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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第四話 騒乱編
55/110

その十 花栄、噂を聞きつけるのこと

「暑い……」


 青州(せいしゅう)歩兵都管(ほへいとかん)花栄(かえい)は自分の執務室にある机に突っ伏しながら本日何度目かの呟きをもらした。


 太陽は南を回ったばかりで一日で最も暑い時刻である。彼女の執務室は窓が一箇所しかなく、すこぶる風の出入りが悪い。そしてさらに間の悪い事にその南向きのまどからはさんさんと太陽光線がさしこんでいた。冬の寒さをしのぐために作られた部屋らしいが現時点ではそれが裏目に出てしまっている。


「こんな暑くちゃ仕事なんてやってられないわよね」


毎日のように呟いているその言葉を今日も呟きながら花栄はぱちゃぱちゃと足元にある桶の水を蹴り出した。石造りの床にとびちった水滴は見る見るうちに熱を吸って乾いていく。


「大体、こんな暑いときに他の季節と同じように働けって言うのが無茶なのよ」


机に伏したまま、誰ともなく言い訳するように呟く。


「まあ、一理あるかも知れんな」


だからそんな風に言葉が返ってきたことに花栄は少しだけ驚く。が、声の調子には聞き覚えがあったため、驚きは一瞬で消え、嫌悪感が胸の中に急速に広がっていく。声の主は花栄の勘違いでなければ、この町で彼女が一、二を争うほどに苦手としている人物だった。


「しかし、そういう台詞はせめて他の季節にきちんと真面目に仕事をしている奴がいうべきだと思うぞ、歩兵都管殿」


黄信(こうしん)、何か用なの?」


 言いながら花栄は顔をようやくあげた。互いに嫌悪の色を隠そうとしないまま、二人は向き合う。


(また、暑苦しい格好して……)


さすがに暑いのか、普段はたらしている亜麻色の髪は前髪以外を結い上げてシニョンにしている黄信であるが、肉体の方は律儀に金属製の鎧を着ている。見ているだけで暑苦しいので花栄としてはこの時期は正直、視界にも入れたくないのが本音だった。


「用がなければ、わざわざ貴様のところになど来るか。だらしがないにもほどがあるぞ。大体その寝巻きのような格好はなんなんだ」


「これは寝巻きじゃなくて下着だよ」


「なお悪いわ!! 全く見ているだけでいらいらさせられる奴だ」


「全くもって同感だね。なんでもいいけど、とりあえず早く出てってくれると助かるんだけど、こっちはもう見るだけどころか近づかれるだけで暑いから早いとこ、どっかに消えて欲しいんだけど」


再び机に突っ伏しながら、花栄は黄信に要求した。


「貴様! 話す時ぐらい人の目を見んか!」


だが黄信はそんな自分の態度が不服なようで、自分の顔の乗った机をばしんばしんと叩いてくる。花栄はあっさりと観念すると嫌そうな表情を隠しもせずに顔を上げた。


「あーもう、面倒くさいわねー。一体何なのよ」


だがそんな花栄に対して、黄信は花栄の前では滅多にしない、というかこれまで一度も見せた事が無いような満面の笑みを浮かべた。


「秦明殿の結婚がな、ようやく決まったらしい」


「嘘ぉ!!」


思わず反射的に叫ぶ。すると黄信は不快げに顔を歪ませた。


「何が嘘なものか。もう町中で噂になっているぞ」


「いや、だってさ、今までずっと何度もお見合いとかしてだめだったのに、いきなりぽんとそんな情報が出てきたって信じられないよ」


花栄の言葉に対して黄信は激するでもなく、落ち着いて回答してみせた。


「むしろ今まで決まらなかった方が自分は不自然だと思うがな」


「む……」


その黄信の指摘に花栄は思わず黙り込む。確かにそれは花栄も前から薄々と感じていたことでもある。


 伴侶とするには秦明は女性の目から見ても欠点のある人物だ。家事はできないし、変なところで子供っぽいし、腕力はおっかないという表現ですら生ぬるい。とはいえ、それをありあまってある魅力がある人物であることも確かだ。父親の遺産を受け継いだ財産家だし、美人で性格も基本的には穏やかだ。


 となれば、だまされる……もとい、欠点に目をつぶって結婚したい人間だって少なくないはずなのだが、今の今までそんな話はついぞなかった。

 

