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2部-6 崩された均衡
     *

 スカーフを腕に巻きつけると、深い穴に落ちてゆくような感覚がレティシアを襲った。
 自分を呼ぶ声がずいぶんと遠く聞こえる。頭の中をかき回されるような感触。ただぼんやりと光を感じていただけの目に色が浮かんで見えてくる。耳鳴りも酷い。視覚が戻るときにはいつもこうなる。
「れ――て――?」
 心配そうに自分の名を呼ぶ声も妙に間延びしてゆがんで聞こえてくる。顔中の筋肉が引きつるような感覚が治まるにつれて、耳の痛みも治まってゆく。何度も瞬きしているうちに、色彩が像が結び始めた。
「レティー、大丈夫か?」
 ライスが優しい声で問いかけ、のぞき込んでくる。
「ええ、平気よ」
 ライスは膝を突いて椅子に座っているレティシアを正面から見つめた。心配げな表情で、色を失った唇をかみ締めている。
 いつも優しげな笑みを浮かべており、飄々として周囲に感情を悟らせない。しかし、それはメティスを訪れた後につけた態度だという事をレティシアは知っている。
 メティスの人々は物音を立てずに歩き、本心を悟らせない。目が見えなくなったばかりの時、あまりに静かな人々が恐ろしくてたまらなかった。そんな時、ライスの騒々しくも真っ正直な性格に何度も助けられた。
「これが何本か分かるか?」
 ライスは指を2本立ててレティシアに聞いた。意識や視覚の状態を確かめる診断法である。
「ちゃんと見えているわ」
「だったら答えるんだ」
 レティシアはライスに手を伸ばして、人差し指を立てて頬に突き立てた。
「1本じゃないぞ。本当に見えているのか?」
 ライスは生真面目に言って、ますます表情を険しくする。おまじないが再び空振りに終わったようだ。
「2本でしょ。そろそろ爪を切ったほうがいいと思うわ」
 ライスは自分の指を確認してレティシアから距離を置いた。だが、心配そうな表情は相変わらずである。
 シーグのいうとおりに、タイミングが悪かったのだろうか。元気が出るおまじないと言うからには、気持ちが沈んでいる時に使うものだろうに。リーザが目を覚ましたら、どういう時に使うべきか詳しく聞いてみなくてはならない。
「顔色が悪い、フィーリアを手放していた時間が長すぎたのかな」
「二点鍾から三点鍾の間だけなのよ」
「だけど、呼吸も乱れている。声もいつもと違うようだが」
「視覚を取り戻したばかりだからよ。スカーフを身につけたばかりの時はいつもこうなのよ。すぐに元に戻るわ」
 レティシアは安心させようと明るい声で言ったが、ライスは静かに歩きながら状況の説明を始めた。
「血族伝承型だけで、自身のフィーリアを持っていない場合は遥かに安定性に欠ける。手放しただけで、封土の中にいても激しく消耗するんだぞ」
 それは魔術師にとって共通の問題である。魔術を使う能力と引き換えに、封土から魔力を得なければ衰弱するのだ。様々な病気にかかりやすくなり、老化が異様に加速しする。フィーリアは封土から魔力を得るための器のようなもの。フィーリアと封土、片方だけが欠けても魔術師にとって生死を分ける問題なのである。
「ましてや、今回ほどフィーリアから距離を置き、しかも他者が魔術を使用した事は無いだろう。その後スカーフを身につける。つまり、消耗するような行為をしたのは初めてだ。とにかく用心したほうがいい」
 ライスは問題点を順番に挙げて結論を導き出した。フェルナンディの一族が半ば無意識に行う理論的な思考だが、それをいちいち声に出すのは止めて欲しい。特に相手の健康状態や個人の事情に関わる言葉に関しては特にだ。
「本当に平気なのよ」
「そうだろうか?」
 本心から言ったのだが、ライスは確認するようにじっと見つめてくる。レティシアの主観ではなく、客観的な事実を見つけるまで安心できないようだ。これ以上の心配はかけたくなかったので、レティシアは医者の前の患者のようにおとなしくしていた。
「……確かに顔色は良くなっているようだな。魔術や薬物。あるいは精神集中なども同じだが、五感を鋭敏にするあらゆる手段は体に大きな負担を与えるものだ。今回もその範囲の事だったのか」
 ライスは用心深くいいながら、テーブルまで歩いていった。そしてポットから茶をカップに注ぐ。
 香りから造血作用のあるネトルと、気持ちをさっぱりさせるレモングラスだと分かる。もっとも、その他にも複数のハープが入っているようだ。先ほどの心配げな表情から一変し、患者を診断する医者のような真剣な表情でレティシアを観察してる。
 ハープティーに口をつけると、舌にピリリと苦さがはしる。葉が開ききる前に湯を注いで、その上しばらく置いたままにしておいたのだろう。その上、少量だがニンニクまで入っているようだ。風味の調和など無視して、効果がありそうな物を片っ端から入れたのがすぐに分かる。お茶と薬を混ぜたようだとレティシアは思った。
 残そうかと思ったが、ライスがじっと見ている。仕方がないのでレティシアは一息に飲み干した。
「呼吸も顔色も元通りだな」
「気分もずいぶんと良くなってきたわ」
 それは嘘ではなかった。少々苦かったのは確かだが、水分を補給した事でずっと体が楽になった。何よりもライスが自分を気に掛けてくれているというのが心休まる。
「分かった。しかし、何かあったらすぐに言ってくれよ」
