田中の欲と幸せABC
一、悲劇の始まり
「うおー、ぎゃー。」
爽やかな空気を切り裂くような悲鳴。とある山で滑落事故が発生した。事故に遭ったのは理系大学卒業後、某洗剤メーカー開発部一筋、これまで大きな下り坂も急な上り坂もない平坦な人生を歩んできた田中。田中は今、谷底に体を横たえていた。辺りは静けさに包まれている。かすかに聞こえてくるのは川のせせらぎだけだ。
「うっううぅ。」
絞り出すようなうめき声とともに、田中の体がわずかに動いた。どうやら命は助かったようだ。田中はやっとのことで体を起こし、体中を触って自分の無事を確かめ、ほどなくして立ち上がった。無傷であることに安堵した田中は、持ち物が気になり両ポケットに手を入れた。が、何もない。携帯電話も腕時計も、背負っていたリュックさえも見当たらない。唯一、お気に入りの登山帽だけは少し離れた場所で見つかった。妻と娘から誕生日のプレゼントにもらった帽子だ。田中は帽子を拾い上げてかぶり、前を向いた。
とはいうものの、何をすれば、どこに向かえばよいか皆目見当もつかない様子の田中は、辺りをゆっくりと見回しながら深いため息をついた。
「とりあえず歩くとするか。」
田中は力なくそうつぶやくと、川の流れに沿って歩を進めた。永遠とも思えるほどの時間が、ただ静かに、川のせせらぎと同じように流れていた。折れそうになる心を必死におさえ、とにかく歩いた。
どれくらいの時間が経っただろうか。すでに精根尽き果てていた田中の目に、遠くの明かりがぼんやりと映った。やっと家に帰れる。その思いが田中を再び奮い立たせ、その歩みは力を増した。
二、「異」との接触
自身の命の灯火のようにも見えた遠くのほのかな明かりが、今はっきりと目の前に確認できた。高い壁に囲まれた町だ。少し違和感もあったが、門をくぐり中へと入った。
まずは家族に連絡を入れなければならない。田中は門のそばにいた人に話しかけた。
「すみません。近くの山で滑落してしまって。家族に連絡を取りたいので……。」
田中の声に反応したその人は、一瞬顔を上げたが、驚きの表情を見せて顔を伏せ、足早に去って行った。その態度に少々疑問を持ったが、
「あのう。」
田中は別の人に声をかけた。ピンクの帽子をかぶった老婆だった。老婆は田中を見るなり、
「ぎゃっ。」と声を上げ、恐怖におののいた様子で体を震わせた。
「驚かせてしまって、すみません。実は山で事故に遭い、やっとのことでこちらにたどり着いたんです。電話を貸していただけませんか。」
「……。」
老婆は首を振った。体はまだ小刻みに震え、足もすくんでいる。
「この辺に交番はありますか。」
「……。」
なおも首を横に振り続ける老婆。田中は少し困った。
「えっと、怪しい者ではありません。自分は田中と言いまして…。」老婆が抱いているであろう疑心を解くため、簡単な自己紹介を始めた田中に、遠くから物凄い勢いで駆け寄ってきた人物がいた。見るからに警官といういでたちの男だった。ほっとした田中とは対照的に、その姿を目にした老婆は、必死の形相で震える体をよろめかせながら立ち去って行った。さっきの人といい老婆といい、何だか不思議な人達だと老婆の背中を見つめながら田中は思った。と同時に、
「貴様、何者だ。」と警官が怒鳴る。
この口調からすると、不審者扱いされているのであろう。
「おまわりさん。電話を貸してください。登山中に滑落して、携帯をなくしてしまったんです。」
「まずは貴様の名を名乗れ!」
「あっ、田中と申します。」
「田中?ふざけた名前だな。それよりその帽子はどこで手に入れた?」
「これですか?なかなか良いでしょう。誕生日に妻と娘にもらったんです。」
お気に入りの帽子について聞かれた田中は、相手の反応も気にせず喜々として言葉をつないだ。警官の表情がみるみる変化していくことにも全く気付いていなかった。
「すごく気に入っていて、山に行く時は必ずこれです。お店は確か、駅前デパートの……。」
「黙れ!手を挙げろ!」
そう言うが早いか、警官はピストルを抜き、銃口を田中に向けた。今の状況が全くつかめていない田中であったが、人生で初めて本物の拳銃を向けられ、事態がまずい方向へ転がっていることだけは感じ取れた。