「何だ? 何か秦明殿の相手が決まってはまずいわけでもあるのか?」


「何言ってるの? あるわけないでしょ」


黄信がにらみつけるように目を細めるが、花栄はそれを軽くいなす。


「本当なら確かにめでたい話じゃないの。久々の明るい知らせね」


まだどこか黄信の情報を信じられない花栄は机に頬杖をついて言葉を続ける。


「で、お相手はどんな人なの?」


「自分も詳しく知っているわけではないが、なんでもどこか別の町の大商人の次男坊で金払いのいい男らしい。年は十六だったかな。気功使いでもあるらしい」


「『らしい』ばっかね」


「自分も会った事が無いのだから仕方あるまい」


黄信は珍しく自信なさげに肩をすくめてみせた


「まあ、いいか。名前はなんていうの?」


その質問に黄信は少しだけ、視線を宙に惑わせてから呟いた。


「ああ、確か宋江(そうこう)とか言ったかな……」









 部屋の隅に冷たい場所を見つけると宋江はぼんやりと天井を見上げた。茫洋とした彼の瞳には木で作られた天井を移しているものの、誰から見ても天井に関心があるわけでもないのは明白だった。


 楊志(ようし)にあの首飾りを渡してから三日ほどが経過していた。この三日間、宋江は楊志と前とは違った理由でほとんど話ができていないままでいる。というのも、あれ以来、楊志は自分と顔をあわせるたびにさっと目をそむけて逃げてしまう。多分、恥ずかしいのだろう、ということぐらいは宋江でもなんとなくわかった。自分も程度こそ違えど似たような感情を抱いているし、第一にして楊志の顔はいつだって真っ赤だ。


 しかし、このぬるま湯のような状況がいつまでも続くわけでもない。楊志と自分の距離は少しずつ近づいているし、それがゼロになるのはそう遠くのことではない気がした。


 宋江は自分の身の振り方についてそれまでに結論を出すべきだと思っている。いざ楊志が自分を求めてきた時にだらだらと何の公算も無いまま、それに応じてしまうことはひどく下劣な行為のように宋江には思えたのだ。


