すげえ女
女性の身体に傷描写、子宮摘出表現、レイプ被害者の表現があります。許容出来る方のみどうぞ。
三十二年間生きてきて、一生忘れられないであろう女に出会った。
特筆するほどの美人でもなく、かといって可愛いわけじゃない。まぁ、普通。平凡っていう言葉が一番似合う女だった。
ただ、その女は呆れるほど無愛想であった。
自慢じゃないが、俺はモテる。
自惚れではないが、整った顔と高身長。ついでに三十二で課長職。出世コースをひたすら順調に走る男には寄って来る女も山ほどいる。
女を嫌いなわけではないが、俺の性格上、追いかけている時は楽しいが手に入った時にはもう飽きている。
つまる所、来るもの拒まず去るもの追わずのスタイルが一番楽。
出世欲も人並みに以上にある。野心家だと裏でいろいろ言われているようだが、言いたきゃ言ってろと放置している。
だから、専務の娘との見合いだろうがなんだろうが、自分のキャリアアップのためには利用させてもらう。専務の娘も連れていて自慢出来る俺が相手なら文句は言わなかったし、むしろ嬉しいと言った表情満載で、内心俺はほくそ笑んだ。
馬鹿な女は嫌いじゃない。
馬鹿にされるのは嫌いだが。
ある金曜日の残業終わり。
仕事も一段落ついたところで、ようやく帰るかと思い、エレベーターの前まで行くとフロアの一角にまだ電気が点いているのが見えた。時計を見るとすでに日付が変わりそうだ。金曜日の夜だって言うのにご苦労だなと思ってそこを覗くと、一人の女性社員がパソコンで何かを打ち込んでいるのか黙々と仕事をしていた。
良く見ると冴えない感じの女だ。多分他の女性社員に自分の残業を押し付けられたのだろう。確かここの課の女性社員は、見た目は派手なのが多いが仕事はほとんど出来ないので有名。他の課の男性社員達からは嫁を見つけるならこの課と裏で囁かれて入るが、社会勉強がてら男漁りに来ているのかと何度かここの課長が部長に派手に叱責されていたのを思い出す。
入り口のドアに凭れてその社員の仕事ぶりを観察していると、以外に手際がいいのかさくさく進んでいるようだ。とは言え、今の時間まで残業させているのはさすがに気の毒だ。違う課の仕事だが、手伝えるものかと考えていると、人の気配に気付いたのかあっちの方がパソコンから目を放した。
俺がいたのに一瞬驚いた様子だったが、反応はそれだけだった。
「お疲れ様です」
一言そう言った彼女はさっさと自分の仕事に戻った。
驚いたのはこっちである。なにせ俺がこの場にいて、動揺しないばかりか興味も示していないようだ。その反応に少しばかり自尊心が傷つけられて、ちょっとからかってやろうかと思った。
「手伝ってあげようか?」
「結構です」
「どれ、見せて。俺にも手伝えるかもしれないからさ」
「結構です。それよりもそこにいられると邪魔なんですけど」
パソコンから一切目を離さずそう言った彼女を、不躾に見てしまった。
なんだ、この女。平凡な女のくせに、俺の厚意を無碍にしてんじゃねえよ。しかも、俺は課は違えども課長だぞ。
ムカつきながら社員証を見ると『佐藤衣里』とあった。
この失礼な平凡女に俺の暇つぶしと、無碍にされた厚意の賠償をして貰おう。
相変わらず視線を独占している彼女の顎を掴んで、俺の方を向かせる。ようやく彼女はこちらを向いたが、如何にも迷惑そうにしていた。
「なんですか」
「佐藤さんさ、俺一応課長なんだよね。課は違うけど」
「それが?」
「残業時間減らせって言われて無かった?ここの課長また部長に怒られるよ」
「だから?まどろっこしいんで、さっさと要点言ってもらえませんか。それでも上司ですか、井上課長」
一応俺の名前は知っているらしい。
それにくすりと笑って、顎を掴んでいる手を放して座っている机に手を付いて、彼女との距離を詰めた。
それでも相変わらず表情を変えない彼女。なかなか獲物としては面白いかもしれない。彼女も、俺が相手ならば文句は言わないだろう。
