横須賀線で鎌倉駅下車。若宮大路より小町通り。人力車を雇ったB山とS恵は今小路から源氏山の英勝寺へと、車夫に命じた。狭い山道を若い車夫は、喘ぎながらも、この寒い冬の最中、汗をかきながら登って、下った。
「今日は旦那、お二人連れでしっぽりなさるんでしょう?」
「いや、今日はヤボ用でな、尼寺に行って頼みごとをする。そのあとは、ちょっとな・・」
赤い毛氈のひざ掛けの下で、S恵の自慢の白い美しい手を愛で、肩を寄せ合った二人はどうみても恋人同士だが、二人とも別の伴侶と結婚している。曲がり角で車が大きく傾く際、二人は唇を合わせた。
「S恵ちゃん、ごめんね。今日はこんなことをつき合わせて」
「いいのよ。私、こうして貴方と一緒に過ごせるの、とても嬉しいのよ。それに用が済んだら、山椒洞で美味しい食事が食べられるし」
「旦那。着きました。こちらでございます。英勝寺は鎌倉で唯一の尼寺で、水戸徳川家ゆかりの由緒正しきお寺です。今の時期ですと秋明菊が見頃です。紅葉も盛りでして、お庭の散策にはもってこいの時節でございます。楽しんでご覧ください」
「うむ。二時間ほど用足しをする。君はそこいらで、お茶でも飲んで待っていなさい。これ少ないけど、お茶代だ」
「へい。有難う存じます」
二人は腕を組んで山門をくぐる。尼寺らしい簡素な門。すぐに孟宗竹の竹林で、曲がりくねった小道が、冬なお青々とした、竹林の中を、曲がりくねって続いている。
「いいところね。京都みたい」
訪れる人もおらず、深閑とした静寂に包まれ、思わずB山はS恵を抱き、再び口付けを交わす。今度はS恵の方から、舌を絡ませる。暫くあるくと、急に視界が開け、藁葺きの庵が見えてくる。
「ここらしいな。ごめんください」
「どなた様ですか?」
「先日、ご連絡を差し上げたB山でございます。友人の徳川宣子様よりご紹介いただきました」
「庵主様より伺っております。さ、お上がりになって、こちらへどうぞ」
小さく見えた庵の中は意外に広く、磨き上げられた杉板の廊下が続く。幾たびか曲がると、正面に板襖がある。
「こちらでございます。庵主様がお待ちでございます」
そういって案内の少女のような若い尼さんは下がってしまう。
「B山で御座りまする」
「そうか、待ちかねたぞ。さ、中に入ってたもれ」
静かで威厳に満ちた、しかしとても美しい声が聞こえる。襖を開けると八畳ほどの書院で、開け放った障子越しに広縁があり、池の向こうは楓や紅葉、白い小菊が一面に咲いている。庵主は床前に脇息にもたれ、何か物悲しい表情で二人を迎える。お顔はこの世のものとは思われぬ程非常に美しい。小柄の身体で白い僧服を身に纏い、頭に領巾を被っている。日焼けした肌が艶やかに光っている。
「さ、どうぞこちらにお座りなさいまし。今日はどのようなご用件で参られたのですか?」
「庵主様。今はお雪の方様と名乗っておられるようでございますが、以前は由貴恵殿と仰られていたと存じます。ある高貴な殿方が庵主様を一度だけ遠くよりご覧になり、是非ともお顔合わせ願いたいと、わたくしに申し出ました。その殿方にお逢いしていただけないものでしょうか?」
「わらわは最早僧籍の身。読経三昧、写経に明け暮れる毎日でございます。左様な申し出、受けられる筈も御座いませぬ」
