#88 彼のいない場所
フレメヴィーラ王国、東部国境線。
魔獣街道沿いの砦につめ、魔獣の侵入を警戒していた騎士たちは、ふと差した影に気付いて空を見上げた。
逆光の中に浮かぶ、黒々とした巨大な存在。流れる風に帆をはためかせながら、その“船”は悠然と空を進む。
「ボキューズから飛空船だと? しかもあの印は……銀鳳騎士団が! 彼らが戻ってきたぞ!」
帆に記された紋章を見て取った騎士たちは、歓声と共に腕を振り上げる。
イズモを中心として、輸送型飛空船が整然と周囲に並ぶ。数ヶ月前にボキューズ大森海への調査飛行に旅立った船団が、今再び無事にその姿を現したのである。
森は終わりを告げ、眼下には砦と街道が拓かれている。文明の、人々の活動が息づく場所。
それを目にしながら、飛翼母船“イズモ”の船橋は、奇妙な静けさに包まれていた。
船員たちは長期にわたる調査飛行を終え、ようやく国許まで帰り着いたところだというのに、喜びを露わとする者すらいない。
その沈黙の中心は、船長席に座っている人物にあった。
背丈こそ低いものの筋肉質で頑強な体躯を、今は腕を組んで俯かせたまま身じろぎすらしない。親方こと“ダーヴィド・ヘプケン”は、ややあってゆっくりと顔を上げた。
「……ここまで、戻ってきちまったか」
呻くような呟きを漏らし、窓の向こうに広がる景色に目を細める。
そこには普段の勢いはなく、まるで彼という炉から火が消えてしまったかのようだった。
「ああ、戻ってこれた。全てが元のままではないが、我々は任を成し遂げたのだ」
隣にいた紫燕騎士団長“トルスティ・コスケンサロ”が、口を開く。
彼は紫燕騎士団に所属する飛空船の船長であるが、今は船団すべての指揮官としてイズモに同乗していた。
いかにも覇気に欠けたようすの親方であったが、彼は船長の役割だけは頑として譲らなかった。そのため、船長席は今も彼のものだ。
「このまま我々は、まず王城に向かい陛下に報告をおこなわなければならない。そちらは、私が請け負おう」
フレメヴィーラ王国の空に入ったということは、いずれやらなくてはならないことがある。
トルスティは、ぼうっとしたままの親方へと提案した。彼はすぐには返事をせず、しばし息を潜めるかのように沈みこみ。
「ああ。砦にいる銀鳳騎士団と……坊主の家族には、俺から話す」
やがて、意を決する。重く垂れこめた空気を載せて、船はフレメヴィーラの空を進んでゆく。
フレメヴィーラ王国が誇る飛空船団の帰還を受けて、王都カンカネンは大いに沸き立った。
飛空船はどれも目だった被害らしきものもなく、困難な任務を無事に終わらせたものと誰もが信じて疑わない。
これまでは不可侵とされてきた魔の森ボキューズに対して、その謎が解き明かされる時が来たと、その成果へと大きな期待が寄せられた。
しかし、それに先立って衝撃的な報せがもたらされることになる。
それは銀鳳騎士団団長“エルネスティ・エチェバルリア”及び同団長補佐“アデルトルート・オルター”未帰還の、報であった。
船を降りたトルスティは、真っ先に王城シュレベール城へと向かう。
「……よもや、このような結果になろうとは」
彼の長い報告を聞き終えた国王リオタムスは、長い吐息をついた後に、そう漏らした。
「思えば、他の誰が倒れようともあれだけは無事に帰ってくるものと、根拠なく信じていた」
時とともに、その結果の重大さが彼の中へと染み込んでくる。
得たものは数多い。しかし、失ったものはそれに釣り合うものなのか。
彼が懊悩している間も、トルスティは報告の詳細を補足していた。
体液により金属を腐食させる凶悪な蟲型魔獣について。飛翔騎士が飛空船をかばっている間に、イカルガが魔獣の足止めをおこなったこと。
結果として船団を護りぬいたもののイカルガは戻らず、またシルフィアーネもいつの間にかいなくなっていたこと――。
「わからないものだ。飄々とわがままであるようでいて、いざ窮地となれば自らが先頭に立つ。あれには恐れる心がないのか……あるいはただ、困難に立ち向かうを好む気質なだけかもしれんが」
エルネスティに銀鳳騎士団を与えたのは、先王であるアンブロシウスだ。
銀鳳騎士団は、その成立初期から大きな成果を生み出し続けてきた。
それは新型幻晶騎士の開発のみならず、厄介な魔獣災害へと立ち向かう最大戦力としても、様々な戦果を挙げ続けてきたのだ。
