告白騒動から二日後。妙な噂も鎮まり、朔耶は何事も無い平穏な学生生活を送っていた。
「雨、降りそうだなぁ」
中途半端に明るい曇り空を見上げて呟く。実穂はクラブに出席、藍香は『特番の録画セットしてなかったーー!』と携帯で番組欄を見た後すっ飛んで帰って行ったので朔耶は一人でノンビリと下校していた。
ゴロゴロと太鼓のような雷の音が響き、ぽつりと大粒の水滴が朔耶の頬を打った。
「ああっ降って来た!」
走ろうかと鞄を脇に抱えた朔耶は丁度神社の前に差し掛かっていた事に気付き、雨宿りをして行くかダッシュして帰るかと逡巡した後、パラパラと降り始めた雨粒の大きさに雨宿りを選んで神社の境内へ駆け込んだ。
境内に人が居ない事を確認してから『精霊の風』を使って頭上に風の膜を発現させ、傘代わりにしながら屋根のある御堂まで走る。そこそこの広さを持つこの神社の境内は夏祭りや縁日などで賑わう事もあり、昔から地域の住人に親しまれて来た場所だ。
朔耶も子供の頃にはよく家族とお祭りに来た事があり、実穂や藍香と縁日に出掛けたりした事もある。
砂利を敷き詰めた境内は周囲を大きな木々で囲まれており、街の喧騒からは隔離されたような静けさを保つ。サーーッというノイズのような雨音と、時折聞える雷鳴にボンヤリ耳を傾けていた朔耶は、ふいに何かに呼ばれているような気配を感じた。
「……?」
キョロキョロと辺りを見渡すも、ここには朔耶以外に誰も居ない。幽霊の類がどうにも苦手な朔耶は、肩を震わせるとずぶ濡れ覚悟で走ろうかと腰をあげた。
……ヲ…………ヤメヨ……
「え?」
覚えのある感覚に動きを止めた朔耶は、頭に響いた声の主に向かって意識の糸を伸ばすイメージを行う。向こうの世界に居る時のようには行かなかったが、ラジオのチューニングを合わせるように交感を試みた。
クロノ ミコヨ チカラノ コウシヲ ヤメヨ
『精霊……? 黒の巫女ってあたしの事?』
朔耶は此方の世界で初めてこれ程明確な精霊の意思を感じた事に驚きながらも、精霊の声に意識を向ける。
ワレハ ケイコクスル チカラノ コウシヲ ヤメヨ
『精霊術を使うなって事? どうして?』
ヒトハ チカラヲ オソレ チカラヲ ツムグ ミコヲ オソレ イズレ ソレヲ ホロボソウトスル
『それって……』
何時からの言い伝えなのかはハッキリしないが、この神社には巫女に纏わる昔話がある。昔はお祭りの日などに紙芝居で演じられていた事もあるお話で、朔耶も子供の頃に観た覚えがあった。
この辺りが小さな村であった頃、何処からかやって来た巫女さんが村に住み着いた。その巫女さんは神通力を使って雨を降らせたり、川の氾濫を防いだり、人々の病気を治したりと奇跡を起して村の人々から尊敬と信仰を集めていた。
ある年、隣村で疫病が流行り、近隣の村や町は疫病と飢饉に襲われて人々は飢えていた。そんな中、この村だけは巫女さんの神通力に護られ、村人は平穏に暮らす事が出来ていた。
それを知った一帯の土地を治める奉行が近隣の村町から疫病を祓い、飢饉から救うよう要請したが、巫女さんは自分の力ではこの村だけで精一杯だからと断った。
その話を聞いたある村の衆が、自分達の村が疫病や飢饉に襲われたのはあの村の巫女が良い縁起を独り占めし、悪い縁起を余所に回したからだと叫ぶと、他の村々の衆達もそれに呼応し、巫女さんの住む村に焼き討ちを行おうとした。
しかし、巫女さんの神通力によって喚ばれた大火や突風などで返り討ちに合い、村に被害は及ばなかった。
だが、村の人々は大勢の武装した群集を一人で返り討ちにした巫女さんの力を恐れ、村を護ってくれたお礼にと贈った神酒に毒を入れて巫女さんに勧めた。