「誠に恐れ多いことでございますが、お雪の方様は、以前お付き合いされていた男性がいらしたと漏れ聞きました。その方は幼馴染で、ご幼少の折よりお親しくされ、やがてはご結婚なされるご予定でございましたが、そのお方が名古屋地方の大企業に就職され、よもやの遠距離恋愛。それに耐え切れず、別れざるを得なかった。その悲しみから髪を降ろし、尼になられたと聞き及んでおります」
「いかにも左様です。じゃが、それが何ゆえ、今更別のおのこに逢わねばならぬのじゃ?」カン、カンと鹿威しが響く。ちりんと音が続くのは水琴窟が地中に埋められている様子。
「誠に静かでございますな。俗世間を忘れます。殿方は徳川様にも大層恩義なある方。かどわかしてもお連れもうせと、きついご用命です。この通りで御座います。何卒、一度だけで結構で御座います。この庵近くの、鎌倉山に山椒洞という料亭があります。そこで席を設けます。お籠も差し向けます。おいでくださらぬとあらば、この場で腹を切らねばなりません」
土下座し、決死の表情で訴えるB山に気おされたお雪の方。
「ただの一度で良いのだな。仕方あるまい。この清浄な庵を、そちのごとき不浄な男の血で汚されたくないからの」
「はッ。有り難きお言葉。早速依頼主に伝え日程を調整いたします」
「時にB山。そちらにおわす女姓は何者じゃ?」
「ははッ、申し遅れました。こちらはS恵と言い、私の恋人で御座います。これより二人で山椒洞の下見に参る所存でございます」
「とか、なんとか言いよって。二人でいちゃいちゃするのであろうが。顔に書いてある」
「流石庵主様。お見通しでございますな。それにしてもいちゃいちゃなどと下世話なお言葉。忌み嫌った筈の俗世間に、まだまだ未練があるような感じがいたします」
「ぶ、無礼な。わらわは、とっくのとうに愛欲など忘れてしまいました」
「あッ、顔が赤くなった」
「返す返すも、無礼な言い様。許しませんぞ。はよ、ここから出て失せろ」
二人が出て行き、庵はもとの静けさを取り戻した。未だ私を見初めてくれる人がいる。お雪の方は内心嬉しく、うきうきした気分に囚われ、ため息をついた。
「どんなお方だろう。お金持ちで優しく、いい男でありますように」
お雪の方は小机に向かい般若心経の一節、南無色即是空空即是色と書き、又ため息をついた。僧籍に入ったとは言え、本当はとても男の肌が恋しい。独り寝の辛さに枕を濡らす毎日。B山の申し出を断る理由などありはしない。冬晴れの一日、とうとうその日がやってきた。お雪の方は朝早くから水垢離で身を清め、勤行を済まし、念入りに化粧を施し、髪を小女のチエに梳らせ、香を衣服に焚きこめる。蹴出しは赤絹、胸押えは白絹、上衣は白絹の僧服を身に付けると、自然と引き締まってくる。
「いけるわ。矢張りわたくしのこの美貌に、世の人々は放っておかないのね。もしかするとお泊りになっちゃうのかしら」
チエに場合によると帰れなくなると言い残して、お雪の方は出迎えの籠に乗って、鎌倉山に向かった。山椒洞は山の頂上付近からやや下ったところにある、静かな由緒ある料亭。以前田中絹代が住んでいたという、住居を改修したもので、地所は三万坪余。南斜面に広大な庭園が広がり、その先は江ノ島と相模湾が展望される。二里余りの山道を籠について走ってきた、寺男で小者の永井は流石に息を弾ませている。
「お頼みもうす。源氏山は英勝寺の庵主、お雪の方様が只今到着致しました」
「これは、これは。遠いところご苦労様で御座いました。先方様は既にご到着されています」
「女将。これはつまらぬもの。庵の庭先にさいていた秋明菊じゃ。生けてたもれ。永井。お前はこの玄関脇の部屋で待っておれ。わらわは是より、殿方に会う」