 ライスはうなずいて、他人行儀な口調を崩した。ポットから自分のカップに注いで一息に飲み干した。細い目が神経質に歪められた後に、すまなさそうにレティシアを見る。その表情があまりに情けなかったので、レティシアは口元を押さえて笑ってしまった。
「酷い味だな、これは」
「良い薬は苦いものでしょ?」
「薬のつもりはなかった。砂糖や蜂蜜でも入れたらよかったか」
「甘さで味を塗りつぶすよりも、淹れ方を変えたほうがいいわ」
 おどけた口調に対して、レティシアは上品に答えた。ライスは苦々しい表情で首を振りながらカップを置いた。途端に表情が一変して、感情を感じさせない無表情となった。
「さっき、王城から連絡が来た」
 ライスは懐から金の竜の紋章で銘を打たれた書状を取り出した。季節や天気といった長口上のあいさつの部分を斜めに読み飛ばし、最後の部分でレティシアは視線を止めた。
「諸国の特使を招いての宴、本日夕刻の七点鍾に開催?」
「旧メティオスマッシャーのうち七家出身のもの、この数日でシージペリラスと親交を深めたものは出席されたし」
 レティシアの困惑の声に、ライスの吐き捨てるような声が続く。
「七家の総動員した上で外部に向けての宴なんて。グラムファーレの長老がよく賛成したわね」
「してはいないよ、長老は現在意識不明だ。うるさ方が眠っている間に、事を進めようってわけだ」
「シェンナ王らしい強引なやり方ね。長老が目を覚ました後に陛下と衝突するんじゃないかしら?」
「実行するという事は、ゲイル卿が成功の可能性が高いと判断しただろう。あるいは、揉め事を覚悟してもそれ以上の収穫ありと判断したのか、まだ何かたくらんでいるのか。とにかく、彼のやる事に無駄はないからね。悪手に見える行動の向こう側に何があるのか分からない」
 ライスは糸目を油断なく細めて先を続ける。
「王城と謁見の間の守りを担当していたからこそ、グラムファーレは七家で最も強い決定権を持っていた。だが、リーガルバックラーが破壊されているし、直系で動けるものは一人もいないんだ。そのために今日の謁見。つまり、インボルグの後の最も重要な謁見で、陛下を守っていたのはベクターだった。その上、フィーンドの長老が王都の守りをブラスト(噴出)の系統で固めるべきだと吹聴して回っている」
「攻撃的手段で王城を要塞化し、諸国を威圧する。そんな事をしても敵を増やすだけよ」
「フィーンドの長老にとっては、他の六家が目下の敵なのさ。七家の中で同じ考えの者は多い」
「だけど、七家全体と王家のバランスが崩れ始めているわ。その中心にいるのはシーグさんなのね」
 レティシアの指摘にライスは静かにうなずく。
「……そうだ。彼が現れてからすべてが変わってしまった。天空の水盤に姿を現してから6日。たったそれだけの間でね。7日目にはメティスが引っくり返っているかもしれないな。諸国が黙っているのは、人々が彼の出現に驚くばかりで対応を決めかねているからだ。特使たちも本国との連絡を急いで取っている事だろうね」
「騒ぎが落ち着いて、シージペリラスへの対応を決めるまでのささやかな平穏ね。いっそ、戦でも起きれば――」
 レティシアの呟きにライスはギョッとして体を起こす。言葉の意味が頭にしみこむと、レティシア自身もゾッとした。
 乱世の時代には争いの矛先に追いやられ、平治には謀殺の憂き目を見る。歴代のシージ・ペリラスの末路そのままではないか。
「不穏な事を言ってしまったわ。忘れてください」
 レティシアはあわてて言葉を訂正した。
「見者の君が言うと未来の予知にしか聞こえないよ。君のつぶやきが何度現実になったと思う?」
 ライスは口元を手で隠して独白する。
「しかし、実際の問題として一度動き出すと止まらないだろうな。今まで停滞していた分だけ特にね。レイザークの公子でシージペリラス(命取りの座)、そしてロディウス・アクテの弟子であるという事が諸国に与える影響も強い。しかも、オースピニルのガイス・ジュサックが率いるメティオスマッシャーを倒し、メティスのリーガルバックラーを破壊した。メティスに現れたその日に、王の名の下に決闘者としての地位を得ることにならなければ、オースピニルの特使が彼の身柄を要求してくることも考えられたわけだ。実際に、今日の騒ぎも彼から決闘者の資格を奪い去る事が目的だったわけだからね」
 淡々とした口調で呟いていたライスはハッと表情を変えて、レティシアを見つめた。
「別にレティーの事を責めているわけじゃない。あー、さっきの予知が的中って話も君の事を悪く言うつもりはなくて……」
「分かっています」
「いや、とにかくすまなかった。だいたい、私は二言三言は多すぎるんだ。余計な事ばかり喋ってしまう。いっそ黙っておくべきなんだろうな」
 黙っておくべきと言いながらもライスは早口で一挙にまくし立てた。気持ちが高ぶると途端に饒舌になる癖は今も昔も変わっていない。
「公式の場では失敗なんてしていないわ」
「本当にそうかな、君やグラークがうまく取り成してくれている事に後で気づいて悔やんでばかりなんだよ。。場合によっては二、三日経ってからなんて時もある」
「それでもいいじゃない」
「いつか、取り返しのつかない事をしてしまいそうだな」
「失敗なんて何もしていないわ」
「うーむ」
 ライスはうなり声を上げた。そして、喋りすぎた事を悔やむように口をつぐむ。
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