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彼女

作者:黒森牧夫
 私が彼女を殺してしまったのだ。彼女を愛するが故にこそ、私は彼女の微笑みを永久に抹殺してしまったのだ。償いが出来ようとは思わない。癒し難い傷を癒せようとは思わない。壊れてしまったものが再び元に戻るというのなら、失われてしまったものがもう一度還って帰って来ると言うのならば、私は何を犠牲にしようと惜しくはない。が、その様なことは起こらない。それはエントロピーが増大するのと同じ位確かで、変え様の無いことだ。

 私は飛翔する。
 私は勝ったのではない。私と彼女が戦い、私が生き残った。その様に見える。だがそうではない。私は敗者なのだ。彼女は生命を失った。だが私もまた彼女を失ったことで生命を失い、彼女の中に閉じ込められた。私がそこから出ることはもうない。結局は彼女に打ち負かされたのか。いやこの場合、勝者は居ないのだ。少なくとも彼女の微笑みが偽りでなかったならば。私はそうだったとは考えたくない。
 私には何も残されてはいない。後悔は役に立たない。私は既に死んだ身だ。だが私は更に死を待たねばならない。二重の生が、二重の死によって引き起こされる。死は私に今や近しい。
 二つの生が、鬩ぎ合っていたのだ。二つの真実が、互いに譲り合わずに、水面下で死闘を繰り広げていたのだ。二つの渦流が、一つの大きな渦流へと溶け合い、更により大いなる流れの中で卑小なる互いを見失う筈だった。それが一体何処で手違いが起こったのか、果してどちらがどちらを呑み込んだのか、今となっては知り様は無い。知りたいとも思わない。これは珍しいことだ。知っても、何の役にも立たない。全く、何の役にも。

 全てが穏やかだったあの風景に、不調和が齎された。運び手は私だ。誰か責任を、と問われれば、恐らくは私以外にそれを負える者はいないだろう。力による介入が、不可思議の悍ましい意思が、夢想の浸透の中に引き裂かれた二つのものをを持って来た。行為の終極は個だ。そしてこの行為の主たる個は私だ。

 私は飛翔する。
 君は何者だ、と私は問うた。何故私を幸福にするのか、と。何故君は真に重要な唯一つのもので、何故君は静かなる歓喜の中心で、何故君は世界そのものでありそれ以上のものなのか、と。それは私をこの上もなく恐怖させたからだ。それは私を哀しませたからだ。ところが彼女は答えなかった。その代わりに微笑んだ。彼女は何も言わずに私を見詰めて微笑んだ。
 平穏と狂気が静かに息づいていたあの日の風の風景の中で、彼女は微笑んでいた。その背後には何者もいなかった。彼女は透明で、美しかった。生命の哄笑は遠いものに思われた。永遠が草原に着陸し、私達の傍で日向ぼっこをしていた。全てが単純で、清明で、静かだった。私達は静止した幸福の中にいた。何も起こらなかった。何も変わらなかった。
 それで良いと思った。そう思うことを、不思議にも思わなかった。

 私は飛翔する。
 だが彼女は失われてしまった。彼女は………。そして彼女が微笑むことは二度とない。

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