多少の無茶をしてでも必ずモノにする。それが俺のポリシー。
「これさ、早く終わらせて俺と飲みに行かない?」
「は?」
「俺もさー、飯食ってないんだよ。佐藤さんも食ってないでしょ?」
「………」
「ほら、じゃあさっさと終わらせちゃおうか」
一人でやるには多い量だが、二人でやれば時間は半分で済む。しかしながら、一人にこれだけの量を押し付けていくのもどうだろうと思う。入力だけをすればいいというものでもないファイルまで存在しているのに呆れて、いつもこれを一人で仕上げているのかと思うと少しだけ関心した。
ものの一時間で入力は終わった。彼女を着替えにロッカーに行かせて、自分はエレベーターの前で待つことにした。着替えて来た彼女はやはり質素な格好で、正直一緒に並んで歩くのは勘弁したいところだったが、獲物だと認識している以上は優しくしてやらなければいけないだろう。
守衛の前を通り過ぎ、俺達二人は夜の街に出た。季節は丁度変わり目で、昼は暑いなと思える陽気でも夜になると若干肌寒い。早いとこアルコールでも飲んで温まりたいなと思っていると、隣を歩いている彼女が店方向ではない方へ歩いて行こうとしていた。
「佐藤さん?」
「井上さん、私まどろっこしい事嫌いだって言いましたよね。ヤるんだったら、さっさとホテルでもどこでも行きませんか」
ぎょっとしたよりも早く、笑っていた。まさか、こんな平凡な女がこんな事を言うなんて。
くつくつ笑っていると、彼女が呆れたようにため息をついた。
「ヤるんですか、ヤらないんですか」
「ヤる」
「じゃあ、ご飯とかいらないです。早く行きましょう」
きっぱりと言いきった彼女は、俺を置いて行く勢いで歩き出したので慌ててその後を追った。てっきりホテルに行くものだと思ったら、彼女が連れて行った先は自分のアパートだった。
まさか自分の部屋に連れてくるのは予想外だったのだが、まぁいいかと思った。
彼女の部屋は、ガランとした部屋だなというのが第一印象。
1DKの部屋にはシングルベッドとノートパソコン一台しか無かった。他には何も無い。テーブルもテレビもラックすらも。
あまりに自分の知っている女の部屋と違うので、思わず最近引っ越したばかりなのかと聞いたのだが、これが普通だと答えられては何も言えなくなった。
フローリングの上に直に座ると、コップに冷えた緑茶が差し出された。ありがたくそれに手を付けると、彼女がおもむろに口を開いた。
「井上さん、私身体に傷ありますけどいいんですか」
「傷?どこに?」
「ここに」
着ていたカットソーを捲くりあげ、穿いているスカートの位置を少し下にずらしたその場所にあったのは、確かに傷。というか、手術跡。
下腹部にあるその傷を正直、醜いなと思ったが、それを表情には出さないように気を付けたつもりだ。だが、それで彼女の表情は別に変わるわけでもなくただ淡々としていた。この傷の事は何も聞かないことにして、さっさと自分の欲求を満たそうと彼女の服を脱がせた。
彼女はなかなか感度はいい方で、案外いい声で啼くなと思ったが、それ以上に驚いたのは避妊しなくてもいいと言った事だった。それを聞いて一瞬躊躇ったが、何故だか彼女は嘘を付かないだろうなと直感で感じたので、それに素直に従った。
最中、ぼんやりとこの手術の傷と何らかの関係があるのだろうなと思ったが一回寝るだけの相手に深入りするつもりもない。
遠慮なく抱き潰した彼女にシャワーの場所を聞き、今までの情欲の跡を洗い流す。一回寝るだけだと思っていたが、体だけの関係の女にしてもいいかもしれない。寄ってくる女達のように自己主張をしないし、何よりも面倒な避妊をしなくても済む。なかなか都合のいい優良物件を見つけたのかもしれないとほくそ笑んだ。
シャワーを使い終わり、改めて風呂場を見ると、部屋と同様に物が極端に少ないなと思った。歯磨きセットと洗顔フォーム、メイク落としにシャンプー、コンディショナー。それとボディソープ。以上。