「は、はっ。お方様。くれぐれも妙な気を起こさぬように、お気をつけあそばせ」「心配無用じゃ。わらわはそちが思うような尻軽では御座らぬ」
「庵主様。こちらでございます。二階の突き当たりの松の間をご用意いたしました。庵主様のおなりでございます」
広幅の襖が開け放たれると、東南二方に開いた障子越に相模湾の蒼い海が望める。20畳ほどの広間中央には巨大な欅の一枚板の座卓が置かれ、床の間を背にした上座に、緊張した面持ちの青年が座っている。脇にB山、S恵が寄り添う。
「お待たせ申しあげました。わらわがお招きいただいたお雪でございます」
「苦しゅうない。ささ、近うよれ」
「こちらにおわしますお方は、何を隠そう、遥か遠くみちのくは岩手に措いて、26代続く東北屈指の名家、伊藤家当主、一弥殿でござる。このたび畏くも、殿様が鎌倉八幡宮に参詣の折、ふとお雪の方様をお見かけ申しました。それ以来、ずっとそのあまりの美しきお顔とお姿が忘れられず、再び合いまみえる日を望んでおられたのです」
「もとより一弥殿には御台所、麗奈様がおられます。しかしながら、夜の生活が上手くいかず、近頃は閨を共にせぬ日が続いているのです。このままでは伊藤家の血が途絶えてしまいます。お雪の方様がご側室としてお仕え下されば、やがては子宝に恵まれましょう」
「なにを申される。わらわは江戸生まれの江戸育ち。遠いみちのくなんぞに行くわけもございませぬ。しかも聞けば農作業に従事されているという。見れば見るからに野蛮な顔。手など節くれだっている。このような下郎に嫁しづく理由など御座らぬ」
急に一弥の口調が変わる。
「ユキエちゃん。おらだよ。おら。ほりゃ、以前一緒に働いてたじゃねえか」
「知らぬ。このようなむくつけき男など、わらわに知り合いはおらぬ」
「ちいっと、毎日農作業ヤッテおるから顔つきは変わったが、一弥だぁ。ホレ、B山センセイのとこで毎日、話バしちょったが」
「あれま。一弥かぁ。懐かしいわぁ。あたい緊張しちまって、おめえの顔わからんかったぁ」
「まじっすか。おら始めからおめの顔わがった。おらほんにおめに江釣子に来て貰いてえんじゃ」
「イヤんだぁ。あたいは都会サ、離れたぐねェ。・・・ありゃ、わらわとしたことが、釣られて岩手弁となってしもうた。ならぬ。お前様は純朴のふりはしているが、中身は野獣であろう。そのような男の側室とは、無礼千万じゃ。そちの家は汲み取り便所。そのような汚らわしきところでは、一日たりとも暮らせはせぬ」
「お雪の方。一弥殿は今はオランダ農法が大当たり。今年度の岩手県長者番付一位にノミネートされ、岩手の楽天三木谷とまで言われておる。年収凡そ二十億。であるからして、不肖このB山が設計した豪邸に住んでいる。無論水洗便所で、ウォシュレット機能付便器が備え付けられている。便所内には手洗いを完備し、寒い冬、外に出て雪で手を洗う必要はない」
「ト、トイレだけじゃイヤ」
「プールのようなジャグジー付風呂や、巨大豪華化粧室もある」
「小女のチエや足軽の永井を連れて行ってよいのか」
「よいとも。よいとも。何人連れて行ってもよいぞ。お雪の方様には別棟の新築家屋を与え、掃除、洗濯など家事一切は下女にさせ、入浴や化粧、エステ、スタイリストなど身の回りの世話には専門家をおつけする。姫君の扱いだ」
「お雪殿。いいなぁ、私ならすぐに行っちゃうわ」