「宋江」


急に呼びかけられたことに心臓を跳ね上がらせる。呼びかけてきた声の主は戸口から心配そうに自分を覗き込んでいる。林冲(りんちゅう)だった。


「どうしたんだ? 腹でも痛いのか?」


自分の格好が腹をかばっているように見えたのだろう。宋江は慌てて立ち上がるとなんでもないことを示すように笑ってみせた。


「いえ、そういうんじゃないです。熱いからちょっとひんやりしているところにいたかっただけで」


「ふむ」


と林冲は納得したようなしないような曖昧な相槌をもらした。


「若い男が昼間から部屋でぼんやりとしているのはいささか不健康だな」


「はは、確かに」


「だがたまにはそういうのもいいかもしれない」


そういうと林冲は宋江が座っていた場所にすとんと腰を下ろした。


「君も座ったらどうだ? 私の隣が嫌でなければ」


「そういう言い方をして断る男はいないと思いますよ」


「うむ。断られると困るからそういうふうに言ったのだ」


林冲に楽しげに笑われて宋江は言われたとおり彼女の隣に腰を下ろした。


「なるほど、これは確かに冷たくて気持ちいいな」


石の壁に背中をくっつけながら林冲はそう呟く。


「ええ、でしょう。だから一回おちつくと中々出てこれなくなっちゃって」


宋江が相槌をうつと、林冲は声の調子を変えないままに言葉を続けた。


「そういえば、故郷に妹がいると言っていたな」


「? はい」


突然、話題が変ることに宋江は少し驚きながらも返事を返す。


「今更だが、妹さんは大丈夫なのか? 面倒を見てくれる人がいるという話だったが」


「ええ、多分、呉用(ごよう)さんていう人が動いてくれてると思います」


「呉用……手紙を書いたのもその人宛てだったな」


「はい。頼りになる人ですから。もう一人、晁蓋(ちょうがい)ってのもいるんですけど、こっちは腕っ節だけの人間なんで……」


「ほう」


と林冲は興味深そうに息を漏らした。その反応に宋江は林冲がこの国のトップクラスの武人の一人だということを思い出す。


「あ、えっと、その、林冲さんの方がきっと強いかもしれませんけどね、あはは……」


「そう、気を使うな。まあ、その晁蓋なる御仁がどれほどの実力なのか、武人として気にならないといえば嘘になるが……私が興味を抱いたのは君の表情だ」


「僕の?」


「秦明も言っていたが、君はその二人の事を話すとき、とてもうれしそうな表情をする。私も今、そう思ったよ」


「そういうことを言われるのはちょっと恥ずかしいです」


「はは、すまんすまん。からかうつもりは無かったのだがな」


朗らかに笑って林冲は宋江の頭に手を置く。からかうつもりはないのかもしれないが、自分の心根を見透かされたようで少し宋江は落ち着かなかった。


「妹の世話を任せている、ということはその呉用という人は女性かな?」


「ええ。あ、晁蓋は男ですよ」


別に隠すことでもないので宋江は頷く。


「ふむ、でその呉用という人については君はどう思っているのだ」


「へ?」


いきなり明後日の方向に話題が飛んで今度こそ、宋江の思考が固まった。


「そ、それはどういう?」


「楊志とは仲直りできたのだろう」


と林冲は宋江の問いを無視してまた脈絡の見えない話をはじめた。しかたなく宋江はこくりと頷く。


「しかし君の顔はどこかうかないままだ、というよりより深刻になったようにも思える」


「それが呉用さんと何の関係があるんです」


挑むように尋ねると林冲はますます愉快そうに笑った。


「はっはっは。いやいや、仲直りしたのに君の顔が浮かないのは何故だろうと思ってね。一つ思いついたのが君にもう、心に決めた人がいるのではないか、ということだった。秦明から聞いた話とあわせると、それは君の故郷にいる女性かと思ったのだよ」


少し得意げに林冲は自信の推理を語って聞かせてくる。


「まあ、あくまでおもいつきでしかなかったのだが、君の反応を見ると、どうしてどうして中々的を得ているのではないかと自画自賛したくなる」


「呉用さんとはそんなんじゃないですよ」


宋江は頬を膨らませて答えた。


「それに呉用さんは晁蓋さんの幼馴染ですからね。同じ村でずっと過ごしてきた仲のいい二人なんですから、もし僕がそういう感情を持ってたとしてもあまり関係ないと思いますよ」


「ほうほう」


と林冲は納得したかのようにうなずいて見せる。


「で、君は彼女の事をどういうふうに思ってるのだ」


面白がるように林冲は同じ言葉をもう一度発した。


「知ってどうするんですか。そんなこと」


「何もせんさ。まあ、楊志にとっては少し厳しい戦いになるだろうが私が口を挟む事柄でも無いしな」


宋江は林冲の顔を盗み見るようにちらりと見上げた。にこにこと笑う彼女は魅力的ではあったろうが、今この場ではどこか得体のしれない薄気味悪さをかもし出している。


 宋江は一回だけ息を吐くと正直にありのままを答える事にした。


「きれいな人だし、頭もいいし、頼りがいのある人だと思ってますよ。これでいいですか?」


「こらこら、そう尖るな」


林冲はたしなめるように言うが、宋江は憮然としたままに答える。


「そんな話題に踏み込まれたら誰だってこうなりますよ」


「ふむ。少々つつきすぎたことは謝ろう。しかし、そうなるとだ、宋江。君はどうしてそんなに憂鬱そうな顔をしているのだ?」


その問いに、宋江は沈黙を選ばざるを得なかった。宋江が何も言わないのを見て林冲は言葉を続けてくる。


「本来他人が口を出すような問題ではないのだろうが……なんというか楊志の幸せそうな顔と君の複雑そうな顔を交互に見ていると、どう考えても良い事が起きそうに無いのでな」


「すみません……」


「謝るようなことではない。むしろ謝るべきなのは他人の問題に土足であがりこんだ私のほうだろう」


林冲は宋江から視線を外して言葉を続けた。


「楊志はいい女だぞ。真面目だし、礼儀もわきまえてるし、何より一途(いちず)だ。だがそれだけに不安定でな、悪い男に騙されたら、一緒に破滅しそうな危険もある。だから君のような男がもらってくれればいいと思うんだが」


なんと返答していいかわからずに宋江が顔を伏せると、林冲は破顔して、宋江の肩を叩いた。


「すまないな。少し卑怯な言い方だった。忘れてくれ。私のカンがあたっているかどうかはともかく、君には楊志の気持ちに素直に応えられない事情があるのだろうからな。それを無視してまでどうこうしろとはさすがに言えんしな」


「林冲さん……」


なんだか少し申し訳ない気持ちになりながら、宋江は林冲を見上げた。


「だが、その上で君には一つだけお願いしたいことがある」


「なんでしょうか」


「楊志のことを信じてやってほしい」


「……どういう意味ですか?」


「君も気づいていると思うが楊志は君の事が好きだ」


宋江は思わず林冲から視線をそらす。改めてそういうことを面と向かって言われるのはやはり、気恥ずかしいものがあった。


「私が信じて欲しいのは楊志のその気持なんだ。宋江、君が悩む理由は知らないが、それは楊志には話せないものなのか? あいつなら君の事情に耳を貸してくれるだろうし、それがどんなものであったとしても、君にひどいことをしたりはしないはずだ」