巫女さんは毒入りと知りながら其れを呷り、命を落とした。 巫女さんが死んだ直後から村は三日三晩、雲も無いのに雷鳴と嵐に打たれ、畑は荒れ、作物は押し流され、家々は突風で倒壊した。
村人達は巫女さんの祟りだと恐れおののいたが、御祓いに呼ばれたお坊さんに、今まで巫女さんが抑えていてくれた災厄がいっぺんに訪れたのだろうと窘められ、鎮魂の祠を建てて巫女さんを祭る事で再び災厄から護られるだろうと説いた。
そして、お坊さんが何処か虚空を見ながら、これで赦してやって欲しいと頼むと、一陣の風が吹いて雷鳴も嵐もピタリと収まったという。
朔耶はこの話を思い出すのと同時に、今 交感で触れている精霊の言葉にピンと来るものがあった。お話の中に出て来る巫女さんの力は何れも精霊術のソレだと考えられる。
精霊が怒りで暴れたような描写もあるが、それは単なる災害に巫女さんの祟りを結びつけたお話的演出なのか、或いはそういう行動に出る精霊も居るのかは判断が付かなかったが、朔耶はこの精霊がお話に出て来る巫女さんに使役されていた精霊なのでは?と感じていた。
『今は大丈夫だよ、それにほら――』
自身の記憶を見せるように、朔耶は向こうの世界のイメージを送り込む。
オオクノミコ オオクノワレラ ナンジハ セカイヲ ワタル クロノミコ
『黒の巫女ってのは、あたしと契約してる精霊との事だよね? 黒は偶々なんだけどなぁ』
強く警告を訴えていた精霊からの圧迫感が消え、穏かな空気に包まれる。相当に力の強い古い精霊らしく、自我に近い意識を持った精霊がこんな近くに居た事に、朔耶は驚きと同時に期待感があった。それを感じ取ったのか、精霊の方から問い掛けて来る。
ワレヲ シエキ シタイカ?
『うん、出来ればそうしてくれると助かるんだけど……この地の守護の仕事があるんだよね?』
これ程の精霊を使役出来れば、フレグンスを守護する精霊の力を借りる事無く向こうの世界に渡る事が出来る。だがその為に、この精霊の此処での役割を奪うわけにもいかないと、朔耶は二律背反な気持ちに迷った。
コノチノ シュゴナド シテオラヌ
『え” でもお話じゃあ……』
ヒトハ ツミノイシキカラ ノガレンガタメ ジシンヲ ナットクサセル モノガタリヲ オモイエガク
『じゃあ、あのお話は何処までホントなの?』
若干の沈黙後、精霊は朔耶の問いに答えた。
ミコハ トモニアッタ ヒトヲスクイ ウラギラレ シンダ
『そう……』
精霊の声は抑揚の無い響きで紡がれるが、朔耶はそこに哀しげな雰囲気を感じ取った。
ワレヲ シエキセヨ
『いいの?』
肯定の意識を返す精霊に、それならばと朔耶は早速この精霊と契約を交した。途端に意識を引っ張られるような感覚に呻く。
「うわっ きっつ……」
朔耶は自身が精霊術に関して本来はまだ初心者の域を出ない未熟者である事を初めて実感した。交感能力の未熟な者が力のある精霊と契約した場合のリスクというモノを思い知る。
シュギョウガ タリヌ
『う……分かってるわよ、努力するわよ』
何とか楽な意識の保ち方を模索し、一番負担の少ない状態に置くことが出来た。
余り意識をハッキリ覚醒させるとグイグイ引っ張られるので、ボケーっとしている状態が実は一番楽だと分かり、レティレスティアの天然気質はもしや精霊術が原因なのでは?と疑う朔耶だった。
「ただいま」
「お帰り~マイシスタ~!」
兄のような物体が歌いながらスキップで出迎えるので鞄を投げ付けて退治する。
