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気がついたら転生した魔法使いでした(または、とある象の物語) 作者:ふじやま

ユスティナ年代記

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中間報告

 あと数日で小学校の頃に書いたユスティナ・ノートが到着する見込みなので、とりあえず現状までのユスティナの記憶について、いくつか疑問点や問題点、考察などをまとめておく。



■言語の問題

 おそらくこれが、今後とも最大の問題となる。
 ユスティナたちは、高梨遙の視点から言えば、未知の言語で会話している。ここまでの記録はすべて、最終的には高梨遙の主観による「翻訳」が成されている状況だ。
 つまり、
1)ユスティナの、元となる体験
2)こちらの世界に転生したユスティナ(=私)が、その体験を思い出す。
3)私はユスティナなので、そこで交わされている会話を「理解」できる。
4)そうして「理解」した内容を、高梨遙の認識経路を通して、テキストにアウトプットする。
 このプロセスを経ている。
 従って、例えば「トオボエカラス」という固有名詞は、ユスティナがかつていた世界には、存在しない。ユスティナの「理解」が、高梨遙の「言葉」に置き換えられて、「トオボエ・カラス」という固有名詞として、私は「それ」を再度理解する。

 これは非常に厄介な問題だ。

 固有名詞であれば、まだしもそこに錯誤が発生する可能性は低い。問題は、慣用句や、定番の言い回しだ。

 例えば――先人に敬意を表し――あの世界の特殊なトンボのことを、私が最終的に「シリキレ・トンボ」と理解したとしよう。この場合、当然だが日本語の慣用句「尻切れ蜻蛉」との間には、何の関係もない。
 だがここで、一旦そのトンボのことを「シリキレ・トンボ」と理解したが最後、ユスティナたちが会話の中で「それはシリキレ・トンボだ」と言った時、果たしてそれが生物のトンボを指しているのか、それとも「中途半端な終わり方だ」と言っているのか、即座に判断がつきかねることがある。
 今までの記録でも、どこかでそういう取り違いをしている可能性は、ゼロではない。なるべく注意はしているが。

 同様に、ユスティナの呪文は、明らかに「高梨遙」による解釈が強烈に反映されている。
 私が最初に思い出した呪文、「我らは知る、世界は再び元の姿に戻らぬことを~」の一節は、核兵器の開発で知られるオッペンハイマーの言葉だ。
 またユスティナが使う最強の呪文は、カザリスの「死の舞踏」の抜粋だ。
 慎重に記憶を手繰ると、ユスティナが実際に唱えていた呪文と、これらの呪文は、当たり前だが、食い違っている。

 もっとも、その「高梨遙」の認識によって翻訳されたあとの呪文でも効果があるという点には、実務上の注意が必要だ。
 少なくとも私は、原子物理学史ないし核兵器開発史、またはフランス文学を専門にすべきではなさそうだ。講義中に大学を吹き飛ばす危険性がある。



■言い回しの問題

 言語の問題に隣接している。

「尻切れ蜻蛉」の誤解に近いが、意味が通じないときよりも、意味が通じてしまうときのほうが、より解釈は難しい。
 例えば、『食べるのが苦手な人は、生きるのが苦手な人』という表現は、そのまま理解するしかないが、これは偶然でなければ萩尾望都の漫画で登場人物の一人が言っていたセリフのはずだ。

 ――と、私が識別できるということは、つまりそれは、「実際には別の言い回しをしていたものを、高梨遙が萩尾望都のセリフに似ていると認識し、そのように記述している」可能性もある。
 また困ったことに、これくらいの言い回しだと、偶然の一致ということも、十分に考えられる。

 これが本当に問題になるのは、次の疑惑による。



■〈勇者〉は現代世界からの転生者ではないか

 仮説としては、都合が良すぎる。
 異世界の魔術師であるユスティナが現代に転生し、そのユスティナと旅をしていた〈勇者〉は現代から転生した人間。
 物語としては面白いが、いくらなんでもご都合主義だ。
 実際に発生する数学的確率は、絶無と言っていいと思う。

 だが一方で、「異世界の魔術師が現代社会に転生する」という特異点が発生している以上、「現代に転生してきた魔術師と共に旅をしていた〈勇者〉は、現代人が異世界に転生した存在だった」という現象を、確率上あり得ないというだけで無碍に捨ててしまうのは、危険なように思える。

 〈勇者〉が現代からの転生者ではないかと疑わせる要素は、多い。
 なかでも決定的に引っかかったのは、10番目のサンプル(イリスと〈勇者〉のピロートーク)の、最期の部分だ。

“四分の二が二分の一に割り切れるからって、四分の二で書かれた楽譜を、勝手に二分の一に書き換えることなんて、できない”

