その3 凶雲の訪れ
その日の夕方、女神の化身である太陽は、分厚い雨雲の陰に隠れていた。
礼拝堂入口の屋根の下、ペルルが形良い眉を寄せながら呟く。
「ああ、こまったこまった。今にも雨が降りそうだわ。これじゃお家に帰れない。今日はこの教会へ泊まらせてもらいましょう」
「……棒読みだな、ペルル。天気が崩れると分かってて来たくせに」
俺のツッコミを華麗にスルーしたペルルは、ワンピースのポケットから小さな紙切れを取り出した。そして杖の先から生み出した鳩の足にそれをくくりつける。
その紙切れには、あらかじめ『お泊まりするね』という伝言が書かれていた。
……まあペルルの両親も、この展開は見越した上で送り出したんだろうけど。
『嫁入り前の娘が、男の家に外泊するなんて!』
という文句が全く出ないのが、この村の大らかなところというか、みんなペルルに甘過ぎるというか。
ペルルの地道な工作により、俺は既に『婿』のポジションに収まってしまっているというか……。
解き放たれた鳩の行く先を見やり、俺はため息を吐く。
黒い雲はすでに空全体へ広がっていた。熱く乾いた大地には、ポツポツと雨粒が落ち始めている。
「まあ、確かにこの天気じゃ仕方ないか……客間を掃除してくるから、一応神父様に事情を説明しておくんだぞ?」
「えー、私はジローの部屋に泊ま」
「文句言うと叩き出すぞ」
俺が鋭い三白眼を作ってみせると、ペルルはしぶしぶといった様子で神父様のいる礼拝堂の奥へ向かった。俺は箒を片手に二階の客間へ。
この教会は無駄に広く、ときには旅人たちを迎え入れる宿屋代わりにもなる。
とはいえ、こんなド田舎を訪れる旅人はめったにいない。ここ十数年で一番賑やかな団体客は、『無能者』である俺のことを調べに来た国のお役人グループだった。
絶世の美少年を期待してきたのだろう、彼らは俺を見るやあからさまにがっかりした。すぐさま保護するほどの逸材ではないな、と。
『この村で勉学に励み、十五になったら王都の神官学校を受験するように』
と無難なアドバイスをし、彼らは魔法攻撃をシャットアウトする特殊なローブを授けてくれた。夏は涼しく冬は暖かく、汚れも付かず、持ち主の希望に合わせて伸び縮みするという便利なマジックアイテムだ。
このローブを身につけるようになってから、俺の直感はやたらと鋭くなった気がする。
「しかし……いつになく怪しい雲だな」
窓ガラスの向こうを見上げ、俺はポツリと呟いた。
日本と同じく、この国には四季がある。
夏の夕刻にたびたび発生する積乱雲など、激しい夕立ちをともなう雨雲は『凶雲』と呼ばれ、災いをもたらす凶兆として隠避される。
――凶雲とは、悪魔の化身。そこから落ちる雨粒は魔獣たちを狂わせる――
という、いかにもオカルトチックな言い伝えのとおり、凶雲の日は魔獣の持つ魔力がぐんと高まる。熟練の騎士や冒険者ならいざ知らず、普通の村人がこんな日に魔獣と戦うなんて、自殺行為も同然……。
と考えたところで、ハタと気づいた。
「……やべー、今なんか『フラグ』立ったかも」
呟いた直後、階下から騒がしい声が聞こえた。慌てて声のする礼拝堂へ向かうと。
「でも、神父様!」
「いけません、ペルル。いくら貴女でもこの凶雲の下、魔獣と戦って勝てるはずがない」
「では神父様は、困っている人を見捨てろって言うんですか? パンを分け与えることもせず見殺しにすると?」
礼拝堂の入り口で言い争う二人。すらりと背の高い神父様と、その胸にすがりつく小柄なペルル。
二人の傍らには、見知らぬ男がうずくまっていた。
大柄なその男は、重たげな全身鎧に雨粒をまとわりつかせ、肩で息をしながらへたり込んでいる。俺のことを調査しにきた王都の近衛騎士と同じいでたちだ。
「神父様、ペルル、いったい何が?」
早足で歩み寄りつつ訊ねる。まあさっきの会話だけで事情は察していたけれど。
「ジロー! この方の一行が、南の森で魔獣に襲われたっていうの! 今すぐ私が行けば――」
「許しません」
「神父様!」
「貴女の身柄は教会でお預かりすることになりました。貴女に何か起きた場合、ご両親に申し訳がたちません」
神父様はいつになく厳しい口調で告げた。深いしわが刻まれたその横顔に、苦渋の色を滲ませて。
確かにペルルの言葉は正論であり、神父様自身が教えてきた倫理だ。
ただし『隣人にパンを差し出す』のは、あくまで自分が飢えないという前提があってのこと。余裕がある者にしかできない行為なのだ。
純粋なペルルには、そんな大人の建前が理解できなかったらしい。
「……分かりました、もういいです。私は今から家に帰ります」
「ペルル」
「帰り道の途中で、誤って南の森へ迷い込むかもしれないけど、それは神父様の責任じゃありませんから!」
凍てつく氷のような眼差しを神父様にぶつけ、ペルルはくるりと踵を返した。礼拝堂の扉を壊さんばかりに強く押しやり、大粒の雨が降りしきる薄暗い村道へ飛び出していく。煌めく銀色の髪が、みるみるうちに遠ざかる。
俺は肩を落とし、深いため息を吐いた。
「……神父様、もっと上手い言い方があったのでは?」
「ペルルは優しい子だ。魔獣と言えど『命』には違いないと同情してしまう可能性がある。“いつものように”怒りに身を任せた方が、あの子は力を発揮できる」
伸ばしかけの顎ヒゲをしゃくり、ニイッと笑ってみせる神父様。
そう……これはあらかじめ予定されていた事件。王都の魔法学校から課せられた、ペルルの入学試験なのだ。
ペルルはすでに書類審査には合格していた。ただ魔法学校に通うためには、魔力が強いだけじゃ足りない。
ゆくゆくは魔法騎士として民を護ることになる彼らの資質――弱きものを助ける気高い心を持つかどうか――を試すための“小芝居”をするから協力するように、という要請がペルルと親しい者にのみ届いていた。
もちろん心根だけでなく、低レベルな魔獣を一人で倒せるかどうかも同時にチェックされる。その点については俺も全く心配していない。
……はず、だった。
「なあ、騎士のおっさん。さすがに条件が厳しいんじゃないか? いくら日程が押してるっつっても、こんな凶雲の日に試験を実施するなんて……」
俺はしゃがみこみ、重たげな鎧甲の隙間からソイツの目を見やった。
刹那――ビリッと稲妻が落ちたような衝撃。
男は魂を抜かれたような、どこか虚ろな目をしていた。遥かな高みから審判を下す『試験官』とは思えない、本気で追い詰められた人間の目だった。
「頼む……仲間を、助け……」
苦しげなうめき声に、嘘偽りは感じられない。
これは演技じゃない、試験なんかじゃないんだ……!
「くそッ、ペルル!」
頭で考えている暇はなかった。反射的に身体が動いた。
激しい夕立の中、背後から神父様の叫び声が聞こえる。たぶん「行くな!」とか「お前が行っても無駄だ!」とか、いつもは決して言わないような本音を吐き出しているんだろう。
それでも、俺の足は止まらなかった。