「ヘイユー! 教科書の詰まった鞄を全力投球とは酷いんじゃあーりませんかユーアンダスタントメーン!」
「ごめん、今日はちょっとしんどいから付き合ってらんない」
謎の言語を操る兄をスルーして部屋に戻ろうとする朔耶のオデコに、ぺたりと大きな手の平が当てられた。ふむふむと熱を測っているが、朔耶は別に熱がある訳では無いんだけどなぁと思いつつもされるがままになっていた。ひんやりした兄の手が気持ち良い。
「ふーむ、熱は無いようだが……身体には気をつけろよ?」
「うん……」
「体調不良で向こう行きが中止になったら、姫様ご招待が流れてしまうからな」
「そっちの心配かい!」
ぺいっと手を払い除けて部屋に戻った朔耶は、そのままベッドに倒れ込むようにして横になった。
「う~~……結構しんどいわ、これ……」
ウツワヲ フカメヨ ココロヲ ヒロゲヨ
「へ~~い……」
朔耶は精霊のアドバイスにダルそうな返事を返してモソモソと起き上がると、精神統一の修行に入った。自分の意識に集中し、まず身体一杯に広がり、身体を包むように巨大化して部屋一杯に広がり、さらに広がって家一杯に、町一杯に、と何処までも広がっていくイメージを展開する。
地球や宇宙といった具体的な大きさの概念を持っている此方の世界の人間は、まだその辺りが有耶無耶な向こうの世界の人間よりもイメージを広げ易い分、交感能力を伸ばす修行の効果も効率が良かった。
『そういえば、向こうへは渡れそう?』
モンダイナイ
『そっか、じゃあこの前みたいな力使っても大丈夫だよね……』
キオクニ ミル コウシサレタ チカラ ワレヲ シタガエネバ オモイノママトハ イカヌ
フレグンスを守護する精霊は王族を護る事、王族の願いに添う事が大前提として在る。レティレスティアの願いに添う形で自ら朔耶に協力していた事もあり、尚且つ希薄な意識が朔耶の意識に引き摺られるように朔耶の意思で精霊の力が発現していた。
しかし、自我に近い強い意識を持つこの神社の精霊と重なった場合は、朔耶の意識に引き摺られる事無く精霊の裁量で力の行使が行われると指摘する。朔耶自身が気付かない危険にも精霊が反応する事が出来るので一長一短だと言える。
『えー、使役したってダケじゃ駄目なの?』
ワレトノ ケイヤクハ ユウコウ ワレヲ ツカウニハ シュギョウガ タリヌ
『そこは使役者に協力してくれるって事で……』
シュギョウニ ダキョウハ キンモツ
『けちー……』
中々厳しい精霊と契約してしまった事に、朔耶は『もう少し考えるべきだったか』などと考えていると、神社の精霊が励ましの言葉を掛けた。
ナンジヲ リッパナ ミコニ ソダテテ ミセヨウ
『あたし別に巫女さんじゃないんだけどなぁ……』
「でもまあ、ヨロシクお願いします」
朔耶はそう声に出して、古い神社の精霊を仰いだ。
クリューゲルの首都カースティアから南に数キロの地点に組まれた傭兵団の陣地では、各団長が集まり今後の戦略が話し合われていた。エバンスから脱出したフレグンス辺境騎士団がクルストスを制圧してエバンスへの反攻に動いており、カースティアからも傭兵団を迂回してエバンスを目指している隊が居ると聞く。
もはやサムズの反乱は失敗したと見られる中、カースティアに集結中のフレグンス軍本隊と戦う意味が無いのではないかという声が上がる一方、戦う意味など考えるまでも無いと作戦の継続を促す声もあった。
「我々傭兵は契約に従って料金分の戦いをする、それだけだろう」
「サムズの反乱の成否はこの際関係あるまい。俺達はただ仕事をこなすだけだ」
傭兵団の中でも取り分け大所帯の大手な団は契約厳守を推し、他の団もそれらの意見に倣うように作戦の完遂を選んだ。