「わたくしには別れても尚好きな人がおります。その人のことを今も愛しております。ですから他人に嫁ぐ気はございませぬ。この話は無かったことにして下され」
「お雪の方様。そりゃあんまり惜しすぎる。ここはじっくり考えてくだされ。いつまでも待っている」
「折角参りましたので、ここの料理を食べましょう」
次々と運び込まれる山海の珍味。美しい器と盛り付け、女将のさりげなくも丁寧な給仕とサービス。見事な庭園と借景。
「懐石料理ですか。普段は普茶料理ばかりですから、たまには宜しゅうございます。思ったより美味しいじゃありませんか」
「お雪の方様は、色んな食事処をご存知だそうですが、今度連れて行ってください」
「あら、B山殿には及びませんが、近いうち銀座シャネルのべージュという仏蘭西料理をお友達と食べにまいります。わたくし僧籍に身をおいてはおりますが、海外には良く出かけておりまして、訪れた国は凡そ40カ国に及びます。特に土耳古国は気に入っております。彼の国のイルハン殿のファンでございます」
「一弥殿。聞いたか。お前さんも、農業一筋だけでなく、もうちっと見聞を広めなくちゃ話題が合わんぞ。しかもこの美貌。早くせんと直ぐに誰かに取られてしまう。もうちょっと良い条件出せんか?」
「うむ。では年三回の海外旅行を許す。それにハワイに別荘を買うからその他に1回、計4回、夫々2週間づつ。資金は1回につき500万を差し上げる。こ、これでどうじゃ」
「ふん、お金で釣ろうったって、そうはいきませぬ。わらわは高貴な身の上。貴殿がわらわを真に愛している証拠をお示しくだされ。それに正妻がおりながらただ子供が欲しいからこのお雪をば、二号にしたいなどと、笑わせる」
「愛なんて言っても・・おら3回でえとした女とは必ずせっくすしちまう。だからもう2回逢ってくだされ」
「なんという野蛮で粗野ですけべな男。わらわは貴殿が嫌いになりました。もう2度と逢うこともありますまい。さらばじゃ」
玄関脇の待合所では、小者の永井が丼物を食べて待っている。
「あれれ、お方様。モウお帰りなんですか。今日はお泊りのはずでは?」
「バカ者。わらわは清貧な尼である。男なぞ不要じゃ」
「お可愛そうに。又振られたんで?」
「ち、違う。わらわの方から振ってしもうた。お洒落して下着まで調えたのに大損じゃ。今思えばちょっと惜しいような気がするが・・」
残された一弥、B山、S恵の三人、なにやら密談の様子。
「おめえが余計なこと喋るから、怒って帰っちゃったじゃねえか」
「でもわたし、結構脈ありと思うよ」
「そうか、じゃあもう一押ししてみるか」
「何から何までお世話になります。宜しく頼んます」
「お前は暫く東京に滞在して様子をみろ。俺とS恵は今晩ここで泊まる」
「先生。ンだばおら先に帰ェる」
次の日は願っても無い上天気。S恵ちゃん。ちょっと散歩しようか。山椒洞前の砂利交じりの坂道を暫く歩くと、棟方志功美術館。二人仲良く見学しタクシーを呼んで北鎌倉。何度か来た明月院や浄智寺などを巡って、英勝寺へ。
「ごめんくだされ。先日もお尋ねしたB山、S恵で御座います。庵主様に折り入ってご相談の儀がございます。お取次ぎを」
「チエでございます。只今お方様はご気分が優れず臥せっております」
「なに、ほんの気鬱であろう。声を掛けてみて下され」
チエが声をかけるとお雪の方は、襖を開けて出てくる。
「又B山か。何用じゃ」
「イヤ何。あれから一弥殿もいたく反省されましてノ。条件を変えることにしました。立ち話もナンですから、どこかお部屋でお話したい」
