10.終結はハジマリへ
コナンがジョディの車で運ばれて居る頃、蘭の身もまた、窮地にあった。
暗闇の静けさの中に、彼女の荒い吐息ばかりが響く。公園からはほんの数百メートルほど離れた人気のない路地裏で、彼女は壁を背に座り込んでいた。
全速力で走ってきたため、バッグを抱える両腕は、呼吸をする度肩と連動して上下に動く。両足ともに、数箇所ある裂傷からは血液が滲んでいた。それでも、彼らが足のみを狙ってくれたのはありがたい。それだけに集中して走ってこれたのだから。
彼女は、きゅっと下唇を噛み、顔を上げて前を見据えた。一歩、一歩と近づく男の顔が、嫌らしく歪み、にやける。死神のような黒服と長い銀髪、そして冷たく鋭い視線が蘭を射抜く。
「銃弾を浴びながらここまで逃げた事は称賛に値するが、ご苦労だったな。チェックメイトだ、毛利蘭よ」
拳銃を突きつけられ、恐怖で身体は震えた。しかし、蘭は男を睨む視線を外そうとはしなかった。精一杯のハッタリではあると判っていながらも、不敵に微笑む。
「た、確かに。ここが私の行き止まりみたい。……でも、やっとあの子を逃がす事が出来たもの。本望よ!」
向かい合う男の顔色が、微かに変わる。蘭はふっと笑みを深め、抱きしめていた用済みのバッグを地面に捨てた。
「……貴様」
「私はもう逃げも隠れもしないわ! 捕まえて、どこにでも連れてきなさいよ! 新一は、きっと助けに来てくれる。信じて待ってるって決めたんだから」
「この女ァ!」
銀髪男の後ろに居た下っ端ぽい男が、怒鳴り声を上げながら銃口を向け、引き金にかけた手に力を込めた。さすがに目を閉じて身体を硬直させた蘭だが、弾は彼女の足先にあるコンクリートに当たるだけにとどめられた。
意外にも、銀髪男に助けられたらしい。発砲した男の銃を持つ手が、彼によって下に押さえ込まれている。
「やめておけ。本命を取り逃がしたとすれば、この女は大切な餌だ。我々を謀った事は十分後悔させてやるつもりだがな」
男の咽喉から、ククク、と嘲笑が漏れ出た。つくづく、低くて威圧的な口調には圧迫感を覚える。
「殺すべきはこの女じゃない。それよりも、失敗には死あるのみ――だ。人目のない場所とはいえ、電話を受けたからと、攫ったガキの一人だけを拘束して、ほいほい出かけた奴の始末がまだ済んでないようだからな」
いやらしく歯をむき出しにしたせせら笑いが、彼の口に浮かぶ。銃を持つ左手とは反対の右手で、携帯電話を取り出した男は、どこかにダイヤルをする。
電話の相手と繋がった途端、冷酷な声が彼の口から発せられた。
「そいつがやらかしたヘマのせいで、一番の目的は狩り損ねたようだ。あの方からの許可も出てるぜ。殺れ、ベルモット」
男の口から出た”ベルモット”という単語に、蘭ははっとして顔を歪めた。しかし、すぐに数名の男達に取り押さえられた彼女は、遅れてやってきた一台の車に、乱暴に突き飛ばされた。
***
「OK。了解よ、ジン」
鮮やかな赤い紅が、右上がりに持ち上がる。彼女はそのウェーブがかったブロンドヘアを緩慢な仕草で耳にかけなおし、男の方を見て冷笑を浮かべた。
場所はつい先ほど蘭たちが監禁されていたのと変わらない車庫内。車に寄りかかり銃をまっすぐに向けたベルモットの、蔑む視線を浴びながら、男は蒼ざめていた。
「今すぐ、殺っていいのね?」
『くどいぞ、お前にも聞きたい事はあるんだがな。とりあえずそいつはさっさと殺せ』
「ええ。後でいくらでも聞かれてあげるわ」
受話器に向かって再度確認した彼女は、返って来た返事に、シニカルな微笑を浮かべた。
電話を切って、腕を下ろした先のポケットにしまった彼女は、前の男に視線を戻す。
死を意識した際の恐怖に歪んだ顔はいい。その人間が持つ底の浅さと本性が垣間見える。
一歩踏み出したハイヒールの音が、車庫内に響いた。男は短く叫び、ゆがめた顔から大量の冷や汗を流した。
「ま、待ってくれ! あの時電話で俺を呼んだのはあんたじゃないか。本当なら、あんたにも責任が……」
「呼んだ場所に中々現れないから探しに来てあげたら、もぬけの殻だった車を発見したって言ったでしょ? まさかそんな無防備に人質を放り出しておくほど無能だとは思わなかったわ」
「違う……そんなわけがない! あの娘にもボウズにも、手錠と縄が解けたわけがないんだ。あんたが、逃がしたんだろ? あ、あんた何が目的なんだ?」
壁に追い詰められ、逃げ場のない男は、それでも距離を取ろうと背伸びした――馬鹿げたあがきにクスクスと笑い声が返ってくるのを、蒼い顔で聞きながら。
「目的? さあ、何かしら」
「ふ、ふざけるな! 俺を消して証拠隠滅しようったって……」
男はそこで言葉を止めた。ベルモットの銃口が、まっすぐに男の心臓に押し付けられる。
彼女は笑みを崩さずに、空いている左手の人差し指を、口の前で立てた。
「A secret makes a woman woman……あなたとも組織の中で、上下間の付き合いはあったし、私の秘密主義位は知ってる筈よね? Bye bye、哀れなカラス君」
パシュ、と乾いた音が車庫中に響いた。心臓から血を流した男は、その場に倒れこみ車と地面を血で汚した。
ベルモットは拳銃から微かに浮かんだ煙に息を吹きかけ、腰元のガンホルダーに戻した。彼女は掌いっぱいほどある爆弾を懐から取り出すと、タイマーのスイッチを入れて男の隣に置いた。そしてそのまま、余裕の微笑を浮かべながら、腕組をして車庫を後にする。
――ドオォン!