俺でももう少しあるぞと思いつつ風呂場から出ると、ふわりとタバコの匂いがした。
見ると彼女が下着を付けてベッドに腰かけ、タバコを吸っていた。
「タバコ吸うんだな」
「嫌いならさっさと帰ってください」
「いや、意外だなと思っただけ」
「はっ、下らない。帰るなら、鍵閉めてってください。ポストに投函して行って…って言わなくてもわかりますよね」
ふーっと煙を吐き出して立ち上がった彼女は、タバコを消して俺と入れ違いに風呂場に入った。
すげぇ無愛想な上に、笑顔一つ浮かべない。なんだ、こいつ…と思いながらもベッドの上に腰かけていると、女のくせにものの五分でシャワーから上がってきた。
風呂場から出て、おれがまだいるのに気付いた様子だったが特に何も言わない。俺もさっさと帰ればいいものの、彼女がパソコンを起動させるのをただじっと見たいた。
「帰らないんですか」
「あー、終電逃しちゃったし」
「タクシー呼びます。これ、タクシー代です」
携帯でどこかに電話して、ひらっと一万円札を渡された。多分タクシーを呼んでいるのだろうが、それは俺のプライドを傷つけるには十分だった。
俺は出張ホストでもなんでもない。それなのに、この平凡な女にホスト扱いされるのには我慢がならない。そりゃあ、俺の獲物としては最低ランクに入るだろうが、それでも俺の対応は普通に親切だったと思うし、今まで落とした女達にこんな扱いを受けた事がない。
こんな平凡な、普通すぎる女に…。そう思うとますます腹が立ってくる。
「おい、お前自分の事なんだと思ってるわけ?」
「逆に聞きますけど、井上課長って自分の事何様だと思ってるんですか?」
「俺が聞いてんだよ!!」
「声抑えてもらえませんか、今夜中なんですけど」
妙に淡々とした女の顔がムカつく。タバコを取り出して火を着けている女を見下ろす。目線は俺ではなく、パソコンの画面に注がれている。パチパチとキーを叩いているが、その音すらムカつく。だいたい俺が質問しているのにも関わらず、こっちを見ないのは社会人としてどうなんだ。
考えるより早く俺の手が動いて、パソコンを閉じていた。それでようやく俺を見たが、心底ウザイと言った表情だった。
「ヤッたらさっさと帰ってくださいよ」
「お前さー、自分が平凡なくせにこの俺に抱かれたんだぜ?ありがとうございますの一言もないわけ?」
「その平凡な女を抱いた貴方みたいな自意識過剰男も高がしれますけど。ていうか、さっさと帰ってくれません?本気でうっとおしいんですけど」
女は俺の顔に向かってふーとタバコの煙は吐き出した。
如何にも邪魔と言ったその感じに心の底から腹が立つ。背を向けて女の部屋を後にしたものの、用意されたタクシーには乗らずに自分の足で歩いて帰った。
家に帰っても腹の虫は治まらず、あの生意気で無愛想な女をどうしたものかと考えた。
俺のプライドを傷つけた代償は重い。クソ生意気で平凡なくせに。
そうして月曜日までずっと悶々と憂さは堪っていき、晴れない頭で出社した。一応課は違うが、会社は同じ。とは言え、今まで気付きもしなかった風貌を思い出せば、あの女は相当目を凝らさなければ発見出来ない。しかし、見つけたからと言って何をするわけでもない。むしろ、あの女に寄ってでもこられたら俺の趣味が疑われる。それに、最近では専務の娘との縁談も順調で、そろそろ婚約という話にもなってきている。こんな時期に会社の女に手を出すなんて失敗したかもしれないと思いながらも、妙にあの女の事が気に掛かった。
あいつは毎日毎日残業を押し付けられているようで、それを助けようとする社員もいないらしい。あれだけの量だ、睡眠時間は何時間もないだろう。それこそ、あの何も無い部屋に寝るだけに帰る生活を送っているかのようだ。