「フム。そちたち二人を見ると何か虫唾が走る。人前や仏前でいちゃいちゃしないと誓うなら、話とやらを聞かんでもないが」
「有り難きお言葉。わたくしとS恵は庵主様が想像するようなイヤらしい関係では、断じてござらぬ」
「信じられんが。では茶室にて聞きましょう。こちらへ」
庵主自らの案内で茶室に向かう。茶室では茶釜がチンチンと音をたて、暖かい。「茶を立てて進ぜる。作法は弁えておろうな」
「流石お上品で堂に行ったお手前で」
B山とS恵は庵主の淹れてくれた茶を、伝来の備前焼の名器で味わう。鎌倉の落雁が添えられている。
「さて。話とやらを聞かせてたもれ」
「お雪の方様。貴女様が誠に汚れ無き乙女であること、昨日のお話で良くわかりました。しかも今年の夏、伊豆長岡の高級旅館で、前の恋人と過ごした甘い日々が忘れられない。一弥殿はああいう粗野な男ではございますが、根は純朴な田舎の百姓です。彼も以前恋人にふられモンモンとしていた時期もございました。ですから、今の貴女様の辛いお気持ちは良く理解しています」
ここでB山はグッと声を潜め、お方様に顔を近づけて言う。
「ここだけの話でございますが、東北一の殿様一弥様の命によりまして、誠に畏れ多い事ながら、お雪様の前歴を調べさせていただきました。天下にその名を轟かす稀代の名探偵斎藤に調べさせたのでございます。先日その報告書が届きました。一見し驚愕いたしました。凄い経歴をお持ちなのですね」
「わらわの過去を探るとは無礼極まる所業。許せぬ。その報告書とやらを、わらわに渡しなさい」
「それは如何にお方様のご命令でも出来ない相談。しかも私がコピーも取らず、現物を持参しているとでも、思っておいでか?」
「む、むっ。無体な・・して、報告の中身はどのような過去が書かれておるのじゃ」
B山は更に聞こえるか聞こえない位低い声で囁く。
「へ、へっ、へっ。お雪の方、イヤさ緋牡丹お雪。おめえさんは、浜の族の元リーダーって言う。メンバー300人を束ねた大姉御だった。すげえ、ヤンキーの頭。泣く子も黙る緋牡丹お雪とは、おめえさんのことじゃなかったんですかい」
「げっ!そんなこと、親兄弟にも内緒の秘密。それを知ったからにゃあ、生かして帰すわけにゃいがねえ」
がらっと口調を変え、ヤクザ顔負けのドスの聞いたハスキーボイス。早くも懐深く隠した懐剣を抜いてB山に迫る。
「待たんしゃい。こう見えてもこのB山、関八州にその名を轟かす悪党、後家殺しの哲とはわしのことじゃぁ」
「哲ゥ?してこのS恵サンは?」
「ふ、ふ、ふっ。何を隠そう。S恵とはこの世を忍ぶ仮の名ヨオ。壷を振らしたら天下一品。賽転がしの女郎蜘蛛、人呼んで蜘蛛女の紗慧とはこの姐さんのことだわい。ところで緋牡丹の。おめえさん博打は好きかい?」
「ふん。笑わせやがる。後家殺しと蜘蛛女ぁ?てめえらこの雪の力を知らんらしいノ。昼は清廉な尼に成りすまして、世を欺ちゃぁいるけんど、夜になりゃあ、手下千人を抱える極道の妻じゃぁ。どうでい、びびってしょんべん漏らしたかぁ」
「へっ、へっ、へっ。そこでノ、緋牡丹の姉御。ものは相談だが、アノ一弥。田舎者だが東北六県を束ねる親分さんじゃ。一弥のテテ親の弥ェ門、これがしょうもない悪でノ、博打が三度のメシより好きっちゅうバカだ。この際わしが帳場を立てるから、成金の奴らを博打で痛めつけ、搾れるだけ搾り取ってしまおうっていう作戦を考えついた。そこで姉御、姐さんはツオイんでがんしょ?」