 これは野田秀樹の「半神」に登場する螺旋方程式、そして「半神」全体の展開を踏まえた言葉だ。

 もちろんこれにしても、〈勇者〉がまったく違う表現をしていたものを、高梨遙がそのように解釈した、という可能性は、ゼロではない。
 だが、これ以外のいくつかの疑惑(『食べるのが苦手な人は、生きるのが苦手な人』『ふるさとは、遠くにありて思うもの』『何でもは知らない、知ってることだけ』など)を感じさせる言葉と違い、この言葉には、算術的処理が含まれている。

 異世界においても、1足す1は2、2足す2は4だ。
 むしろあの世界の魔術、特に魔術理論とされるものには、こちらの世界で言う高等数学がかなり深く関わっている気配がある。

 逆に言えば、異世界と現代社会で、数学だけは、「解釈」されることなく、ユスティナの理解→高梨遙の認識へと、直結する。

 つまり。
『四分の二が二分の一に割り切れる』という言葉は、言語体系こそ異なれど、概念は一切変化することなく、記述されている。
 ここに、現代人である高梨遙の解釈が関与する余地は、ない。
「尻切れ蜻蛉」の誤解は、その大小を問わず、発生し得ない。

 だがそうなると、異世界の〈勇者〉が、現代日本の演劇の台本をガッチリと踏まえた喩え話をした、ということになる。
 いくらなんでも、こんなことが、偶然の範囲で起こりうるだろうか?
 これが偶然に起こりうるとするのは、「猿にタイプライターを叩かせれば、いつか偶然、シェイクスピアの戯曲が生まれる」という仮説を支持することと、そこまで変わらないのではないか?

 もし、〈勇者〉が現代人――おそらくは現代日本人――の転生だと仮定すれば。
 そのほうが、理屈が通る部分は多い。
 それこそ先に列記したセリフ3つは、「そのセリフそのままとして発言された」わけだ。

 であれば、万能の天才であるイリスが、〈勇者〉の言い回しに感心するのも、頷ける。
 ユスティナの記憶によれば、イリスの才能と知識は、音楽のみならず、文学や美術にも及んでいる。
 そのイリスを感心させる言い回しがポンポンと出てくるというのは、いくらなんでも〈勇者〉の文学的素養が高すぎる。

 だが、〈勇者〉が異世界の誰もが知らない、現代社会で編み出された言い回しを輸出して使っているなら。
 その言い回しが「新しいもの好き」なイリスを面白がらせるというのは、筋が通る。

 この場合、〈勇者〉は相当な萩尾望都マニアで、西尾維新も読んでいる人物と言える。
 少なくとも「物語」のアニメは見ているだろうし、羽川翼ファンである可能性も高い。
 「半神」は野田秀樹の作品だが、原作は萩尾望都だから、この人物プロファイルと矛盾しない。
 いずれにしても、相当なマニアというか、オタクが入った人物だ。

 ……クールジャパンは、異世界に輸出すれば、大ヒットするかもしれない。



■現代社会の「ユスティナ」

 もうひとつ、重要な前進がある。
 それは現代社会に、私以外に「ユスティナ」という概念があった、ということだ。

 これが私から独立した事象なのかは、判断がつかない。
 母が私の書いた妄想を読んで、そこから名前をピックアップしたと考えるほうが、ずっと自然だからだ。

 だが、ここには大きな地雷が潜んでいる可能性がある。

 ロザリンデが死んだときの記憶を踏み抜いた直後、私はロザリンデと星野先輩を同一存在のように把握した、謎の記憶を蘇らせている。
 間違いなく、あのとき横たわっていた死体は、星野先輩の姿をしていた。
 そして私は、それを自然に、ロザリンデだとも認識していた。

 異世界と現実社会は、明らかに異なった世界だ。
 だがここでその差を「異世界には魔法がある」ことに求めることは、できない。なぜなら、私はこの現代社会で、魔法が使えてしまっているからだ。
 そうなると、異世界と現代社会が、どこまで・どのように違うのか、疑わしくなってくる。

 むしろ「私が現代社会に転生できてしまう」という事実、そして「〈勇者〉が異世界に転生できてしまう」という仮説を踏まえれば、異世界と現代社会は、そこまで“遠い”存在では、ないのではないか?

 と、すれば。

 現代社会にも、イリスやアイリス、ロザリンデに相当する人々が、私の周辺にいる、その可能性は、否定できなくなる――または、まったく無関係な人を、そのように私が認識してしまう可能性は、もっと否定できない。

 これは、非常に危険だ。
 すでに私は、星野先輩とロザリンデは別人だと認識しながらも、星野先輩に「死なないでください」と懇願している。

 今後、イリスやアイリスと相似を為す(と私が把握してしまう)人物が周囲に増えていったら。
 ましてや配偶者であった〈勇者〉を、「見出して」しまったら。
 そのとき私は、現実をどこまで正しく把握し続けられるのだろうか?



 そしてまた、もし彼らに重大な危機が迫ったとき。
 私はどこまで、無力な「高梨遙」であり続けられるだろうか?



 本当に、ユスティナの記憶を、たどり続けるべきなのか。
 この問題は、解いてはいけない問題、割り切れない話なのかもしれない。
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