「では明朝、攻撃開始と行きますか」
「うむ、うちの団はそれで問題ない」
開戦のタイミングを話し合い、総指揮をどの団に任せるか等の細かい取り決めを終えた彼等は明日の戦に備えて控えめな酒盛りを始めた。他愛無い戦功話に花を咲かせているうち、団長の一人がフレグンスの戦女神の噂について口にする。
曰く、空を覆うばかりの光の翼を持ち、戦場を自由に翔けまわる。
曰く、翼から放たれる癒しの光は死者をも蘇えらせる。
曰く、大軍を一瞬で葬る死の閃光を放つ。
「わっはっはっ 何処の悪魔か神話の神だソレは」
「いや、眉唾も多分に混じってはいるだろうが、カースティアを攻めた部隊はソレに壊滅させられたらしいぞ」
「そう言えば、儂等を運ぶ予定だった竜籠がソイツに竜ごと分捕られたって話も聞いたな」
「クルストスから逃げて来た連中の話じゃあ、見掛けは黒い髪をした子供らしい」
具体的な容姿まで報告されているとなると単なる戦場の噂話で片付ける訳にも行かず、警戒はしておくに越したことは無いと真剣な話になった。
「現われると思うか?」
「どうかのう……竜籠の話もカースティアの話もクルストスの話も、僅か一日二日違いって所じゃしなぁ」
「つまり、ソイツは一日や二日でカースティアからクルストスまで移動出来ると? 転移術か何かか?」
「いや……元から何人か居るんだとしたらどうだ? 何せフレグンスは精霊の国だ、精鋭の精霊術使いとか」
そうして推測混じりの議論が進められ、戦女神の正体として最も現実的な『フレグンスの特殊精鋭精霊術部隊』が存在するのでは?、という結論に至っていた。部隊名はサクヤ。
「サクヤか……最近話題の多いサクヤ式と関係あるんかのう?」
「フレグンスのサクヤ式と言えば、異国の発明家が考案したモノだそうだな」
「んん? 俺は異国の魔術士だと聞いたぞ?」
「発明家の魔術士なんだろう? 何でも王族に上手く取り入って異例の出世をしたと聞くぞ」
団長達の話題は次第にズレて行ったが、内容はともかく何れもある一人の人物を指している事を知る者は居なかった。
「母様、そろそろお休みになられては?」
「……そうですね、部屋に戻りましょうか」
城の書庫に籠もり、連日 精霊術に関する文献を読み漁っていたアルサレナは娘に促されて席を立った。朔耶が三度此方の世界に現われるまで後僅か、レティレスティアと朔耶の精神融合を防ぎながら深く繋がって世界を渡る方法を探しているのだが、思うように成果は上がらなかった。
「やはり、例の無い事だけに無理がありましたか」
意図的に精霊と重なる方法があるならば、先人の術者達がとっくに試して後世に伝え記されている筈だ。朔耶の例は本当に偶然の奇跡が生んだ異例中の異例なのだろうと、アルサレナは娘を王族史上最高の精霊術士にする事に未練を残しながらも無理なモノは無理と諦めた。
そうなれば次に考えなくてはならないのは朔耶の事だ。朔耶と重なる精霊はフレグンスを守護する由緒ある精霊だった。朔耶が此方に居る間、朔耶自身の持つ異世界の知識と精霊の力を持って、フレグンスは類稀なる恩恵を受ける事が出来る。
朔耶が現れるまでは停滞感と閉塞感に衰退の色さえ浮んでいたフレグンスは、今では嘗て無い程の活気に満ちている。
「精霊との契約が切れない程度に、力を抑えて貰う……それが一番なのでしょうね」
「……私は、サクヤが居てくれるだけで十分です」
王族の住居となっている城の上層に向かいながらポツリポツリと言葉を交す母と娘。母アルサレナは娘のそんな言葉に最近気になっていた事を尋ねてみる。
