだ。

「どうして・・・そんなこと、言うの・・・。」
 リオが口を最小限に動かして言った。春斗は気後れしながらも、そんな自分をどうにか奮い立たせて言った。

「それが出来ないって事は、その程度の想いだったってことだよ・・・。前にリオちゃんが俺に言ったようにさ。」

「・・・何、それ。」

 リオは機敏な動きで春斗の目の前まで這って来た。膝立ちになって両手で春斗の胸のTシャツをぎゅっと掴む。

「あたしにそう言われたからって、やり返すのっ?すごいやなやつっ。」

 リオは泣き声になっていた。シャツを引っ張って春斗の上半身を揺さぶる。「そんなの、酷いじゃんっ」

「違うっ・・・・・。」

 遮るように春斗が叫んだ。硬く目を閉じている。

「リオちゃんにギターをやめてほしくないんだよっ。生きてて欲しいんだよっ。いなくなったら困るんだよっ。リオちゃんは、俺の人生変えた人なんだからっ。」

 春斗のそれは、まるで溜まってたものを吐き出すかのようだった。リオの揺さぶりが止まる。掴んだシャツはそのまま。春斗が目を開けると、涙に濡れた目で困惑気味に見つめてくるリオの顔があった。距離があまりにも近すぎる。気まずさから春斗はさりげなく目を逸らして言った。

「・・・一年の文化祭の時、初めてリオちゃんのギターを聴いた。マジショックだった。でもすっげ~興奮した。感動した。で、思ったんだ。『俺プロになろう』って・・・。『音楽で食ってこう』って・・・。自分でも意味わかんねえけど。でもそれ、リオちゃんのせいだって事は確かなんだよ。」

 一気に言ってから、春斗はそっとリオの顔色を窺った。シャツを掴んだ手から力が抜けていき、春斗の胸に中途半端に手が添えられている感じになった。リオは何も言わない。動かない。何を思っているのか判断不能な顔をして春斗を見入っていた。しかし、少なからずの動揺は隠しきれない。

「とにかく」と春斗は立ち上がり、コンクリに膝を着いたままのリオを見下ろす。

「一緒にやろうよ、バンド。やってくれよ。武道館出ようよ。俺はリオちゃんとやりたいんだよ。ずっと前からやりたかったんだよ。」

 言ってから春斗はリオに真っ直ぐ手を差し出した。リオは相変わらず固まったままの表情で春斗を見上げている。白い頬には涙の線が残っている。けれど、もう新たなものは出ていない。春斗は手を伸ばしたまま辛抱強く待った。リオが自分の手を重ねてくれるのを。
 リオはしばらく春斗の顔と伸ばした手を交互に見比べていたが、そのうちおずおずと手を動かし、そっと春斗の手に触れた。春斗は安堵して、その手をしっかりと握り締めた。決して放さない、というように。春斗は微笑む。そして、「あと、もうあそこには登らないでね」とフェンスを目で指して言った。

 するとそこで、交じり合う二人の視線に割って入るように突然誰かの声がした。
「よっしゃ~。」
 いつも耳にしている低くて太い声。誰もいないと思っていた春斗はぎくりとして声の主を見た。リオも振り返る。すぐ傍にあったエアコンの室外機の影から晃がのっそりと立ち上がるところだった。続いて真治の立ち上がる姿も。
 一体いつからいたのだろう。どこまで聞かれていたのだろう。その距離わずか二メートル。春斗は首の後ろが急激に熱を帯びるのを感じた。晃はにやにやと笑いながら、向かい合って手を握り合う二人のほうへやってきた。

「オレと真治のことも忘れないでくれよー・・・。」
 言いながら手を伸ばし、春斗とリオの繋ぐ手を真ん中からぐっと握った。そして斜め後ろに立つ真治を振り返り顎でしゃくった。真治は納得したかのように無言で歩み寄り、自分も手を伸ばしそこに重ねた。四人の手が一つになると、晃が言った。

「俺も、この四人でやりたい。」
 春斗が頷いて、「うん」と応えた。「やっぱリオちゃんのデスヴォイスでしょ」といつもの笑顔で言った。真治も頷いた。
「今しかできないこと・・・高校生には高校生にしかできないことをやろう。」
 真治が穏やかにそう言うと、「なんか青春してねえか?俺ら・・・」ふと気づいたかのように晃が言った。
「めっちゃ青春してるね~」春斗が楽しそうに言った。晃と真治も何か含んだような笑顔を見せた。そして三人はそれとなくリオの反応を窺ったが、その表情は真っ白で、言葉も無く瞬きもせず、繋がれた四人の手の先をただ見つめているだけだった。しかし、
「あたし・・・・・。」
 リオの口が小さく動いた。男子三人は期待に胸を膨らませて次の言葉を待った。

