第5章 暖かな陽射し
<1>
昼下がり前の冬の暖かい陽射しが、史華のいる教室にキラキラと差し込んでいた。
その陽射しは、窓際の席にすわる史華を、優しく包んでいた。
教壇で弁を振るう英語教師のリーディングには全く耳を貸さず、史華はさっきから英語の教科書を立てて壁にしながら、一冊の手帳を優しい眼差しで見つめていた。
――……もぅ、なにコレ!? 先生ださいっ。
『白黒で…証明写真だけどさ、今日校長先生に提出する履歴書用に撮って余った写真だ。』
『耳を書いて横に公、その下に心。シは…歴史の史だ。』
「聡……史……」
昨夜、自分の手帳に貼られた聡史の証明写真の下に、史華は聡史の名前を鉛筆で走らす。真面目に写った白黒の写真は、少し折れ曲がった線が老人のシワのように入り込んで、どことなく間抜けに見える。史華は、その写真を見て、くすっと静かに微笑んだ。
「聡史」と書いた名前の横に、史華は可愛らしい流れ星の絵を描き、最後に"2008,1,9"と日付を入れた。
史華は、その手帳を満足げ見つめて、思わず嬉しくなり笑みがこぼれてしまう。
ふと、思い出したように教壇の上の時計に目を移すと、もうすぐ授業も終わりを告げ、昼休みに入ろうとしていた。
史華は、はやる気持ちを押さえながら、冷静に時計の秒針がゆくのを見つめる。
「……10、9、8、7、6、5、4、3、2……」
「よし、終わった!!」
史華の心に、歓喜の声か上がるとともに、午前中の授業終わり、昼休みの始まりを告げるチャイムの音が、校舎に響き渡った。
「……起立、礼…」
「ありがとうございました。」
学級委員長の号令とともに挨拶を終えると、史華は誰よりも早く教室を飛び出す。
3階にある史華の教室の外に真っ直ぐと伸びる廊下を懸命に駆け、階段も一段飛ばしで駆け降りた。
下駄箱で、靴を履き替えた後、校舎から校門へ続く並木道を一目散に、校門を目指し走ってゆく。
「………あっ!!」
もうすぐ校門が目の前だろうという付近に差し掛かった所で、史華は何かを思い出したように、急に並木道を逆走して、もう一度校舎の方へ向かう。
そして、医務室の窓がある所まで一旦もどると、外から医務室の中の様子を眺める。
よほど冬の暖かい陽射しが気持ちいいのか、聡史は窓にもたれかかり、気持ち良さそうに居眠りをしていた。
医務室に聡史がいる事を確認すると、まるで安らかに眠る子供の寝顔を見つめる母親のような優しい笑顔を浮かべ、また校門へ向かい走ってゆく。
<2>
「おばちゃーん!! いつもの2つちょうだい!!」
学校の横にある『マーメード』という小さなパン屋に着いた史華は、肩で息をきらしながら、元気よくその店の老婆に言う。
「……あっ、牛乳も2つ袋に入れといて。」
「まぁ、史華ちゃん。今日は良く食べるのね。」
その老婆は、笑いながらカレーパンと牛乳を2つずつ袋に入れてゆく。
「違うよ、おばちゃん。私が全部食べるんじゃないよ。」
「あら、あら、友達の分もなんだね。史華ちゃんは優しいね。」
会計をしながら、その老婆はニコニコしている。会計を済ました後、パンと牛乳の入った紙袋を大切そうに抱えた史華は、パン屋を出ようと入り口を開いた後、くるりと振り返り、レジにいる老婆に向かって、大きな声で叫んだ。
「違うよ、おばちゃん!! 好きな人だよ、好きな人と一緒に食べるの!! 」
店の老婆は
「……まぁ!!」と、驚いたあと、
「若い人はいいわね。」と史華に手を振り見送った。
<3>
校門と校舎を結ぶ並木道から少し脇に入ると医務室の窓あり、史華はそこに戻った後、もう一度、窓から中の様子を覗いた。
聡史は、窓にもたれかかり、まだ居眠りをしていた。史華は、にこっと笑うと、その窓を優しくノックする。
窓にもたれていた聡史は、びっくりしてピクンと身体が反応し、座っていた椅子から少しずり落ちそうになった。
それを見て、史華はまた小さく微笑む。医務室の中では、一体さっきのは何だったのかと、まわりをきょろきょろした後、また窓にもたれて眠りはじめた聡史が、史華には見えた。
史華は、「……もぉ」と、頬を膨らまし、もう一度、少し強めにノックする。
――ドンドン…!!