銀鳳騎士団は、それがどのようなものであれ最も困難な状況に立ち向かい、その全てに勝利してきたといっていい。
その圧倒的な能力の前に失敗を忘れてしまっていたのは、誰よりもリオタムスのほうではなかったか。
「どうあれ、ひどく難しい状況となった。この穴は、どのようにしても埋まりはしないぞ……」
エルの代わりが務まる人物など、世界中くまなく探し回ってもみつかるまい。
彼が居なくなることによる影響が一体どこまで及ぶのかは、国王をして見通せない。ある意味で、フレメヴィーラ王国はかつてなく大きな変化の荒波に襲われているのだ。
それでもリオタムスはこの国の長として、その困難に対処せねばならなかった。
王城へと報せがもたらされている間に、イズモは一隻だけ進路をかえてオルヴェシウス砦へと向かっていた。
イズモの巨体が近づくほどに、砦に残った銀鳳騎士団員たちが沸き返る。
しかし、そんな喜びを覚えたのもつかの間、彼らはすぐに、そこにイカルガとシルフィアーネの姿がないことに気付いた。
帰還を祝い土産話に花を咲かせるはずが、肝心の騎士団長がいない。困惑するのも当然だ。
「これはいったい、どういう……!? 親方? 何があったんだい」
硬い表情で荷を下ろす船員たちの中、親方の姿を認めたディートリヒが駆け寄る。
勢い込んで問いかけたものの、彼は親方のようすを見て、むしろ困惑を深めた。
親方は、まったく彼らしくないことに著しく覇気に欠けていた。
普段その体に漲っていた強烈な意思の力が、根こそぎ抜け落ちてしまったかのようだ。これほどまでに弱った姿を見たことは、付き合いの長いディートリヒをして未だかつてない。
それが、彼に問いかけを躊躇わせる。尋常ならざる出来事があったのだろうことは、言わずとも知れた。
それでも意を決し、彼は親方の前に立つ。
「親方。とにかく詳しく、すべてを話してくれ。何が起こり、何と戦ったのか。そしてどうして……エルネスティとアデルトルートがいないのか」
親方はいつもと変わらぬしかめっ面を浮かべているように見えて、しかし如実に視線を逸らしていた。
何事も歯切れの良い彼らしからぬことに、たっぷりと時間をかけて考えてから、ぽつりぽつりと呟きはじめる。
「……見たこともねぇ魔獣が、でやがった。姿は蟲みてぇなもんだ、空ぁ飛ぶ以外にゃたいしたことはねぇかと思った。だがよ、恐ろしいことに、そいつの体液は幻晶騎士を“溶かし”やがったんだ」
ディートリヒが眉を跳ね上げる。彼は騎操士の癖で、すぐに話に聞いた魔獣との戦いを想像していた。
それは騎操士として高い能力をもつ彼をして、多大な困難を覚悟させるに十分だ。
「……おかげで、飛翔騎士はまともに戦えなかった。近寄る端から溶かされちまうからな、どうしようもねぇ。そいつに立ち向かえたのは、坊主のイカルガだけだった。いつもどおり、騒がしく飛び出してったよ」
親方は、ようやくかすかに表情を和らげ、苦笑いを浮かべた。
その光景は、ディートリヒにもありありと思い浮かべることができる。
「酸の雲を生む化け物を相手にしても、坊主はさすがのもんだったぜ。魔獣どもを完璧に抑えて、船を逃がしてみせた。だがよ、さすがに今回ばかりは相手が悪すぎる。俺たちを逃がして……坊主は、酸の雲に呑まれちまったんだ。俺たちは、助けには、行けなかった。嬢ちゃんだけが、いつの間にか坊主のところに向かっていたらしい」
その説明は、ディートリヒのみならず後ろにいた団員たちにも聞こえていた。
ざわめくように、ささやくように、ゆっくりと。しかし確実にエルの不在が、帰ってこれなかったという事実が伝わってゆく。
「どうしようも、なかったのか……?」
誰もが、次の言葉に迷っていた。
何を言えばいいのだろう? 親方を責めることはできない。そもそもエルネスティが苦戦するような戦いに、力となれる者は少ないのだ。その数少ない一人であるアデルトルートは既に戦いに向かい、ともに姿を消している。
同様に、紫燕騎士団を責めるわけにもいかなかった。むしろ彼らは船を護る役目をまっとうし、賞賛されるべきである。
状況への苛立ちだけは十分にあり、しかし憤りの持って行き場はない。
ディートリヒは、ガシガシと髪をかきむしった。何よりも最悪なのは、“既に戦いが終わっていること”だ。彼には、轡を並べることすら許されない。