田中が連行されたのは、味気ない石造りの建物で、中に入るとその空気は冷え冷えしていた。ここはどこなのか、なぜこのような状況におかれているのか。確信を持てることが何一つないので、田中は言いようもない恐怖と不安に襲われていた。
「田中だったな。お前はどこから来たんだ?」と先程より落ち着いた口調で警官が問いかけた。
「申し上げるほどもござりませんが、A県でございます。貴方様にお会いした折にも申し上げさせていただきましたように、登山中に滑落いたしました。その谷底から歩いてこちらに参られました。」
恐怖のあまり、へんてこな日本語だ。
「A県、知らんな。まあよい。ここがどこだか知っておるか?」
「私めの知識不足にございまして、存じ上げません。恐らくは隣のB県かと……。」
「本当に何も知らず迷い込んだんだな。」
そこから警官は、この国に関する色々なことを田中に説明した。「この国」、田中は耳を疑ったが、ここは日本ではない外国だった。日本のA県にある山から落ちて、どう頑張れば国外に出られるのか。「島国日本」という事実は、小学生でも知っている。悪い夢でも見ているかのような表情の田中にいささかの配慮もなく、警官は続けた。
「お前を拘束した理由は二つ。まず、配給以外の帽子をかぶっていたこと。そして、異なる帽子の人間にみだりに話しかけたことだ。」帽子が拘束理由とは、にわかに信じがたいものだったが、この国の法律について聞かされ、理解はできた。この国では、生まれた瞬間から帽子をかぶる義務が生じる。しかも、政府によって配給される身分や性別、所属を表すものだ。唯一、自宅の中だけ脱帽が許される。そして、この法律を破れば重い罰が待っているという。
「何か聞きたいことはあるか?」
「願わくば自宅に戻りたいと思っております。もちろん、知らなかったとは言え法律を犯してしまったのは事実でありますから、罰はお受けします。その後、日本へ帰る方法をお教えいただければ幸いです。」
状況が少しはつかめたおかげか、言葉がまともにはなったが、少々敬語が過ぎる。
「ならん!この国に一度入ったものは、いかなる理由があろうとも二度と国外へ出ることは許されん。もしそのようなことを企てたら、それはお前の人生に幕が下ろされるということを意味すると覚えておけ。」
田中は参った。そして絶望した。家族の元へ帰れないというのだ。そんな田中にお構いなしの警官は、
「それでは、お前には罰を与える。夜明けまではこの鉄帽をかぶれ。そして明日はこのピエロ帽だ。明日の日没後にお前の新居に案内するから、そのつもりでおれ。」と言い、立ち上がるよう促した。
そのまま田中は拘置所に連れて行かれ、鉄カブトのようなものをかぶらされた。これは想像以上に辛いものであった。頭がとても重く、首に直接おもりを縛り付けているような、そんな感覚が続いた。当然のことながら、横になることはできない。カブトの重さに悶絶しながらもどうにか耐え、一睡もせずに夜明けを迎えた。
空が明るんで来たら、あの警官もやってきた。田中のかぶっていた鉄帽を脱がせ、代わりにピエロ帽をかぶせた。頭自体は軽くなったが、首から肩にかけての筋肉はバリバリに固まっていたので、その軽さは余り感じられなかった。
「それでは日の入りの刻に、ここに戻って参れ。それまでは国中を歩き回るのだ。どこに行っても構わん。ただし、国を囲む壁から出てはならんぞ。」
鉄帽が肉体的苦痛を感じるものであれば、このピエロ帽は精神的ダメージがとてつもなく大きなものだった。これは「さらし刑」だ。このピエロ帽は罪人を意味する。それを見たある者はあからさまに嫌悪感を表し、ある者は一瞥し鼻で笑い、ある者は立ち止まりただジロジロと田中のことを観察する。田中はこれまで、日本から出たことがなかった。「普通」の生活をしていれば、誰にジロジロ見られることもなかったし、もちろん後ろ指をさされるような経験もない。平凡を絵に描いたような生活を送ってきた。それが今では、外国人というだけでなく、罪まで犯しているのだ。マイノリティーの辛さ、寂しさ、心細さを嫌というほど味わっていた。
