紅蓮のロベリア
黄昏の聖堂にかすれた青年の声が響きわたる。
はるか昔、異教徒の襲来に遭って壊されたままだとかいうその場所は、天井には穴が開き、外と内を隔てる扉はどこかに失せてしまっていた。元は鮮やかな青の映えるステンドグラスも、ひび割れているかとっくに原型をとどめていない。とっ散らかった祭壇には、首の欠けた聖母の像がただ立ち尽くすのみで、そこに至る身廊も荒れていて足下が危ない。
だが彼は律儀な性格に従い、毎回身廊を通っていた。
ここがさびれたままなのは、お金が足りないからだと酒飲みの大人はいい、信仰が足りないからだと神父は嘆き、街外れの人の集まりにくい場所にあるが由緒もなく、立て直すメリットがそこまでないのだろうよ、と通りすがりの商人は結論付けていた。
彼はこの場所が好きだった。通りの影にはびこる下賤な罪人たちも、この教会にはなぜか立ち寄らない。たむろしてた連中が、集団で流行病に倒れたことがあり、それで恐れられているらしい。しかし、悪人にとどまらず、立て直しをはかろうとした者までも祟られたとあっては、神聖と言うよりもはや不吉な場所と恐れられるのも仕方のないことだった。
ところが若く夢見がちな青年は、逆にその何者をも寄せ付けないことこそが、まさしくこの場が真の神域であることの証明であり、この打ち捨てられた女神像のなしえた奇跡だろうと感激に身を震わせた。
最初に胸を弾ませながら忍び込んだ時、思い込みは確信に至った。夢想がちな彼は暇を見つけてはこの場所に入りびたり、半壊した女神像に祈りを捧げた。
数週前までは、そうしていれば何も悪いことは起こらないと、信じて疑わなかった。
彼の住んでいる街は、夜よりも昼の方が危険だとされている。
大人たちは子どもらに言い聞かせる。昼の日が高い時に出歩いてはいけない。悪魔が陰に潜んでいて、彼らを食べてしまうから。良い子は話の恐ろしさに身を震わせ、けして日中出歩こうとはしない。大人になれば危険な場所を避けて歩くことはできるが、それでも昼に進んで外に出たがる者は少なかった。
というのも、彼の故郷、その乾燥した大地に照り付ける陽射しは生物の脅威であった。特に夏場の昼に日向を歩くと言うことは、すなわち進んで火炙りの刑を受けることと同義だ。では日陰の道を進んでいけば、なるほど熱からは身を守れるが、代わりに自然よりももっと、この世で一番恐ろしいものがそこにはたむろしている。
――人間だ。
揃いも揃って卑しく残忍で、目の前を通り過ぎようとする獲物をけして逃がしてはくれない。男なら身ぐるみはがれてばらされて、女ならその間に乱暴と言う一手間が加わる。
ゆえに、賢明な住人は子どもたちに昼の恐ろしさを大げさに語り、日の出るうちは家の戸を固く閉ざし、午睡をむさぼって夜を待つ。この街では昼過ぎからが眠りの時間であり、健全な人々は夕方から夜に起き出して活動する。
青年はだから、ほんの少しだけ真っ当な住人が出歩くには早い時間帯に。この場所へやってきている。
「主よ、どうか……」
崩れた天井から、傾く陽射しが青年を赤く染める。彼は本来、輝く金髪に透き通る青空のような碧眼、そして女よりもきれいだと形容される真っ白な肌をしている。少年時代は天使のような、と形容された美しさは、間もなく男になろうとしている今でもなお輝きを残している。
不意に彼は寒気を感じ、飛び上がって振り返る。はたしてそこに、祈りによって忘れ去ろうと努力し、けれど片時も忘れることができなかった――今彼がもっとも会いたくない女が立っていた。
こげ茶の髪は奔放に散り、目の下には泣き黒子、肌はこんがり焼けた褐色、耳には会うたびに違う大きなピアスがぶら下がって揺れている。腕と胸の上部を大胆に露出し、歩く度にスカートがばさばさと翻る。むき出しの左腕には、鮮やかな瑠璃色の花の入れ墨があって、目を引く。
女はカルメンシータと名乗っている。それは明らかに偽名だろうが、誰も本名を知らない。いつの間にか町の裏に住み着いていて、昼は踊り子、夜は花売りをしている。路地裏に巣食う闇の筆頭と言っても差し支えない、堕落した存在だった。
年のころは二十に見えることもあるが、三十は越えているだろう。よく戦利品の酒瓶を片手に、路地裏を鼻歌歌って歩いている。どこか調子がずれた旋律を、飽きもせずに何度も何度も繰り返す。その様子は壊れたオルゴールに似ていた。
青年はこの女が大嫌いだった。元は噂だけ知っていた存在だ。
彼は真面目な神学校の学生だ。ゆえに毎日違う男と淫行にふけり、愛する人を持つ者の心を惑わし、彼の故郷を汚す、有名でふしだらな悪魔を当然のごとく嫌っていた。