女子社員にあれだけの残業をやらせるなんてこの課の課長も大概人が悪いと思いながらも、それを助ける事はもう二度となかった。
しかしながら傷つけられた俺のエベレスト並に高いプライドを回復させる為に、ある一つの言葉を発した。
コーヒーブレイクがてらに、部下達何人かとで休憩を取っている時に少し聞いてみたのだ。佐藤衣里の事を。
そうすると一瞬部下達は意外そうな顔をしたものの、それでも笑いながら答えてくれた。意外な事にあの女は有名らしく『残飯処理の佐藤』の凄い蔑称が付いているとの事。なんでも残業したくない時は断らない彼女に頼むのが課の暗黙の了解になっているらしい。それでも、締め切り前に仕事を終わらせるし、内容もちゃんとしているそうだ。本人ですら気付けなかった内容も上手い具合にカバーされているので、それを当てにして彼女に仕事を頼むらしい。
しかしながら、彼等の口から一様に出るのは同じ言葉。
「だけど、佐藤さんマジで愛想ないですよねー」
「俺、笑ってるとこ見た事ないっすよ!」
「俺も俺も!!」
「あれじゃー、マジでお局一直線ですよ」
ゲラゲラと笑う彼等に、俺の傷付いたプライドも少しだけ溜飲が下がった感じがする。
「だけど、課長。なんで急に佐藤さんの事聞いてくるんですか?」
「ああ、この前帰ろうと思ったらまだ電気付いてるから、少しだけ手伝ったんだ」
「えー、本当ですか。よくあの人と間持ちましたね、さすが井上課長!」
「さすがってなんだよ。だけど、あの子よく見ると可愛いと思うけど」
悪趣味だと言わんばかりに顔を顰めた奴等を見て、これで種は蒔き終えたと思って休憩を終えた。あとはどう芽吹くか…。
くすりと冷たい笑みが零れた自覚はあった。
一日も経たずに俺が言った『可愛い』発言は尾ひれが付き、一週間も経つと『井上課長に気に入られていい気になっている女』認定されたらしい。
こうなると、黙っていないのが女だ。多分、半年も経たないうちにイジメに耐え切れなくなって辞めるだろうなと、ほくそ笑みながら成り行きを見守っていた。
案の定、女達は上手く立ち回ってくれた。
根も歯もない噂話に始まり、物が無くなると言った紛失騒ぎ、仕事の電話がかかってきた事をわざと伝えない事での失敗云々。陰湿なイジメはロッカールームでも起きているらしい。詳しい事は知らないが漏れ聞こえているのは、着替えが切り刻まれただの、財布の現金が抜き取られただの。さすがにパソコンのデータが消失したという事はないが、社内メールで回ってきた内容は笑いを禁じ得なかった。
『企画課の佐藤衣里は総務課長の愛人』
『キャバクラで働いているらしい』
などなど。数えればキリがないほどだ。
ここまでくればさすがに上も動いた。事実関係を確認するまで、彼女は謹慎という形を取らされた。
噂というものは凄まじい。
俺はただ『可愛いと思うけど』と言っただけ。それがここまで悪意を纏って事実が事実でなくなることにぞっとした。
さすがに俺の少ない良心も痛んで、彼女はどうしているかと気になったので、彼女のアパートの前に行ってみることにした。
ここに来るのも久しぶり。
あの出張ホスト扱いされたあの日以来。記憶の片隅にある彼女の部屋を見ると、電気が点いているので在宅しているようだ。インターホンを鳴らし、彼女の出迎えを待った。
「なんか用ですか」
「話があるから入れてほしい」
「私はないので、帰ってほしいです。これでも忙しいので」
「じゃあ、俺開けるまでここに居座るけどそれでもいい?」
「好きにしてください」
そう言って彼女はバタンとドアを閉めた。内鍵を開けている音もしないし、本気で開けるつもりはないらしい。忘れかけていたイライラが戻って来た。こうなりゃ意地だ、開けるまで居座ってやる。
そう思ったものの、本気で彼女は開けなった。
いくらなんでも、真夏を迎えた今は夜でも暑い。蒸し暑さからシャツはすぐ汗だくになり、あやうく脱水症状になりかけのところで家の前で待つのは諦めた。なけなしの気力を振り絞って玄関ドアを叩いた。
