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Enders war 作者:急式行子
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1 宮廷魔法使い任命試験

挿絵(By みてみん)
 彼を見た者はまず緑色のワニだのトカゲだのを連想しがちなのであるが、細かく追及するのであれば、彼はドラゴンの種族に分類される。
ただ、人間のように二足歩行し、かつ人間とおんなじ言葉を話すものだから、人はついつい区別に迷ってしまうのだ。なさけ程度の翼はあるが、空高く飛んだことは両前脚の六本の指で数えるほどしかない。当の本人は自分のことを、ドラゴンのカワをかぶった人間、もしくは、人間のふりをしたドラゴンだと考えている。あいまいな位置ではあるものの、きちんと自我を持っているから、よく不思議に思われてしまう。この頃は、人間のふりをしたドラゴンのふりを演じているドラゴンだと自負するようになった。名前はかねてよりファーガスと名乗っている。
 ファーガスの目に、ふたりの男が映っている。
 なにやら罵りあい、果てには片方がもう片方の左胸に剣を突き刺した。あれはレイピアである。倒れたほうは黒髪だ。真紅のコートの色が、さらに深い色の染みをつくっていった。諍いは長時間に及んでいたらしく、刺したほうもやがて膝から崩れ落ちると、肩で息を整え始めた。よくよく見れば、刺したほうは赤子を抱いているではないか。
「ああああッ!」
 その腕のなかの赤子が眠っているにもかかわらず、刺したほうは鋭く雄叫びをあげた。金髪はすでに乱れきっている。ファーガスは、錯乱している金髪の男と、赤子と、絶命した男とをいっせいに瞳に映しながら、ひとつの終止符をたしかに確認した。

 まっさらな青空に、一頭のドラゴンが翼を広げながら旋回していった。場所は王都上空である。
 王都は王国一の規模を誇る大都市とはいえ、城下町の郊外ともなれば、そこに住む人々はつつましやかに暮らしているものだ。農地を覗けば、イモの収穫時期を迎えた農民がにこにこと畑の土を踏んでいた。麦わら帽子をかぶった年寄りが、ぽん、ぽん、ぽんと土からイモを飛び跳ねさせる。跳ね出したイモをそのまま宙に浮かせたまま、そこへ新たな種をまた、ぽん、ぽん、ぽんと土に飛び込ませる。からだの不自由な年寄りは、こうした、魔法による農作物の栽培をおこないながら生活している。種を含んだ土をたたく手は、光り輝く手袋であった。

 王都マグナキャッスルにそびえたつ城は一風変わっている。
 ところどころにコーンのような塔が突き出ている石造りの城を、ドラゴンの一種である巨大な岩トカゲが抱え込むようにしている。高いところでは四層ものフロアが重なった城を、ぎっしりと後ろから抱えるようにしている岩トカゲは、あまりにも大きい。そのてっぺんまで見上げるには快晴でなければ難題だ。あたまを突き出して天を仰ぐ岩トカゲの鼻の先あたりまでになると、自ずと標高が高くなり、雲に隠れて雨に降られることが多いのだ。
 岩トカゲの喉から胸にかけてが王族の居住区となっている。礼拝堂から医務室に至るまで、王族は衣食住のすべてをここでおこなう。
 ちなみに岩トカゲというのは、このドラゴンのことを呼ぶ。全身がごつごつとした岩肌であるからだ。翼は持っていないので、どんな角度で見ても岩トカゲと呼ぶほうがしっくりくる。
「ねえ、聞いた?」
 王族の居住区の最下層から岩トカゲの足まで続く王立魔法学園は、昨年に引き続き、今年も国家試験の季節となった。昨年はじつに八年ぶりの試験開催とあって、国中から志願者が募り、学園敷地内には生徒も教師陣も、さらには人脈作りを目当てとした貴族や政界の大物すらひっきりなしに行き交った。
 ところが今年は至って静かである。
 自習室の前の廊下には、閑古鳥が声高に鳴いてやろうと、ひっそり窓辺へと訪れていた。
「今年の志願者、たったひとりだって!」
 噂好きの女生徒数人が肩をすくめて吹き出す。彼女たちの視線の先には、国家試験志願者が控える自習室へ入っていく教師の姿があった。