彼の友人の中にも、彼女のせいで家族を失った者がいた。手あたり次第に出会った男をひっかけては、骨抜きにして使い物にならなくしてしまう害悪。なのに不思議と街の暗がりに居座り続けるのは、警備の男たちを手玉に取ってるからだ、と吐き捨てるように誰かが言っていたのを覚えている。
少年の頃、彼にとって女はただの噂に過ぎなかった。
彼はごく普通の――ひょっとしたら恵まれた家庭の出身だった。
家族とは何の問題もなく仲睦まじい。近所でずっと一緒に育ってきたミカエラとはいい仲だから、彼女が望むのなら神学の道を諦め、結婚して所帯を持ってもいい――そんな葛藤がかつての悩みであり、幸福な日常の一幕だった。
あの日、路地裏を曲がるまでは。
「ホセ、こんなところに逃げ込んでたのかい」
青年は女の声を聞いて可哀想なくらいに怯える。彼一人の神域だった場所に侵入したカルメンシータは、その恐怖のまなざしに甘い悦楽の予感を覚えた。身廊を悪態を漏らしながら進み、祭壇までやってくるとそこで彼に抱き付く。
「いい子にしてたかい、かわいい坊や」
ようやく我に返ったらしい、ホセと呼ばれた青年は、女のことを振り払う。
「触るな、悪魔の手先め!」
突き飛ばされた女は荒れた教会の床に転がるが、すぐに起き上がって首を振ってから、にんまりと笑う。
青ざめた青年は、もともと白い肌がさらに血の気を失っている。元の造形が整っているためか、表情を押し殺そうとしていると妙に人形じみていた。
「僕はホセなんかじゃないっ……!」
「いいのさ、あんたの本名なんてどうでも。あたしだって偽名、あんただって偽名。そういう仲だろ、坊ちゃん」
カルメンシータ――そう名乗っていたし、そう呼ばれていた女は、猫のようにしなやかな身のこなしをする。つり上げられた口角から、片方の妙に鋭い犬歯が肉食獣の威嚇のように光っていた。
「ホセ、神様に何を祈ってた? お許しはもらえた?」
「黙れっ……出て行け! ここはお前みたいな、ふしだらな魔女のいていい場所じゃないんだ!」
ホセは昂る感情のままに叫びながら、手にしていた本を女に向かって投げつける。それをひらりとかわして、一歩、二歩。踊るようにステップを踏めば、恐慌に陥りかけている青年のすぐ側にまで女は迫った。ぎらぎら光る鳶色は、青空のような双眸をしっかり捕らえて逃がさない。
「ねえ、ホセ? 教えてよ。神様は許してくれた?」
「黙れえええっ!」
青年は激昂し、女につかみかかる。抵抗はなく、彼は夢中になって女の首を絞め上げた。
「殺人かい、ホセェ? 女神様の目の前で、とんだ子羊だねえ!」
女の言葉に、彼ははっと自分のしていることに気が付き、ただちに彼女から飛びのいた。崩れた女神像に縋り付いて叫ぶ。
「どうか僕をお許しください! この魔からお助けください! お導きください! お願いだ、助けて!」
「懐かしいねえ、ホセ。最初に会った時も、あんたそう言ってたねえ……」
「主よ!」
「呼んでも来ない奴の名前を何度も繰り返して、何になるのさ?」
ゆっくりと追ってきたカルメンシータの指が、ホセの額の髪をかき上げる。彼は呻くように彼の心のよりどころを呼ぶだけ、それ以上は何もできない。祭壇で、聖母の前で押し倒されても、目を閉じて震えるのみ。
「ホセ、もういい加減にわかったら? ねえ、神様はさ、こういう時助けてなんかくれないんだよ。助かりたいなら、自分で動きな。ま、もっともあんたが全部白日のもとにさらすってんなら、あたしも協力してやるけど――」
「……言わないで」
青年の顔が一層悲痛に歪むと、女は邪悪な笑いを喉の奥で鳴らす。
彼の押し殺した悲鳴が、女の口に飲み込まれる。カルメンシータは仰向けに押し倒した青年の上にまたがり、蹂躙する。舌が唇をなぶったかと思うと歯列をかすめ、さらに先をこじ開けて、もっと深くまで浸食する。生々しい水音がするとホセは暴れそうになったが、女はその前に身を離して言い放つ。
「やめるのかい? ん?」
赤い日差しは薄れ、代わりに闇が、夜がやって来ようとしていた。ぼやけた薄闇の中で、女の黒いシルエットが怪しく浮かぶ。
昔のホセなら、ここで女を拒めていたかもしれない。逃げ出せていたかもしれない。だが今の彼には、それがどうしてもできなかった。嫌だと思っても――いや、本当に嫌だと思っているのだろうか? ぼんやりと生気のない顔で、彼女を見上げる。
――あの日、路地裏に行かなかったのなら。こんな苦痛を味わうことなどなかったはずなのに。