「まだいたんですか」
「悪い、水くれない?」
「自己管理も出来ない人なんですね、課長のくせに」
呆れたように言った彼女は、それでもようやくドアを開けてくれた。
外よりも断然涼しい部屋の中に入って出された水を一気に飲み干した。少しだけ生き返った気がしたが、今度は帰る気がしない。シャツは汗だくだし、少しだけ脱水症状を起こしている身体はふらついている。帰れなくはないが、一人で帰るのは危険だろう。
ぼーっとしていると、彼女がタオルを差し出した。
「シャワーでも浴びてきたらどうですか」
「あぁ、借りてもいいか」
「どうぞ。着替えはないので、洗濯機入れといてください。洗っておきますから」
温めのシャワーを浴びて汗を流し落とす。それだけで随分とさっぱりした様に思えるから不思議だ。
それでもあがったら彼女と話をしなければいけない事を思い出した。うっかり何でここにきたのか理由を忘れてしまいそうになっていた。
ブルリと頭を振って水気を落とすと、腰にタオルだけを巻いて風呂場を後にした。相変わらずタバコを吸っている彼女は、この前と同じでパソコンの画面を注視していた。見ればコミュニティーサイトなどではないようだ。
「シャワーありがとう」
「いいえ、服はもう少し待って下さい。脱水が済んだらアイロンでもかけますから。で?何しにきたんですか」
今回も直球でくるな、こいつは。
「佐藤さん、会社で嫌がらせ受けてる?」
「そうです」
「なんで?」
「そんなの知りませんよ。すいません、どいてもらえます。洗濯終わったみたいなんですぐにアイロンかけます」
そう言ってアイロンをシャツにかけるのだけれど、手際がいい。皺を伸ばすその手さばきは、その業種の者ではないかと疑いたくなるものだ。
一応下着は穿いているものの、如何にも早く帰れと言った感じがまたもや癪にさわる。
そりゃあ、俺の他愛の無い言葉でここまで悲惨な光景になったののは少しばかりの呵責もあるのも事実だ。それなのに、今回も前回同様さっさと帰れと言うのか、この女は。
「はい、終わりました。着替えたら帰ってください」
「あ、ああ、ありがとう…って、佐藤さんさ、仕事どうすんの?」
「どうするとは?」
「あんな状態じゃ仕事も出来ないじゃん?」
「そうですね。さっさと辞表出して辞めますよ」
おいおい、マジかよ。
「ていうか、さっさと帰ってくれません。邪魔なんですけど」
「お前さ、仕事辞めてどうすんの?当てでもあるわけ?」
「………それが井上課長に関係でもあります?興味もないのに手を出して、そのくせプライド傷付けられたからって噂立てて追い出そうとしているくせに、今更なんですか?そういう安くさくて偽善っぽい貴方の態度、本気で虫唾が走る。さっさと帰れ、ゲス野郎」
着替えていたからよかったものの、そのまま彼女の部屋を追い出された。
追い出された当初は頭が働かなかったものの、考えて見ると全部ばれている上に、あの暴言。ゲスってなんだ、あの女!確かに俺が全部仕組んだとはいえ、種を蒔いただけだ。それなのにあんな風に悪し様に言われるなんて、ありえない。
腹いせまぎれに部屋のドアをガンと一発蹴って、凹んだドアを見て少しだけ溜飲が下がった。
辞職宣言の予告通り、彼女は週明けに辞表を提出した。
事件があったのは、その後。ロッカールームに入った彼女が、専務の娘を激怒させたらしい。嬉々として噂話に余念が無い部下達の話を聞くと、こうだった。
噂を真に受けた専務の娘が彼女に、俺に近づくなと忠告しに来たらしい。しかしながら、彼女も彼女で近づくも何も一切関係がないと言い張った。それで専務の娘が業を煮やして、彼女を『石女』と呼んだらしい。
「石女?」
「佐藤さん、子宮摘出してるらしいんですよ。だからでしょ」
「………」