今度は、何ごとかと言わんばかりに驚いた聡史が、頭を押さえて、医務室の窓から不審そうに顔を出してきたので、史華はさっと物陰に隠れた。窓から顔を出し、きょろきょろと辺りを見回す聡史の表情が、なんとも間抜けで、物陰からそれを見ていた史華はクスクスと笑ってしまう。
史華は、斜めに掛けていた鞄から、聡史に昨夜、返してもらった『星の王子さま』を取り出した。
そして、その本だけが見えるように、物陰から聡史の顔の前にゆっくり差し出した。
聡史は、窓の外から突然目の前に現れた一冊の本にびっくりした後、ふぅっとため息をつき、本を持つ手を引っ張っる。
「君だろ……。」
「……ねぇ、一緒に食べよう!!」
呆れ顔を見せる聡史に対し、史華は自分の事に気づいてくれた事が胸の奥から嬉しくなって、満面の笑顔を浮かべる。そんな愛らしい史華の笑顔に、聡史もため息をつきながも、さっと史華に笑顔をなげかける。
「……入れよ。」
「あぁ、入ってやるよ!!」
史華は嬉しそうに、おどけて答えた。
冬の空に流れる雲たちの隙間から差し込む暖かな陽射しは、二人の頬をそっと優しくなでていた。
<4>
「へ〜、医務室ってなんだか病院みたいなんだね。」
医務室に案内された史華は、さっき買ってきたカレーパンと牛乳を聡史に渡すと、楽しそうに動きまわっていた。
「……まぁ、簡易的な治療しかできないけどね。…あ、治療というよりむしろ病院までの応急処置かな……。」
「ふ〜ん……」
「あっ、ねぇ君、いくらだった? ……コレ。」
聡史は、着ていた白衣のポケットから財布を取り出す。
「いいよ。おごったげるよ、ソレ。」
「バカ言うなよ。そんな訳にはいかないだろ。生徒に奢ってもらうなんて。」
「いいの、いいの。……ねぇ、じゃあ今度デートしてよ!!」
「デート……!?」
「うん。今日のお昼ご馳走したお礼に、私とデートして!!」
史華は、聡史の前にある患者用の回転椅子に、ちょこんと座り聡史に微笑んだ。
「……まずいだろ、生徒とデートなんて。誰かに見つかったらどうすんだよ。僕は、また大学病院に戻りたいんだから、変な問題起こしたくないんだ。」
聡史は、カレーパンを口にしながら、史華に言う。そんな聡史に、史華は少しぷっとふくれ、聡史が食べていたカレーパンを取り上げた。
「あっ、おい何するんだよ!!」
「先生なんてキライ!! もうコレあげない。私が食べる!! 先生なんてお昼食べないで、飢え死にしちゃえばいいのよ。」
「……ばか。お昼抜いたくらいで、飢え死になんてするかよ。」
ふくれっ面の史華に、聡史は困った表情を浮かべる。こういう時、聡史は、一体どうしていいか分からなかった。
「ダメなものはダメ」そんな事を、当たり前の大人のように、自分の意思をきちんと自己主張できるような人間ではなかった。
「…………」
「…………」
二人のにらめっこが少し続いたあと、口を開いたのは聡史だった。
「………分かったよ。デートするよ。」
「……ホントに!?」
「あぁ……。」
しぶしぶ約束する聡史に、史華はまた笑顔にもどり、食べかけのパンを返す。
「その代わり、絶対ダレにも言うなよ。」
「大丈夫だって、先生!! だって、私、そんな事を話す友達いないもん。」
「…………」
その言葉を聞き、聡史は一瞬昨夜の寂しそうな表情の史華を思い出す。
『……どうせ、見せかけの友達なんていらないよ。見せかけだけの母親に私は育てられたんだから……』
母親に愛されず育った史華。その分、誰かからの愛を学校で求め、求めれば求めるほど孤立してしまった史華。
自分のように、わざと人とは関わり合いをもたず『孤独』になった訳ではなく、史華は愛を一生懸命求めれば求めるほど、きっと失望し傷つき『孤独』を感じてきたのだろう。しかし、それでもまた誰かに愛を求め、一生懸命、誰かと関わりを持とうとする。
聡史は、目の前に笑顔で座っているそんな健気な史華を見つめて、少し胸の奥が痛くなる。
同時に、聡史は、こんな風に他人に関心を向けようとする感情が、自分にもまだあった事に対して少し驚きを感じた。
「……ねぇ、そう言えば君、ほら、初めて逢った日、南青山の病院にいたけど、どこか具合悪いかったの!?」
聡史は、この間から少し気になっていた事を、史華に聞いてみた。
「………えっ?」
その問いかけに、史華の表情から笑顔が一瞬消える。
しかし、聡史は、そんな史華に気づかず、牛乳を片手に、史華に尋ねる。
「……イヤ、ほら。大学病院に来るくらいだから、もしなんか大きな病気でも抱えてるんなら、知っとこうと思ってさ。一応、校医なんだし。」
「私の事……、心配してくれんの?」
「心配ってゆうか、学校でもしなんかあったら大変だろ。僕は、医者なんだから何でも相談してよ。」
その言葉に、史華は嬉しそうに、また笑顔にもどり答える。
「ぜんそくよ!! ただのぜんそく。ちっちゃい頃から、私、ぜんそく持ちだったの。」
「……そう。」
「うん!! だから先生は心配しなくていいよ。心配なんかしなくて……」
「あぁ…。」
「……ちょっ、先生、もぅ何やってんのよ、こんなところにいっぱいパンくずつけて。……子供みたい。」
ふいに、史華は無邪気な笑顔を浮かべ、聡史の口のまわりについていたパンくずに手をやる。
「ちょっ、オイ、やめろよ……!! 誰かに見られたらどうすんだよ!!」
「きゃははは。先生、さっきから、そればっか言ってるよ。ほら、ちゃんとこっち向いて……!!」
照れくさそうな聡史の声と、幸せそうに笑う史華の声が、無機質な医務室の中を暖かく色どっていた。
―――あの頃の僕は…
幼い君の心の中に生まれていた
触れれば壊れそうなくらい
小さな感情に気づきもせず
ただ暖かい冬の陽射しに包まれて
心地の良い
長い夢の中で
眠っているようだった
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