***
その日は幼馴染みのミカエラの誕生日だった。彼はお祝いに行こうと家を出たところで、渡すつもりだったプレゼントをうっかり外に忘れてきてしまったことに気がついた。時刻は昼だ。模範的な行動を取るなら、日が暮れてから取りに行くべき。
けれど、その時にはもう誰かに取られてしまっているかもしれないし、遅くなってしまったら今日中には渡せないかもしれない。
――温室育ち、さほど大きな怪我も病気も、苦労もしたことがなく、誰からもお前は恵まれている、神に愛されていると言われてきた経験は、浅はかな慢心を招いた。
彼はすっかり油断していた。明るいところを通っていけば、自分なら大丈夫。そう思って、昼下がり、家族が寝静まった家をこっそりと抜け出した。
最初は光の下を歩けていたけど、すぐに若さも熱に音を上げた。夏の日は彼の思う以上に手ごわく、だからちょっとだけ休もうと思って、建物の陰に引き寄せられる。
そこでうめき声が聞こえたから、もしや誰か倒れているのかと、熱さにやられたのかと、ならば助けなければと。
――思って暗がりを覗き込んだのが、運のつき。
そこには男女がいた。男はこっちに背を向けていたが、女の方はすぐにのぞき見をしている存在に気が付く。倒れ込んでいた二人を見て、こういう場面に慣れていない青年が勘違いし、二人を止めようと慌てて駆け寄っていこうとしたのも悪かった。鳶色の目が一瞬だけ驚きに見開かれ、すぐににんまり歪む。
青年はそのまま路地裏に引きずり込まれた。
それまで彼女の相手をしていた屈強な男に気を失うほど殴られてから押さえ込まれると、荒事に縁のない青年では全く敵わなかった。男は女の言いなりで、お楽しみがちょうど終わったところだったが、勝手に覗かれて腹を立てていた。
無力に転がされた青年の上で、カルメンシータは好きに踊った。彼は声が嗄れきるほど、何度も高みに打ち上げられた。
全てが終わると、路地裏からわずかに見える明るい空を呆然と見上げている彼の上に、女は小銭をぱらぱらとばらまいた。そのまま取り巻きの男の腕を取り、高笑いして彼を置いて行った。
「ホセ、またね。あたし、あんたが気に入っちゃった。また会いに行くよ、可愛い坊ちゃん――」
その日は雲一つない快晴の青空だった。汚れたホセとは正反対に、どこまでも美しく澄んだ空が高く遠くに広がっていた。今までよりもずっと、手を伸ばしても絶望的に届かないほどに。
――ああ、我が主よ。どうかこの罪をお許しください。
寝そべったまま、彼は顔を両手で覆う。懺悔の言葉は、誰にも届きはしなかった。
その日から、青年の悪夢は始まった。
カルメンシータは不思議な術を使うようだった。その鳶色の目に覗き込まれると、ホセはどんなにか彼女を警戒していようが嫌がっていようが、くたくたと体から力が抜けていく。褐色の肌に触れられると、一瞬にして身体が燃え上るのを感じた。
女は青年が一人でいるときに、見計らったようにどこからともなくやってきた。大抵馬鹿みたいに明るい青空の下、路地裏からふらっとやってきては引っ張り込み、好きに汚して去っていく。
「あたしとあんたの秘密よ。あの男ももう死んでる。だからあとは、あんたが黙っていればいいの。あんたが黙ってるならあたしも黙っててあげる」
女は二度目の時、青年の唇に指をあて、そう言い聞かせた。
「それともホセ、泣きつくかい? この黒い悪魔に汚されましたって、あんたのパパに、ママに、兄弟に、あの可愛い幼馴染に、お友達に、先生に――それとも町の警備の方々に、泣きついてみるかい? ん? もしそうするなら、あたしはぜーんぶ肯定してあげるよ。だって事実なんだからねえ」
青年の自尊心はそれを許さなかった。彼はこの女の前以外では、未だ誰にも羨まれる天使で優等生だった。それが壊れた時のことを考えると――周囲の羨望の眼差しが、軽蔑に変わるときのことを考えると、恐ろしくて足が震えた。
女はまるで炎のようだった。溶けるように熱く、飲み込まれるとそのまま焦げ死んでしまうかと思った。青年は揺さぶられながら、地獄の炎を連想する。悔い改めねば。堕落の道をこのまま進んではいけない。朦朧とした意識の中、親しんだ言葉を紡ぎ、聖なる文句を唱えようとする。けれどすぐにそれは悪魔の調子はずれの旋律に乱され、やがて悲痛なうめき声から甘美な喘ぎ声に変わっていく。
そんなことが続いても、ホセがなんとか家族や幼馴染、他の周囲には今まで通りの天使の姿を見せ、自分を保っていたのは、この廃れた教会での祈りのおかげだった。