「歩き回らなければならないか。じゃあ、この国を探検してみるか。」
好奇の目、冷ややかな眼差しをかいくぐり、壁に突き当たるまで直進することに決めた。やはりこの国は変わっている。学校、商店街、病院や住宅街が一つの集落を形成していて、そこから出ると十分ほど何もない空き地が続く。日本のように公園が造られているわけでもなく、木すら植えられていない。そしてまた一つの集落に当たる。どうやら集落ごとに帽子の色分けがされているようだ。赤の集落を抜け、黄色を通り過ぎ、青を抜けたら、ようやく果てにたどり着いた。壁は高くそびえたっている。見上げると銃を構えた警官達が周囲を見張っている。なるほど。壁の上に警官が配置されているから、あの時すぐに地上の警官が駆け付けたのか。この厳重な監視下では、この国から抜け出すことは難しいかもしれないと田中は感じた。そこからきびすを返し、反対の果てを目指す。赤の向こうはピンクで、その次に現れたのはオレンジだった。そして壁に突き当たった。再度赤に戻り、そこから九十度向きを変えて、先程と垂直方向に再び歩き出した。歩き回った結果、ここは赤を中心にして東西南北全方向に二つずつ集落が続き、合計九つの集落から成るこじんまりとした国だということがわかった。それぞれの集落は帽子の色が統一されているので、不審者や関係ない人間が紛れていれば一目瞭然だ。しかし、その中で赤は少し雰囲気が異なった。赤の中には様々な色の帽子が混在していて、赤い帽子の人物は見るからに偉そうだった。他の集落のような一般の住居もほとんどなく、頑丈な建物が目立った。そういえば拘置所も赤だったなと田中は今朝のことを思い出していた。国にとって重要な機関などが集められているのかもしれない。
気付けばかなりの時間が経っていた。空を見上げると夕日が傾きかけていたので、田中は急いで拘置所に戻った。
「どうだ、色んな意味で疲れただろ?」と警官は笑いながら言った。
「はい。歩き回って足が棒のようですし、人に見られることで気持ちが萎え、大量のエネルギーを消費したような感じです。」
「ははは。二度と法を犯さないことだな。では、行くとするか。」
警官はそう言うと、田中のピエロ帽を脱がせ、青いキャップをかぶせた。そして田中を新居へと案内した。
「俺の名前はハムスターだ。」
ハムスター、あの小動物と同じ名前だ。ハムスターなどという名前の人物に「田中」がふざけた名前だとは言われたくないし、この警官のどこにもハムスターのような可愛らしさはみつからない。しいて言えば、前歯が出ていて、何かを含んでいるかのように膨れた頬がその特徴に当てはまるだろうか。
「総長からお前の教育係に任命されたから、よろしくな。今後しばらくは、わからないことがたくさんあるだろうから、いつでも訪ねて来い。俺は拘置所にいるからな。」
少しばかり偉そうな態度が鼻につくが、悪い人間ではなさそうだ。ハム(勝手ながら略称を用いる)と他愛もない話をしながら二十分ほど歩き、青の集落までやってきた。
「この建物の一階五号室がお前の部屋だ。それからこれは、今月の生活費。ひと月にもらえる額は決まっているから、使いすぎないように気をつけろ。」
ハムはその後、部屋の中の簡単な説明や買い物の仕方など生活に必要なことを一通り話すと、帰って行った。田中は今朝ハムにもらったパンとバナナをテーブルに出し、食事を摂ることにした。これからどうするかという大きすぎる課題が目の前に転がっているが、先ずは腹ごしらえだ。しかし、やはり落ち着かない。バナナ片手に部屋の中をウロウロする。最後の一口を押し込んで、皮を捨てた。ゴミは分別の必要がないとハムに聞いた。楽なのは大歓迎だが、理系出身の田中にはその処分方法が気になった。
三―A「変わらず持ち続ける意欲」