「それで、専務の娘さんとか寄ってたかって『子宮が無いなんて女じゃない』とか言ったらしくて。でもでも!佐藤さん、強いっすよ。『子供を産んでも虐待して殺しそうな女に言われたくないです』って。怖っ!」
「うわー、きっつ!で?どうなったわけー?専務の娘怒ってたんでしょ?」
「そうそう、専務に頼んで辞表を撤回させて、クビ扱いにしたらしいよ。でもさー、佐藤さんいなくなると、企画課大変なんじゃないっすかね。残業全部させてたんでしょ、佐藤さんに。課の女の子達合コン出来なくなるんじゃないっすか?」
がやがやと面白く喋っている部下達を尻目に、あの夜の彼女の傷を思い出していた。
確かに傷があった。それを醜いと思った事も。しかし、あれは…。
そう考えている時に目の前を彼女が通った。
「佐藤さん、顔腫れてない?」
「おいおい、マジかよ。青痣になってんじゃん…殴られたのか」
「でもさー、専務の娘ってこのフロアにいるだろ。って事は…専務?うわ、マジかよ、最悪。女に手出すなんて最低」
チラリともこちらを見ない彼女の去り際を見て、自分がした事の重大さを思い知った。
自分が蒔いた種は確かに芽吹いて枯れた。彼女一人が害を受けて。
最初はこうなるのだと思っていた。それなのに、良い気味だと思えない。
鬱々とした想いのまま、そのまま彼女のアパート前まで来ていた。電気は点いてない。すぐに帰ってくるだとうと思って部屋の前に座りこむと、ドアの凹んだ部分がやけに鮮やかに目に飛び込んでくる。このドアの修理代も払わなければ。八つ当たりをしたのは俺で、彼女が負うべきものではない。
一時間経つが一向に帰ってくる気配はない。もしかしたら寝ているのかもしれない。そう思って、一応ドアのノブに手をかけた。
「え…」
カチャリと開いたドア。鍵が掛かっていないのかと訝しんでいると、隣の住人が帰って来た。邪魔になるかと思って脇に寄ると、声をかけられた。
「そこの人引っ越したみたいですよ」
「引っ越した?いつ?」
「いつだっけな…。三日ぐらい前かなー。」
「三日…」
信じられない。確かに彼女は今日会社に来ていたのに。
じゃあ、あの時点で既にアパートを出ていたのか。一体どこに行ったんだろう。仕事を辞めたのだから手がかりはない。
謝罪したいと思ったのに。そう考えると、彼女が言った一言が脳裏に浮かんだ。
――そういう偽善っぽい貴方の態度、本気で虫唾が走る――
確かに。
俺は偽善者だ。
馬鹿な女は嫌いじゃない。
馬鹿にされるのは嫌いだが。
この場合、馬鹿なのは俺だ。
一人の女の人生を狂わせたのは、他でもない、俺自身。
償いをしようにも、馬鹿な俺には彼女の居場所もわからないのではどうしようも出来ない。
三ヶ月も経つ頃には、彼女がいなくなった弊害が如実に現われていた。
まず、残業を押し付けていた面々は仕事がままならなくなった。彼女がやっていたのは、ただの入力仕事でない。なんと彼女は、課全体の総仕事量の半分以上をこなしていたのである。しかも、彼女の仕事内容は他の社員では理解出来ないらしい。こうなると最早残業どころの話では済まない。
しかし、いくらなんでも彼女一人で仕事をこなしていたわけではないし、そうも弊害が出るものだろうかと思って話を聞くと、驚くべきことが次々と発覚する。
「佐藤さんのファイル、共有以外は全部外国語らしくて」
「外国語?英語だったら…」
「それが英語だけじゃないんです。フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、中国語、韓国語…ギリシャ語もあるらしくて。全部で十ヶ国語ほどあるみたいですよ」
「はあ!?」
「電話も鳴りっぱなしらしいです。海外の企画担当してたの佐藤さんじゃないんですけど、開拓してたみたいで…ロバート・スタンフォード直々に電話があったって…」
「ロバート・スタンフォードってあの?」