結果としてやり場のない困惑だけが広がるなか、それまでは静かに話を聞いていたエドガーが、ふと呟いた。
「団長が、帰ってこない。ならば俺たちは……銀鳳騎士団は、これからどうなるんだ?」
その疑問を耳にした瞬間、多くの者が息を呑んだ。
「……な、何を言っているんだい。どうもこうも、それは、あれだ……」
ディートリヒが答えようとするが、その戸惑いこそが答えを如実に示している。
ついに腕を組んで黙り込んだ彼の横で、親方が長い溜息と共に言葉を吐き出す。
「正直よう。こうなっちまったからには、お前らに別口の誘いがあったのは幸いだったと思うぜ」
「なっ……親方まで! それじゃあ、まるで!! まるで…………」
ディートリヒが、再び途中で口をつぐむ。
それ以上は、どうしても口にするのが憚られた。まるで口にすることによって、真実が決まってしまうとでも言うかのように。
「坊主がいねぇのに、何をしようってんだよ」
親方自身、帰り着くまでにその問いを何度も繰り返してきた。エルネスティがいないまま戻ってきた時点で、彼は半ば覚悟を決めている。
「……とにかく、今は少し休ませてもらうぜ」
ディートリヒを押しのけて立ち去る親方の姿は、彼らの知るそれよりも、一回りも二回りも小さくなってしまったかのようだった。
それが、後を追うことを躊躇わせる。
散々迷ってから、ようやくディートリヒは早足で歩き出した。
その場に残された者たちを、エドガーはゆっくりと見回す。
意気を失っているのは、何も親方だけではない。船を操っていた整備班の人間も同様だ。
イズモが長旅から戻ってきたばかりだというのに、オルヴェシウス砦は火が消えてしまったかのように静まり返っている。
エドガーはそこに、得意げに戦果と共に妙な思い付きを並べ立てる少年と、それにじゃれ付く少女の姿を幻視した。
彼らがいないだけで、銀鳳騎士団はこれほどまでに力を失うものなのか。
「俺たちは、これからどうすべきか。いや、銀鳳騎士団は何をすべきだったのか」
そもそも銀鳳騎士団とは、ただエルネスティのわがままのためだけにあった集団だった。
彼の思いつきに振り回され、時には国そのものを振り回し、戦あらば首を突っ込み、魔獣あらば立ちはだかる。
それがフレメヴィーラ王国最強を誇る、この愚連隊のあり方だった。
エルネスティの代わりは、誰にも務まらない。彼がいなくなったとき、それが銀鳳騎士団の最期なのである。
その考えは、すとんとエドガーの腑に落ちていった。
「ここまで、なのか……?」
彼は、愕然としたようすで立ち尽くす。
まるで、それまでは確かに見えていた道を、見失ってしまったかのようであった。
「親方、待ってくれ。……まだ、まだ何かやりようがあるだろう!」
背後からの声に、親方は立ち止まるとゆっくりと振り返る。
彼の表情は今までよりもなおさらに悲壮で、まるで今から死地に向かうかのようにも見えた。
「ディー、俺ぁこれからライヒアラまで行ってくる」
ディートリヒはすぐにその目的に気付き、呻く。
「坊主と嬢ちゃんの……家族に。最後の戦いのようすを、伝えねぇといけねぇ。そいつは俺の仕事だ」
なんども言葉を飲み込んで迷った後に、彼はようやくこう、告げた。
「私もついてゆこう。今の親方に任せるのは、不安だからね」
普段ならば憎まれ口の一つも返ってきたであろうが、今の親方は無言で頷いたのみであった。
オルヴェシウス砦からライヒアラ学園街までは、さしたる距離はない。
エルネスティやアデルトルートなどは普段、ライヒアラにある自宅で暮らしていたくらいだ。
街の入り口に馬を預け、ディートリヒと親方はエチェバルリア邸へと向かう。
そこには、子供たちの帰りを待ち侘びる家族がいる。
エルネスティの母親であるセレスティナ・エチェバルリア。学園にいるためであろう、父親であるマティアスはいないが、代わりにアデルトルートの母親であるイルマタル・オルターがいた。
エルネスティたちが帰ってきたわけではなく、ディートリヒと親方が訪れてきたことで、彼女たちはすぐに何かが起こったと悟ったようだった。
言いよどむ二人を優しく招き入れると、ティナは落ち着いて茶を振る舞う。そうして一息ついたところで、静かに口を開いた。
「……あの子に。エルに何か、あったのですね」