 およそ三十人の生徒が自習できるように想定された自習室にはたったひとりの女生徒がいる。茶色のボブヘアのあたまを横長の机に突っ伏し、すうすうと寝息を立てている。彼女がこうしてから、とうに一時間が経過しているだろう。自習していた気配はない。
 彼女の頭の横には、赤い赤いとんがり帽子が置いてあった。帽子の正面にはなぜかドラゴンの顔がある。一見すると大きな両目と口、鼻、そして白いツノがついただけのただの帽子に見えるが、これでも命ある、アギという名のドラゴンである。事情があって、いまは頭部だけの存在だ。アギと女生徒が着用しているマントの色は同じである。
 アギの鼻からは鼻ちょうちんがふよふよと膨れていた。アギもまたお昼寝の時間らしい。

 さて、彼女たちの前にはじつは、五分ほど前からひとりの男教師が立っている。
 年齢は二十六。眼鏡をかけ、簡易的ではあるが、黒い髪をセットした彼は今年の国家試験の担当主任を務めることになったのだが、今年の志願者はたったひとりだけだという知らせを受けてからは、非常に落胆していたものである。そして当日、当の志願者はこのざまだ。溜め息をつかざるを得ない。
 彼が脇に挟む書類には、目の前に眠る、ベル・テンという女生徒の名前が記されている。
「ベル・テン。まもなく試験開始時間だ。起きなさい」
 教師が自習室を訪れてから初めての言葉を口にした。
「……ベル・テン。寝てちゃだめだ。起きなさい」
 ふたたび目の前の女生徒の名前を呼ぶ。
「ベル! 起きなさい!」
 再三の呼びかけで、ようやくベル・テンは目を覚ました。教師はついでに、右の人差し指でアギ特製の鼻ちょうちんを勢いよく突き刺した。
 宮廷魔法使い任命試験の開始時刻である。教師は眼鏡の位置を整えた。