「ところで、この頃イーリスとはどうなのです?」
「えっ? イーリスは……」
突然の話題の転換に言葉を詰まらせるレティレスティア。朔耶が帝国に連れ去られた後、レティレスティアは少しでも交感能力を高めようと祈りの儀式に集中していたし、イーリスも彼自身の忙しさもあって余り会話をしていなかった。
「その様子ではあまり進展はしていないようですね」
「はい……」
レティレスティアのイーリスに対する好意が褪せた訳ではなく、イーリスもレティレスティアに対する気持ちは以前と変わりない。ただ間が悪いのかタイミングが合わず、互いに擦れ違いが続いていた。
「貴女もそろそろ世継ぎの事を考えていい頃なのですがねぇ」
「ええっ わ、私……まだ結婚もしていませんし……」
首元から赤く染まってシドロモドロになる娘に、少し箱入りにし過ぎたかと悩みの種を一つ増やすアルサレナだった。
「お兄ちゃんに残念なお知らせがあります」
朝食を終えて玄関を出た朔耶は、靴の爪先で地面をノックしている兄に唐突に切り出した。
「レティの訪問が無期限延期になりました」
「なにぃーーーー!」
頭を抱えて天を仰ぐ兄。朔耶は予想範囲内の反応だったので気にせず言葉を続ける。
「つきましては、写真だけでも撮影して来てあげましょう。良いカメラがあれば……」
「幾らだ! 機種はなんだ! やっぱデジタルか!」
兄に新型カメラを買わせようと画策する朔耶を尻目に、未だ姉の言う異世界について半信半疑な理屈弟は黙って自転車を押し出した。それに気付いた朔耶は颯爽と荷台に乗る。
「ちょっ 朔姉、重いって」
朔耶は帰って来た日以来、弟とは余り会話をしていなかった。明日にはまたオルドリアの地へ渡るつもりだったので、弟とのぎこちない空気も早く払拭しておこうと行動に出たのだ。
「はいはい、お姉ちゃんのスキンシップを燃料にきりきり漕ごうねー」
「俺はシスコンじゃねぇ! つか顎を撫でんな!」
「あたし、明日にはまた向こうに行く予定だから、何か御土産いる?」
ゆっくりペダルを漕ぎ出した弟の腰にしっかり手を回し、異世界の話をアピールする。家族に事情を話した時、一番多く質問し、一番納得していないのが弟だった。
「……じゃあ魔力石とそれを使った道具のサンプルと測定器」
「何か作る気? いっとくけど精霊の力が無いと簡単には加工出来ないよ?」
「石の加工なんか工夫次第でどうとでもなるじゃんか、父ちゃんの工場にも鉄を加工する機械があるだろ?」
「あ、そっか」
朔耶は向こうにある物の事だったのでうっかり向こうの世界を基準に考えてしまい、石の加工も此方の世界の技術でなら大して難しく無い事に今更ながら気付いた。
「こんなに抜けてる朔姉が活躍出来る世界じゃあ、俺が行ったら即英雄だな」
「ああん? 何ソレ、もしかしてあたしとお兄ちゃんで向こうに行った事あるのが羨ましかったとか?」
「別にそんなんじゃねーよ!」
「そっか、そっか、タカ君も連れて行って欲しかったのか~~、ふーーん」
朝からギャーギャーと騒がしい姉弟を乗せた自転車が通学路を進む。昨晩遅くまで降り続いた雨のお蔭か、空気の澄み切った朝はとても清々しい風に包まれていた。
体育の時間、クラスメイト達がグラウンドでバレーのネットを組んでいる傍ら、朔耶は制服のまま校舎の影に座る。
「あれ? 朔ちゃん見学?」
「うん、ちょっとダルくてね」
「昨日もダルそうにしてたけど……アノ日?」
「違うわよ」
ボールを器用に指先でクルクルと回しながら声を掛ける藍香は朝からボンヤリしている様子だった朔耶を心配していたが、朔耶は少し調子が悪いだけだからと笑って手を振った。