親方は茶を一気に飲み干すと、意を決し。ティナの視線から逃れることなく、ひたと見つめ返した。
「団長は、イズモを……船団を護るために戦い、そして戻ってこれなかった。俺ぁ、イズモの船長としてあの場にいた。全部じゃあないが、団長の戦いを見ていたんだ」
彼はオルヴェシウス砦でも説明した内容を、ティナとイルマに対してもう一度最初から話す。
船団がどのような脅威と出会い、エルネスティが戦いに赴き、そして何故ともに帰ってこれなかったのか。
話が進むと共に、ティナの顔色が色を失ってゆく。身体の奥から嫌な予感がどくどくと響いて、遠ざかりそうになる言葉を、彼女は必死に拾っていた。
親方の話が終わった後も、にわかには動くことができずにいる。
その隣で、イルマがゆっくりと顔を覆った。吐息の混じる、言葉が震える。
「アディ……そう、エル君と一緒にいるのね。だったら、寂しくはないのかしら」
船団と共に戻ってこれなかったのは、エルネスティだけではない。
オルター家の双子のうち、片割れであるアーキッドはつい最近、再びクシェペルカ王国へと向かったところだ。
子供たちが皆出払ってしまったために、イルマはこうして仲の良いエチェバルリア家に身を寄せていたのである。
「ティナさん、あの子たちは……」
「大丈夫よ、イルマ」
ティナの顔色は、未だに優れないままだ。そのわりに強い調子で話すのは、むしろ彼女自身に向けているためではないだろうか。
「ヘプケンさん。あの子は、あの子の信じるところに従って行動しました。皆を護るために魔獣に立ち向かった。それこそ、あの子が目指した騎士の姿です。でも」
そこで彼女は、ふんわりと笑みを浮かべた。
衝撃は未だ覚めやらぬ、しかし彼女の中には支えとなる言葉がある。
「エルは、約束を破ったりはしません。必ず、戻ってくると約束してくれましたから……だからきっと、大丈夫です」
その言葉に対する答えを、二人の騎士は持ち合わせていなかった。二人とも、ただ黙って頭を下げることしかできない。
それからさらにいくらかの話をかわし、彼らはエチェバルリア邸から去っていった。
沈みゆく夕日を背に、二人は無言のままオルヴェシウス砦へと道をゆく。
先ほどの光景がまだ、脳裏を離れない。
彼女たちは、魔の森の奥に墜ち、幻晶騎士すら失ったであろうエルネスティの帰還を信じている。
それは家族だから、と言ってしまえばそれまでのことだ。
銀鳳騎士団の一員として。それだけではなく、ディートリヒはただひたすらに自分に何ができるかを考え続けていた。
そして砦を目の前にしたところで、突然彼は声を上げる。
「よし、行こう」
親方は、振り向かない。歩みを進める馬蹄の音だけが聞こえてくる。
「いかに我らが団長様とて、一人でここまで帰ってくるのは無理だろう。だから私たちが、迎えに行くんだ」
「俺がこっちに帰ってくるまでに、どんだけの時間が経ったと思ってんだ。今から行くのにだって、同じだけかかんだぞ」
振り向かないまま、彼はいかにも陰気な声音で返す。
「だからどうしたというんだい。我らが団長様のことだ、そう簡単にくたばってくれはしないだろう。ならばその程度、なんとか暮らしているさ。行ってみる価値はある」
「飛空船を飛ばすのにゃあ、相当な物資が必要だ。そんなもの、俺たちだけで集められるわけねぇだろ。それによぉ」
親方の反論は、淀みない。
ディートリヒが思いつく程度のことは、彼も考え尽しているのだ。同時に、それが困難である理由すらも。
「もう一度行って何とかなるくれぇなら、俺たちがあの場でなんとかしてらぁ!!」
吐き捨て、親方は工房へと消えゆく。その背を見送りながら、ディートリヒは手綱を強く握りしめた。
「……だからって、納得いかないね。いくわけがないだろう」
彼は、猛然と身をひるがえす。
それから後、シュレベール城でちょっとした騒ぎが持ち上がった。城に、乱入者が現れたのだ。
「この騒ぎは、何事か」
政務についていた国王リオタムスは、騒動の音を聞きつけて問いかける。
しかしその答えが得られるよりも先に、騒動の原因がその場に現れた。押し止めようとする近衛騎士たちを無理やり引きずりながらやってきた、一人の騎士。
「銀鳳騎士団、第二中隊長……ディートリヒ・クーニッツです! 陛下に是が非でも申し上げたき旨があり、参上いたしました!!」