「……今年度は王位継承権順位第五位、エルスト王子付きとなる宮廷魔法使いの任命試験である。魔法学園の卒業試験も控えている最中に大変だとは思うが、エルスト王子のため、全力で臨んでほしい。……ベル、ひとの口上はあくびをせずに聞くように」
「先生……質問があります」
 いまだに睡魔が去らないのか、ベルは片目をこすりながら質問する。
男教師はひとつ咳払いをした。
「はい、何でしょう」
「試験って、学園ではおこなわないんですか?」
 ベルはきょろきょろと辺りを見回した。あたまにはアギをかぶっているので、アギもまたベルと同じように周囲の様子をうかがう。
「ここ、王族の居住区ですよね」
 ベルとアギ、そして男教師は王立魔法学園区間から階段をのぼり、王族の居住区へと移動していた。
時おり使用人たちとすれ違ったのだが、みな物珍しげにベルとアギを見たかと思えば、ああ、と納得したように頷いていた。今日が国家試験日であると、ほとんどの使用人が忘れていたようだった。
 いまは扉の前に佇んでいる。なんらかの部屋であるらしいのだが、ベルとアギには不明だ。
「そのとおり。試験会場はここだ」
「じゃ、さっさと入ろうや」
 アギが言ったそばからベルは扉のノブに手をかける。
「待った」
 そのベルの手を男教師が止めた。
「そうなんだが、じつはそうじゃないんだ」
「どういうことです?」
 不思議そうに手を引いたベルは、控えめにノックをする男教師の横顔をじっと見つめる。
 男教師のノックのあと、扉の中からひとりの老人が現れた。おとなしげで、どこか上品な雰囲気をまとった老人だ。頭部を覆う白髪をていねいにうしろへ流している。
「ああ、見えられましたか」
 老人はにこやかにベルとアギにあいさつをした。
「ベル様とアギ様ですね。わたくし、エルスト様の執事でございます。本日はよろしく」
「本日、というと?」
 ベルは首をかしげた。
「本日の試験会場はここなんだ」
 男教師は言った。
「試験官は私と、この執事。試験内容は、エルスト王子を部屋の外に出すこと。日付が変わるまでにクリアすれば、みごと試験合格だ」
「いやいやいや。意味わからへん。さっぱりやで」
 アギの言葉は同時にベルの気持ちを言い表した。
「わたくしからご説明いたします」
 名乗りをあげたのは執事だった。彼はそっと扉のすみに佇む。
「この扉の先はエルスト様の私室となっておりますが、じつはエルスト様は物心ついてからずっと、ご公務以外ではめったにお部屋からお顔をお出しになりません」
「ははあ、ようするに引きこもりか!」
「こらっ。アギ、口をつつしめ」
 ずばり言い放ったアギに、男教師はすかさず注意した。
「……ですので、国王陛下ならびに関係者による協議の結果、国王陛下は、今回の国家試験はエルスト様を部屋から呼び出した者に合格を与えるようにと決定なされました」
「そりゃまたえらいザツな取り決めやな〜。大丈夫なんか? まがりなりにも王子の側近の任命やで」
「アギ、つつしめ」
 またも男教師の眼鏡が光る。
「条件はひとつだ」
 男教師は二度目の咳払いを聞かせた。
「魔法を使わないこと。以上」
「ええーっ! 使っちゃだめなんですか?」
 ベルは男教師と執事に尋ねた。ふたりはこくりと頷いた。
「魔法でしかエルスト様を連れ出せない魔法使いなど、エルスト様付きの宮廷魔法使いにはふさわしくございませんので」
 この執事の言葉の真意は、ベルとアギには見えなかった。

「では、はじめ」
 男教師の言葉を合図に、ベルはこぶしをつくった。
「エルスト様〜! 初めまして、私、ベル・テンと申しまーす! 年齢は今年で十七歳です。あっ、エルスト様と一緒ですね! 超奇遇ー!」
 ベルのこぶしは扉を激しくたたいている。
「私、エルスト様と会いたいなー! 王都に住んでいるけど、いちどもお顔を見たことないんですもの! ……」
 するとベルは突如口を結び、そっと扉に耳を当てた。中からの返答を待っているようだ。
「だめだ、まるで返事がない……アギ、交代」
「よっしゃ」
 ベルは己のあたまに居座るアギにバトンを渡した。
「あー、もしもし。わたくし、ベルのパートナードラゴンのアギと申しますゥ。あ、王子、ドラゴンってご存知ですよね? あの、例の不老不死のヤツですわ。そう、いにしえの。わたくし、それなんですけどね、ええ。年齢はざっと数えて二千歳くらいですぅ〜」
 やたら大げさな物言いである。
「わたくし火の魔法が得意なんですけどもね、今日はぜひとも王子にステーキのひとつでも振る舞いたいなと思ったところなんですが、あいにく魔法が禁止されてもうて、叶わんことになりました。……って、そもそも肉がありませんがなー! 結局、ムリー! ワハハ」
「ワハハー!」
 ベルとアギは揃って笑った。
「……あかん、なかなかしぶといで、これ」
 が、次の瞬間には真顔になる。
「今、ちょうど午後の十二時やから、試験終了まであと十二時間やろ。あと十二時間、シカト耐久できる? ワシ、ムリ!」
 アギは早々にリタイアの意思を窺わせた。扉の中からはひとことも返事がない。次第にベルも難しい顔になり、どうしたものかと腕を組んだ。そのときであった。
「……結局、ムリ……」
「ん?」
 ベルは慌てて扉に耳を傾けた。
「結局、ムリなんだよ……」
 扉の中から、確かにはっきりと声が聞こえた。きっと王子のものに違いない。アギはパッと目を輝かせる。ベルもまた、口もとを緩ませた。だが、王子はなんのことを言っているのだろう。
「君たちは、魔法使いなんでしょ?」
「そ、そうです! 王子付きの宮廷魔法使いになるために、ここに来ました!」
「僕の魔法使い……いいよね、君たちは、魔法を使えて……」
「え? どういうこと?」
 王子の言葉の意図がさっぱり掴めず、ベルは困ったように男教師と執事のほうを見た。
「コホン。わたくしからご説明いたします」
 執事が佇まいを正す。
「じつは、エルスト様は生まれつき、魔法を使えないのです」
 それが糸口になり、執事は淡々と語りはじめた。
「わたくしたち人間は生まれながらにして、大なり小なり、魔法を使う〝ちから〟、つまり魔力を秘めていますでしょう。簡単な炎魔法ならわたくしでも使えます。ですが……エルスト様は、生まれたときから、魔力をお持ちではないのです。これは歴史の古い王国でも異例のことでありました」