「そう、アメリカの不動産王ですよ。もう部長まで出てきて対応したみたいですけど『エリじゃなきゃ話にならない』ってすぐに電話切られたらしくて。しかし、佐藤さんって一体何者だったんですかね」
次々と彼女が残して行った問題が明るみになる中、またしても問題がわき起こった。
「課長、聞きました?」
「何を?」
「佐藤さんに嫌がらせしてた人達、全員訴えられたらしいですよ!」
「何だと!?」
「しかも専務も暴行で訴訟を…。佐藤さん側の弁護士が凄いですよ、上田高志ですって!」
「上田高志って、あの無敗記録更新中の弁護士の!?」
「そうですよ。暴言は全部ICレコーダーで録音されてて、専務に殴られた一件は隠しカメラ仕込んでみたいで…証拠能力ありすぎじゃないっすか?しかも訴えられた女全員が、名誉毀損と器物損壊で訴えられてます。あ、窃盗も入ってたかな」
あまりの衝撃で口も利けなくなっていると、また違う部下が課に飛び込んできた。
「おい、専務が横領で会社から訴えられたぞ!」
その驚くべきニュースにバタバタと社内が騒然となり、誰も彼もが唖然としている。いろいろと問題が立ち上がる中、それでも通常通り仕事はこなさないといけない。
専務の事は気になったが、自分は部下二人を連れてプレゼン会場へと出かけなければならなかった。
プレゼンは、外資相手だったが何ヶ月も根回しをして練りに練った今回のプレゼン。交渉段階でも相手側の好印象を見る限り確実に取れるという自信があったので、特に緊張もせずに会場に入った。
自社以外のプレゼンも大して見栄えもしない中、最後の一社になった。大手だが、提示された内容を見る限りでは、特に大穴でもない。
それなのに壇上に上がった人物をみて、瞠目した。
「嘘だろ…」
そこにいたのは、佐藤衣里。
しかも、俺達より確実にいい内容、いいプレゼン。みるみるうちに、相手側の顔色が喜色に染まった。何よりも、笑顔での説明は全部がギリシャ語。
特にギリシャ語での説明は求められていなかったが、この会社は本社がギリシャにあり来ている社員も日本語が堪能と言えど、半数がギリシア人。彼らの反応を見る限りでは、俺達がこのプレゼンを取る可能性は全く無かった。
負けたと、直感で思った。
「ちょっと、いいか」
帰り支度をしていた彼女を気になって呼び止めたものの、何を話せばいいかわからない。とにかく聞きたい事が山ほどある。一方彼女はあくまでも淡々とした表情を崩さなかった。自分が連れて来ていた部下達と一先ず距離を置いて話を聞く事にした。
まず何故、ここにいるのか。
「そちらの会社にいた当時から、ここの会長直々にヘッドハンティングされてたんですよ。今は日本勤務ですけど、一年後にはロンドン支社長の座を約束されてまして」
「支社長…」
「やる気のある社員ばかりで、残業も少なくなるらしいので楽しみです」
次。訴訟の問題。
「あんなの当然ですよ。あのまま私が泣き寝入りなんかするわけがないでしょう」
「専務の暴行もか」
「当たり前です。娘にあんな事言ったんです、娘バカの専務が激怒するに決まってます。ま、殴られたのは想定外でしたけど、お陰で暴行罪でぶち込めると思うと愉しみで…あ、その前に横領の件がありましたね。井上さん、専務の娘と結婚しなくて良かったですね」
「し…知ってたのか、横領の件」
「私があれだけの扱いを受けてもあの会社にいたのは、あそこの社長に頼まれたから入社しただけで。辞めるにしても、多少の膿は出してあげないとなと思っただけです」
次。ロバート・スタンフォードの件。
「ロブは私の養父です」
「養父…!?どういうことだ」
「少しぐらい自分で考えたらどうですかって言いたいところですけど…。ま、いいです。ロブの養子なんです、私。ロブの友人だった私の両親が飛行機事故で亡くなった時に引き取られたんです。彼と奥さんの間に子供はいないし、だったらと言って」
「ご両親って…」
「世界的バイオリニストだった佐藤弘靖とその妻の麗子です。母は『斎藤麗子』の芸名で女優もしてましたね」