「出家して山にこもって聖母マリアになる・・・・・。」

 生気の無い声でリオは言った。

「・・・・・・・・・・・・・・・。」
 どう反応したら良いのか。誰一人返す言葉が見つからなかった。リオの言わんとすることも今一つよく解らない。
 早く誰か何か言えよ・・・。沈黙の世界の中で晃、春斗、真治の間にそんな無言の意思が漂った。
「ええと、とりあえず・・・。」
 ようやく口を開いたのは真治だった。
「宗教は統一しといたほうがいいと思うよ。」
 するとリオは、意外にも素直にこくりと頷き、そして言った。
「練習しようか。」

 それから四人は再び地下に戻りスタジオに入ったのだった。そのときはもう怜の姿も今井の姿もどこにも無かった。
 ようやく全員揃った久々の練習は、今だかつて無いほどの集中力を四人に与えた。もう、本選まで残された時間はわずかだ。アレンジを煮詰めて繰り返し練習する。しかし三時間もしたころ、予約を入れているバンドがやってきたので、四人はしぶしぶ清算を済ませてスタジオを出た。その後敷地内の休憩所でしばらくミーティングをしてから帰宅となった。
 
「ハル、任せたぞ。」
 晃が春斗に耳打ちした。まだ油断できねえからな、と晃は前方を向いた。少し前を、駅へ向かう歩道を一人歩くリオの後ろ姿がある。真治は春斗の後ろを歩いていた。
 晃の目が意味ありげに光っている気がして、春斗はさりげなさを装って晃から離れて歩いた。他に何か核心をつつかれそうで怖かった。スタジオの屋上でリオに言ったことは、恐らく晃と真治に全部聞かれていたのだろう。そして、その前に勢いで今井の顔まで殴っている。あのいつも自信満々で強気な今井を・・・。さらに、LIVELAをやめるとまで宣言してしまった。今井を殴ってしまったのはリオをかばっての事だとは誰もがわかるだろうが、実際春斗はもう、今井の軽薄かつ身勝手な性格に十分うんざりしていた。だから、ある意味一石二鳥だったのかもしれない。とりあえず今が夏休みで救われた。学校で今井と顔を合わせる心配も無い。

 晃や真治に手を振りながら、春斗はリオの家の最寄り駅で一緒に電車を降りた。不思議そうに見つめてくるリオに、「送ってく」と前を見たまま春斗は言った。
「大丈夫なのに」とリオは言ってから、ふと思い出したように下を向き下腹部に手を当てた。
「・・・お腹、痛いの?」気づいた春斗が覗き込んだ。
「別に・・・。」そう言ったリオの声は地に沈んでいくように暗かった。
 
 十五分後、春斗はリオのマンションの中にいた。玄関まで送って帰ろうとしたところで、家に上がるようリオから誘われたのだった。予定していなかった春斗は少々迷ったが、今日リオのとった行動を考えると、このままリオを一人にして帰るのは心残りだった。今リオの母親は出かけていると聞いた。

 初めて入ったリオの部屋。リオは飲み物を取りに行くと言ってすぐにいなくなってしまった。中に足を踏み入れたとたん、何かにつまずきそうになって春斗はよろめいた。足元を見て唖然とした。膨大な量の空き缶があたり一面に散乱している。三十個はあるだろうか。拾い上げてみると、種類は違うがそれらは全てチューハイやビールなどのアルコール飲料の抜け殻だった。春斗は動揺しつつも、一体いつ何本飲んだのだろうと無性に気になった。その他雑誌や化粧品の類のものに紛れて他の酒らしき瓶も見つけた。Jack Daniel'sと書いてある黒いラベルは確かウイスキーだ。誰かのアルバムジャケットに写っていたものと同じ。中身は三分の一くらいしか残っていない。春斗はしばし呆然と立ち尽くしていたが、すぐ傍に脱ぎ捨てたらしき洋服の類のものを見つけてなんとなく拾い上げた。それは、淡いピンク色をした丈の短かいワンピースのような形のもので、胸全体がレース地になっていた。胸の下を一周するように細いリボンが巻きついている。女の子らしいな、と春斗はしばらく両手でぶら下げて眺めていたが、そのうちこれが下着なのだと気づいて慌てて手から取り落とした。

「かわいいでしょ。」
 突然声がして春斗が飛び上がりそうになりながら振り向くと、飲み物と何かの食べ物らしき袋を抱えたリオが部屋の入り口に立っていた。
「パンツとおそろなんだよー。」
 言いながらリオは部屋の中央に置いてあった小さめのテーブルに、抱えていたものを置いた。前屈みになったとき、リオのTシャツの奥にふくよかな肉を割る縦の線がくっきりと見えた。リオのそれはもう見慣れたものだが、目に入ってしまうとやはり落ちつかない。この肉体にさっきの下着を纏ったらどんな感じなのだろう・・・と瞬時に想像してしまった春斗だが、そんな妄想は無理矢理断ち切った。