彼女の背後が、赤とグレーに変貌する。熱風を浴びながらも、振り向くことさえせず、彼女は自身の車に乗り込み、去って行った。
そこが人気のない場所ならば、警察がかぎつけるのもそう早くはないだろう。
車を走らせながら、彼女はラジオのスイッチを入れた。
先ほど、ここに来る前にもう一軒自分が犯した爆破炎上事件のニュースが、誘拐事件と交互にひっきりなしに流れている。
彼女は目を細めながら、口端を微かに上げた。
「とりあえず、計画は順調ね。あとは、捕まってしまったらしいエンジェルをどうするか」
呟いた彼女は小さくため息をつき、少し車のスピードを上げた。
「折角割に合わない事までして逃がしてあげたんだから、感謝しなさいよ? Cool guy……」
***
一台の車と、一台のバイクが猛スピードでその夜間救急病院に入り込んだ。バイクから降りた平次は、急いで前の車の戸を開け、コナンをそっと抱え上げる。念のため、怪我をしていない方の肩を叩き、耳元で大きく名前を呼んで見るが、やはり反応はない。
「……とにかく先、行ってんぞ! 一刻を争う状態みたいやからな」
「ええ、お願いね。私達もすぐ行くわ」
コナンを抱えて走る平次の後姿を、黒髪の少女はじっと見つめていた。車から降りた彼女らは、平次の後へと着いてゆく。
平次は受付に着くなり、抱えていたコナンを見せた。そして、早口言葉で怒鳴った。
「早よ医者呼んでくれへんか? 急患なんや! 銃創が足と肩と腹に三箇所、撃たれてしもてから結構時間経っとって、今はもう呼びかけても何しても全然反応せえへんねん! ぎょうさん出血しとるみたいで」
「わ、判りました。すぐにお呼びしますので落ち着いて下さい」
受付の女性は手元の電話に、コナンの事を告げる。間もなくしてストレッチャーと共に医師と看護婦がその場に現れ、寝かされたコナンは数名分の足音と共に運ばれて行った。
平次と、すぐに来たジョディや黒髪の少女らは、その後を追って走りながら、医者や看護婦にコナンの状態を説明した。
手術室へと入っていくコナンを見送りながら、ランプの点灯と同時に、三人はすぐ前の椅子に座り込んだ。
「――とりあえず後はお医者さんに任せるしかないやろ。ジョディ先生のお陰や。最短ルートで信用できる病院連れてきてくれたんやからな」
疲れ切った顔の平次が、ため息交じりのだれきった声で言うと、一番手術室側に座っていたジョディは小さく苦笑した。そして、平次を挟んで座る少女の方を覗き見る。
「お礼なら、私よりその子に言うべきよ。ずっと応急処置と人工呼吸して病院までもたせたのは彼女なんだから」
「こ、この嬢ちゃんがかぁ?」
平次が思わず顔をしかめて左隣を見ると、彼女は平次を見上げて、微笑を浮かべた。
「そういや、まだ名前聞いてへんかったな」
「私、笠原真美よ。お兄さんの名前はもう聞いてるわ。よろしくね」
スラスラと抑揚のない口調で答えた少女は、この状況にも関わらずまるで冷静そのものなようだ。ただ、平次がつい首を傾げたのはそんな理由ではない。
「なあ、あんたどっかで会うた事あらへんか?」
「ええ、会ったわ。さっき車の中でね」
にこにこ笑いを崩さず答えた少女を、平次の怪訝な視線が見つめた。歳相応とは違う、食えない笑いだ。平次は一瞬考え込むように手術室のライトに視線を映した後、少女を鋭い瞳で射抜いた。
「――あんた、何者や?」
つい口から出た問いに、少女は薄っすらと冷笑を返した。
「私? ……さあ、何者に見える?」
追い詰めるように眉をひそめ睨む平次の視線を、少女は細めた瞳で、まっすぐに見上げ返した。平次が犯罪者相手に向ける程の鋭い視線で少女を凝視しているというのに、彼女も臆する事すらせずその視線を受け止めていた。
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