1章 誓約の湖
『見者』は剣の様に切り立った険しい山の頂上に住み、星に最も近い湖を封土としている。
湖の名は『天空の水盤』。湖面は鏡のように澄み渡り、力あるものが覗き込めばすべてを知る事ができる。失われたものや隠されたもの、遠く離れた場所、あるいは過去や未来さえも。
祝福の先触れが知らされたとき、人々は見者の言葉を求め、賛美した。
災厄の来襲が告げられたとき、人々はののしりの声を上げ、責任を問う。
見者は見たものをただ語るのみ。しかし、聞き手は見者に対して強い思いを抱かずにはいられないのだ。
故に見者は必要とされながらも恐れられ、崇められようとも遠ざけられた。
先代の見者は死に、天空の水盤を受け継いだのはわずか16歳の少女。
彼女が見者となるにはあまりにも……。
*
「天空の水盤か……」
視界いっぱいに広がる鮮やかな青色にシーグは圧倒されていた。
目の前には広大な湖。湖水は雲ひとつない青空を映し出している。湖岸を取り囲む森がなければ、空と湖の境界線さえも分からない。
「だけど、肝心の見者は何処にいるんだ?」
湖面を覗き込むと汚れ放題の皮鎧を着た人影と目が合った。
「酷い格好だ」
シーグは苦笑いした。湖に写った少年も同じように肩をすくめる。湖面は磨かれた鏡よりもはっきりとシーグの姿を写していた。
幼さの残る顔は汗まみれだ。山道を歩いてきたので、黒髪には枝葉が絡みついている。薄手の皮鎧は汗を吸い込んでまだら模様になっていた。腰には細身の剣があり、数本のナイフをベルトに刺している。
見るからに戦士の装備だが、鎧ごしにもわかるほど細身なので決して無骨には見えない。成長期によくある事で、背丈の成長に横幅がついてゆかないのだ。
「鎧がぼろぼろだな。修理するより新調したほうがいいかな」
髪に絡んだ枝葉を払っていると、人の気配を感じてシーグは顔を上げた。額の汗が頬を伝って湖面に落ち、波紋が広がる。
「誰かいるぞ!」
少し離れた湖岸から一人の男がこちらを見て叫んでいる。青色のマントに、節くれだった木の杖を持っている。シーグが手を振って応えると男は驚き、慌てて森の中に姿を消した。
「何だ?」
男が姿を消した辺りから怒鳴り声が聞こえた。そして、鳥が慌てて飛び立ち、枝葉の折れる音がこちらに近づいてくる。友好的な相手ではない。
9人……。いや違う、6人にやたらと大柄なのが1人だ。シーグは足音から予測した。
居場所を宣伝するように移動しているし、手際が悪すぎるので物盗りじゃない。そんなことを考えていると、どたばたとあわただしく森を抜けて壮年の男たちが現れた。揃いの青いマントには金貨を意匠化した紋章がついている。シーグは湖岸から離れた。
「ほう、黒髪か。そうとう若いな……その方がいい」
一番最後に大柄の男、三人分の足音の大男は、1人だけ真紅のマントを羽織っていた。金貨の部分にギラつく金糸を使っている。
ずんぐりとした10本の指すべてに指に大きな宝石の指輪。そして、杖は金箔が張られていた。腕輪もずっしりとした純金製だが、マントを止めるブローチだけが青銅で出来た質素なもので、よく見ればそれは商人ギルドの認証だった。
商人で魔術士。金細工を好む大柄な男。シーグは相手の正体に思い当たった。
「おい、お前。名はなんという」
太った男は尊大な態度でたるんだアゴを少しそらせた。その拍子で頬の肉が揺れる。
「シーグだ」
「ああん? 女じゃないぞ。小柄で細いが男じゃないか」
太った男は鼻息も荒く、不機嫌につぶやいた。
「見ればわかるだろう。お前の目は節穴か」
更にいうなら肉団子のくぼみにしか見えないが、と続けそうになったのをシーグは自重した。だが、それだけでも相手を怒らせるに十分だったようだ。太った男は腐ったりんごのような顔色になると、突然金色の杖を振り上げて手近にいた男を殴りつけた。
よろめいていた青マントは、立ち直ると再びもとの場所に戻った。奇妙なことに、取り巻きの青マント達は、ちょうど杖の長さほどの距離を開けて並んでいる。
わざわざ殴られやすい場所に並んでいるのだろうか?