「バカも休み休み言え。あたい、勝ち続けることはあっても、負けたことなどタダの一度もねえ」
「そいつぁ、豪儀だ。じゃぁ早速賭場の準備に取り掛かろう。ショバはこの尼寺なぞええと思うが」
「良かろう。久しぶりの大開帳。腕が鳴るワイ」
「小金持ちで欲の突っ張った連中を集めます。師走の二十三日などで宜しいか?」
「ウン。あたいその日は空いている。今は小女しているチエ、寺男の永井もあたいが族の頭、張っていた時分からの子分。下働きに自由に使ってくれ。面白そうだ」
英勝寺の離れ、瓦葺きの長屋は以前修行の尼僧の雑魚寝の場であったが、今は使われず荒れ果てている。朽ち、崩れかかった漆喰壁。蜘蛛の巣だらけの玄関。今日はその両脇に高提灯が赤々と点り、前庭に篝火が盛大に燃えている。竹林の路をくぐって一番に到着したのは、口入屋の女衒、島田。見るからに狡賢そうな顔、浅黒く日焼けし、金縁眼鏡、背を丸めニヤつきながら玄関をくぐる。次に入った男はフィリッピンジゴロの川田。金色に染めた縮毛を撫で付け、赤ら顔で小脇にパソコン。真っ黒い顔は日本人にはとても見えない。鷹揚な素振りで権高い。三番目はアノ一弥。でっぷりした巨躯を羆の毛皮のジャンパーで包んでいる。なんと毛皮には獰猛極まる羆の頭がついたままである。口には葉巻を咥え、のそりと入る。ついで弥ェ門。鶴のように痩せた体躯。白い口髭。黒無地紋付の着流し。金縁の象牙のステッキをつき、現金の一杯詰まった、ルイビトンのバッグを付き人に引かせている。煌びやかに光る勲章を吊っている。金無垢のロレックス、巨大ダイヤの指輪は一弥とお揃いだ。最後は今時アナクロなマッシュルームカット、貧相な面構えに精一杯の伊達眼鏡、猫背で細身、しかしエラソウにそっくり返ってオカマの岩間が入場する。二十畳程の賭場正面の上座に胴元の後家殺しの哲が、今日は黒羽二重の五紋付きでどっかと座っている。
「皆ン衆。本日はおさぶいとこ、ご苦労さんでごわす。掛け金の制限は一切ナシ。存分に張って、存分に楽しんでくれい。壷はこの蜘蛛女の紗慧が振らして貰う」
「只今ご紹介に預かりましたる蜘蛛女の紗慧たぁ、あちきのことでやんす。本日は公明正大な壷振りの妙技をおみせしとうござんす」
紗慧はあでやかな緋の小袖の諸肌を抜いて、白絹の胸当てを見せる。純白な肌が早くも赤く染まって、背中の女郎蜘蛛の刺青が妖しく光る。紗慧の向かいは緋牡丹お雪。これまたドエライ美貌。黒留袖に鮮やかな牡丹に刺繍。髪にも牡丹の生花と象牙に金象嵌の簪。肩袖を脱いで小麦色の肌を見せる。更に片膝を立て真っ赤な蹴出しを覗かせる凄いお色気。グロスをたっぷり重ね塗りした朱鷺色のルージュ、ラメ入りファンデーション、ネイルは総銀ラメというあでやかさ。対するは羆の一弥。並びに鶴の弥ェ門。向う正面に口入屋女衒の島田。その向かいはフィリッピンジゴロ川田とマッシュルームオカマの岩間。何れも一癖も二癖もある悪相揃い。川田は早くもパソコンを叩き、確率計算。弥ェ門はこれ見よがしに持参した二十億のゲンナマを積み上げる。
「イカサマはご法度だ。紗慧、そろそろご開帳と願おうか」
盆茣蓙には見事な藤蔓で編んだ飴色の壷が紫紺の布上に置いてある。諸肌脱いだ紗慧が壷を掴んで、賽を投げ入れ素早い手捌きで振る。
「入ります」
ポンッと音を立てて壷が決まる。
「さあッ、張った、張った。遠慮はナシだ」
「丁に千万!」