顔のない聖母像の手を握りしめ、縋り付き、わめくように許しを請い、大声をあげて泣いた。誰もここには来ないと知っていたから、そこですべてさらけ出せた。耳も口もない聖母に、安心して何度も懺悔を重ねた。それを続けている間はまだ、高い高い青空と彼の主との線が。糸一本程度にはつながっているはずだと信じることができた。
自分は立ち直ることができる。次こそちゃんと拒んでみせる、打ち勝ってみせる。
それを頼りに毎日を過ごしていた――。
***
だが、このホセの上にのしかかる悪魔は、とうとう彼からその聖域すら奪おうとしている。奪える頃合いだと踏んでやってきたのだ。
「ホセ、ホセ。可哀想な子。だけどねえ、あんたはもうとっくに汚れてるんだよ? 赦しの声はもらえなかっただろう」
青年は呻きながら両腕で顔を覆う。女が慣れきった手つきでシャツのボタンをはずしていく感触があったが、この前までは叩いて弾いたそれを、今はどうすることもできない。
ホセにだってわかっていた。彼の頭は、心は、身体はちゃんと覚えていた。
どれほど拒絶しようと、一度知った蜜の味からは逃れられない。甘い果実を一口かじったら、すべて食べつくし飲み込むまで止まれない。
主がなぜあれほど快楽を人類から遠ざけようとしたのか、それの片鱗を舐めさせられたホセだからわかる。
人はこの欲望に勝てない。
男は淑女を従えることはできでも、悪女に勝てない。
彼は所詮ただの弱き人に過ぎず、高潔な聖人には程遠い本性だった。それをカルメンシータは一枚一枚皮をはがしていって、目の前に無視できないところまでつきつけた。
緩やかな振動と寸前の停止をいつものように繰り返されると、青年はすっかり蕩ける。やがて何かを期待するまなざしを熱く注いだ女の下で、彼は初めて自分から手を伸ばした。最初はゆっくりと――やがて激しくむさぼるように。
カルメンシータはそれを確認すると、勝ち誇った唸り声を漏らし、自らも大げさな声を上げて青年に抱き付いた。背中に爪痕を残してやると、ホセは喜んで背を反らせ、目を閉じる。所有の証を口付けてやれば、悦楽に身を震わせた。
すっかり夜の闇の中に沈んだ教会の中、二つの影が壊れた聖母像の前で重なり合う。街の表では、ようやく安全な時間になって家から人が出てきて談笑しているが、それはホセにとってすでに遠い世界のことになりつつある。青い空も、もうすっかり見えないほど遠いものになってしまっていた。
カルメンシータに屈したホセはみるみるうちに変わっていく。
彼はまず、女にそそのかされるままスリを、それから盗みを始めた。平気で他人にうそをつくようになった。悪女の言うままに、望むことを行った。そうすれば、彼女がご褒美をくれるから。ホセはすっかり彼女なしには生きられない身体になっていた。彼女はまるで生きる麻薬だった。
通りすがりの知らない誰かから、知り合い、友人、そしてついには家族へと、彼の黒く染まった手は伸びていく。
最後まで味方をしてくれていた可愛いミカエラも、ついには幼馴染みを見限った。ホセにはもう、彼女のことすらただの金づるにしか思えなくなってしまっていた。ミカエラが自分の言う通りにならないと知ると、おさげをひっぱって動かなくなるまで蹴りを入れた。
最終的に、彼は自分の家族すら、その手で消してしまった。
久方ぶりに帰宅した息子は、すっかり悪い方に様変わりしていた。温厚で優しかったはずの父は、そのことに涙を流し、怒ってひどくなじった。
気が付けば青年は、手あたり次第辺りから集められるだけの鈍器を投げつけており、父はすっかり動かなくなっていた。その場を発見して騒ぎそうになった周囲の人間も、咄嗟に持っていたナイフで刺し殺す。家探しして逃亡に必要そうなものを見つくろい、死体をまたいだときに初めて、騒いでいたそれらが自分の母と兄弟だったと気が付いた。
ホセはもう、その程度ではちっとも動じなくなっていた。人殺しだって初めてではなかったのだし、何の感慨も得られなかった。
いや、本当は傷ついた。ついにここまで来てしまったかと絶望した。
けれど既にカルメンシータは彼らよりもずっと重たい存在だった。家族はいなくても生きていけるが、女がいなくなったら生きられない。だから、少しの葛藤の後、なんなく切り捨てることができた。
彼はそれから情婦と手と手を取って逃げ出し、別の街に移り住んだ。女はそうしてもいいと思う程度には、ホセのことを気に入っていたらしい。
五年が過ぎる頃には、青年はすっかり、太陽が燃える時刻に午睡を享受する敬虔な子羊から、路地裏を平気で闊歩する日陰の住人に成り下がっていた。
その間に、やっていない悪いことは、ほとんど全てなくなっていた。
