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アリィ  作者: 慧子
6/22

生きてる痛み


世間はそろそろお昼時。


休日ということもあって、駅周辺は若者でにぎわっていた。


みんな古着を格好よく着こなしていたり、淡い色のワンピースの裾を優雅に揺らして歩いていたりで、綿パンにトレーナーの私は明らかに浮いている。


オシャレな彼や彼女たちはきっと、パジャマでもこんなダサいものは着ないだろう。


かまうものか、今の私にはオシャレなんて必要ないのだ。


まだ子供で、やせっぽちなこの体は何を着たって映えない。


いろいろ始めるのは、化粧がマナーになる年頃になってからで十分だ。


だいたいオシャレなんて自己満足の世界、絶対に必要なものじゃない。


そう、私は私でいい。



真新しい建物特有のまぶしさと清潔さに迎えられて、臆しながら店内に足を踏み入れる。


このドラッグストアは先日オープンしたばかり。


まだ一度も訪れたことがなかったので、どこに何があるのか分からない。


入り口からすぐ右手にある化粧品コーナーでは、若い女の子が群がって試供品をいじっている。


カウンターでは舞台メイクを彷彿とさせる厚化粧のお姉さんが、シマウマ柄のシャツを着たおばさんのお肌チェック。


苦手な空気だ。


私はできるだけそこから離れたところを歩いた。



探していたコーナーを見つけると、その雰囲気に圧倒された。


まるで別世界、違う性をいっさい寄せつけない神聖さが漂っていた。


私は女で、今日ここに立ち入る権利は得られたのだから遠慮することはないのだが、なんだか、とても居心地が悪い。


しかも、商品がバラエティに富み過ぎていて、私はどれを使えばいいのかさっぱり分からない。


一応『昼用』と『夜用』の、一番たくさん置いてあるものを手に取ってみた。


……恥ずかしい。


これって、「いま私は体調がブルーな日なのですよ」と公言しているのと同じではないか。


一人で頬を赤らめていると、横から熊のように太い腕が伸びてきて、私が手に取っているのと同じ『モノ』をつかんで引っこんだ。


振り向くと、めったにお目にかかれないレベルの巨大なお尻を揺さぶってカートを押していくおばさんの後姿があった。


……恥ってなんだろう。


拍子抜けしたら、ここに漂っていた神聖さがしおれた気がした。


私にそんなものあるもんかと思っていたが、たしかに胸に芽生えた『若者としてのプライド』というものが、おばさんと同じものを使うのを拒んだので、包装紙に可愛い花柄がプリントされた『超うす型』なる少々お高い品を買うことにした。