その林冲の言葉に宋江ははっと気付かされた。


 自分は話すべきだったのだ。自分が抱えている元の世界への執着を。それが彼女の気持ちに対して自分が素直に喜べないことになっている理由を。


 それをしなかった理由は何より、自分のこの不思議な体験を彼女は信じてくれないだろうと無意識に考えていたからだ。それは確かに突飛な話であるし、結局のところ、楊志の気持ちより優先するものが自分の中にあるという意味で、彼女はいい気持ちはしないだろう。それでも話すべきだったのだ。楊志は、彼女は自分の心の中の気持ちを素直に自分に見せてくれたのだから。


「林冲さん」


「ああ」


林冲は、宋江が何かの決断をしたのをその瞳の強さから察したようだった。


「僕、一回楊志さんと話をしてみます」


「そうだな。それがいいだろう」


「ええ、ありがとうございました」


宋江はそう言うとすっくと立ち上がった。


「早速行くつもりか?」


「ええ、あんまり女の子を待たせるのも良くないと思いますから。とは言ってももう結構長いこと待たせちゃいましたけど」


「いい心がけだ」


冗談めかして言う宋江に林冲は軽く笑う。と、その時、宋江の部屋の扉の向こうから遠慮がちに声がかけられた。


「宋江くん、いるかしら?」


「……秦明さん?」


宋江が扉を開けるとそこにはひどく気まずそうにこの屋敷の主が突っ立っていた。



 






「なるほど、こちらが噂の旦那様ですか」


「だから、それは根も葉もない流言だって言ってるでしょう」


宋江は秦明の屋敷の応接間に連れて来られていた。自分と秦明と相対するように小柄な少女が椅子に座っている。桃色の短い髪に黄色の大きなリボンをつけている。顔のサイズにあわせたように可愛らしい目鼻立ちをしているが、肝心の瞳が眠そうな三白眼でその少女の雰囲気を十歳ほど年かさに見せていた。


「ああ、どもども、花栄って言います。お見知り置き……は別にいいや」


苛立たしげな秦明を無視して花栄と名乗ったその少女は宋江に軽く手をあげてきた。


「はあ、ど、どうも……あの、それで旦那様って?」


花栄の呟きの意味がわからず、傍らにいる秦明に助けを求めるように問いかけると、秦明は少し言いよどんだ。それを見て、というわけではないだろうが花栄が口を出してくる。


「ええと、宋江だったね、君が秦明様と結婚するという話で町はもちきりだという話だ」


「はい?」


今度こそ、本気でわけがわからず秦明を見上げると彼女は深く長いため息を付いた。


「前に、ほら、二人で町に出かけたことがあったでしょう。あれからどうもそこに尾ひれや背びれがついてしまったみたいで……」


「ああ……」


なんとなくあの時の大通りの商人たちの威勢の良さを思い出して宋江は納得してしまった。


「そうだねぇ、噂だとなんか大金持ちの息子だとか、武術の達人とか色々言われてるけど……実際どうなの?」


「えーと、残念ですけど、そのどちらでもないですね」


宋江は思わず苦笑してそう答える。


「ふーん、秦明さん。一体どこが良くてこの男を選んだの?」


「だから事実無根だと言ってるでしょう? もう……」


秦明は額を指で抑えながらそううめいた後、宋江に向き直った。


「ごめんなさい、宋江くん。こんな変な話に巻き込んでしまって。あの通りの人達も悪気は無かったんでしょうけど……」


秦明が頭を抱えながらそう言っているのを見て今度は花栄が声を上げた。


「まあ、あたしも半信半疑だったところがあるんですけどね、あの黄信が言うもんですからまるっきり嘘ってわけでもないのかな―と思ってたんですが……」


「え? 黄信が?」


意外そうに秦明が声を上げる。


「黄信……ってどんな人なんです?」


宋江が傍らの秦明に尋ねると彼女は複雑な表情を浮かべた。


「花栄と同じく私の部下なんだけど……こいつと違って生真面目な子よ」


「はあ……」


宋江はどう相槌をうっていいものか、わからなかったが、こいつ呼ばわりされた当の花栄は気にする風でもなく茶をすすりながら口を開いた


「秦明さんが言いたいのは、要は根も葉もない噂を広めて面白がるような趣味の悪い人間じゃないってことだね」


「何考えてるのかしら、あの子ったら」


どうやら黄信という人物に対し、この場の二人はそれなりに信用をおいているらしいと宋江は推測した。ついでに言えばこういった騒動を巻き起こすような人間でもないらしい。だからこそ、二人は今こうして困惑しているのだろう。