「ええい! この先には許可なき者は通せん! 無礼であるぞ! 下がれ、頼む下がってくれ!!」
人の盾を力づくで押し通ってきたディートリヒを前に、リオタムスは僅かに目を細めると、慌てることなく周囲に指示を下す。
「よい、まずは放してやれ」
国王がいうと、ディートリヒに組み付いていた騎士たちはしぶしぶ彼を放し、ゆっくりと後ろに下がった。
そのまま息を荒げて座り込むディートリヒへと、国王は問いかける。
「用件はエルネスティのこと、だろうな」
考えるまでもない。今この時に銀鳳騎士団の者が現れる理由など、他にはないのだから。
その間に息を整えたディートリヒは、改めて跪きはしたものの、前口上も抜きに本題へと入っていた。
「はっ! ボキューズに取り残された騎士団長を救出すべく、騎士団に出撃の許可をいただきたく!!」
「ならぬ」
勢い込んだ彼だったが、間髪を入れずに返ってきた言葉を耳にし、凍りついたように動きを止めた。
「エルネスティは、あれの操る幻晶騎士は文字通りに最も強く、圧倒的な存在であった。それを倒し、あまつさえ飛空船も、飛翔騎士ですら脅かされる。話に聞く魔獣の力はあまりにも恐ろしいものだ」
今にも火を放ちそうなディートリヒの視線を正面から受け止めながら、国王はあくまでも冷然と告げる。
「お前たちだけで向かって、なんとする。かの者の力は、お前たちこそ最もよく知っていよう。あれが倒れるほどの敵に、どれほどの戦力を動かし、どれほどの犠牲を覚悟すればそれをなしえる?」
「確かに誰よりも深く、承知しております。しかしながら、我ら銀鳳騎士団! その始まりの時には閣下と共に、かの陸の皇とすら戦ったのです! いまさら多少の困難を、どうして苦にしましょうか!!」
しかし、リオタムスは首を横に振った。
「それもわかっている。しかしもしも、もしもお前たちまでもが敗北すれば、今度こそ永久に手立ては失われるのだ。それ以上に、全てを失うことが……我が国にとってどれほどの痛手となることか。とうてい許すことはできない」
騎士団長を欠いたとしても、まだ騎士団は残っている。
イズモも健在であり、それを作った鍛冶師たちも無事だ。そこには、これまでに築き上げてきた技術がある。
確かに、エルネスティの力と功績は比類ないものである。
しかしそれを取り戻すために――そのうえ取り戻せるかどうかもわからないものに、残りの全てを賭けることはできない。
それは、国の長としてごくまっとうな判断だった。
ディートリヒは歯噛みし、言葉に詰まる。国王の語った理屈に正面から反論するだけの材料が、彼にはない。
そうして彼が押し黙った間に、リオタムスは穏やかに諭すように、話しかける。
「事情が事情ゆえ、これまでの無礼は一切を不問とする。しかしここから先は、その振る舞いに注意せよ」
その時、それまでは跪いたままでいたディートリヒが、突然立ち上がった。
真正面から国王を睨みつける。礼を失しているどころの話ではない、不敬であるとすぐさま処罰されても文句の言えない行動だ。
しかしその瞳に強い決意の光を見て、リオタムスはまず真っ先に溜息を洩らした。
「私は……かつて、騎士団長とともに陸皇亀と戦った。あの絶望の中、騎士としての道を見失い、戦士として死にかけていた私に、道を魅せたのはエルネスティだ」
その場にいる近衛騎士が、ゆっくりとディートリヒに迫っていた。何かあれば、いつでも取り押さえられるようにである。
それが、彼の言葉を耳にして思わず動きを止めた。
「困難なれば踏み砕き、立ちふさがるものあれば打ち倒す! それがわれら銀鳳騎士団にございます。私とグゥエラリンデ、彼のためならば喜んで死地へと赴きましょう」
それだけを言い終えると、ディートリヒは無言で一礼し、すぐさま踵を返す。
「待て。貴様、どうするつもりだ」
それは、呼び止めるほどに強い調子でもない、ただの問いかけだった。
「暇をいただきます」
「たった一人で、何をしようというのか」
リオタムスに背を向けたまま、ディートリヒは不敵な笑みを浮かべる。
「いいえ、陛下。一人では、ありません」
彼の視線の先に、理由がある。
そこには近衛騎士をかき分けて現れた、銀鳳騎士団第二中隊の面々がそろっていた。
誰もかれも、中隊長に負けず劣らぬ馬鹿揃いである。彼らは鼻息も荒く、ディートリヒの言葉に迷いなく頷いた。