「報告したのはお前じゃなかったか。まあいい。お前の名はそれだけか」
「ただのシーグだ」
「ふん、卑しい『家なし』か」
侮辱の言葉を吐いて、分厚い唇がめくりあがる。どうやら、笑ったようだ。
「そういうあんたは、ガイス・ジュサックだな」
これ以上、顔の肉がうごめくのを見たくないので、シーグは早口に言った。
「ほう、俺も有名になったものだな」
ガイスがカエルのようにゲラゲラと笑うと、他の6人も声を合わせて大笑いする。
俺が噂に聞いたのは悪名のほうだ。と、シーグは心の中でつぶやく。
手当たりしだいの女好き。常に取り巻きを従えるカエルの王様。シーグはガイス・ジュサックの風評に、縦幅と横幅と奥行きに大差がない男、と付け加えた。
「で、家なしのシーグ。貴様はこんなところで何をしている?」
「用事があるんだ」
話すのもいやになってきて、シーグは適当に応えた。
「ここは魔術士の封土だぞ。勝手によそ者がうろうろするとは、俺を侮辱しているのか?」
「あんただってよそ者だろ」
「違うな。天空の水盤は俺のものだ」
「どういうことだ?」
シーグが問いかけると、ガイスはげらげらと笑った。取り巻きの青マント達も横目でそれを確認して大笑いを始める。ガイスが突然ピタリと笑い声を止めると、青マント達もあわてて口を閉ざす。一人だけ笑い続けていたのを、ガイスは杖を振り上げて殴りつけた。
無茶苦茶な奴だとシーグが呆れていると、ガイスはプルプルと顔に肉を震わせ始めた。さっきよりも顔がどす黒くなっていく。ものすごく怒っているのだろう、とシーグは見当をつけた。
「そうか。結婚を先伸ばしにして、時間を稼ぐつもりだな」
ガイスはブツブツとつぶやいている。
「何の話だ?」
「あくまでも歯向かうというわけか」
「俺にも分かるように言ってくれ」
シーグの問いかけにも答えず、独り言をつぶやいているうちに、ガイスの顔が今度はふくらんだ。取り巻きの青マント達も、恐る恐るガイスの様子を見守っている。
「よし、こいつを焼き殺すぞ」
突然、ガイスはシーグに向かって杖を向けた。次の瞬間、拳大の火の玉が飛んでくる。シーグは半歩横に移動するだけでよけた。火の玉は木の幹に当たると、ブシューと情けない音を立てて消えた。
「いきなりだな。頼むから俺の話を……」
ガイスは大上段に杖を振り上げると、気合の声とともに振り下ろした。だが、迫力に反して火の玉はさっきよりも小さい。シーグは足も動かさずに上半身だけ動かしてかわした。
「聞けよ、へたくそ」
「なんだとぉ!」
シーグが余裕を見せて言うと、ガイスは鼻息荒く怒り狂った。再び杖を振り上げる。
「魔術のことはよく分からないが、大振りはやめたほうがいいんじゃないのか? 集中して、正確に狙いを定めてだな」
「ええい、黙れ!」
親切心からの助言に耳を貸さず、ガイスは怒鳴った。
「貴様ら、力を貸せ。陣形を組むぞ」
「え!」
青マントたちは驚きの声を上げる。
「聞こえなかったのか、セブン・パワー・インテグレーション(七力統合陣)だ」
ガイスが威嚇するように杖を振り上げると、青マント達はガイスを中心に集合し、懐から赤い板を取り出した。手のひらに乗るほどの大きさで、表面は岩のようにざらついている。生焼きにした魚肉に見えなくもない。
「セブン、なんだって?」
シーグの問いには答えず、ガイスは顔中に血管を浮かべて薄ら笑いを浮かべている。やはり、答えるつもりはないらしい。
魔術士っていうのは、もっと理性的で話せる人間と思っていたけどな。なとど、悠長なことを考えていると背中に痛みにも似た感触が走りぬける。