「まあ、真偽が確認できたんならあたしはもう帰りますわ。これは助言ですが、噂をひっくり返したいのならお早めに動いた方がいいですよ。黄信のやつ、やたらと張り切ってましたから、あのままだと今日中には政庁中に広まってるかもしれません」


「え? あなた手伝ってくれないの?」


立ち上がった花栄に対して、秦明がすがるように声をかける。


「いや、あたし、これから一仕事しなきゃいけませんし、それ以前に別にどうなっていもいいですし」


「は、薄情ものー!?」


あっさりと言い切る花栄に秦明が哀れっぽく声を上げるが花栄はあっさりと扉を閉めた。


「く、ま、まさかこれほどまでに冷たい人間だとは……まあ、前々から思ってたけど……」


ショックを受けているんだか受けていないんだかよくわからない呟きをもらしながら秦明はがっくりと膝を突く。


「あ、あの、大丈夫ですか」


「ええ、ありがとう。平気よ」


宋江が手を貸すと秦明はあっさりと立ち上がった。


「宋江くん。私はとりあえず政庁に行ってさっき話に出た黄信っていうのを止めてくるわ」


「は、はい。僕も一緒に行った方がいいですか?」


「いえ、もうこうなってしまったらそれは逆効果よ。それよりもこんなことが楊志さんの耳に入ったら大変だわ。あなたが事前に行って説明しておきなさい」


「は、はい」









 秦明の屋敷を出た後に、花栄は外で待たせていた従者と共に町の外にある門へと向かった。本来そこへ向かうために花栄は庁舎を出てきたのであり、秦明の屋敷によったのはついでに過ぎない。


(あれが宋江か……)


花栄はあったばかりの青年の姿を脳裏に思い浮かべる。噂が正しければ年齢は十六だから自分より三つ年下ということになる。


(まあ、善良そうではあるかな……)


短い会話で察したのはその程度のことだが、花栄は元よりその噂の人物について大した興味を抱いていたわけではなく、宋江の顔はあっさりと掻き消えた。


(それよりも、秦明さんの結婚が事実として語られている方が問題だよね。……先走る奴がでなけりゃいいけど……)


秦明が結婚するということは、彼女が軍を退職するということであり、当然、その後を引き継ぐ人間が出てくるわけだ。花栄にとって問題なのは、その新しい上司とは仲良くやれそうにない、ということである。


(まあ、いざとなったら軍をやめればいいか。そしたらどうしようかな。気楽な物見遊山でもするかな)


元々、軍の立場にそれほど、執着があるわけでもない。秦明という上司の理解のおかげでそれなりに楽しく仕事をしてこれたが、それが変って新しい上司とそりが合わなければあっさり止めてしまえばいい。そんな結論に達した頃、花栄は目指していた城門に到着した。先に政庁から出発させていた自分の部下がそこにたむろしている。


「ほらほら、そろそろ若様が、到着するんだからきっちり整列しておきなさい」


花栄がそう呼びかけると、兵士たちが気の無い返事をしながらのそのそと動き出した。そして、彼らが整列するタイミングを見計らったように、地平線のかなたから夕日に照らされた一群が近づいてきた。


 門からまっすぐこちらにむかってくる一群を目に捉えて花栄は馬を下りた。花栄の立場を知るものがいれば彼女の行動を不思議に思ったろう。花栄はこの町の軍事組織で秦明に次ぐ地位の持ち主であり、その彼女が下馬してまで出迎える人間は、秦明以外にはいないはずだからだ。


 集団の先頭にいる青年は自慢げな顔をして、ゆっくりと自らを見せびらかすように、門に近づいてきた。体格もそれなりにあり、栗色の毛並みのいい馬と豪奢な鎧を来た彼はそれなりに見栄えのするものだった。


「出迎え、ご苦労である」


と仮にも上司にある花栄に対し、青年は不遜とも言える態度を取った。だが花栄はそれについて口うるさく反論しようとは思わない。そう遠くないうちにこの青年はその態度を取っておかしくない人間になるのだし、挨拶ひとつで目をつけられるような馬鹿らしい真似もしたくなかった。


 花栄は応じるように拳と手のひらを胸の前で合わせる軍隊式の礼をとり、まっすぐにその男の事を見上げて口を開いた。


二竜(にりゅう)山の山賊退治、お疲れ様でした。劉高(りゅうこう)将軍」

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