「まったく、そろいもそろって馬鹿者どもが……。そのようなところ、騎士団長に似なくともよいのだぞ」
「お言葉ですが、なにせ皆、彼の趣味に命を重ねてきた、酔狂者にございますれば。……それでは、陛下。これにて御免」
それ以上、ディートリヒが脚を止めることはなかった。
「またんか! ……はぁ。こうなる気はしていたのだ。エルネスティがいなければ、配下の者が暴走する。よくよく、銀の鳳は気難しい」
「陛下。御命をいただければ、今からでも彼らを取り押さえることができますが……」
頭を抱える国王に対し、近衛の騎士はあくまでも役目に忠実に、しかしわずかに控えめに進言する。
それに対し国王は、ゆっくりと首を横に振った。
「ですが、よろしいのですか? このような、ずいぶん甘い沙汰を」
「本当にエルネスティが生きていて、帰ってくるのならば意味はある。それにあの有様、このまま留め置くことにどれほどの意味があるというのか」
とはいえ、彼にもそのまま放置するつもりはない。さっと片手を軽く振れば、暗がりから音もなく男が進み出てきた。
「あまり、この手は使いたくなかったのだが……」
リオタムスが二言三言、言伝を伝えると、男は再び音もなく暗がりへと姿を消す。
「やはりというか……銀鳳騎士団は勝手に動きだしてしまったか。紫燕騎士団の再編成を急がせよ。彼らが成功するにしろ失敗するにしろ、二の矢はつがえておかねばならん」
命を受けた近衛騎士は一礼すると、部屋を退出していった。
後に残った国王は、先ほどの騎士の言葉を思い出す。
騎士団長を助け出すために、命すら賭すと。その言葉は真実を含み響く。彼は先代ほどに武人ではなかったが、騎士の心を知らぬほどに無知でもない。
「まったく、わがままで……羨ましいことだ」
心底困りながら、その口元は確かに笑みの形を描いていたのであった。
王城で啖呵をきったディートリヒを先頭に、第二中隊は勢いのままオルヴェシウス砦へと駆け込んだ。
向かうのは工房である。ディートリヒはそこで、何をするでもなく呆としたままの親方を見つけ出すやいなや、そのまま何一つ迷いなく拳を叩きこむ。
「ッテェッ!? この野郎、いきなり何しやがる!!」
「めぎしゃっ!?」
横っ面に拳を受けて、親方が激昂する。ドワーフ族の頑丈さならば大事はないが、まさか殴られて気にしないほど彼が温厚なわけがない。
すぐさま放った反撃が直撃、今度はディートリヒを吹っ飛ばした。
親方とディートリヒでは、膂力に大きな差がある。
空中に綺麗な放物線を描いたディートリヒは、そのまま地面につっこみしばらく悶絶していたが、やがて何事もなかったかのように立ち上がった。
中隊長ともなれば、ドワーフ族の拳を受けても倒れない程度には、鍛えているものだ。
「ぐぅぅ、さすが、いい拳が放てるじゃあないか! まったく腑抜けている場合ではないよ、親方。我々はこれから再びボキューズに入る、イズモの出航準備を進めてくれたまえ!!」
「ハァッ!? てめぇ……馬鹿野郎。その話はもう終わってんだろう。行ったところで、どうするってんだよ」
固めた拳が、思わずゆるむ。
逸れてゆく視線を、しかしディートリヒは逃さない。
「親方が座り込んでしまって、ではいったい誰がイカルガを直すというんだい?」
「あ!? イカルガを、直すだと……!? 直すも何もあの魔獣と戦ったんだ、もう跡形もねぇだろ。おめぇ……何を考えてやがる」
いくらディートリヒがお調子者だからといって、そうそうに箍が吹っ飛んでしまったわけでもあるまいに。
むやみに自信に満ち溢れた彼に対し、親方はついに気味悪げに後退りはじめた。
「フム。考えてもみたまえ、親方。我らが騎士団長閣下が、そんな幻晶騎士の天敵のような生き物の存在を、許すと思うかい?」
「ありえねぇな。確かに、殺る気に満ちて飛び出してったが……」
即答だった。
そうだ、エルネスティの普段の言動とその偏狂的な幻晶騎士への愛情からすれば、どうするかなど想像に難くない。
「なにしろあのエルネスティだ。なかなか殺しても死んでくれないタマだし、仮に死んでいても冥府の底から帰ってきて、そいつらは滅ぼしつくすだろう。ならば銀鳳騎士団の騎士として、速やかに戦場に馳せ参じなければね」
「無茶苦茶言いやがるな、おめぇ」