カルメンシータはそのことに歓喜した。さながら気分は、堕天の誘惑に成功した悪魔のそれだった。青年が悪いことを、より黒いことをすればするほど彼女は喝采を上げ、彼にとっておきのご褒美をくれてやった。
ところでこのカルメンシータと言う性悪は生来、そして大層飽きっぽかった。それが五年も続いたのだから、驚異的に長く持った方だと言えばそうなのかもしれない。
彼女は五年目のある朝、もうすっかり大人になってる青年の顔を見て、それに何とも思わないことに気が付いた。
好ましいとか言うだけでなく、嫌だとかそういうことも思えない。
飽きたのだ。関心がなくなった。
彼女にとって飽きることは即、離れていく理由になる。
思いつくとすぐに口にも行動にも出す彼女は、さっさと別れを切り出した。
青年はカルメンシータの突然の申し出にきょとんと眼を見張り、それから身体を強張らせる。立派なならず者になっていた彼がそういう顔をすると、どんなに威嚇しても愛らしいばかりだった以前と違って、剣呑な雰囲気が漂い始めた。
「え……言っている意味がわからないよ、カルメンシータ」
「もう一回言おうか? 飽きたの、ホセ。あんたにすーっかり、もう飽きちゃったの」
カルメンシータがひらひら手を振って言ってみても、ホセは彼女のために用意しようとしていたらしい水差しを手にしたまま、険しい顔で突っ立っている。
女はふと、彼に左手を突き出して見せつけた。
「ほら。これね、エスカミーリョがね、買ってくれたの。やっぱり男は金持ちがいいわ」
「悪趣味な指輪だ――それでまた、エスカミーリョ。これで一体何人目?」
「さあ、そんなくだらないこと覚えていないよ。三より大きい数字は数えない主義なんだ。あたしの一番の男がエスカミーリョ。あたしの可愛い子羊はホセ。それだけで十分。何も問題はないでしょう」
女は自分にとっての一番の上客を、エスカミーリョと呼んでいた。だからエスカミーリョは同じ人間を示すわけでなく、定期的に頻繁に入れ替わる。時には三日に一度。
ホセはそれを嫌がったが、カルメンシータは彼の言うことを聞いてくれるような可愛い女ではない。むしろ彼の嫌がることなら、率先してわざとやった。
水差しを何とか机に戻したホセの手が震えている。机に無事に置いたと思ったら、派手にこぼして手や床を濡らしたが、構っている余裕もないらしい。
「だったら、カルメンシータ。僕は? 僕はいったい、君の何? エスカミーリョは何人もいた。けど僕はずっと一人だった。だから、僕は今まで……僕って一体、君のなんなの。答えて、カルメンシータ!」
「あんたはそう、愛玩だよ、ホセ。それ以上でもそれ以下でもない。今までは唯一だったけど、それも今日で終わり。だって飽きてしまったんだもの。さあ、これでお別れだよ。結構長いこと一緒にいたけど、もう意味がないの。じゃあね、バイバイ」
カルメンシータは言い捨てて、そのまま本当に出て行ってしまおうとする。もともと白い顔をさらに病的なまでに青く染めた青年は、咄嗟に彼女の腕の花に手を伸ばし、捕まえる。
「カルメンシータ、行っちゃだめだ。僕を見捨てるなんて、絶対にやっちゃだめだ」
「へえ、どうして?」
女は意外に青年の力が強くて振りほどけなかったのと、純粋な好奇心とで振り返る。ホセは彼女に切々と訴えかけた。
「だって僕、こんなに汚れちゃったんだよ。君のせいで。ねえ、覚えてないの? 僕、君に会うまでは、本当に真面目でいい子だったんだよ。それを君が――お前が全部壊したんじゃないか。僕の持っていたもの、全部奪っていったのは、お前だったじゃないか!」
けれど静かに怒気を立ち上らせる青年に、女は鼻で笑って見せた。言われれば言われるほど、気持ちが冷めていく。だってそれはあまりにも彼女が知っていることで、つまらないことだった。幾多のエスカミーリョが、その他のどうでもいい男が、同じようなことを喚いて彼女に縋り付いた。
「そう――あんたの全部を壊してやった。気に食わなかったからね。まるで砂糖菓子みたいな甘い子、お人形さんみたいな可愛子ちゃん。ああそうさ、最初見た時からぶっ壊したくてしょうがなかったんだよ、お前みたいな奴は、みーんな穢れちまえばいいんだ!」
カルメンシータは昔のホセみたいな、綺麗で美しく可愛いモノが大嫌いだった。そういうものが視界に入ると衝動的に壊さずにはいられない。別に過去にそういったものに酷い仕打ちを受けたとか、そんな理由もない。ただの生理的嫌悪だ。人が汚物に本能的に嫌悪を抱くように、彼女は綺麗すぎるモノに敵意を向けた。