「なっ…」
「ちなみに、弁護士の上田高志は父の親友だった人です。今回の訴訟、必ず勝つと息巻いていますので、訴えられた方々に精々お金を用意しておきなさいと。まあ、お金ならあるので慰謝料もろもろ全額寄付する気でいますけど」
最後。傷の事…
「ああ、傷ですか?学生の頃にレイプされてその時に妊娠したんです。それで産もうとしたら、生憎流産して。それで子宮が傷付いたらしくて摘出されたんです」
「レイプ…」
「誰が相手でも同じです。ヤることやったら全ては終わり。そこに感情なんて芽生えるわけがない。ただ単にそれだけです」
全部を聞き終えて、信じられないような気持ちで彼女を見る。
今回の社の騒動は、彼女が中心で回っている。下手をすればその遠心力から弾かれてしまうのではないか、そんな気すら感じさせる。
こうなれば謝罪しようという気は全く起きない。逆に、こっちが迷惑を被っている。
結婚を考えていた専務の娘は訴訟を起こされ、その父親も暴行罪で訴えられている。しかも横領の件でも社から訴えられている。
会社も今回のプレゼンが取れなかったことは大きな痛手であるし、彼女が抜けたことによる損失が大きすぎる。
そもそも、俺が彼女に手を出さなければこんな事にはならなかったのではなかろうか。きっとそうだ。
延々と問いが頭を巡る中、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
そちらを向いて「今行きます」と声をかけてこっちを見た瞬間、あれほど見た事のないものだと評された笑顔の彼女がいた。
「私、馬鹿な男は嫌いじゃないです。私が馬鹿にされるのは絶対に許容出来ませんけど」
「………」
「高飛車で高慢な人間の鼻っ柱を折る時の快感って、忘れられませんよね。ね、そうでしょう?井上課長?」
びくりと身体を奮わせると、それを面白いと判断したのか彼女は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあお疲れ様でした」
「おい…、まだ終わって」
「私は終わりました。ではもう会う事もないと思いますけど」
「お、おい!」
「あ、最後に一晩のよしみで面白い事教えてあげます。あの会社、外資から狙われてるみたいなんで気をつけた方がいいですよ。じゃあ、さようなら」
颯爽と歩き去った彼女の背を黙って見送った。
結局なにも言えないままに。
彼女の宣言どおり、半年後外資系資本がうちの社の株式過半数を取得し、このまま事業ごと売却か、そうでないかという岐路に立たされた。
訴訟を起こされた彼女達は全員が提示された和解案を飲んだ。一人頭二百万、専務の娘は三百万の和解金を支払わなければいけない。
専務は暴行罪もだが、横領の金額が三千万を超えていた。よくぞここまで発覚しなかったなと逆に関心したくらいだ。
この一件のせいで、婚約までしようとしていた話は白紙撤回され、俺は再びフリーになった。
とは言え、あの女の残した影響が強すぎて他の女に目が行かない。
あれほど彼女に対して自分が嫌悪した理由、それは同属嫌悪っていうやつなのかもしれない。
俺と同じ感覚を持つ女。
一度手に入れたはずの女は、いとも簡単に俺の考えの範疇を超え、あっさりと飛んで行った。
種を蒔いたのは自分だと思っていた。
もしかしたら、種を蒔いていたのは彼女だったのかもしれない。
忘れられない女に会った。
俺の生涯忘れる事が出来ない女に。
驚くほど無愛想で、超生意気。
だけど信じられない位、俺は嵌った。
短編にしては長い。
かといって、連載にするのもなぁ…と思いながらも短編で。
何を言いたかったのかと言えば、高慢男の鼻っ柱をぶった切ってやりたい。そんな事です。イマイチ書ききれてないような気がする…。なんとなく脇も甘いですね。
佐藤さんは名前が出てくるのに、井上課長は出てこず(笑)