中秋の名月
居合道の道場で稽古を終えたクレアは、更衣室で着替えて道場に一礼してから出ていく。
熱気のこもっていた道場と違い、外の空気は暖房を欲するほどに冷えていた。先週の稽古の時にはまだ暑くて、師範にもらった団扇でパタパタと扇ぎながら歩いたのが嘘のようだ。首筋がひやりとしたクレアは稽古の間は邪魔にならないように結んでいた金髪をザッと指で掻きほぐしながら、背に流した。
イギリスにはほとんどない居合道の道場が、日本の忍者に憧れる自分の家の近くにあるのは、運命的だと思う。師範は「忍者に夢を見過ぎだ」と苦い笑いを浮かべるけれど、同時に、「夢を見るのも悪くはない」と言ってくれた。
「師範、着替え終わりました!……あれ?」
この居合道の道場に通う女性はクレアだけだ。男性陣が着替え終わってから、更衣室を使わせてもらい、師匠に終了の報告をしてから帰るのが常である。いつもならば大きく開け放たれた掃き出し窓から声をかければ、すぐに返事を返してくれるのだが、今日は返事がない。
クレアは首を傾げながら、庭の方へと回ってみることにした。さすがにいきなり家の中に入るわけにはいかない。
イギリスではここ以外でクレアは見たことがない和風の建物を見上げながら、ジャクジャクと音を立てる砂利を踏みしめて南の方にある庭へと向かう。初めて道場に入った時は興奮してカメラで撮りまくった事を思い出して小さく笑った。
くるりと角を曲がると日当たりの良い南側の庭にはいくつかの木々や小さな池がある。師範の庭は、クレアの家のバラを基本に季節の花々やハーブ、芝生を敷き詰める英国風ガーデンとは全く趣の違う和風ガーデンだ。せっかくの和風建築なので、池では鯉を飼って欲しいとクレアは常々思っているが、いくら頼んでも師範から「高い」と却下されている。残念だ。
そんな和風ガーデンで鯉のいない池の手前に赤いカーペットを敷いている師範が見えた。刀を扱っている時は、師範自身がまるで刀のような鋭さと厳しさがあるけれど、道場を一歩出たらただのおっさんになることをクレアは知っている。
「師範、そんなところに敷いたらカーペットが汚れますよ?」
「カーペット……。まぁ、和風カーペットで間違っていないが、『緋毛氈』って言うんだよ」
師範はちらりとクレアに視線を向けて苦笑した後、丁寧に緋毛氈の皺を伸ばし始める。刀以外に頓着しない師範の珍しく丁寧な仕草に、クレアは目を瞬いた。
「ヒモーセンを敷いて、何をしているんですか?」
「あぁ、『月見』の準備だ」
「ツキミ?」
日本語の単語にクレアが首を傾げると、師範はこめかみをトントンと人差指で軽く叩いた。英語で何と説明するか考えている時の師範の癖だ。
しばらく考え込んでいた割に、師範の説明は実に簡潔だった。
「月を見るんだよ」
月を見たければ、上を向けばいいだけだ。月を見ることと緋毛氈の関係がわからない。
月を見て、どうするのだろう?
クレアが不思議に思って見上げた空には丸い満月が上っていた。
「今日は『中秋の名月』だからな」
「チューシュ?」
「陰暦の八月って言ってもわからんだろうなぁ。そこらへんに興味があるなら、自分で調べろ。……まぁ、一年で一番綺麗な月って思っておけばいい」
簡潔に説明されても、クレアにはやはり意味がよくわからない。月が綺麗だから何だと言うのだろうか。それを見て、どうするのか。
師範に聞けば間違いなく教えてくれるが、日本の行事はもともと中国の行事に日本の土着信仰が合わさっていって今の形に落ち着いたのものも多く、説明が長くなりすぎる。日本語のイベントなのだから、おそらく日本人独特の習慣なのだろう、と理解しておけばいい。
クレアにとっては、行事の成り立ちよりも何をする行事なのか、面白いのか、盛り上がるのか、日本好きの友達に自慢できるのか、の方が大事なのだ。
それにしても、とクレアは思う。
桜が咲いたら花見、月が上がれば月見。日本人は何かを見るのが好きらしい。
月見に興味が出てきたので、他に何を準備しているのか、クレアはぐるりと辺りを見回した。庭に面した縁側の真ん中辺りにも緋毛氈が敷かれ、どこにあったのかよくわからない草が活けられ、木の台のようなものに積み上げられた白い餅が見える。これも月見の準備に違いない。
「お餅ですね?」
「いや、あれは月見団子」
「ダンゴ?」
餅ではなかったらしい。どちらも白い丸なので、全く判別できない。あれはやはり食べるのだろうか。
むむっと眉を寄せるクレアは風景に違和感を覚えて目を瞬いた。何度か辺りを見回して、やっと違和感の正体に行きつく。月見団子の隣に並んだウィスキーとグラスが原因だ。日本のイベントである月見にウィスキーは何の関係もないだろう。
「師範、このウィ……」
「始めるから、見物するなら縁側に座ってろ」
稽古の時に出すような低い声で師範にそう言われて、クレアは条件反射的に口を押さえると静かに縁側に上がった。余計な口を利けば、邪魔だとつまみだされるに違いない。