弥ェ門が百万の札束十束をグイっと前に出す。
「んだバおらも丁。五百万」
一弥が同調。
「丁だ。俺のパソコンはコンピューターセンターのスパコンに繋がっている。計算は丁と出た。五百万」
川田。
「じゃアタシも丁で五百」
と岩間。
「皆ンな、バカね。半でしょうが。二千万張るわ」
雪が自信満々で言う
。「わしは丁で千円」
「ひえッ。島田は相変わらずドケチじゃノオ」
「じゃかぁしい。コツコツ貯めるのはわしの性分じゃ」
「丁半出揃いました。丁方、半方。よろしゅうござんすか」
「おうッ」
皆一斉に声をあげる。
「勝負ッ!」
「開きますッ。ピン二の半!」
「雪姐さんの勝ちイ!五千万二千円!」
「くそッ。ま、初めの内は姐さんにハナ持たせるか」
勝負が進んで熱気を孕み、座は白熱。お雪の独り勝ちが続く。
「おっとう。おらンとこじぇんじぇんツキがねえ。モオ親子で十五億ほどあのメス猫にもっていかれた」
「オイオイ。フィリッピンじゃ、あんなにバカ憑きは許されんぞ。俺も五億持っていかれた。パソコンは勝負に弱いことがわかった。俺一文ナシだぁ」
と川田。
「アタシも六億損してるわ。モオからっけつ」
岩間。
「ケチケチ張った俺も結局四億」
と島田。
「さあ。もうオケラは帰りなさいナ。後は一弥とサシでやる。暑くなっちまった。脱がしてもらうよ」
雪は真白な長襦袢姿。露わになった赤い胸当てと蹴出が眼を射る。
「メス猫メ。とうとう本性表しやがったか。オラ色気にゃ惑わされねえ。最後の勝負、受けてやるわい」
「ホオッ。一弥てめえ、何時からあたいにそんな洒落た口、訊けるようになったんじゃい。ド田舎のドン百姓。すってんてんになって、しっぽ巻いて逃げ帰りやがれ」
「なにを!この腐れガキ。最後の大勝負じゃ。江釣子の名にかけて、この勝負勝たしてもらう。残りの五億張ったぁ」
「ンじゃ、あたいも五億」
全員が固唾を飲んで見守る。哲は暑く成り過ぎた座敷の空気を少しでも和らげようと、障子を開け放つ。
「オオ、雪かぁ。こりゃウンと積もるぞ。最後の勝負だ。紗慧。心して振るんだ」
「へい。かしこまりました。痩せても枯れても、この蜘蛛女の紗慧、一世一代の大勝負の駒、見事振らせてもらいやしょう」
座はしーんと静まりかえる。
「姐さん。アニさん。よござんすか。駒入りました」
カラッ、カラッと乾いた音が壷の中で響くと、いきなり盆茣蓙に壷が伏せられる。
「ぐびッ。息が詰まるぜ、ったく」
「勝負ッ!」
「は、は、半!」
と一弥。
「丁!」
鋭く雪。
「開きます!よござんすか。よござんすね」
脂汗を滾らせ、羆のジャンパーを脱ぎ捨て、上半身裸になった一弥。
「ピンゾロの丁!」
「げえっ!持って来た二十億がスッとんだぁ!い、いかさまじゃぁ!いかさまに違ェねえ」
「この後に及んでジタバタ抜かすな!」
哲の大渇。
「雪姐さん、シめて三十五億の勝ちイ。さあとっとと払って消えろ」
「哲のあにい。こンままじゃ、来年米の植付けが出来ねえ。一億ほど融通してくだんしゃい」
「黙らっしゃい!愚かものメが。早く去ね」
「ダイタイ、緋牡丹のお雪様と真っ向勝負なんざ、十年早ェんだよ。江釣子の肥溜めにドタマ突っ込んで死ね」
「おっとう、どうすうんべえ。電車賃もねえ。飯もくえねえ。からっけつだ」
「スかたあんめえ。おらが五千円持ってる。飲まず喰わずで鈍行サ乗って帰ェろ」
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