その言葉のどこまでが本気か、親方にはわからなかった。
だがおそらく、ほとんど本気だろう。正気ではないのかもしれなかったが。
「親方。イカルガは、壊れたのだろう?」
「……おそらくな。探しても、見つからなかった。あの魔獣を相手にしたんだ、溶かされたんだろうよ。でなくとも、少なくとも斃されちまったのは確かだ」
遠ざかるイズモの窓越しに見た光景。
イカルガと蟲型魔獣の戦いにより空は酸の雲に覆われ、直接は見えなかった。ときおり起こる爆発と、落下してゆく魔獣の死骸が、戦いが続いていることだけを伝えてくる。
その後の捜索で、イカルガはついに見つからなかったのだ。その形が残っているとは、考えにくい。
「さすがのエルネスティも、そこまで壊れたイカルガを直すことは出来ないだろうしね。また、別な無茶をしでかしている可能性はあるが」
「やらかすにしても、いざって時にイカルガがねぇんじゃあ、坊主は嘆き悲しんでることだろうな」
親方は、自らの手をじっと見る。
慣れない船長などを務めてはいたが、彼の本分は鍛冶にある。その手にできることは、ただ一つだ。
「おめぇは、そこまで坊主を信じぬけるのか?」
「少し違うかな、私は知っているだけさ」
親方は、ゆっくりと腰に手を伸ばした。
鍛冶師の嗜みとして、常に腰周りに吊り下げた工具の数々を、手に取る。鎚、鍛冶師にとって最も基本となる道具であり、彼の原点だ。始まりの道具を手に、鍛冶師が立ち上がる。
「言いやがる。フン。ディーに動かされるたぁ、一生の不覚だぜ」
彼は、目的を見つけた。もしかすれば無駄かもしれない、手遅れかもしれない。だが彼は為すべきことを見つけてしまったのだ。
「そこに向かうまでは、我々第二中隊が護衛につこう。親方、戦うのは騎士の役目だ、任せてくれたまえ」
「だがよォ、どう戦う。奴らは広範囲に酸の雲をまいたんだぞ。飛翔騎士を持っていったところで、歯が立たねぇ」
立ちはだかる最も大きな問題にも、ディートリヒは怯まなかった。
「わかっている。だから投槍戦仕様機を使う。高速で誘導の利く魔導飛槍をもって、溶かされる前に貫いてやるさ。山盛り持ってゆこう」
親方は、唸る。こと戦うことに関して、第二中隊を率いるディートリヒは侮れない存在である。その着眼点は確かだ。
蟲型魔獣は機敏で、法撃による遠距離攻撃はほとんど回避されていた。そこで手動での誘導が可能な魔導飛槍ならば、今までよりも効果は望めるかもしれない。
当てることさえできれば倒せる相手なのは、イカルガが証明済みだ。
余談ではあるが、短距離向けの魔導短槍が登場したことにより、従来からの魔導飛槍は“ロングジャベリン”と言い習わされるようになっていた。
「……やるんだな」
為すべきことを見つけてしまった。やり方も考えた。
それは途方もない困難ではあるが、あとは実行するだけのこと。
親方は拳を固く握りしめると、突き出した。ディートリヒは無言で頷くと、そこに拳を打ち付ける。
「フン。結構なことじゃねぇか。だったら俺たちが、鍛冶師隊が。イカルガを直してみせてやろうじゃあねぇか!! おうい!!」
親方は、猛然と動き出す。
唖然として彼らのやり取りを見ていた周りの鍛冶師たちに、猛獣さながらの笑みを向け。
「おめぇら、イズモにイカルガの予備部品を、ありったけ積み込めぇっ!! どうせズッタボロだ、心臓部以外は新造するつもりでかかんぞ!!」
「…………お、応っ!!」
そこにいたのは、失って意気消沈した男ではない。
ぶっきらぼうで荒くれで、だが見事な腕前を振るう銀鳳騎士団鍛冶師隊隊長、人呼んで親方ことダーヴィド・ヘプケンである。
いつも通りの親方が戻ってくれば、鍛冶師たちも負けてはいられない。
にわかに、活気が戻ってくる。そうして一つの目的に向けて、全員が一気に動き出した。
ばたばたと駆け出してゆく鍛冶師たちを見ながら、親方は腕を組む。
「しかしよう、問題はまだ残ってるぞ。あそこまで行くには、かなりの物資がいる。いってぇどうするつもりだ」
「まぁ少し、無茶をしないといけないだろうね。つまり……」
「盛り上がっているところ、申し訳ないのだが。俺だけ仲間はずれにするのは、よくないな」
そうして話しているところに、背後から声がかかった。
ぎょっとして振り向いたディートリヒは、そこにいた人物を見て目を剥く。