朔耶は先日よりは幾分マシになったとはいえ、神社の精霊との契約に意識を引っ張られて注意力が散漫になっているので、あまり身体を動かしたくなかったのだ。
『油断するとうっかり精霊術使っちゃいそうになるんだもんなぁ』
向こうに行けば精霊と重なる事でこの状態は解消されると予想するが、朔耶の意識がそのまま精霊の力として発現されない事にどれ程の影響があるのか想像も付かない。
『魔力石の加工とかにも精霊の力使ってたしなぁ……意識が混ざって性格変わったりしないでしょうね?』
……ソレハ ナイ
若干の『間』が気になったが、精霊が大丈夫と言うなら大丈夫なんだろうと朔耶はポジティブに流す事にする。バレーの授業では藍香が猛烈な天井サーブを打ち上げて隣のグラウンドで野球をやっている男子達の頭上に叩き込んでいた。
「ホームランサーブ!」
「藍香ちゃん、そのサーブじゃ勝てないよぉ」
何故かポーズを決めている藍香と実穂の掛け合いに、朔耶はクスリと笑みを浮かべた。
「?」
和んでいた朔耶の足元に何かが転がって来る。見るとそれは彼方此方汚れのついた軟式ボールだった。先程のホームランサーブの空爆で守備が乱れた為、取り損ねたボールが此処まで飛んで来たようだ。
「すまーーん! 投げてくれーー!」
センターを守っていた男子が叫んでいる。朔耶は和みモードでボンヤリした意識のままボールを拾うと、バックホームを叫びながら両手をぶんぶん振っているキャッチャーに向かって投げた。
うっかり精霊との交感中に『キャッチャーに届く』イメージを浮かべながら。
精霊の風に包まれるように運ばれた軟式ボールは二百メートル近く離れたキャッチャーのミットに吸い込まれていった。
「……あ」
ワレデハ ナイゾ
唖然とした表情を向けるクラスメイト達。
「あー……な、何か変な風吹いてるみたいだねー、藍のサーブも随分飛んだし」
「え? ああ、ナルホド」
「びっくりしたぁ 朔耶ちゃんどんな肩してるのかと思ったよー」
そのやり取りで皆は納得し、暫し朔耶の大遠投についての雑談で賑わう。『やってしまった』と硬直していた朔耶は藍香のホームランサーブを引き合いに出す事でなんとか誤魔化す事に成功した。
『ふう、危ない危ない……流石にこっちで精霊術なんて使って見せたら大騒ぎになっちゃう』
シュギョウガ タリヌ
「デジタルカメラとポラロイドカメラ、フィルムボックスにメモリーカードっと」
帰宅後、朔耶は明日に備えて持っていく荷物の整理をしていた。フレグンスの城に置きっぱなしのリュックや帝国の城において来たジャケット等、回収して起きたい荷物もリストアップしておく。
「携帯も向こうのリュックに入れっぱなしなんだよねー」
今回は家族公認の異世界行き、前もって準備をしておけるので服装等も動き易くポケットの多い便利なモノを選んだ。あれば便利な道具も幾つか持って行こうかと考えたが、あまり此方の世界のモノを持ち込まない方がいいという弟の忠告に従い、最低限に控えておく。
「朔姉、ご飯」
「今行くー」
朔耶は何時もより少しだけ豪華な夕食を家族と楽しむと、まだ話していなかった神社の精霊の事を打ち明けた。
「ほう、あの神社にそんな精霊が居たのか」
「懐かしいわねぇ、あのお話ってお母さんが子供の頃にもよくお祭りで聞いてたわ」
契約したのは良いがまだ御しきれていない為、此方の世界にる間は暫らくぼーっとしてる事が多くなると説明しておく。
「そういう事はなんでもっと早く言わないかな、学校まで車で送迎してやったのに」