あの日ホセを路地裏に引きずり込んだのも、お人形のような青年を見て、なんとしてもこの男を破壊せねばならぬと言う凶暴な衝動に身を任せてのことだ。ホセは彼女が敵意を向ける、すべての要素を持つ人間だった。愛される環境、賞賛する周囲、保証された社会地位、そしてその天使のような外見。
最初はただの条件反射で彼を襲い、思いのほか美味しかったので味をしめた。
執拗に付き纏ったのは、単純な話、怯えた顔や思い通りの反応を見るのが楽しかったからであり、それから徐々に堕ちていく様を見ることに、他の何にも代えがたい興奮を覚えたからだった。
美しいものを我が手で徐々に徐々に壊していくその過程は、彼女に至上の幸福をもたらした。他の男たちよりも長い時を一緒に過ごすほど、彼女は壊れていくホセといて幸せだった。
だが、破綻が終焉を迎えれば、壊れきってしまえば、もう用はない、未練もない。彼はずいぶん長い事彼女を夢中にさせてくれたが、それも今日ですっかり終わったと思っている。
「でもいいの、もう気が済んだの。もう十分あんたは堕ちたし、あたしはそれを楽しんだ。だからここで終わり」
「終わり? どういうこと?」
「あたしね、エスカミーリョと結婚する。これは彼にもらった結婚指輪なのよ」
カルメンシータはふと思いついたことを口にしてみた。――ピン、と何か糸が張るような、そんな感じ。
ひどく動揺した顔をする青年に、もうすっかり飽きたと思っているはずの青年に――何かが湧き上がってきそうな気配がした。この追い詰められた表情は、彼に最初に会った頃に似ていて――他の男たちとは、どこかが違う気がした。
彼女はそれを是非追い求めたいと、彼をもっと追い詰めてその何かを引き出してみようと思った。
もうここまでと思ったけど、ここまで来て、まだこの男は壊れきっていないのかもしれない。ならばきちんと、おしまいまで見てやらなければ。
ホセはしっかり彼女の腕を掴んだまま、虚ろに左右に不安定に身体を揺らしている。その動きは、首の据わっていない人形にどこか似ていた。
「嘘だ。今までだってそりゃ、僕のところを離れたことはあったよ。エスカミーリョに君がついてったことはあった、何度も。だけど、結婚? 結婚なんて、誰ともしなかったじゃないか。それに、エスカミーリョ――本名も覚えてない男! そんなの、愛してなんかないくせに」
「愛しているよ。たぶん今のところは、一番に」
「でもすぐ飽きるよ。君はそういう女だもの」
「そうだね、ホセ。あんたはあたしの事をよく知っているものね。だからあたしは、あんたにもう、すっかり飽きてきているのさ。さあ、お放し。あたしはエスカミーリョのところに行く。結婚して彼のものになるの」
その瞬間、カルメンシータは自分の身体が傾いた事を感じた。抜けるかと思うほど強い力で腕を引かれ、気が付けば部屋のベッドの上に投げ出されていた。その上にすぐに覆いかぶさり、顔の両脇に逃げ道をすっかりふさぐようにホセが手を突き立てる。
彼女が黙ったまま、高鳴る心臓の力強い鼓動を胸の内に感じながら、そのガラス玉に似た青い目を見つめ続けていると、やがて青年は柔らかく微笑む。
「違うよ、カルメンシータ。君が愛しているのは、僕だ。君が結婚したくなるとしたら、僕しかいない。だって君は僕のものなんだもの」
予想もしていなかった言葉を紡がれ、一瞬だけカルメンシータはあんぐり口を開けかけた。すぐに彼の言っている意味を理解すると、驚きは引きつった笑いに変わる。
「は――誰が、誰を愛しているって。あたしが? あんたを? あっはははは――」
「何もおかしい事なんて言ってないよ? だって僕ら、誰よりも愛し合ってる――だから僕、あれだけひどい事やってこれたんだ。全部君のため。君への愛のため!」
カルメンシータは青年が熱っぽく、しかしどこか底冷えのする調子で続けようとするのを止めた。
「違うね、愛なんかじゃない。あんたのそれはただの言い訳、依存だよ。あんたまだ、いい子の自分でいたいんだね。だから責任をあたしに押し付けるんだ、それだけさ」
見下ろす青年の頬を、指先でなぞりながら彼女は続ける。
「ねえ、ホセ。あたしについてくる道を最後に選んだのは、結局あんた自身なんだよ。あたしはあんたを壊したけど、そのことに責任なんかとらない。だって踏みとどまれたところを勝手に崩れたのは、あんたの方だもの。神様を呼ぶだけで、自分で動かなかったのは、あんたの方だもの」