田中にとって、新居での初めての夜が更けていく。この二日は色々なことがありすぎて、心身ともに極度の疲労状態だ。昨夜も全く寝ていない。今日も日中歩き回ってクタクタだ。だが、横になって目をつぶっても眠れない。それどころか逆に頭が冴えてくるような感覚さえある。田中の頭には、家族のことが浮かんでは消え、消えては浮かびしていた。田中は家族の元に帰るため、どうすればよいか頭をフル回転させた。ハムに相談しても無駄だろう。電話がないことには外部に連絡して救出に来てもらうこともできない。あれこれ考えてはみたが、残されたのは命をかけて自らの足で脱出するという策だけだった。これまでの田中は受け身の人間で、人生の岐路に立たされた時に自分で進む道を選ぶということはしてこなかった。しかし今、運が悪ければ人生が終わってしまう道を自分の意志で選択した。自身の決断に興奮を抑えきれない田中は、これまでにないほど勇ましい表情で、目を大きく開き天井の一点を見つめていた。田中の胸に去来するのはどんな感情だろうか。
夜が明けた。田中はつとめて平静を装った。日中はハムを訪ねたり、食材や日用品を買い込んだりした。もちろん、その行動のすべては怪しまれないためだ。そして、日が暮れていった。この国から抜け出せることへの期待からなのか、はたまた、最悪のケースが頭をよぎることからの恐怖からなのか、田中の鼓動は隣室へも聞こえるのではないかというほど速く大きいものだった。物音を立てないように、静かにそして慎重にドアを開け建物の外に出た。月が笠をかぶっているような曇り空で、脱出には絶好のコンディションだ。もし壁に到達するまでに警官に出くわしたら、散歩だと言おう。来たばかりで勝手がわからないから大目に見てもらえるはずだ。そんな言い訳を準備しつつも、一歩また一歩と着実に外へ向かっていった。
壁が見えてきた。門も確認できた。壁の上には昨日と変わらず警官達が一定の距離を保って立っている。さらに多くのサーチライトが休むことなく動き、周囲を照らしていた。まずは壁まで行き、警官の真下に陣取ろう。田中はサーチライトの動きを観察してその法則性を読み解こうとした。これは人生をかけた大勝負だ。こんなところでヘマをするわけにはいかない。じっくりと時間をかけ、盲点となるルートを見出し、消費出来うる時間を計算した。三、二、一、今だ。できるだけ速く、しかし落ち着いてダッシュし、壁にへばりついた。しばらくじっとし、頭上の様子をうかがった。特に変化はない。ということは、存在には気付かれていない。第一関門を突破した田中は次の行動にうつった。目指すは門だ。ここから右に十歩ほどで着くだろう。背中を壁に押し当て、少しずつ移動した。気分はルパン三世だ。田中の気持ちは高揚していた。しかし一方で、そんな自分を冷静に客観視しているもう一人の自分もいた。
第二関門突破。門まで無事に到達した。ここを曲がれば外の世界だ。壁を背にした田中は気持ちを集中させ、体を反転させるタイミングをさぐった。そして、大きく深呼吸をした。あと少し、もう少しで妻に、娘に会える。田中は心を決め素早く体をひねり、自由な世界へ向かって走り出した。数秒後、サーチライトに照らし出された。しかし今は前に進むだけだ。背中に明かりを感じながらも後ろを振り返ることはせず、ただ一心不乱に走り続けた。
「バン、バババン。」
辺りを乾いた音が支配した。その音は田中の耳にも届いた。音が聞こえると同時に、田中の動きが突然止まり、目は前を見据えたままその場に立ち尽くした。そして、膝から崩れ落ちた。妻の優しい顔、娘の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「もう少しで会えるよ。待っててくれ。」と田中の口が動いた。
結局、ここはどこだったのか。日本ではなかったはずなのに、なぜ日本語が通じたのだろうか。そんなことを思いながら、一世一代の勝負に敗れ去った田中は静かに目を閉じた。最後まで家族の元に帰りたいという意欲を持ち続けられたことは、彼にとって幸せだったのかもしれない。
三―B「転がり込んできたお金と金欲」
田中にとって、新居での初めての夜が更けていく。この二日は色々なことがありすぎて、心身ともに極度の疲労状態だ。昨夜も全く寝ていない。今日も日中歩き回ってクタクタだ。
「今日は早めに休むか。」と田中は布団に入った。ものの数秒で、田中は夢の世界へ旅立った。