理由は分からないが、とにかく危険だ。ガイスが杖を振り下ろした瞬間、シーグは危険を感じて倒れこむように横っ飛びに飛んだ。
今度は一抱えもある火球がシーグの立っていた場所を飛んでいった。そして、木の幹に当たると轟音とともに爆発した。幹がえぐれて木がバリバリといやな音を立てて倒れる。
ガイスは続けざまに杖を振り下ろした。今度は、膨れたガイスの顔よりも巨大な火球が飛んでくる。シーグは地面を転がってよけると、火球は湖岸の岩を木っ端微塵に破壊した。爆風とバラバラになった破片が飛んでくる。シーグはうずくまって木の陰に隠れると、とがった石が幹に突き刺さった。破片はガイスたちのほうにも飛んでいった。しかし、目前ですべてが弾き飛ばされる。
一発ごとに大きく、爆発の威力も上がってきている。その上、目に見えない壁まで出来ているようだ。
「これが陣形を組むってことなのか?」
シーグが驚きの声を上げると、ガイスの顔色が黒さを失っていく。怒りが静まったに違いない。
「ふふふ、家なしのシーグ。もはやお前に勝ち目はないぞ」
「残念ながらその通りだな」
ガイスは余裕の笑みを浮かべて、片ひざをついたシーグを見ている。
「今なら土下座して謝れば許してやらんこともない」
「……本当なのか?」
「考えてやるぞ」
シーグはわずかに頭を下げた。その瞬間、ガイスは火球を飛ばしてきた。今度は一抱えほどもある巨大な火球だった。シーグはその瞬間を待っていた。低い体勢から跳躍すると木の枝をつかみ、逆上がりの要領で木の上に飛び上がる。
火球は地面に直撃し、木を根こそぎ吹き飛ばしたが、シーグはすでに隣の木へ身軽に飛び移っていた。そして、地面に着地すると一目散に逃げ出した。
「むう、逃げたぞ。追え!」
だが、ガイスの命令に取り巻きの青マントたちは迷っている。
「俺に歯向かうのか!」
「しかし、これ以上バラバラになっては……」
「ええい、うるさい。さっさと行け」
「陣形が崩れ――」
杖で人間を殴る鈍い音で声が途切れる。次に男のうめき声が続いた。何をしているのか気になってシーグは足を止めた。
「そうか。陣形が崩れてしまう。行くな、離れてはいかん。まだ近くにいるかもしれんからな」
仲間にも酷い扱いをするんだな、と思いながらシーグは耳を澄ませた。だが、尊大で耳障りで大きな声もこうなってはありがたい。しばらくの沈黙の後、ガイスがうなり声を上げた。
「くそ! ここは天空の水盤だったな。ディテクト(探知)の魔術は使えん。ええい、なぜ誰も俺に言わんのだ!」
いちいち殴るからだ、とシーグは心の中で言った。
「見者め。小癪で腹立たしい小娘だ」
ガイスはいらだっている。シーグは木陰に隠れながら、声がよく聞こえるところまで戻った。茂みの中に潜んで聞き耳を立てる。
「今日は引き上げるつもりだったが気が変わった。あの小娘を引きずってでも連れて帰る。それに、小僧も生かしてはおけん!」
シーグはガイスに感謝したくなった。ガイスたちが水盤の魔術士の所に行く。だったら、後をつけていけばこの広い湖を探す手間が省ける。
「だが、その前に腹が減った。食事にするぞ」
「え? しかし今は……」
青マントたちの、途方にくれた声が聞こえる。
「ええい、何をぼんやりしている。さっさと準備をしろ」
ガイスは怒鳴り散らして八つ当たりしている。木を殴る乾いた音と、人を殴る鈍い音が湖畔に鳴り響いていた。
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