青年はカルメンシータの言葉を聞きながら、静かに彼女の左手を取って頬ずりしている。外はすっかり昼、今日も快晴だろうがこの路地裏の薄暗い部屋からでは青空は見えない。窓の外にも室内にも、いまいち晴れきらない灰色の空気が漂っている。
「仮に本気であんたがあたしを愛していたんだとしても、あたしはやっぱりあんたを愛してなんかいないよ。だってもう、一緒にいたいなんて思わないんだもの。今行きたいのはエスカミーリョのところ。あの人に抱かれて、それで満たされるの」
「――どうしても?」
「そう、どうしても――」
ゴリッと耳障りな音がした。同時に上から何か降ってきて、カルメンシータは咄嗟に目をつむる。
――直後、左手に激痛が走った。叫びながら目を開くと、視界が妙に赤い。青年にしっかりとつかまれている左手首の先に、痛みの理由があった。
彼女の左薬指は、どこかに行ってしまっている。いや、すぐに見つかった。それは今や全身を使って彼女を抑え込んでいる青年の口の中に、ころころちろちろと指輪ごと転がっているのだ。
暴れて叫ぶと、殴打が飛んできた。何度も何度も、女がぐったり動かなくなるまでそれは降ってきた。顔にも、そのほかの部分にも。人を傷つけることになれきっている男の腕は重たかった。
――いつか、似たようなことがあったなと女は思う。確か、この逆だった。
身体は痛くて思い通りにならないが、心の中は妙に落ち着いていて――そしてなぜかぐつぐつ、身体の一番奥側で期待が煮えたぎる音がした。
「ああカルメンシータ、可哀想に、こんなにひどい姿になって。でも君がいけないんだよ」
ホセは噛み千切った彼女の左薬指を口から抜き出し、彼女に向かって見せつけた。ぱたた、とほんのわずか、顔の上に血がしたたる。片目が開かなくて多少難儀したが、カルメンシータにはしっかりと、天使のような男の、あくまで無邪気な笑顔が見えた。
ただしその顔は、他人の血ですでに半分ほど赤く染まっている。それが彼が天使ではないことを、この上なくはっきり示している。
「全部君のせいだ。君がいなかったら、僕は天使のままでいられたんだ。逃がさないよ。君だけハッピーエンドなんて、僕を置いていくなんて、絶対に許さない。こんな風にした責任を、ちゃんと取ってもらわなくっちゃ……」
彼は指輪だけを抜き取った薬指を再び口の中に放り、さも美味であると言いたげに舌で遊ばせている。
女はさっきの抵抗の折、あちこち殴られて腫れ上がり、すっかりボロボロだったが、頭の方はすっかりと冷え切っていた。痛むから多少は難儀したが、自然と頬が上がっていくのを感じる。
「――責任? どうやって?」
「簡単だよ。僕を愛してるって言って、それでずっとそばにいて。もうエスカミーリョなんていらないでしょ? ホセだけで十分だよ。そうしたら僕、今まで通りちゃんと君のためにどんなことでもするよ」
見下ろす青年の瞳は空のように澄んで青い。彼がかつて祈りを捧げた、許しを請うた、昼の高い青空に似ている。
しかし、みよ。空はこんなに狭く虚ろではあり得ない。目の前にあるのは虚勢のガラス玉だ。
カルメンシータは嗤う。
「――そうかい。じゃあ、言ってあげようね。お前なんか愛してない。なんとも思ってない。今までの愛の言葉だって全部まやかし、嘘さ」
「カルメンシータ、ねえ、ダメだよ? ちゃんと僕の言うこと聞いてくれなくっちゃ」
「あたしはね、エスカミーリョが好きなの。あんたとはいない。あの人のところに行く。指を失くしたって無駄だよ、ホセ」
「だったら、歩けないように足を失くせばいいの? 失くしちゃうよ?」
「やってごらんよ――」
ひゅっと音がして右太ももに衝撃が走る。ホセはいつの間にか、すっかり使い慣れていた彼のナイフを取り出していたらしい。あちこちに降らせながら、合間に女の心を確認する。
彼女は彼に対する拒絶をやめなかった。正直今のエスカミーリョは顔もろくに覚えていない程度の興味で、だからこんなに面白いことになっている青年と一緒にいてやることもできないわけではない。
だが彼女は彼を否定し続ける。そうすればそうするほど、一見すると晴れているその空のような瞳が曇っていくことを、この特等席からたっぷりと鑑賞できるのだ。どうしてこんな愉しいことを途中でやめられようか? わが身の苦痛など、この愉悦に比べれば二の次三の次である。
カルメンシータが一つ彼を否定するたびに、エスカミーリョへの偽りの愛を語るたびに、ホセは順番に手の中のナイフを振り下ろす。
足、手、耳、鼻、目――女は身体が一つ失われると痛みで絶叫したし、数度は失神もした。ホセはそのまま眠ることを許さなかったし、彼女だって眠りたくはなかった。こんなに生きていて心が躍ったことはない。ずっとずっと、どこか冷えていた胸の奥が熱く熱く燃えている。