朝を迎えた。もちろんそこに、妻もいなければ娘もいない。慣れ親しんだ自宅でもない。受け止めなければならない現実の中で田中は目覚めた。食事を済ませ身支度を整えると、外出した。今日は集落内を散策することにしたのだ。食料品を扱っている商店では、初めての買い物もした。広場のベンチに腰を下ろし、通り過ぎる人々の様子も観察した。思ったより住人達は明るく、幸せそうに見えた。
それから一週間が過ぎた。毎日のように妻や娘のことを考えるが、今の田中にはどうすることもできない。この国から抜け出そうとしたら、それは死に直結するということも以前ハムから聞いている。ここにいるという選択しか残されていなかった。ここでの生活は、まだまだ不慣れなことも多く、うっかり帽子を忘れそうになることもあったが、それ以外に大きな不便は感じなかった。ある日、買い物に出かけた田中に一人の老人が話しかけてきた。
「新入りさんかね。もうここの生活には慣れたかい?」
「はい、おかげさまで。でも、何故私が新しく来た人間だとわかったのですか?ここの方はみなさん、同じ集落の人の顔を覚えているのですか?」
「いやいや、それは無理じゃよ。ワシのような古い頭では。」と老人は笑った。
「帽子じゃよ。帽子が新しかったからそう思ったんじゃ。ワシらの帽子は、身分や地位、職業が変わらんかぎり、たとえボロボロになっても新しいものはもらえないんじゃ。天気のいい季節は、夜洗えば翌朝には乾いているから問題ない。じゃが、雨が続くと一晩じゃ乾かないから、帽子は洗えなくなる。臭くなるし汚くなるし。それが戴帽法の一番厄介なところじゃな。お前さんも、これからの季節、苦労するぞ。」
「おじいさん、『シュッシュ』持ってないんですか?シュッと一吹きするだけで除菌、消臭効果のあるアレですよ。」
「『シュッシュ』?はて、聞いたこともない名前だな。もしそんな便利なものがあるんじゃったら、毎日使うんじゃがな。」
日本では誰もが知っている「シュッシュ」の開発に携わったことを、田中はひそかに誇りに思っていた。しかしこの国では、その存在すら知られていない。もっと商品の認知度を上げるための戦略を考え、市場を拡大していかなければならないと会社人間の田中の脳は即座に反応したが、この状況ではアイデアを出したところで無意味だ。その後も老人から集落について色々と聞いた。田中は帰り道に「臭くなるし汚くなるし」という言葉を思い出していた。ここで「シュッシュ」を作ればこの国の役に立てるだろう。功績をあげたら、特例として日本に戻ることが許されるかもしれない。絶望感に覆われていた田中の心に、一筋の光がさした。とりあえずは薬品を集め、工場を確保しなければならない。
「お久しぶりです。実は相談したいことがあって……。」と田中は話を切り出した。老人から聞いた悩み、その解決法、そのために必要な薬品や機械、これらを順序立ててハムに伝えた。
「ほう、そんな便利なものがあるのか。今言った条件さえ整えば作れるんだな。よし、とりあえず総長に確認を取るから少し待ってろ。」
部屋を出て行ったハムはすぐに戻ってきた。
「OKだ。総長も国民達の生活に役立ちそうだから、できるだけバックアップしろとおっしゃった。もう一度揃えるべき薬品や、工場に必要な設備を教えてくれ。」
全ての準備が整うまでに三日とかからなかった。ハムに呼ばれて化学工場に行ってみると、そこは最新設備の並んだ素晴らしい所だった。田中は工場で働いている人に、調合方法、薬品の割合、注意点などを細かく説明した。そして、その日のうちに試作品を作るために工場を稼働させた。その出来上がりは文句のつけようがないものだった。
そこからは、とても順調に事が進んだ。工場の稼働状況も製品の質も問題はなく、売れ行きも爆発的なものとなった。毎日行列ができ、工場は二十四時間稼働させた。そして、予想外の出来事もあった。田中が開発責任者として売り上げの一部をもらえることになったのだ。その額は、想像をはるかに超えるものだった。日本で手にしたことのないような大金が、今後も定期的に懐に入る。田中の生活は少しずつ変化を見せ始めた。今まで口にしたこともなかった高級料理を毎日のように食べ、まったく興味すら示さなかったブランド物を持つようになった。開発責任者として有名になった上に、羽振りもよくなった田中に、多くの人が接触してくるようになり、人脈も広がっていった。とても美しい女性が田中にアプローチしてくることもたびたびあり、田中自身も悪い気はしなかった。こんな生活を続けていく中で、妻や娘を想う回数も、家族の元に帰りたいという気持ちも徐々に薄れていった。