「エドガー!? お前、何故ここに。声はかけていなかったはずだが」
「これだけの大騒ぎをして、本当に気づかれないと思っていたのか」
ディートリヒは困惑げに頭をかく。
「仲間はずれというわけではない。言いたくはないが、私たちの行動は造反行為に近いんだ。これでエルネスティが戻ってくれば、銀鳳騎士団は、後のことは何とかなるだろう。私はここに残ることを選んだ、だからこそ征かねばならない。……だがエドガー、お前は他所から引き抜きが来ているんだ、こんな馬鹿騒ぎにかかわっている場合ではないだろう」
「おいコラ、俺ぁ巻き込んでもいいのかよ!?」
「ハハ、逃がすわけないだろう? イカルガを直せるのは、親方たちだけなんだから」
だからこそ、ディートリヒは親方を動かすことに拘った。彼と第二中隊、そして鍛冶師たちがいれば勝算はあると踏んでいる。
「そうだな。確かに話は進んでいた。ここで長旅に出ては、まず先方を怒らせてしまうだろう。おそらく、ご破算になるのだろうな」
エドガーは、ディートリヒの言葉を何も否定しなかった。
その明らかな矛盾に、ディートリヒは自分の行動を棚に上げ、呆れた表情を浮かべる。
「わかっていて、どうして。もしかして馬鹿なのか、エドガー」
「まさか、ディーに馬鹿呼ばわりされる日が来るとは……。少し感動してしまいそうだ」
エドガーは肩をすくめると、ふと表情を真剣なものとする。
「アールに、アルディラッド。エルネスティがいなければ、俺がここまで華々しく戦うこともなかった。そもそも、引き抜きの話だって俺だけの力ではない」
彼はもとより優秀な騎操士であった。かりにエルネスティと出会わなくとも、いずれ頭角を現したことだろう。
だがその出会いが、彼の活躍を一気に押し上げたのも確かである。
「恩が、あるんだ。何も返さないまま、このままのうのうと他所の騎士団を率いるなんて、俺にはできそうにない」
「あの団長が、そんなこと気にするとも思えないけどね」
「かもな。だからこれは、俺の理由だ。エルネスティがどう思おうと、恩を返せないままにいなくなってもらっては困る」
「お前の理由か。それじゃあ、仕方ないな」
ディートリヒも、ほとんど我がままで周囲を巻き込もうとしている。人のことは言えない。
結局のところ、銀鳳騎士団とは。誰もかれもが子供じみて我がままな、己の道を突っ走ることしかできない荒くれの集まりなのだ。
そうして第一中隊も加わり、ついに銀鳳騎士団の全てが動き出す。
目的は、エルネスティ及びアデルトルートの救出。もはや誰も、彼らが死んでいるなどとは言い出さない。
たとえ手遅れだとしても、動き出したものは止まらない――。
しかし当然ながら、まだまだ問題は山積みであった。
「それで? あっちまで二月はかかる。長旅だ、俺たちの飯だけでも相当に必要だし、戦力に補修部品、武装まで。ものはいくらあっても足りないぜ。どうやって調達するつもりだ」
「それなんだがね。必要な物資は、盗……もとい、借りるとしよう」
ディートリヒが、いかにも悪巧みな笑みを浮かべる。
親方は呆れながらも頷き、普段は止める側に回るであろうエドガーすら、異論をはさまない。もうこうなれば、とことんまでやり切るのみである。
「やめぬか、悪ガキどもが。貴様らは、いったい何をしておるのか」
制止の声は、意外なところから降ってきた。
突如として第三者の声が響く。聞き覚えのある声に飛び上るほどに驚愕し、いっせいに振り返れば、数機の幻晶騎士が地響きとともに工房へと入ってくるところだった。先ほどの声は、先頭の機体の拡声器からのものである。
それは、輝く銀仕立ての鎧に黒い縞模様が描かれた機体であった。
銀鳳騎士団は、その機体をようく知っている。その名は銀虎、何しろ操る騎操士は――。
「悪タレどもが、こうもそろって悪巧みとは。まったく、危惧したとおりであったな」
「ッ! ……せ、先王陛下ァッ!?」
先代国王、アンブロシウス・タハヴォ・フレメヴィーラその人なのだから。
彼は機体を降りると、慌てて跪こうとする一同を手で制しながらも、顰め面を浮かべていた。
「銀鳳騎士団! 貴様ら、陛下の命にそむいた上、さらなる悪行を重ねようとは! 失望したぞ!! 貴様らはこれまでの戦いより、いったい何を学んできたのだ!!」
沈黙の降りた工房に、先王の怒声が轟いた。