「――カルメンシータ。もう他に取れる場所がないのに、それでも僕を拒むの? 僕と君は一緒にいるしかないのに。僕にはもう、君しか残っていないのに。僕を裏切るの?」
――そろそろ仕上げだろうか。
悲しそうな声の男に、カルメンシータは拒絶の意志を示すため、頭をゆっくり振ってみせた。
瞳に憤りと苛立ち、混乱を同時に浮かべた男に、カルメンシータは唇だけ動かしてそそのかす。
まだ、取れていない部分があるよ、ホセ。
ホセの腕に擦り付けるように寄せた胸の内側では、熱い塊が脈打っている。
ホセは彼女の言いたいことをすぐ理解したらしい。そのあたりをさすって、生命力の象徴である脈動の主に手を当てて、うっとりと目を細める。
「カルメンシータは熱いんだ。最初から思ってた。まるで炎みたいな人。触ったら焦げてしまう。――君が肯定してくれないなら、ちょっと不本意だけどこうやって取ってもらうしかない。仕方ないんだ。一緒に焼けよう。初めて会った、あの時みたいに」
彼女もまた、恍惚に顔をゆがめていた。
認めざるを得なかった。今まであしらってきたどの男たちよりも、かつてはあどけなささえ残っていた天使のような男に、自分が憑りつかれる様に夢中になっていたと言うことを。男が自分が彼を否定するたびに半狂乱になるのを見ると、どんなにか苦しかろうが、彼女は愚かな行動をやめることがかなわなかった。
カルメンシータだけが、今ここで女のあちこちを奪ってはしゃいでいる馬鹿な男と、かつて聖堂ですすり泣きながら神の名を呼んでいた愚かな若者が、まったく同一人物であったことを知っている。
よくもまあ、ここまで育てたものだ――。妙な達成感に胸が満たされる。
逆手にナイフを持ってホセが、ふと手を止めた。
「カルメンシータ、そういえば前から気になってて、聞いておきたいことがあるんだけど」
青年はふとだらんと垂れた女の腕を指さして、奇妙にあどけない顔で尋ねる。
「腕の花は何? どうしてこの花を彫ったの? 今聞かなかったらもう聞けないだろうから。それともそれも、答えてくれない?」
カルメンシータは気力を振り絞って目を開けると、にんまり笑う。青年の耳に口を寄せたいが、何しろ両手がだいぶ不自由な形と長さになっているのでうまくいかない。けれどホセの方から顔を寄せてきたので、彼女はほっと息をついてから囁いた。
「これ、は――ね――どくの、はな――なのさ。ふれたものを、くろく、そめる――」
その答えを聞いてどこか納得したように笑ってから、ホセは彼女の心臓に一突きぐっさりと入れた。何度も何度も、天使のような微笑を浮かべたまま、同じ動きを繰り返した。
突くたびに連動して跳ねる彼女の身体は、どこかいつもしていたことを思い出させる。彼は下らない思考に苦笑して顔をゆがめながら、彼女の胸に耳を当ててみる。
無音だ。あれほど彼を焼いた熱も、だんだん引いていくのだろう。ふと思い立ち、ホセは惜しみながらも一瞬だけ彼女から離れた。探し物はすぐに見つかる。大量の油と、マッチを一本。
熱が冷め切る前に、彼は女の薬指のない手を探し当て、両手でそれにナイフを握りこませた。すっかり準備ができてから、火を放つ。ちゃんと彼女が燃えていくのを見届けてから、その灼熱の中に自らも横たわり、ぐっとその身を寄せ付けた。
夏の日差しは人を焼く。自然の猛威を避けるために白い壁が建てられ、街は路地裏を多く作ったが、そこを昼に歩くのは、天に唾を吐き享楽にうつつを抜かす、人の形をした外道たちである。従順な羊はけしてその間に外に出てはいけない。昼には狼よりももっと恐ろしい悪魔が出て人を食べてしまうから。
うだるような熱の中、赤い花が昼下がりの暗がりの中に灯った。それは溢れだす血潮であり、すぐにしなやかな炎へと花咲く。静かに、やがて激しく、炎はすべてを包んでいく。
その中心に二人の人間がいた。一人は女の手首に握らせたナイフに自ら首を押し付けて事切れている。死に際の苦痛に耐えきれなかったのか、眉根がぐっと歪んでいるが、口元は穏やかに微笑を作っている。もう一人の女は、身体のあちらこちらが欠けていたし、顔もほとんど腫れてつぶれているが、それでも口元がにんまりと歪んでいるのが見て取れた。
いびつな笑顔の二人を中心にして、どこまでも赤が広がっていく。
すべて赤に包まれる光景の中で、女の左腕の入れ墨が鮮烈に浮いている。
その花の名前を、ロベリア。
冷たく暗い紅蓮の中で、夏の空に似た強い瑠璃色の輝きを、いつまでも放っていた。