好奇心に満ちた目で見つめるクレアの前で、稽古の時と同じ真剣な眼差しで師範が自分の刀を手に、一礼して緋毛氈に上がる。
稽古の時よりも張りつめたようなぴりぴりとした雰囲気を目にして、自然とクレアも背筋を伸ばした。膝の上にあったバッグを横に下ろして、居住まいを正し、正座する。
緋毛氈の隅で正座した師範が厳かな動きでゆっくりと鞘を手にした。満月に向かって、一度刀を捧げるようにそっと持ち上げて一礼し、緋毛氈の上に丁寧に置く。ゆっくりと座礼し、刀を手に取る。
師範の指先まで神経が行きわたっているのがわかる。
呼吸音さえ大きく響きそうな静寂の中、師範は刀を脇に差して、ゆっくりと息を吐いた。
師範の身体が動き、片膝を立てたと思った瞬間には、すでに刀が抜かれていて、満月のまばゆい光を照り返している。
師範の動きは決まった型の通りだ。クレアも稽古で同じように動いているが、自分の動きとは全く違う洗練された無駄のない美しい動きで、思わず息を止めて、魅入っていた。
すり足で動くと同時に、刀が閃き、翻る。
シュッと刀が鞘に納められ、キンと金属の細い音が波紋のように広がった。
緋毛氈の隅まで下がって座礼し、月に向かって刀を持ちあげ、また一礼。
すり足で月に背を向けることなく、カーペットから降りると、師範はハァと息を吐いた。
一瞬で張りつめていた空気が霧散する。
クレアもゆっくりと息を吐いた後、正座を崩して、縁側から足を投げ出した。
「師範、一体何をしていたんですか?」
「あぁ、奉納舞のようなものだ。本来なら神社で、神様の前でやる。さすがにここには神社がないからな」
スッと音もなく、師範は縁側に座る。こういう時にクレアの隣ではなく、お供え物の向こう側に座るのが少しばかり腹立たしい。日本人にとっての適切な距離がクレアにはひどく遠く感じられるのだ。
「神社でなければ意味がないのでは?」
神に祈るならば、それに相応しい場所がある。教会だったり、礼拝室だったり、祭壇の前であったり。もしかすると、池の前の緋毛氈が日本人にとっては祭壇のようなものなのだろうか。どちらかというと、月見団子や草花が飾られた縁側の方が祭壇っぽい気がする。
「八百万の神様はどこにでもいらっしゃる。月見なのだから、月が見える場所であればそれでいい。月は月読神と言って、農業、占い、そして、生死に関する神だと言われているんだ。十五夜は豊穣を祈り、祝う祭りでもある」
日本人の感覚がクレアにはよく理解できない。
自分が見ている月と、師範に見えている月が全く別物に見える。
「本当は御神酒がよかったが、こちらでは手に入らないのが残念だ……」
そう呟きながら、師範はゆっくりとグラスにウィスキーを注ぐ。
トクトクと音を立ててグラスに注がれる琥珀の液体にも月の光がきらめいた。それを楽しげに見つめながら、師範はグラスを傾ける。
「クレアも飲むか?」
「エールなら頂きますけど、ウィスキーは好きじゃないんです」
「そりゃもったいない。こんなにうまいのに」
そう言いながら、グラスを見つめる師範の口元は緩みっぱなしだ。視線は酒に釘付けで、縁側に座ってから月なんて一瞥もしていないのだから、呆れるしかない。
「師範、月見と言っても、月なんて見てないじゃないですか。お酒を飲むためのただのこじつけですね」
グラスに映る月をゆらゆらと揺らして見つめながら、師範はフッと笑った。
「平安の昔から、月は直接見るものじゃなかったんだよ。昔のお貴族様は庭の池に映る月を舟で眺めて歌を詠み、杯に映る月を味わっていた」
「何のために?」
「水面に揺れる月は格別だからだろ?」
そんな当たり前のように言われても、やはりクレアには全く理解できない。
師範の隣に立って、グラスに映る月を覗きこんでみる。ゆらゆらとして歪で頼りなく見える水面に映る月影。そんなものより、空の満ちた月の方がよほど美しいと思う。
「感覚の違いってやつだな。雲で完全に月が隠れていれば『無月』で、雨が降っていれば『雨月』と言って、ほんのりと明るい夜空を見上げて雲の向こうにある月に想いを馳せて、月見をするんだよ」
「月が見えないのに?」
「見えなくても、あるだろう?」
師範を見ていると、自分とは全く違う世界があることをいつも実感させられる。まるで水面に映る月影みたいだ。触れようとしても触れられない。普段は少しふざけたおっさんなのに、少し角度を変えると全然違うモノに見えてしまう。
綺麗で不思議でとらえどころがない。そう言うところを見つけるたびに、この月のような男を捕まえてみたくなる。
「……師範も月に豊穣を祈っているんですか?」
「そうだな。折角イギリスにいるんだ。いつも世話になっているウィスキーの豊穣を祈っておくさ」
「じゃあ、わたしは月見団子の豊穣を祈っておきます」
一生イギリスで祈らせてやるんだから。そう心に決めながら、クレアは月によく似た白い団子を口に放り込んだ。