それから一か月ほどたったある夜、いつものきれいな女性を横に、田中は集落唯一のバーでこんなことを言った。
「この国から戴帽法がなくならないかぎり、俺の生活は保障されたようなものだな。贅沢三昧の生活、土下座されて頼まれても捨てたくないね。まあ、もっと稼いで、更に高いレベルの生活を目指していくけどね。君も俺のそばを離れない方が賢明だと思うよ。」
「もちろんそのつもりよ。あなたのことは私が一生かけてお世話するわ。」
大金を手にしたことで、田中はすっかり変わってしまった。考え方、性格、言葉遣い、どれを見ても以前の田中の面影は一切見当たらない。もはや田中の脳裏に妻や娘、日本での生活が浮かんでくることはなかった。お金の魔力に憑りつかれてしまった田中は、今後もお金の力に頼って生活し、ある意味で日本にいた時よりも幸せな人生を歩んでいくのかもしれない。
三―C「思いがけず手に入れた権力と権力欲」
田中にとって、新居での初めての夜が更けていく。この二日は色々なことがありすぎて、心身ともに極度の疲労状態だ。昨夜も全く寝ていない。今日も日中歩き回ってクタクタだ。
「今日は早めに休むか。」と田中は布団に入った。ものの数秒で、田中は夢の世界へ旅立った。
それから三週間が過ぎた。
「あぶない、あぶない。今日は三日に一度のハムへの報告日だ。急いで準備をしなければ。」
「帽子OK、忘れ物はない。よし、行こう。」
赤の集落までは三十分くらいかかる。すれ違う同じ集落の人々とは挨拶を交わす仲になっていた。しかし、隣の黄色の集落に入ると状況は変わる。異質なものを見るような視線が田中に突き刺さる。誰かが通報したのだろう。警官が近づいてきた。
「お前、どうして黄色の集落にいるんだ。青の人間だろ。」
田中がハムの所に行かなければならないという事情を説明すると、
「お前の指導係はハムスターさんなのか。ならば何も問題はない。早く行け。」と話はすぐに終わった。その警官の態度から、ハムが警官の中でも上の人間であることが想像できた。
「おう、よく来たな。どうだ?この国での生活にも慣れたか?」
「はい。おかげさまで。」
そこからいつものようにとりとめもない話が続いた。しかし今日は、その雑談がやけに長い。ハムが田中を帰らせないように、必死に話題を探しているようにも見える。
「実はだな、今日はお前に話があるんだ。」
ハムは本題を切り出すタイミングを見計らっていたのだろう。先程より田中に近づき、トーンをおさえた声で続けた。
「今度、総長選挙がある。総長の任期は五年。今の総長は三十年にわたってこの国を治めてきた。しかし、年齢や体力的な問題もあって引退することが決まっている。そこで、俺も立候補しようと考えているんだが、選挙に勝つためにどうすればいいのかわからない。お前の知恵を拝借したい。」
意外な話だった。確かに田中にとってこの国で一番親しいのはハムだが、ハムにとっては違うだろう。それなのに何故自分なんかに言うのか。そう思った田中は、ストレートに聞いてみた。
「ほかにも出馬する人間はたくさんいる。だが、まだ公示されていない。だから、周りの人間が敵なのか味方なのかわからない。しかしお前は違う。お前は信用できると感じるんだ。」
そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。田中は何だかくすぐったい感じを覚えた。
「わかりました。私の経験から、わかる範囲でお伝えします。まず、選挙で一番大切なのは公約です。これは、国民にとってプラスになり、かつ国にとってもプラスになることというのが一番効果的だと思います。しっかりと公約を練り上げ、それを国民に伝える演説会などを開くといいでしょう。」
「国民にも国にも有益になるものか。具体的にはどんなものだ?」