「んー、早く慣れなきゃイケないし、流石に車で送り迎えはねー」
身体や健康に害は無いのかと心配する両親に、それは大丈夫だからと言って安心させた朔耶はご飯とオカズを平らげた。ぼーっとしていてもお腹は空くのだ。 夕食を終えてお風呂を済ませた朔耶は早めにベッドで横になった。
『向こうじゃ戦争みたいになってるけど、明日からヨロシクね?』
アンズルナ カナラズ ナンジヲ マモッテ ミセヨウ
意識の繋がりを通して地下の精霊も同意の念を送って来た事に、朔耶は感謝の念を持って眠りに付いた。
明朝、五時――
「くれぐれも危ない事はしないようにな」
「姫様の写真! 期待してい……ぐほっ」
「無理すんなよ?」
「ちゃんと帰ってくるのよ?」
早い朝食を軽目に済ませ、家族の励ましを受けた朔耶は大きく頷いて荷物を身につける。 荷物といっても、カメラの入ったウェストポーチと他ポケットに入る小物だけだ。
「じゃ、行って来ます」
まだ夜が明けきらない朝、準備を整えて家の庭に出た朔耶は、家族に見守られながら精霊に呼び掛ける。
『向こうへ送って』
地下の精霊が世界を渡る道を開き、神社の精霊が彼の地へと朔耶を運ぶ。朔耶の中に入った神社の精霊は内側から包み込むようにしながら異世界に存在する自身の遍在へと転移した。
バサバサッバフンッ
「わきゃ!」
景色が変わった瞬間、突然の浮遊感から落下、何か堅い布のようなモノの上に落っこちた。
「ちょっと、何よこれー……」
スマヌ スコシ イチガ チガッテイタ
灰色の大きな布の上に落ちた朔耶はその上をスルスルと滑って地面に着地、振り返って見るとその布は大きなテントだった。屋根部分に落下したらしい。周囲にも同じような形をした大小沢山のテントが並び、それぞれの出入り口付近には篝火が焚かれている。
一体何処に出たのかと薄暗い辺りを見渡していた朔耶の首筋に、冷たい鉄の感触が押し当てられた。
「足を滑らせるとは随分と間抜けな間諜もいたモノだな、フレグンスの者か?」
背後から声を掛けられ、振り返る朔耶。そのあまりに無防備な行動に、剣を当てていた男は若干眉を顰めると剣の刃をずらして一歩退く。首筋に剣を当てられているのにそのまま振り返るなど自殺行為だ。
咄嗟に刃をずらしたお蔭か、朔耶の細い首には傷一つ付いていないが一歩間違えば動脈が切れていた。
「お前……素人か? どっから忍び込んだ」
「え、えーと……」
来ていきなり剣を向けられた事で朔耶も面食らってしまい、状況の把握に梃子摺っていた。ただ、男の口から『フレグンス』の名前とそれに関連して紡がれた言葉から推測して、一つの可能性が浮ぶ。
『これって、もしかして……』
「団長! どうしました!」
「その娘、何者です?」
「見た事の無い格好だが、間諜の装備に似ているな……」
わらわらと武装した厳つい面の猛者っぽい男達が集まって来た。
「分からん、それを尋問している所だ」
「フレグンスの間諜じゃねぇんですかい?」
「俺もそう思ったんだが、どうも素人らしい」
「素人が俺達の陣地に忍び込んだってんですかいっ?」
彼等の会話を聞きながら朔耶は半ば確信していた。朔耶が現われたここは――
「ああ、しかも俺のテントの屋根に登ってたようだぞ?」
「団長の?!」
「ハッ 大した娘だなっ この『銀月の牙』パーシバル傭兵団の陣地に忍び込むたぁよ」
『…………こら精霊』
…………スマヌ
カースティアを攻める傭兵団陣地のど真ん中だった。
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