レジは混雑していた。


四台あるレジに、それぞれ四、五人は並んでいて、それはもう立派な人ごみだ。


私の大嫌いな人ごみ……でも耐えるしかない。


これがないと困るのだから。


気だるい空気にもまれていると、急に下着が気になってきた。


そういえば、家を出てからかれこれ三十分は経っている。


どうして私はベージュの綿パンなんてはいてきてしまったのだろう。


前にはあと二人並んでいる。


おばあちゃん、混んでるのは分かりきったことなんだから、お会計をいちいち小銭で出すのはやめてよ。


私は緊急事態なんだよ、自分のことばかりで周りがちっとも見えてない、見ようともない、だから歳は取りたくないんだ。


あせりが怒りに変わってきた、そのとき。


下品な笑い声が自動ドアを押し開けた。


大人になりつつある、しかしまだ幼い男子の声、しかも大勢。


あまりの大音量に、みんなの視線がそちらへ集中する。


私の視線も同じように声のするほうへ向けられたが、その姿を確認したとたん、体が硬直した。


声の犯人は、私と同じ中学、同じ学年のサッカー部御一行様だったのだ。


その中にはクラスメートの顔も見受けられる。


どうやら練習帰りにシップやテーピングなどを買いに来たらしい。


奴らは若さゆえの慢心に加え、集団になることによってさらに気が大きくなっているので、好き放題、大騒ぎ。


それに汗臭さもあいまって、店内にいる人たちはみんな迷惑そうに眉をひそめている。


私は手に持っている『モノ』を抱えてうつむいた。


よりによって、なぜ今ここで奴らと遭遇しなければならないのだ。


さっき恥という感情に疑問を持ったが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。


こんなものを買っているところなんて絶対に見られたくない、見られてはいけない。


もし見つかったら、学校でなんと言ってからかわれるだろう。


いや、直接言われることはなくても、きっと裏で何か言われるはずだ。


誰か、早く、早くここから逃がしてください。


奴らの声に背を向けて祈っていると、やっと私の番がきた。


商品と千円札を一緒に差し出して、会計が終わるのを待つ。


知らず知らずのうちに貧乏ゆすりなんてみっともないことをしていたので、あせる気持ちを抑えてじっとしていた。


「百十四円のお返しです」


店員の声に反応して顔を上げると、おつりを受け取り、さあトイレへ……と、袋詰めされた『モノ』を手に取ろうとして驚いた。


それは透明なビニール袋に無造作に詰めこまれ、中が丸見えだったのだ。


こういった類の商品は普通、中が見えないように配慮するのがマナー、常識ってもんじゃないの?


文句のひとつでも言ってやりたいが、そんな度胸はないので、精一杯に戸惑った顔で店員を見た。


レジのお姉さんは、まだまだ続くお客さんの列にすっかり冷静さを欠いてしまい、たどたどしい手つきで小銭をいじくっている。


どうやら、まだ研修中のようだ。


別に彼女の経験が浅いだとか、いま忙しいだとか、そんなの私には関係のないこと。


なのに、その必死な姿が痛々しくて声をかけられなかった。


私はしかたなく、サッカー少年たちから死角になっている道を探し、ビニール越しに透けたものを抱えてトイレに駆けこんだ。



間一髪だった。


経血が応急処置のティッシュを侵略して下着にまで攻め入り、ズボンを汚そうとする一歩手前で、なんとかしかるべき対処をほどこすことができた。


経験がなくても教えられなくても、こういう知識は知らず知らずのうちに不思議と身についているもので、『モノ』の使い方にはさして戸惑わなかった。


しかし、闘い抜いて赤黒く侵されたティッシュは凄惨の一言で、それにはやはり怯んだ。


これが人間の生理現象。


世の女性たちは、いくらそれを綿やらビニールやらで受け止めて普通を装っていても、実際は『その間』ずっと体液を垂れ流しっぱなしで過ごしているのだ。


どんなに科学が進歩しても、繁殖を望む限り、その不便を変えることは決してできない。


実に、動物的。


実に、野性的。


死んだ体をかろうじて精神で操っているような毎日を過ごしていた私には、この生き物臭さは、新鮮な発見だった。


私の体も生きていて、日々刻々と変化を続けているのだ。


そう思うと、血まみれのティッシュが私にとって価値あるもののような気がしてきて、胸が高鳴って、でもこの高揚感が異常であることは自覚できていたので、捨てられなくなる前にトイレに流した。


さよなら、私の生きてる証。


そして初めて装用したそれは、先ほどのティッシュよりよほど付け心地がよかった。


でも、ちょっとおむつみたい。


みんなこうして過ごしているのだし、これに慣れていかなければならないんだ。


くすぐったくもあるし、面倒でもある。


ひととおり感慨にふけったあと、トイレットペーパーをレジ袋に押しこみ中が見えないようにすると、私はやっと落ち着いた。


「今夜は遅くなる」、父がそう言っていたのを思い出したので、たまには豪華な夕食を買って帰ろうと思い立った。


これは、昨夜の父の心ない言葉へのいい当てつけになるだろう。


私は向かいにあるデパートへ行こうと決めた。



ドラッグストアを出ると、あのサッカー部御一行様が店の軒下で、そろいもそろってしゃがみこみ、買ったばかりのお菓子を食べ散らかしていた。


あまりの常識のなさ、見苦しさに思わず立ち止まると、ひとりが私の視線に気づいたのかこちらを振り向いた。


髪の毛を漫画みたいにツンツン立たせ、夏でもないのにこんがりと日焼けした、いかにもなサッカー少年。


そいつは、昨日の朝のホームルームで麻生先生にちゃちゃを入れていた、お調子者のクラスメートだった。


気まずい。


すぐに目をそらし、奴らに背中を向けて店の前の信号が青になるのを待った。


デパートに行くには、この横断歩道を渡るしかないのだ。


電光掲示板に表示されている待ち時間は、まだたっぷりあって気が滅入る。


視界がモノクロになっていく。


ただ、脳裏に焼きついたクラスメートだけは鮮明に色づいたままで、制服ではないダサい私服を着た私をあざ笑っている。


そんなわけない、それは被害妄想、あいつは私のことなんてこれっぽっちも気にかけてなどいない。


分かっているけれど、背後で笑い声が起きるたびに肩がすくむ。


だんだん持っているレジ袋の中まで見られているような気がしてきて、ついには、私が生まれて初めて装用したそれがズボン越しに浮いて見えているのではないか……ということまで心配になってきた。