 ベルたちの去った自習室前の廊下では、相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
 噂好きの女生徒たちもまた相変わらずおしゃべりに夢中だ。
「今頃、試験中かしら」
「考えただけでおそろしいわ。魔法が使えない王子の側近になるなんて!」
 くすくすと笑う。
「だって、そうよね。いくら城勤めになると言っても、魔法が使えない王子の、一生面倒を見るなんて。誰だってイヤに決まってるわ!」
 談笑のつもりが、彼女たちの笑い声はついつい高らかなものになっていった。その声は王子の私室の前にいるベルたちの耳にはとうぜん、届かない。

「し、知らなかった……」
 一方、執事から話を聞かされたベルは、がっくりとうなだれていた。
 人間にとって、魔法のちからは生活に欠かせないものである。年老いた農民ですら農作業に魔法を使用しているくらいだ。なのにまさか、王国王子が魔法を使えないだなんて、にわかには信じがたいことであるが、こうして王子の執事が口にするくらいだから真実なのだろう。
 さて、問題は王子を部屋から連れ出す方法だ。この場において魔法を使えないのは、王子もベルもアギも同じなのである。
「ウーン……」
 ベルは顎に手を当て、じっくりと考える。どうやら強引な言葉での誘導では難しいようだから、行動で誘導すべきであることは、ベルにもなんとなくわかった。しかし、
「こちらから勝手に扉を開けることは、失格、と判断します」
 以上の忠告が、ドアノブに手をかけた瞬間に執事から返ってくるのだ。ベルが無断で扉を開けることは失格らしい。試験に合格するには、王子が王子の手で扉を開けるか、王子の了承をもらってベルが扉を開けるかのどちらかしかないのである。困ったものだ。
「それなら!」
 何かを閃いたらしいベルが、ぱちんと指を鳴らした。
「先生、ちょっと外出してきても?」
「試験時間内なら、いくらでも」
 男教師は許可を出した。
「それなら、わたくしが同行いたしましょう」
 執事がにこやかに提案する。
「外でも、魔法は禁止ですから」
「わかってますって」
 見張り役ということらしい。さっそく、ベルとアギは執事を連れて歩き出した。
「どちらまで?」
 王族居住区を抜けて王立魔法学園区へと抜け出す道中、執事が尋ねてきた。
「郊外です。王都の!」
 途中、例の噂好きの女生徒たちとすれ違うと、彼女らは興味津々といった顔つきでベル一行を眺めていた。