「すごい缶だね。集めてんの?」気を取り直して春斗が言うと、へへっとリオは笑った。笑いはすぐに消えた。
 リオが缶ジュースを差し出す。「ありがと」と言って春斗が受け取ると、それはジュースではなくてビールだと気づいた。
「・・・酒じゃん」春斗が言った。「うん」と言ってリオは春斗の横に並び、自分もベッドに寄りかかった。「ダメ?」とリオが上目遣いに大きな黒目を向けた。「いや、いいけど・・・」春斗は少々戸惑いながらも缶ビールのプルトップを開けた。多分それは、他に誰かが一人でもいれば躊躇などしないのだろう。とりあえずビールだからウイスキーよりはまだマシかな、などと無理矢理自分を肯定した。

 練習のときもそうだったが、相変わらずリオは言葉を発しなかった。表情が常に同じで、気が付くとどこか一点を見つめて静止している。今もそうだった。ビールの缶を握ったままテーブルに視線を向けているが、まるで何も目に入っていないかのようだ。
 
 今日リオの取ったとんでもない行動・・・。スタジオに入っているときはその危機的状況を脱したかのように思えたが、今こうして密室で二人きりで無言で酒を飲んでいると、否応無しに現実に引き戻されてしまう。
 屋上から飛び降りるのをとどまったとしても、そう簡単に元の状態に戻るのは無理だろう。練習のときもリオはあまり意見を言わなかった。元々大してしゃべるほうでも無いので極端な変化とは感じなかったのだが・・・。

「結構かっこよくなったね、あの曲」リオが言った。
「うん。」
 そんな風に時々短い言葉のやり取りがあり、またビールを飲む。その内手持ち無沙汰になった春斗はそばに立てかけてあったリオのアコースティックギターに手を伸ばした。ただし、『天国への階段』は今日は弾かない。春斗はビートルズの曲を中心に意識して活気のある曲を選曲した。たまに曲に合わせて調子はずれな歌を歌うと、リオは面白そうに手を叩いて笑った。ギターを弾くのは春斗だけで、リオはビール片手にただ春斗の演奏に耳を傾けるだけだった。

 結局飲み物は最初に用意した分だけでは到底足りず、後から何度も追加された。睡魔が襲ってきたのは缶を何本空けた頃だったろう。足元の空き缶が増えただけでよくわからない。春斗はあくびをしながら重たい瞼を擦った。このままだとここで眠ってしまいそうだ。
「そろそろ帰ろうかな・・・。」
 そう言って、ぼやけた視界の中で壁の時計の針が十時を指すのを確認した。家の中にリオの母親の気配は感じない。春斗はだるい体に鞭打ちながら立ち上がった。見ると、リオは上半身だけをベッドに預けながらうつぶせで目を閉じていた。その横顔を上から眺めながら春斗は言った。

「リオちゃん、帰るね、俺・・・。」
 するとリオの目がうっすらと開いた。
「・・・ダメ。」
 そう言って気だるげに起き上がると、赤い目をして春斗を見上げた。
「帰っちゃ、ダメ・・・。」
 見る見るうちに顔は歪み、その目に涙が溢れた。春斗は言葉を失った。リオの目に溜まった水滴が、まつ毛の間から次から次へとこぼれ落ちる。
「帰っちゃ、やだっ。」
 リオは膝で立ち上がり、春斗にしがみついた。
「やだ、やだ、絶対にやだっ。」

 何が起きているのだろう。春斗は軽いめまいを覚えながらどうにか立っていた。酒のせいか、はたまた別の理由からか、全身がひどく熱い。動悸もする。しかし感覚は鈍い。下のほうからリオの泣き声が聞こえる。顔を擦り付けられている位置が非常に都合が悪かった。春斗は自分にしがみ付く生温かい物体を朦朧と見下ろした。こんなにも不安定で弱弱しい。今までのリオからどうしたらこんな姿が想像できたろう。

 春斗はしばし直立不動でいたが、恐る恐るリオの頭に手を置いた。そして、「わかったよ」と小さな声で言った。しかし状況に変化は見られない。
「一緒にいるよ。だから、泣くなよ・・・。」
 春斗は自分の体からリオの手を解くと自分も膝を着いて同じ目線になった。リオは相変わらず顔を崩し小さな子供のようにふぇぇふぇぇと声を上げて泣きじゃくっている。その顔を間近で見ている内に、春斗はたまらなくなった。
「泣くなよ・・・。」
 気が付くと、リオを抱きしめていた。華奢で、それでいて柔らかなその体を壊れんばかりに力強く・・・。
 何も固めていないリオの髪の毛からライムのような香りがした。熱い吐息が、涙が、春斗のシャツをしっとりと湿らせた。
「リオちゃん・・・・・。」
 春斗は腕に力をこめた。それまでどうにか春斗を抑えていたものは、ものの見事に効力を失ってしまっていた。
 

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