「例えばゴミです。ゴミは種類ごとに分別した方がいいと思います。そうするとリサイクルもできるから種類によっては商品の価格が下げられるし、環境保護にもつながります。確かに分別というのは最初は面倒ですが、きちんと分別した家には報奨金を与えるなどの仕組みを作れば、国民も積極的に行うと思うんですが、どうでしょう?」
「ほう、今まで考えたこともなかった。もう少し詳しく聞かせてくれ。」
田中は、ゴミを燃やす際に排出されるガスが環境に及ぼす影響、リサイクルの仕組みとそれに伴う初期投資、分別のルールなどを説明した。
「ありがとな。この公約なら、環境にも国民の生活にも効果がある。これでいこう。」
続けて、ハムの公約をどのようにして国民に広めていくかの作戦を練った。演説会を全ての集落で開くこと、その際にわかりやすくするためにチラシを配ること、実際に分別を体験してもらうことなどを決めた。
「今日から、俺の秘書になってくれ。もちろん無理にとは言わないが。」
田中は二つ返事で引き受けた。そして田中の帽子も変わった。この国の要人を表す赤の帽子に。
二人で考えた戦略は、効果てきめんだった。初めは分別の面倒くささに難色を示していた国民にも、我慢強く利点を説明し、賛同を得られた。対立候補の中には、お金を配り歩くような作戦に出た者もいたが、すぐに明るみになり、選挙戦からの撤退を余儀なくされた。
運命の投票日がやってきた。田中は朝一番に投票に行き、その足でハムの元へ向かった。少し落ち着かない様子のハムが、いつになく可愛く見えた。そして、開票結果が発表される時間になった。
「それでは、今回の総長選挙の結果を発表します。次期総長に決まったのは、……。」
この時ほどわずか数秒が長く感じられたことはない。お互いの鼓動だけが部屋に響いていた。
「ゴミの分別を公約に掲げたハムスター氏です。」
二人は感極まり、涙を流しながら抱き合って喜んだ。
「ありがとう。お前に色々とアドバイスをもらったことが、この結果につながった。今後も参謀役として俺を支えてくれるか?」
一瞬、妻と娘のことが頭をよぎった。しかし田中は既に国を変えていくことのおもしろさを知り、のめり込んでいた。また、選挙戦期間中、ハムの秘書だというだけで警官達を自由に動かせた。これからは国の代表・総長の参謀役になるのだから、今以上の権力が手に入り、すべてを思い通りにできるだろう。どんな状況でも自分の意思でコントロールできる「権力」、周りの人々がひれ伏し言いなりになる「権力」、田中はより大きな「権力」を得たいという欲求に駆られていた。これまでの人生で一度も顔を見せなかった「ブラック田中」になっていた。そして幸か不幸か、これが妻と娘のことを思い出した最後となった。
ハムの就任日、国民全員がそのスピーチを聞くために赤の広場に集まっていた。広場の一番奥にある塔にはハムが立ち、その横には田中がいた。
「みなさん、これから五年間総長をつとめるハムスターです。まずは、三十年間効力のあった戴帽法を破棄することを、ここに宣言します。」
ハムの力強い宣言に、国民からは拍手があがった。そしてみな、帽子を脱ぎ、空へ向かって投げ上げた。まるでどこかの大学の卒業式を見ているかのような光景だった。
「次にですが、今後五年間、『マスク法』を制定し、今日から施行します。」
ハムの続けた言葉にお祝いムードだった国民は静まり返った。帽子からは解放されたが、次はマスクが義務になるという。実はこの国、代々の総長が自らのコンプレックスを隠すための法律を定めていた。前総長は、若いころからの薄毛が悩みであったため、戴帽法を制定した。そしてハムは、出っ歯と下膨れの頬にコンプレックスを抱いていたので、マスクを義務化したのだ。
ハムの就任から一か月が過ぎた。ハムが公約として掲げたゴミの分別は、国民からも好評を得ている。しかし、マスクは不評だ。ハムや田中に面と向かって文句を言う者はさすがにいないが、息苦しい、話しづらい、ゴムをかけるので耳が痛いなど、マイナス点を挙げればキリがないようだ。今、大きな権力を手中におさめ有頂天になっている田中だが、それも一時的な幸せで、わずか五年間で終わりを迎えるかもしれない。