 王都の中心部に位置する岩トカゲから出ると、すぐ近所には貴族たちの館が立ち並んでいる。屋根の上にドラゴンの石像があったり、庭に甲冑着の兵士の銅像があったりと、どれもけっこうな装飾が施された立派な佇まいなのであるが、そのひとつひとつの名前を呼べるほどベルは貴族の顔に詳しくはない。もっとも、ベルの持つ入城許可証では貴族の館の敷地へは入ることができないし、赴く用事もないので、とくに興味はない。城下町への近道をおぼえた程度だ。
 その城下町への近道を抜けていくと、まず教会や医院がある。ニス塗りの瓦屋根の医院は二階建てなのでこじんまりとしているが、その向かい側にある教会の全貌を見るためには首を痛めるほどに見上げなければいけない。なんだかよくわからない、アーチのついたノッポな建物だとベルはつねづね思っている。ちなみにてっぺんには時計塔をかねた鐘があり、王立魔法学園にも、時おり音色が聴こえることがある。
 このあたりは石畳の道がきれいに続いているため歩きやすい。これが王都のはじっこ、つまり郊外地区にもなれば不揃いに集めた石をただ埋め込んだだけの、じつに乱雑な道になるのだ。何度つまずいたことだかわからない。
 背後から鈴を鳴らしながら馬車が現れた。見れば空車である。乗れば楽だが、馬車賃は高い。ベルは諦めるまでもなく、徒歩を選んだ。執事も黙々とベルの斜めうしろを歩いてついてくる。足腰は丈夫のようだ。涼しげな顔は崩す様子はない。
 図書館の角を曲がると、色彩豊かな通りに出る。市場の通りだ。赤や青、黄色といったショップシェードが客を引いている。ここは比較的安価な店が並んでおり、上流階級向けのショップはこの道の反対側に恭しく並んでいる。嬢ちゃん、寄っていきなよ、あらヘンテコなドラゴンだねなどとベルとアギに向かって声をかけられるが、残念ながらいまは普段の買い出しではない。一軒ずつ手を振って断っていった。アギは何やら文句を返していたが、いつものことである。この曲がり角の裏路地を抜ければ、民間の居住区だ。

 民間居住区に差し掛かると、ちょうど洗濯の時間なのか、二階のベランダからは服をはたく音がちらほらと聴こえてくる。街の子どもたちはおそらく広場で遊んでいるのだろう、すれ違うのは主婦や老人ばかりだ。
「もうすぐですから」
 ベルは執事に言った。もうすぐとは言われても執事はベルの目指す目的地を知らない。はあ、そうですか、とやはりにこやかに返事をするだけであった。二階のベランダから執事の頬へと落ちてきたしずくを、彼はごくさわやかに拭き取った。

 王都の郊外には農園地が広がっていることを、王都勤めの執事ももちろん知っている。だがまさかテン牧場なるものがささやかな農地を持っていることは、ほんのいままでは知らなかった。
 執事の目の前には柵に結びつけられた木彫りのプレートがある。そこには、〝テン牧場〟の文字がある。
「パパ、ママー! ニワトリいる?」
 驚いたものだ。ベルは、農民の娘だったのか。執事は母屋へと駆けていくベルの後ろ姿を追いはじめた。

