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1章-11 チューって何?
      *

 首から流れる血は、皮鎧の首元から胸まで赤く染めていた。
「やっぱり、買い直すしかないのかな」
 汗と血でまだら模様になった皮鎧を見て、シーグはつぶやいた。かやぶきの家が見える広場までもう少し、というところで足音が近づいてきた。幻覚の壁を通り抜けて、サフィリアが姿を現す。
「シーグ、大丈夫?」
 青ざめたサフィリアは走り寄ってきて、ハンカチでシーグの首元を押さえる。
「おい、水盤の前から離れてもいいのか?」
「大丈夫よ。ガイス達は立ち止まっているから。ねえ、腕も冷やした方がいいんじゃない?」
「いや、冷やすと動きが鈍くなる。こっちは戦いが終わってからだ」
 シーグはハンカチを受け取って傷口を押さえた。ハンカチが少しずつ赤く染まってゆく。サフィリアは次に水にひたしたタオルで、シーグの首元と肩口を拭いてゆく。
「もうちょっとで、ガイスのマントに届いたんだがな」
「私のせいで……ごめんなさい」
 いきなりの謝罪の言葉にシーグは調子が狂った。
「そんな事はない。あの矢の事。聞いてなかったら、怪我じゃすまなかった。本当に助かったぞ」
「……でも」
 サフィリアは急にしおらしくなって、うつむいたままだ。
「別にベクターがあんたの知り合いだって言われても、俺は気にしない」
 サフィリアは驚きの表情でシーグを見つめる。
「知り合いだって分かったら、本気を出しにくくなると思ったからだろ? 残念ながら、俺は手抜きができない性分なんでね。怪我をしたのは俺がヘマをしたからだ」
「いつ気づいたの」
「戦ってすぐにな。誰かさんにそっくりで足癖が悪かったし」
 シーグの言葉に、サフィリアは一瞬だけムッとしたが再び肩を落とした。
「彼は私に戦いの訓練を付けてくれたの。名前はベクター・フォルナージュ。宮廷魔術師にも、騎士団長にもなれるって言われた天才よ」
 サフィリアの落ちこんだ声の中に、誇るような響きがあるのをシーグは聞き取った。
「真上から襲撃したのに、完全に読まれていたな」
「魔術は終了したあとに一番大きな隙ができる。そう教えてくれたのは、あの人だもの。私の作戦を先読みされていたの」
「だけど、何もかもお見通しってわけじゃなかったな。水鳥でかく乱されると気づいていても、糞やら水草やらを落としてガイスに魔術を使わせた時も、背後からアイフェが襲い掛かった時も驚いていた。完全な不意打ちになっていたぞ」
 シーグの言葉にサフィリアは顔を上げた。
「つまり、あんたの作戦勝ちってわけだ。これからもこの調子でいこう」
「わかったわ」
 サフィリアは笑顔でうなずいた。そこで、サフィリアの瞳が透き通るような碧色だという事にシーグは初めて気づいた。湖岸の風が金糸のような髪をなびかせ、木々の隙間から差し込んだ光に煌く――――。
「ねえねえ、いつになったらチューするの?」
 突然の声に、シーグとサフィリアは驚愕して頭上を見た。そこでは、枝に腰掛けたアイフェがじっと2人を見ていたのだった。
「いつからそこにいたの!」
「ずっといたよ」
 アイフェは枝から飛び降り、空中で一回転して音もなく舞い降りた。そして、眼を輝かせながら、シーグとサフィリアを交互に見る。
「見つめあった後には、チューするのが礼儀なんでしょ?」
「そんな決まりはありません!」
 サフィリアが顔を赤くして、アイフェを怒鳴りつけた。そしてプイと背中を向けると、いそいそと家の方に歩いてゆく。
 感情しだいでずいぶん言葉遣いが変わるんだな、とシーグは思った。
「ねえ、どうしたの?」
「湖の水に用事があるんだろ。水盤を使うんだし」
 シーグはなんだか面倒な気分になって適当に答えた。
「さっきの言葉だけど、意味をわかって言ったのか?」
「なんのこと?」
「……いや、なんでもない」
 口に出すのも恥ずかしくなって、シーグは額を押さえた。
「あ、チューのことだね。意味は知らない。でも、みんなそう言うの」
 アイフェの言う『みんな』とは、日ごろどんな話をしていたのだろうか、とシーグは思った。
「ねえ、チューって何?」
「別に知らなくてもいい」
「でも、シーグもサフィリアも知っているんだね。世間の常識は私も知っておくべきなんだよ」
 シーグはどうやって誤魔化したものかと考えた。少し考え込んでから口を開く。
「その事を口にすると、サフィリアが大激怒するぞ」
 アイフェはビクリと肩を震わせた。
「ものすごく怒るって事?」
「いや、その程度じゃすまないな。とてつもなくて、すさまじくて、しかも終わりがない。自分で考えてもあんまりだと思う。恐ろしいくらいに悲惨だ………………」
 オドロオドロしい雰囲気を出しながら、ゆっくりと言葉をつむぐとアイフェはどんどんと深刻な表情に変わっていった。子ども特有の、豊かな想像力を総動員しているのだ。シーグが真っ直ぐ見つめると、アイフェはゴクリと唾を飲み込んで、目をまん丸に見開いていた。
「ぞっ!!」
「ひゃあっ!」
 止めとばかりにいきなり大声を出すと、アイフェは爪先立ちになって飛び上がった。ふと、そこで戻ってきたサフィリアと目が合う。
 すごく気まずい空気が漂った。
「小さな女の子を怖がらせて何を喜んでいるの? あなたって、やっぱり………………………………」
 サフィリアは言葉を切って、気味の悪いもののようにシーグを斜めに睨みつける。
「……なのね」
 あまりに長い、十以上の言葉を話せるほどの長い沈黙の後に、サフィリアはポツリため息のようにつぶやく。シーグは腕以上に胸が痛くなり、居たたまれない気持ちになった。
「そろそろ、次の作戦の話をします。家の前まで来てくださいね」
 何事もなかったかのように事務的な口調でサフィリアは家のほうを指差した。
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