(あいつ、いまアレだぜ)


(不細工のくせに、女気取ってんじゃねえよ)


一度気になりだすと止まらなくて、空耳まで聞こえてくる。


必死にトレーナーのすそを引っぱってお尻を隠そうとするが、それもやり過ぎると挙動不審で、私は顔を真っ赤にしながら耐えているしかなかった。


体が震えてきたところで信号が変わり、人が流れ出した。


私も浮つく足を一歩踏み出すと。


「あの人、うちのクラスの……」


空耳ではない。


間違いなく、背後から、そう聞こえた。


しかし、その続きを聞くのが恐くて、私は走って逃げ出した。


どうして、私ってこうなんだろう。



デパートも、当然のごとく混んでいた。


こんな日に、わざわざこんな場所に来るなんて間違っていた。


ちょっと欲を出して贅沢しようなんて思うからいけないんだ。


とはいえ、父への報復のつもりがその前に罰が当たった、なんて絶対に認めたくなくて、ここまで来たからにはとびきりの夕飯を買って帰らねば気が済まない。


ネガティブのうえに諦めが悪い、だから私は疲れるのだと分かってはいるけれども……。



デパ地下の低い天井の下、私は食料のために戦った。


押しのけられ、足を踏まれ、それでも大勢の人をかき分けながら進み、健康指向の惣菜売り場で「十種の雑穀とひじきのサラダ」と「海の恵みのパスタ」なんてオシャレなものを買ってやった。


満たされた気持ちで帰ろうとしたが、いくら田舎のデパートといえどもそれなりの広さがある。


私は道を間違えて宝飾品売り場に出てしまった。


明るすぎる照明に照らされ、ガラスケースに誇らしげに横たわる金、銀、プラチナ、パールにダイヤモンド……薄汚い中学生にはまぶしくて、目も開けていられない。


ああ今日は逃げてばかり、でも逃げるしかないんだ……悪いことなんてひとつもしていないのに。


強いて言うなら、この極度な自虐思考が罪なのかもしれない。


……なんて、相当病んでいる。


私は胸の奥でひそりと自嘲しつつ、エスカレーター横の店内地図で場所を確認し、早足で出口へ向かった。


その途中、見覚えのある後ろ姿が視界の端をかすめた。


あの背丈、白髪まじりの短髪、チャコールグレーのスーツ……どう思い返しても、その男性は父にそっくりだった。


でも今日は仕事だと言っていたから、もともとこんなところにいるはずない、という思いこみもあって、私は立ち止まらなかった。


なによりその男性の隣には、緩い巻き毛のスラリとした美人が寄り添っていた。


父が若い女の人に相手をしてもらえるわけがない。


だって、あんなに臭くてダサくて無神経なのだから。


きっと一瞬、他人が知人に見えただけ、よくあること。


私は深く考えずにデパートを出た。


そして、そこから一心不乱に歩いて家に着いたころには、そんな些細な出来事などすっかり忘れていたのだった。



その夜、父は予告通り帰らなくて、私はひとり戦利品の夕飯を黙々と食べた。


苦労して手に入れただけあって、非常に充実感。


人から見れば寂しい食卓かもしれないが、私には至福のひとときだった。


でも、それは本当に、ひととき、で終わってしまった。


なんとなく違和感のあった下半身が、徐々にしくしくと痛みだしたのだ。


腰がすごく重い。


股を無理矢理開かされるような感覚に襲われる。


これが、世に言う生理痛というものなのだろうか。


まさか自分がそんな体質であったなんて。


まったく予想だにしなかったそれは、この体をひどく痛めつけ、


私は現状を受け入れられないまま、せっかくの休日を終始ベッドの中で過ごすことになった。


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