 ごろごろと地響きのような音が鳴り響くが、これはけっして大地が揺れているのではない。あれからおよそ一時間半。エルスト王子の私室前にふたたび現れたベルとアギに、男教師は内心安堵した。
 いや、待て。男教師はゆっくりと歩いてくるベルらを二度見した。
 なぜベルは一輪車を引いているのだ。しかも、けっこう大荷物である。ごろごろと、城の廊下を鳴らしながらこちらへ寄ってくる。いましがた安堵した気持ちが、一輪車の奏でる騒音に重なって崩れ去った。
「よし、と」
 おそらく農作業用の一輪車なのであろう。タイヤには藁のくずや泥が付着している。
「さっ、はじめるぞ!」
 ベルはマントを脱いだ。黒のミニワンピース姿になるが、あたまには相変わらずアギを乗せたままだ。
 ベルは鼻歌なんてうたいながら、一輪車から簡易グリルキットを降ろした。男教師はまず頭を抱えた。組み立てられたグリルの鉄板はそうとう使い古した代物である。
 次にベルは、
「コケーッ」
 ニワトリを取り出した。男教師はたまらず執事の顔を見るが、彼は苦笑するばかりである。
 ベルに抱えられたニワトリは大きく鳴く。
「え……」
 扉の向こうからは、とまどいの声が聞こえた。
「なに? うるさいよ……」
「あ……そうですよね。うるさいですよね。それじゃあ……」
 ベルはおもむろにニワトリを羽交い締めにする。
「殺しますね」
 即座に、いとも慣れたしぐさでベルの手はニワトリの首を絞めた。男教師と執事は絶句している。
「……なにしたの?」
 ところが、扉を挟んでいると外の様子を把握できないのか、エルストは不思議そうに尋ねてくるではないか。まるで言葉の意味を理解していないようである。しかし、ベルは構わずに作業を進めた。
「エルスト様はチキンのステーキを食べたことは?」
「あるけど……」
「いまからそれを振る舞いますね」
 白目をむいたニワトリはあわれ鉄板の上に乗せられた。ベルは一輪車の荷物をまさぐり、エプロンを身につけると、さらに包丁とバケツを取り出す。そして、ひと思いにニワトリのあたまを落とした。

 ぼとぼとと血がバケツに落ちる音が耳に残っている。あれから、男教師と執事は黙ったままベルの手作業を眺めている。
 血抜きされたニワトリはすでに皮さえ剥がされている。あのバケツの中は、ひとときたりとも見たくはないものだと男教師は思ったが、一方執事は、万が一にも魔法を使っているともわからないのでと念のために確認していた。男教師に小さく頷いていたことから、どうやら魔法は使っていないらしい。その度胸は年の功だろうか。
 骨を取り除いて開かれた肉塊を、鉄板の下で燃える火が遠慮なしに焼いている。油は穀物性のものとのことで、これも執事が舐めて確かめていた。
「ハイ、ここで、肉が焼きあがるまでにソースを作りたいと思いまーす!」
 農家暮らしならば肉を切り落とすなどは日常茶飯事なのだろうか。ベルは元気だ。
「しょうゆと、砂糖と、お酒です!」
 小瓶に分配された調味料が鉄板の上に並ぶ。これらを適量、ボウルに投入した。
「これを……混ぜます……」
 トングでかき混ぜるさまはいささか乱雑である。
「味見します」
 ベルの小指にソースがついた。ベルはそれをぺろりと舐めてみると、
「……うっ、うまい!」
 やたらと大げさに額に手を当ててみせた。
「こっ、これは私の人生史上最高のうまさではないでしょうか! うますぎますね! ささっ、アギさんもご賞味あれ!」
「ハア、たかだか十七年の小娘人生やろ? そんで史上最高ゆわれても……」
 そう言いつつも、アギの舌はベルのもう片手の小指を舐めてやる。
「うっ……ウマ〜イッ!」
 芝居がかった声である。
「これはワシの二千年というドラゴン史上最高のウマさに違いあらへん! イヤもー間違いないですわッ。これ後世に残したほうがええんちゃう? ってくらいウマイ!」
「ちなみに原料はすべて魔法不使用です!」
「そんなまさかー!」
 といった小芝居を前に、男教師はさらに不安を募らせるが、しかしなるほど、この肉の焼ける音と香りはたしかにそそられる。血肉を見た時は胃のあたりに不快感をおぼえたが、少し焦がれた肉を目の前にすると、人間の食欲というものは正直に腹を鳴らすものだ。執事も羨ましげに鉄板の上を見つめている。

「あとは、肉が焼きあがるのと……食べてくれる人を待つだけだな〜」
 ベルの声がわざとらしく扉へ向けられるが、彼女の視線はあくまでも鉄板の上である。
「ねえ、エルスト様! 焼きあがるまで、エルスト様のお話を聞きたいな」
「……僕の話?」
「うん。どうして部屋からお出でにならないんです?」
「……みんな、ばかにするだろ。魔法が使えない人間なんて気色が悪いし、相手にしたがらない」
 エルストの声色から察するに、やや拗ねているものだと思われる。
「兄たちだってそうだ……魔法が使えないなんて人間に、この国の代表のひとりとして立てだって? どんな顔して民衆の前に立てばいいんだ」
 愚痴など、いままで誰ひとりとして聞いてやらなかったのだろうか。エルストの口調は日頃の鬱憤を晴らしたいかのごとく荒いものだ。
「結局、笑われて終わりだろ」
 ベルの瞳が扉を見た。
「エルスト様って……〝結局〟が口グセ?」
 思いもよらぬ指摘だったのか、エルストは言葉を詰まらせたようで、扉の中は静かになった。
「さっきもおっしゃいましたよね。結局ムリだって……」
 ベルは鶏肉を裏返した。
「ねえ、私たち、結局ムリなんかじゃ、ありませんでしたよ。だってこうして、ほら。ステーキを用意できてるんですもん」
「しかも、いっさい魔法は使ってないんやで。ワシがおるのにもかかわらず、や」
 お得意らしい炎魔法を披露できずに残念なのだろう。アギはどこか不本意そうに言った。
「私、魔法がなくても、こうやって誰かにごちそうできるんですよ。そして私にはとっても強いアギがいます。そんな私たちがあなたの隣にいれば、百人力ですよ!」

 扉の中はやはり静まり返っている。
 ベルとアギは、しだいに顔色を曇らせはじめた。だんだんと眉尻を下げるベルと、眉毛なんて生えちゃいないが、かろうじてイボのある眉をしゅんと下げるアギ。
「……しかたない」
 ふたりは揃って溜め息をついた。
「いくぞ……ベル」
「うん……アギ」
 互いの名前を呼びあった。もう望みはないか。男教師と執事は諦めの色を見せた。
 その直後であった。
「秘技!」
「〝鉄板にソース直がけ〟じゃあ〜!」
 ベルはボウルに完成させたソースを鉄板の上へといっせいに流し落とした。ためらいも遠慮もない。ただぶっかけたのである。
 とたんにソースが弾ける音が鳴り響く。忘れてはいけないが、ここは王子の私室の前である。使用人がせっせと磨いた廊下には無残にもソースが飛び散り、その熱気はやがて男教師の眼鏡のレンズを曇らせた。執事は煙たいらしく、咳き込んでいる。
 なんと、レンズにまでソースが飛び散ってきているではないか。男教師はまっさらなハンカチを取り出し、静かに眼鏡を拭いた。至って冷淡である。
 じゅうじゅうと奏でられる音色はステーキの完成間近を伝えている。ニワトリの血を拭き取った包丁を使い、ベルは鉄板の上で肉塊を切りわける。食欲の魔が喉もとまで来ているのは、ベルも男教師も、執事だって同じだろう。
 ごりごりと肉を切っていく。つややかな肉汁が溢れ出ており、なおさら欲を駆り立てられてしまうではないか。
 ムネ、手先、モモ、どれを取っても美味しいに違いない。包丁の刃先にまとわりつくカワをようやく千切り終えた、そのときであった。
「あ……エルスト様」
 執事の声だった。ベルははっと顔をあげる。
「エルスト……」
 男教師も彼の名前を呼んだ。あの金髪に青い目、わずかにくたびれた姿勢の少年は間違いなく王国のエルスト王子である。
「その……」
 ついに扉からいでました王子は、ばつが悪そうに、うつむき加減で言う。
「……お腹が空いて」
 これほどの興奮は久しぶりである。ベルとアギは勢いよく男教師と執事のほうを確認した。
 男教師は苦笑しながら頷く。
「午後二時……三十分。魔法使いベル・テン、本日の宮廷魔法使い任命試験、合格です」
 その隣で鳴らす執事の拍手は心から祝福しているようだった。

 本年度たったひとりの志願者は、本日をもって、王子エルスト付きの宮廷魔法使いになったのである。
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